9月の上旬、エレーナから初めてスカイプ・Skypeで通話があった。秀樹はどんなものかといぶかっていたが、実によく聞こえるので驚いた。まるで、隣の部屋から電話がかかっているみたいだ。2人は20分以上話したが、彼は無料の国際電話に改めて感心したのである。
エレーナとスカイプで話した夜、秀樹は感動したのか彼女を夢に見た。彼はエレーナと何を話したか覚えていないが、この夢が引き金になったのかある“幻想小説”を書くことになった。彼はこれを『サハリン物語』と名付けたが、どんな小説になるかは全く見当がつかなかった。ただ気分良く、秀樹はブログに打ち込んでいったのである。
こうして2人はスカイプでの交流を始めたが、エレーナの方が積極的に通話をしてきた。ただし、秀樹の方が「ビデオ通話」を好んだのに対し、彼女は顔を見せるのを嫌がった。彼が誘っても、エレーナはビデオ通話には応じなかったのである。
あとで聞いた話だが、彼女がドバイの男友達とスカイプをしていた時、彼がエレーナの“肢体”を見せるよう強要したので、それから彼女はビデオ通話を避けるようになったようだ。もちろん、秀樹はエレーナの肢体を見ることまで思いつかなかった。ただ、彼は気分が良い時などは、こちらの表情や仕草を一方的に見せることに違和感はなかった。
スカイプと並行して、2人はメールでもフェイスブック・Facebookでも交流を進めた。やがてエレーナは、メールにもフェイスブックにも彼女が映った写真を送ってくるようになった。どの画像にも彼女の素晴らしいプロポーションが映っており、秀樹は改めてエレーナの美しい姿に感動したのである。
スカイプでの交流が進んだものの、秀樹はエレーナに少し悩まされたことがあった。それは、彼女が付き合っているイラク人青年のことである。彼は名前はフセインと言って、アメリカ・ミシガン州の田舎町に住んでいたが、スカイプで数カ月前からエレーナと親しくなったそうだ。
フセインは例のイラク戦争のあと、混乱した母国を離れアメリカへ渡ってきた。そしてミシガン州の田舎町に住み着き、働きながらある学校に通っているという。年齢はエレーナより3歳上だから、もう36歳ぐらいになるのか・・・ とにかく、事あるごとに彼女はフセインのことで秀樹に相談してきた。
エレーナの話によると、彼はあと2年ぐらいすると学校を卒業するそうだが、その先はまったく未定である。良い就職先があればいいが、それもまったく不確定だ。それにフセインは2年後に38歳になるから、エレーナに言わせれば年を取りすぎていると言う。
そんな話を長々と彼女がするので、秀樹は途中で“うんざり”してしまうのだ。彼は適当に聞き流すか相槌を打ったが、エレーナの話がくどくどしてくると、何か用があると言ってスカイプを止めたりした。
そうはいっても、秀樹はエレーナの話よりも「声」に魅せられた感じで、少したどたどしくても彼女の日本語を楽しんだ。それは抑揚があって不思議な響きがあった。秀樹はもう71歳になっていたが、年甲斐もなく“女”の魅力にはまったのである。
ある日、彼は1時間以上もエレーナと通話した。さすがにその時は長すぎたと思ったが、それも一時のことだった。次の日も翌々日も、またスカイプをする。妻(佳子と言う)はそれとなく察して、呆れていたようだ。一方、エレーナは相変わらずフセインの話題を持ち出すのだ。
「関口さん、もし私が彼と結婚したら、祝ってくれますか?」
「しかし、君はフセインが年を取りすぎていると言ったじゃないか」
「ふっふっふっふ、でも彼は本気なんですよ。そのうち、サハリンへ行ってもいいと言ってるのです」
エレーナの含み笑いに、秀樹はからかわれているような気がした。いや、事実、からかわれているのだろう。そう思いながらも彼はすぐに答えた。
「あゝ、2人が結婚するならもちろんお祝いするよ」
秀樹はそう言ったが、自分が軽い嫉妬を感じていることを覚った。スカイプが終わったあと、彼は自省してみる。俺は71歳なのに“老いらくの恋”をしているのだろうか。あのロシア美人に、半分からかわれているのではないか。多分そうだろうが、俺はエレーナに惹かれる・・・
そう思いつつ、秀樹はもう考えまいとした。考えたって仕方がない。なるようになるさ。人生、なるようになる・・・さて『サハリン物語』に取りかかろう。彼はこの幻想小説に夢中で取り組んでいった。
