<これは自伝的な“物語”である。>
私(関口秀樹と言う)がブログを始めたのは、息子の勧めがあったからだ。60歳の定年を過ぎてホームページをするようになったが、6年ぐらいたつと息子がブログの方が良いと言う。理由は詳しく覚えていないが、ホームページよりは便利で訪問者とすぐに親しくなれるから・・・だったと思う。
そこで秀樹は「ヤフー・Yahoo!」のマイブログを立ち上げたが、始めのうちはほとんど興味が持てなかった。ホームページから大半の記事を転載したが、相変わらず以前のパソコンのやり方を続けていた。ブログへの訪問も少ないので、ホームページを続けるしかなかったのだ。
しかし、半年ぐらいたって訪問者が次第に増え、日によっては5~60人になることもあった。こうなると秀樹もブログに惹きつけられるようになり、日々の更新も頻繁になってきた。加えて、訪問者のコメントが増え、ネット上でのやり取りが日常的になったのである。
そのうち、自分から他のブログにコメントや書き込みをするようになり、親しい人が増えてきた。こうなると相互訪問が活発になり、自然に「友だち」や「お気に入りの人」「ファン」ができたのである。
ある時、小林多喜二の小説『蟹工船』のことを書いたら、これまでになく訪問件数が急増した。当たり前のことだが、関心を呼びそうな記事を書けば、アクセスが増えることを実感したのである。またブログに本腰を入れると、友だち関係も濃密になってくる。
そんなある日、秀樹のブログに「ぜひ、お宅にお邪魔したい」という趣旨の書き込みがあった。その人は富士宮市の富士山麓で、仲間と半自給自足の生活を送っているNさんで、たまたま東日本各地の“友だち”を訪問している途中に立ち寄りたいというものだった。秀樹が承諾すると、Nさんは数日して車でやって来た。
秀樹とNさんは4時間以上も対談したが、とにかく彼は活動的な人だという印象を受けた。ガダルカナル島で遺骨収集を行なったり、数ヶ月前にはミャンマーで救援のボランティア活動をしたという。その時のDVDも贈られたが、政治や社会、文化などあらゆることに詳しいため、秀樹はNさんとすっかり話しに夢中になってしまった。
こうしてブログ友だちとの交流が深まると、毎日が“刺激”になるというか、生き甲斐を感じるような気がしてきた。日々のアクセス件数も増え、寄せられるコメントも多くなる。「人気度」を表わす星のマークが白から“金色”に変わると、秀樹は格が上がったと思い大喜びしたものだ。
話しは変わるが、関口秀樹がインターネットで音楽に関心を持ったのはそれより少し前のことだった。2005年の春頃だったか、彼はかつて勤めていたFテレビの情報番組のアドバイザー、原稿チェック係りをしていた時、思わぬことである音楽サイトを知ることになったのである。
細かい話しだが、放送原稿をチェックしていたら「外国人部隊」という言葉が出てきた。一瞬、これは違うだろう・・・「外人部隊」が正しいのではと思ったが、「外人」は差別的表現と受け取られかねないから、やはり「外国人」が適切なのかと考えながら、パソコンでやみくもに検索してみた。
すると突然、『カスバの女』のメロディーが部屋中に鳴り響いたので、秀樹はあわてて音量を絞った。周囲の人たちは怪訝(けげん)な顔つきでこちらを見つめる。『カスバの女』の中には「明日はチュニスか モロッコか 泣いて手をふる うしろ影 外人部隊の 白い服」という歌詞がある。つまり、その“外人部隊”という言葉がヒットしたのだ。
秀樹の原稿チェックがどうなったかは別にして、彼はこのことが忘れられず、帰宅してからすぐにこの音楽サイトを調べた。すると「二木紘三 MIDI歌声喫茶」というもので、多数の音楽を収蔵していることが分かった。そればかりでなく、このサイトは各音楽の由来や考証などが実に詳しかったので、秀樹はいっぺんに気に入ったのである。
それ以来、彼は「二木紘三 MIDI歌声喫茶」をしょっちゅう訪問しコメントを寄せたり、また幾人かの音楽ファンとも友だちになった。(参考・・・現在は「二木紘三のうた物語」となっている。→ http://duarbo.air-nifty.com/)
こうして、秀樹はネット上で音楽に親しむことになり、自分のブログでも音楽の話題を取り上げるようになった。これまで政治や社会、歴史や思想など硬派の記事が多かったため、音楽ネタは心を和らげてくれるものがあった。ホッと一息つくような気持になるのだ。
音楽ネタはだんだん増えていったが、後日、秀樹のブログは“著作権”との関係で大きな破局を迎えることになる。しかし、それはまだずっと先のことなので、順を追って話しを進めていきたい。
