<以下の文を復刻します。>
文芸評論などは滅多にしないが、江戸川乱歩の短編小説『芋虫』については何か書かざるを得ない。ショッキングな小説である。一言で云えば“グロテスク”な嗜虐(しぎゃく)趣味の極致だろうが、なかなかこんな作品は書けるものではない。乱歩だから書けたのか。
1929年(昭和4年)の作品というから、当時のエロ・グロ・ナンセンスの風潮を背景にしていたのか。それは分からないが、ミステリーと言うよりも猟奇小説、怪奇小説の類いだろう。
内容は簡単に言ってしまえば、戦争で両手両足を失い、話もできず音声も聞こえない重度の傷痍(しょうい)軍人とその妻の物語である。戦前は戦争ばかりしていたので、戦死者ばかりでなくこういう傷痍軍人も多かったのだろう。今では考えられないことだ。
この夫は視覚と触覚だけは無事だったが、あとは全身に障害を負っている。だから、妻は献身的に夫の面倒を見るのだが、まだ30歳ぐらいの彼女は単調な生活にも飽き、やがて嗜虐趣味で“芋虫”のような夫をいたぶったり、虐待するようになる。この辺がどう見てもサド・マゾ、SMの世界と言えるだろう。
あとは物語を省略するが、最後は妻が夫の大切な両眼を傷つけ悲惨な終末を迎える。興味があればぜひ小説を読んでもらいたいが、グロテスクで陰惨な物語と言えよう。ただ、私がここで指摘したいのは、こういう小説が戦前は“弾圧”されたことだ。
いわゆる「伏せ字」だらけになったり、発禁処分になった。この『芋虫』もそうである。少しでも戦争に疑問を呈するような、体制を批判するような著作は全て弾圧された。江戸川乱歩自身は左翼でも何でもないが、体制派や右翼から嫌われたのだろう。
たしかにこの物語では、軍人にとって非常に名誉な「金鵄(きんし)勲章」が馬鹿にされるような描写がある。しかし、重度の“廃人”になった元軍人から見れば、勲章や中尉といった位階がどれほどの価値があるのか。せいぜい恩給がちょっと増えるだけである。
この小説が出ると、左翼陣営から大いに賞賛されたというが、乱歩は別に左翼でも何でもない。作家として正直に感じたこと、想ったことを書いただけである。ただ何事も、迫真のものは人の心を揺り動かすのだ。そういう意味で、この小説が賞賛されたり、逆に「禁書」になったことは乱歩にとって名誉だったと言えよう。(2015年6月10日)