若い王子が“敵国”の王女に魅せられ、何がなんでも結ばれようとするこの物語は、秀樹にとって最高の題材であった。脳裏にギリシャ神話のパリスとヘレナがいて、やがてトロイア戦争へと発展していく。それがサハリン(樺太)島を舞台に再現されるストーリーは、彼をすっかり夢中にさせた。
自分がパリスになりエレーナをヘレナになぞらえると、いやが上にも気分が高揚してくるのだ。秀樹が『サハリン物語』の創作に熱中していると、またエレーナからスカイプがかかってきた。このところ、連日のようにかかってくる。
「関口さん、フセインのことでもう一度聞いてもらえますか?」
また、フセインだ! このイラク人の青年については聞き飽きた。おっと・・・いま“青年”と言ったが、もう中年ではないか。中年男のことなど聞きたくない! 秀樹はそう思ったが、エレーナからの通話である。我慢して聞かないといけないのか。
「ああ、いいですよ。手短に頼みますね」
「彼はどうしてもアメリカに住みたいと言うのです。でも、私はアメリカが嫌い。結婚はいいけれど、アメリカには住みたくないのです」
「そうはっきりと言ったの?」
「ええ。でも、彼はどうしても私と結婚したがっているのですよ。どうしたらいいのでしょう?」
また、この前の話と同じじゃないか。秀樹は“うんざり”して答えた。
「もっとよく話し合ったらいいじゃないの。よく話し合えば、きっといい解決策が見つかると思うよ」
秀樹は、エレーナとフセインが結ばれるなんて少しも望んでいないが、そう言うしかなかった。すると、エレーナがまたフセインの将来の見通しが暗いことを挙げた。
「彼はいま警備員などのアルバイトをしていますが、2年後に大学を卒業しても、就職先や収入の見通しがまったく立っていません。それを私が言うのですが、フセインは何とかなるよと答えるだけです。そして、いざとなれば、バグダッドにある家を売ってもいいと言うんですよ」
「えっ? フセインはバグダッドに家を持っているの?」
秀樹が驚いて聞き返した。
「ええ、そうなんですが、その家は両親とよく相談しないと処分できないというのです。家を売れば当面のお金は何とかなるというのですが・・・」
どうも要領を得ない。エレーナの話は雲をつかむようで、苛立った秀樹は少し語気を強めて言った。
「彼はサハリンに来て、あなたの両親とも会って婚約したいと言ってるのでしょ? それまでに、お金のことや将来のことを決めればいいじゃないか!」
秀樹が突き放すように言ったので、さすがにエレーナもそれ以上の長話は避けたようである。一呼吸おいて、彼女は話題を変えてきた。
「関口さん、あとでメールに送った私の写真を見てくれますか。5枚送りました」
「それはどうも。楽しみだな」
フセインの話が止んで、秀樹はほっとした。そして、スカイプでの会話が終わると、彼はすぐにメールを開けた。そこには、エレーナが自宅近くの路傍で映っている立ち姿や、彼女の家の愛犬などの写真が入っていた。エレーナの立ち姿の写真は3枚だったが、いずれも惚れ惚れとするような美しいプロポーションで映っている。
秀樹は彼女の素晴らしい肢体に改めて感動し、それらをダウンロードして「保存」措置を取った。エレーナはこれからも写真を送ってくれるだろう。それは秀樹にとって大きな楽しみになるものだ。そんなことを考えているうちに、彼はまたフセインのことが気になった。
できるだけ気にしないように心がけてきたが、エレーナは彼のことを再三にわたって話すのだ。そこで、フェイスブックから彼女の友達を検索したら、すぐにフセインが見つかった。エレーナが言うように、彼はアメリカ・ミシガン州の田舎町に住んでいるが、経歴などの詳しいことはほとんど記されていない。
顔写真を見ると、少しふっくらとした感じだが、なかなか“イケメン”の好青年といった印象である。36歳のはずだが、年よりは若く見える。その彼がエレーナに心を寄せているのかと思うと、年寄りの秀樹は妙に謙虚な気持になってくるのだった。
そんなことを考えているうちに、秀樹はふと、エレーナが前に言っていたことを思い出した。それは彼女がフセインと交流を始めた時、始めに彼は「国際電話」をかけてきたというのだ。スカイプは無料だが、国際電話はもちろん有料である。フセインは2度目もそうしたので、エレーナは彼の“誠意”を感じたというのだ。
3度目から完全にスカイプでの交流になったが、この最初の好印象が彼女の心を捉えていた。秀樹は通話が有料であろうとなかろうと大した問題ではないと思ったが、働きながら勉学に励むフセインのことを考えると、エレーナは心を惹かれたのだろう。