2009年の春頃になると、ブログの訪問アクセスが1日平均で140件前後、コメントも1日に10数件と着実に底上げしてきた。世の中もなにか全体に新しい空気が盛り上がってきた感じだ。これは何だろうと思ってみると、日本の政治が生まれ変わろうとしていたのではないか。
自民・公明の麻生連立政権が夏には終わり、7月解散・8月総選挙が確実になった。そのせいで、新たな民主党政権誕生への期待感が充満してきたと秀樹は思ったのだ。果たせるかな世論調査などを見ると、国民は民主党新政権への熱い思いを示しているようだった。
自民党への支持が急速に落ち込む中で7月21日に衆議院が解散、8月30日に総選挙が実施された。結果は民主党が308議席を獲得して圧勝、自民党は119議席と惨敗したのである。この時、秀樹は「新しい時代」が来たとはっきり感じ取った。おそらく、国民の多くがそう思っただろう。
民主・社民・国民新党の鳩山連立政権が誕生して、ブログの方も活発な賑わいを示した。秀樹はコメントをするのが楽しくて、みんなの意見を待ち受けた。すると秋になって、各省庁予算の“事業仕分け”が始まると賛否両論が渦巻いた。事業仕分けは鳩山政権の目玉だっただけに、大いに注目されたのである。
秀樹は仕分けにもちろん賛成だったが、ブログのコメント数が急に増えた。特に「スーパーコンピュータ」の開発予算については凄まじい論争が巻き起こり、1日に約60件のやり取りになり、秀樹は防戦に大わらわになったのである。この時は、民主党支持のある女性が助け船を出してくれてなんとか凌いだが、ネット上の論戦でこんなに疲れたのは初めてだった。
結局、事業仕分けは上手くいったのだろうか。「政治主導」と「脱官僚」を旗印しに始めた事業仕分けだったが、民主党政治の目玉だったとはいえ成否はうやむやに終わったのだろう。蓮舫議員の「2位じゃ駄目なんですか!?」という有名な言葉を残して、事業仕分けは“パフォーマンス”に終わった感がある。
この頃から、秀樹は民主党政権に何か危ういものを感じた。ブログの方もだんだん低調になり、アクセス数が減ってきた。鳩山政権への期待が大きかっただけに、その反動で“期待はずれ”の感が深まったのである。そして、政権に決定的な打撃を与える「普天間問題」が表面化してきたのだ。
沖縄の米軍普天間基地について鳩山首相は、国外か最低でも県外への移設を約束していた。ところが、グアムやテニアンなど国外はもとより、徳之島など県外への移設も駄目になった。結局、鳩山首相は従来の辺野古への移設計画に後退し、沖縄側の反発だけでなく社民党の連立政権離脱も招いて内閣は総辞職したのである。2010年6月だった。
このドタバタ劇で秀樹は民主党政権に嫌気が差したが、次に登場した菅内閣にさらに失望した。菅首相は就任早々、マニフェストにもない消費税の引き上げを打ち出したからである。この辺りから、秀樹はブログに民主党批判の記事を次々と書くようになり、日がたつに連れてそれはますます先鋭化していった。しかし、訪問アクセスは1日100件を割るなど不調のまま推移した。
こうした中で、驚くような“事態”が発生したのである。それは尖閣諸島沖で9月上旬、中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件だった。衝突事件そのものは驚かないが、やがて衝突の映像がユーチューブ・YouTube上に流出したのである。これは衝撃的だった。
事件の後、日中関係が険悪になり両国で抗議デモが起きたりしたが、11月上旬に問題のビデオがYouTubeに出ると、あっという間にネット上に拡散したのである。秀樹もこの映像(時間は44分だという)を全て収録し、興奮しながらどんどん拡散した。この時ほど、YouTubeの存在価値を感じたことはない。以後、ますますYouTubeにハマっていく。
問題は某海上保安官が非公開の映像を流出させたということだが、それだけではない。そもそもこの映像が“機密”に当たるのか、事前に知らされたマスコミがなぜこれを報道しなかったのかなど、いろいろな問題点が浮上してきたのである。一部では、この海上保安官は“英雄視”された。
この時は秀樹のブログもアクセスが急増した。彼自身も海上保安官の独断だか、英断だかを歓迎したのである。ちなみに、映像が出た後 菅内閣の支持率は急降下した。ネット時代の“恐ろしさ”を物語るものだ。
参考・・・https://www.youtube.com/watch?v=sVVM2AmvD5U
