〈2002年4月に書いた以下の記事を復刻します。〉
1) 私は時たま秩父へ行くのが好きだ。 もちろん全ての所に行っているわけではないが、ひなびた風情がとても良い。 都会の生活に疲れたり飽き飽きしてくると秩父に行く。 山あいや田舎の景色が心をなごませてくれるし、季節の移り変わりが新鮮に感じる。
40年以上も前になるが、大学1年だった私は、極左過激派の闘争や思想についていけずに挫折し、転向を余儀なくされた。 挫折・転向というのは苦しく切ないもので、それを味わった人でないとなかなか理解できないと思う。 悶々たる気持に苛まれていた私は、とにかくどこかへ行きたい、逃げたいという心境になっていた。
当時は旧浦和市(現在のさいたま市)にいたが、金もないので同じ埼玉県の秩父へ行ってみることにした。 秩父のどこへ行くという当てもなかったが、足の向くままに三峰山に登った。 それからニ、三日、安宿に泊まりながら山麓をぶらついてきたのが、秩父との出会いだったと思う。
秩父の山々(三峰神社から見る)
2) 社会に出てから、若い頃はほとんど秩父に行くことはなかったが、年を取るにつれて行くことが多くなってきた。 私のいる所沢から西武線の特急に乗ると、秩父まで1時間ほどで着いてしまう。これがとても便利だ。 途中の正丸峠や伊豆ヶ岳、顔振(こうぶり)峠などに行く時は、普通の電車に乗っていく。 いずれもそれほど時間がかからないのに、別天地に来たような感じになってしまう。
秩父市内は本当にひなびた街だ。はっきり言って、うら寂しい街である。 しかし、町中を散歩しているとなぜか心が落ち着いてくる。出歩くことがあまり好きでない私だが、秩父の町中を歩いていると一向に飽きないし、あまり疲れも感じない。 歩けるだけ歩いてしまうのだ。路地から路地へと歩くのがとても気持が良い。
どうしてここは、こんなに気持が良いのかと思ってしまう。 所々に秩父34カ所めぐりのお寺があるのも趣がある。 しかし、静かで侘びしくてひなびているのが良いのだろう。 最近は喫茶店の数も少し減ってきたようだが、散歩中に喫茶店にぶらりと入るのがまた楽しみである。
3) もう10数年も前だったと思うが、さすがに歩き疲れて、私はある古びた喫茶店に入ったことがある。 コーヒーを注文して店内を見ると、書棚にいろいろな本が並べられていた。 その中に「存在の詩(うた)」という分厚い本が目に付いた。何気なくその本を取り出して見ると、著者はバグワン・シュリ・ラジニーシという人だった。
ラジニーシに出会ったのは初めてだった。 このインドの瞑想家の書物は、秩父の雰囲気にぴったりだったと思う。 行動を斥けて“無為”の覚醒を説くこの本は、のんびりと秩父を散策する自分にとって、その時はあまりにフィットしたものだった。私はその喫茶店で「存在の詩」に読みふけってしまった。これが縁で、その後暫くはラジニーシの本を読むようになった。
町中を散策していると、イノシシ鍋をやっている店をよく見かける。 ある店に入ってイノシシ鍋を注文したら、ミソ味が効いていてとても旨かった。 店の人に聞くと、本物のイノシシではなくイノブタの肉だというが、さくさくとしていて歯切れが良い。 私も酒が好きなので、地酒を飲みながら鍋を味わった。秩父は地酒も良いがワインも美味しい。地酒やワインをよく買って帰る。
4) なんだか秩父の観光案内みたいになってきたが、とにかく秩父は山が良い。 どこの山も良いだろうが、ここの山並を見ていると特に心が安まる。最近はリゾート施設も増えてきたが、やはり山を見るのが一番だ。
山には霊気があるのだろう。その霊気で心が癒されるのではないか。 「山に籠る」という言葉があるが、これは単に山野で修行するという意味だけでなく、山の霊によって呪力を修めようという意味があるらしい。それで、修験者(山伏)の誕生ということになるのだろう。
私は山で修行するつもりはないが、山を仰ぎ見ることによって、ストレスや心の傷を癒そうとしているのだろう。 それを意識してやっているわけではないが、山並を見ると心が安まるということは、無意識の内にそうしているのかもしれない。
広々とした海を見るのも良いが、山の“ありがたさ”はまた格別である。多くの人が山に惹かれるわけだ。 これからも秩父の山々を愛していきたい。 (2002年4月19日)