さて、ある時 2~3日だったか、エレーナから何の音沙汰もないことがあった。秀樹は不審に思ってメールで問い合わせると、体調を崩したので失礼するとの返事が来た。その数日後、彼女からようやくスカイプが入った。
「関口さん、ごめんなさい。わたし、食中毒でダウンしていたのです。とっても苦しかった。吐き気や下痢が酷く、熱も39度近くいったのです。立っていられなくて、ほとんど寝ていました。病院で注射を打ったり薬を飲んだりして、ようやく治ってきたのです」
「それは大変だったですね。もう大丈夫? どうして食中毒になったのかしら」
秀樹が尋ねると、エレーナが長々と説明していくが、原因はよく分からないとのことだ。何の食材が悪かったのか・・・ そんな話をしても埒(らち)が明かないので、秀樹はあえてフセインの話題に切り替えた。
「その後、彼とは上手くいってるの?」
「ええ、なんとかいってます。でも、そろそろ結論を出さないと・・・来年の春がタイムリミットだと思います」
「そうか、上手くいくといいですね」
秀樹はそう答えたものの、急にエレーナを愛おしく感じる自分を意識した。俺はフセインに対抗して、彼女の歓心を買おうとしているのか。自分は年寄りだというのに、なりふり構わず彼女に接近しようとしている。そういう自覚はあったものの、秀樹はごく自然にエレーナに語りかけた。
「今度、あなたに贈り物をしたいんだけど、よければ何がいいですか?」
「えっ、どういうことですか。贈り物と言われても・・・」
返答に窮したのか、エレーナはそれ以上何も言わなかった。
「別に大したことじゃないですよ。ただ、あなたに何か贈りたいんです。何がいいか、考えておいてくださいね」
エレーナが答えないので、秀樹は一方的にそう言って他の話題に切り替えた。他の話題といっても特にあるわけではない。たいてい、サハリンの四方山話や天候の具合など他愛ないもので、秀樹の方も世間話を適当にするだけだった。
その日のスカイプは終わったが、エレーナがまたメールに自分の写真を送ったと言うので、それを見ることにした。メールを開けると、彼女の立ち姿が映った写真が4枚入っていたが、相変わらず素晴らしいプロポーションである。身長178センチの彼女の肢体は、いつ見ても惚れ惚れとするものだった。
その中でも特に目を引くのが、エレーナが右手を高く掲げたポーズである。その写真は2枚あったが、彼女が最も得意とするポーズなのだろう。少しも嫌味がなく、ごく自然に映っている感じだった。いつものように、秀樹はそれらをダウンロードし保存した。
フェイスブックのエレーナの写真にも魅力的なものがいくつかあり、秀樹はよくそれらを吟味した。彼女が母親と写ったものは特に良かったが、エレーナは母とは「生き方」がずいぶん違うと言っていたのを思い出す。それはそうだろう。日本語や英語を習い、イスラム教徒になってアラブ人と結婚、そして離婚するなんて・・・と秀樹は思った。
エレーナに何を贈ろうかと考えたが、どうも良い案が浮かばない。それは彼女に決めてもらおうと思っていたら、フェイスブックに本人の「誕生日」が載っていることに気がついた。エレーナの誕生日はたしか1月のはずだが、秀樹は誕生祝いが最もベストと思ったのである。
そこですぐに調べたら、エレーナは1月22日が誕生日だと分かった。あと2ヶ月余りある。急に秀樹は余裕を感じた。あと2ヶ月の間に贈り物を決めればいいのだ。あわてる必要はない。そう思ったが、秀樹は日本の民芸品や特産品ではエレーナに不十分な感じがした。
彼女は美人だから、それにふさわしい物がいいのではないか。そう考えると、やはり化粧品や香水などが最適だろう。秀樹は自分なりに腹案を決めて、次のスカイプの時にエレーナに尋ねた。
「贈り物はあなたの誕生日に合わせた方が良いと思うけど、何か希望はありますか?」
「ええ、でも特に・・・」
エレーナははっきりとは答えない。
「特になければ、こちらで決めていいかしら。例えば化粧品や香水などを・・・」
今日は“ビデオ通話”だ。秀樹はもともとこれが好きだったが、エレーナが避けていたのであまりやらなくなっていた。しかし、ビデオ通話の方が自分の顔を見せ、気持を正直に伝えられるような気がしたのだ。
「お任せします。関口さんのお好きなように、どうぞ」
今度はエレーナが素直に答えた。