政治は国民の間で民主党への幻滅が広がっていたが、秀樹のブログの方はほぼ順調に推移していた。その間、友だちやファンに教えられて、映像の“埋め込み”ができるようになった。これは有難いことで、ユーチューブ・YouTubeの利用が以前より格段に増えたのである。
特に音楽は魅力的だった。自分の好きな音楽はもとより、記事に付随するものを積極的にアップしていった。しかし、その間 困ったことは2~3回あっただろうか。パソコンの不調でブログができなかったこと、さらに“落雷”でインターネットへの接続がダウンしたことだ。特に落雷事故には参った(笑)。
接続ダウンだと思っていたら、どうやらパソコン本体も故障したらしい。新しいモデムに替えても駄目だった。なにしろメカに弱い秀樹だから、とにかく富士通の工場でパソコンを見てもらうことにした。工場は福島県内にあるというが、修理・点検の間はもちろんブログができない。彼はまったく退屈してしまった。
仕方がないので、前にも行ったインターネットカフェに足繁く通うようになる。カフェの雰囲気は好きだった。まるで町中の“オアシス”のようである。備え付けのコーヒーを飲みながら、秀樹は早速 自分のブログにアクセスした。すると、幾人もの友だちから「どうしたの?」とか「大丈夫ですか?」といったコメントが寄せられていた。
彼はすぐに事情を説明して返事を書いたが、それが終わると好きなブログにアクセスする。それにも飽きると、音楽を聴いたりゲームを楽しんだりして時を過ごした。考えてみると、これも一種の“休養”ではないか。たまには自分のブログから離れるのも良い。秀樹はそう思いながらカフェ通いを続けた。
2週間ぐらいたって、修理したパソコンがようやく返ってきた。ところが修理費はなんと8万1900円! 秀樹はびっくりした。払うには払ったが、国産のパソコンは何もかも代金が高いんだな~と痛感したのである。このことを息子に伝えると、彼もびっくりして「それなら外国のパソコンが2台買えるよ」と言っていた。後日、秀樹は国産のパソコンをやめて、アメリカ製のデル・DELLに切り替えたのである。
こうした中で、秀樹はコメントのやり取りに積極的だったが、ブログ友だちのAさんと都内の居酒屋で一杯やることもあった。また、吉永小百合が文化功労者に選ばれたので(2010年)、彼女の非公式のホームページにお祝いのコメントを寄せるなどネット生活を楽しんだのである。
2011年を迎える頃には、アクセスは9万4000件(1日平均106件)と大したことはなかったが、コメントが1万3000件を超え、1日平均で17,7件と盛況だった。そんな穏やかな日々を送っているうちに3月11日、とんでもない非常事態が発生したのである。言うまでもなく東日本大震災が起きたのだ。
この大震災と福島原発の事故については詳しく述べるつもりはない。あまりにも周知の事実だからだ。ただ、秀樹のブログについて言えばアクセスが急増していった。それは大震災そのものよりも、原発事故に関するものだったと思う。
彼はそれまで原発のことをよく知らなかった。おそらく、多くの人たちがそうだったろう。福島原発の放射能漏れ事故は、それが深刻だっただけに異常な関心を集めた。来る日も来る日も原発と放射能に関する記事が増えていき、それは“エンドレス”になるように見えた。事実、ネット上には無尽蔵に記事が溢れていたのである。
秀樹も関心の第一は原発事故であり、大震災の甚大な被害は二の次になったような気がする。もちろん、被害そのものにも関心があり義捐金(少ない額だが)を送るなどしたが、これまでよく知らなかっただけに頭の中が“原発”で一杯になった。それは仕方がないだろう。多くの人がそうなったのではないか。
彼はネットで調べ、すぐに「福島原発暴発阻止行動プロジェクト」の賛同・応援会員になったりした。これもとりあえず義捐金である。また、民主党議員を通じて大震災の被災地救援ボランティアにも応募したが、これは年齢制限で駄目になったのだろうか振り落とされた。とにかく、この時期は多くの人が大震災と原発事故で頭が一杯になったと思う。
参考・・・https://www.youtube.com/watch?v=N58tJucmVbU
この頃、友だちのBさんとコメントを交わしていたら、びっくりするようなことがあった。
「関口さん、先日 友人のCに銀座で高級中華料理をご馳走になっていたら、彼は(被災地へ)義援金など1円も出さないと言うんです。Cは“金持”だというのに変わっていますね」
Bさんがこう言うので、秀樹は疑問に思いあれこれ聞いてみた。すると、Cはとても“自立心”が強い人で、自分の事は全て自分でやるという信念の持ち主らしい。だから大震災で困っている人が大勢いようとも、1円も出さないというのだ。
秀樹はなんと冷たい男かと初めは思ったが、待てよ、そういう人間は自分に信念があるから、ものに動じないのだと受け止めた。つまり、自立心や自己責任感が強いのだが、それにしても“エゴイスト”と見られても仕方がないと思った。秀樹は前にもそういう人に会ったことがある。その人も自立心の非常に強い人だった。
そんな中で、ブログのアクセスが急増したことがある。1日に5818件、4994件と立て続けに増えたのでこれには驚いた。原因は原発暴発阻止プロジェクトに入ったからだろうか。その会員になった直後に増えたから。 大震災と原発事故の影響はその後も長く続く。世の中の見方が変わった人もたぶん多かっただろう。
さて、2011年6月に秀樹は「北朝鮮」へ行く機会に恵まれた。北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国とは国交がないが、秀樹はぜひ一度行ってみたいと思っていた。ところが、北朝鮮専門のCH旅行会社に聞くと、自衛隊員、警察官と並んでジャーナリストは入国ができないという。これには参った。
というのは、秀樹は長い間 Fテレビの記者をしていたからだ。しかし、今は定年後でFテレビの情報番組を手伝っているだけだから問題はないだろうと電話で言うと、旅行会社のRさんは念を押すように答えた。
「関口さん、テレビで放送したりしませんね」
「分かりました。これはあくまでも個人的な旅行ですよ」
秀樹がそう言うと相手も了解し、こうして北朝鮮旅行が実現した。ただし、旅行代は4泊5日で30万6500円とけっこう高額なものだった。
参考・・・http://blog.goo.ne.jp/yajimatakehiro/e/8c3bf05820fe16a73fd655daebd9195b
北朝鮮旅行は有意義なもので、秀樹は帰国後すぐに旅行記をブログに載せた。反響は思ったより上々という感じで、多くのコメントをいただいた。また、彼の北朝鮮訪問をFテレビが情報番組で取り上げると言ってきたが、秀樹は断った。これはCH旅行会社との約束で、あくまでも“個人的”な旅行だったからだ。
もし約束を破れば、もう二度と北朝鮮には行けないかもしれない。今のところ二度と行く気はしないが、将来、何かのことで行く“可能性”は残っている。だから、約束は守らなければならないのだ。
秀樹は「信義」を重んじた。特に日朝関係でどれほど信義が破られてきたことか! これは北朝鮮側に限らず、日本側も破ったことがあるのだ。拉致問題に限らずいろいろあったと思う。これを具体的に説明する時間はないし、本文は“小説”だから趣旨に反するので止める。ただ一言述べたいのは、外交では「信義」が最重要だということである。信義なくして外交交渉は成り立たない。
話がそれたが、北朝鮮旅行を終えて秀樹は重荷を下ろしたような気分になった。もうこれで、当分はすることがない。年ももうすぐ70歳になるし、体力も衰えてきたので仕事を辞めたいとFテレビに申し出た。仕事といっても週1回の“アルバイト”であり、これはすんなりと了承された。
秀樹は70歳になった9月で仕事を辞めると、あとはブログに精を出すしかなかった。北朝鮮訪問前後はアクセスが急増したが、それも落ち着いてかえって余裕ができた感じだ。アクセスは落ちてもコメントのやり取りは盛んだった。多い時は30件~40件になることもある。ヤフー・Yahoo!のブログはコメントがやりやすかったのだろう。
さて、この頃発足した野田内閣は野田のあだ名に因んで“ドジョウ内閣”と呼ばれた。民主党主体の内閣だが、秀樹は始めからほとんど何も期待していなかった。案の定、野田内閣は「マニフェスト」の公約を次々に破り、消費税の増税に突き進んだり原発再稼動の方針を打ち出すようになる。秀樹は野田内閣を批判する記事を次々と載せるようになった。
2012年はこうした感じで明けたが、秀樹はやがて青森県の「大間原発」建設に強く反対するようになる。これは現地の反対運動に協力するものだが、用地買収を阻止する「あさこハウス」の運動に共鳴したものだ。音楽評論家の湯川れい子さんがネットで熱心に呼びかけていたが、それに賛同するうちに“とんでもない”出来事が起きたのである。(続く)
参考・・・http://blog.goo.ne.jp/yajimatakehiro/e/5ba14ce746b47149fde9c618eb35bef7
北海道の摩周湖(2008年)