「それじゃそうしよう。ところで、エレーナさんはどんな香水を使っているの?」
「ランコム・ポエムです」
「えっ? ランコム・ポエムだって?」
秀樹はそんな香水はもちろん知らない。彼は化粧品や香水などにまったく無知なのだ。とにかく、彼女の誕生日まで十分な時間があるので、じっくりと調べてみることにした。その日は15分ぐらいスカイプをして、エレーナとの話を終わらせた。
秀樹はネットで「ランコム・ポエム」を調べたらあったが、それはどうでもいい。日本にだって資生堂やコーセー、ポーラなどがあるではないか。日本製品でなにが悪いのか。そんなに高いのは無理だとしても、それなりの物をプレゼントすればいいのだ。
彼はエレーナのためなら、女性客ばかりの化粧品店へ乗り込んで、堂々と店員に話を聞こうと思った。いや、むしろそれを望んだ。化粧品のことをまったく知らない老人が、開き直って“突撃”する様を想像してかえって愉快な気持になったのである。
その一方で、小説『サハリン物語』はきわめて順調に執筆が進んだ。次々に発想・妄想が湧き出てきて、こんなに楽しく創作するのは秀樹にとって初めての経験だった。どうして、こんなに筆が進むのだろうか・・・ 自問すると、それはエレーナがいるからだと思わざるを得なかった。
今や彼女の存在が、秀樹の心を完全に支配しているようである。彼女の幻影が小説の背後に見え隠れするのだ。俺はエレーナを愛しているのか。多分そうだろう。これを“老いらくの恋”とでも言うのか。先人の文学で、老いらくの恋というのは知っていたつもりだが、自分がまさかそれを体験するとは思いも寄らなかった。
ところが、秀樹が小説の話をしても、エレーナはほとんど興味を示さなかった。彼女にとって小説など眼中になかったのだろう。むしろ数人のブロガーが、この先ストーリーはどうなるのかと問い質してくれるので、その方がやりがいを感じたのである。
(参考⇒『サハリン物語』・http://blog.goo.ne.jp/yajimatakehiro/e/80c7821795f4c82c4afc5262ad2b5d54)
それから1週間ほどたったある日、秀樹はエレーナとスカイプで話そうとしたら、仕事の準備で忙しいから駄目だという。その代わりメールに“雪景色”の写真が4枚送られてきたが、けっこうな積雪である。もう12月に入っていたが、サハリンはやはり冬が早いなと実感した。写真には分厚いコートを着た笑顔のエレーナも写っている。翌日すぐに、秀樹はスカイプで話しかけた。
「もう真冬だね。サハリンは寒いんだな~」
「今年は特に寒いようです。でも、私たちは慣れていますから」
「地球は温暖化しているというけど、サハリンの写真を見るとそんな感じはしないね」
「ホッホッホッホ、一度、真冬にこちらに来たらどうですか」
「とんでもない。いま行ったら凍っちゃいますよ!」
秀樹とエレーナは冗談を交わしたが、2人はとても打ち解けた会話をするようになっていた。このあと珍しく、アメリカにいるフセインの話題に移ったが、これはエレーナが持ち出したものだ。彼女はフセインとの交流を続けており、それによると、来年春までに彼と“決着”をつけたいとのことだ。なんでも、フセインが来年3月ごろにサハリンへやって来る予定もあるという。
秀樹は話半分に聞いていて、それ以上は尋ねなかった。どうせ上手くいくような話ではない。彼は高をくくっていたのだ。それよりも、エレーナへの贈り物・プレゼントをどうするかだ。急に秀樹は彼女に親しみが湧いてきた。
「エレーナさん、こう言うと何だけど・・・僕はあなたが好きなんです」
「えっ、まあ・・・」
エレーナが言い淀んだ。
「こんな年寄りがと思うでしょう。でも、本当なんだけど」
彼は努めて“軽い調子”で話し続けた。
「英語だとアイ ラブ ユーね。ロシア語だとヤー リュブリュー ティビャかな。間違っていないでしょ?」
「フフフフ・・・ありがとうございます」
エレーナがおかしそうに笑って答えた。秀樹は簡単なロシア語会話集で知った言葉を話すと、ホッと一息ついた。
あとは他愛ない話をしてその日のスカイプを終えたが、秀樹はエレーナに親愛の情を示すことができて満足した。フセインの件が少し気になったが、取り越し苦労をしても始まらない。彼のことは放っておいて、自分のやるべきことにとりかかろう。秀樹はそう思って、早速いろいろな化粧品や香水をネットで調べ始めた。
すると何百、何千種類もあるようでさっぱり分からない! 調べるだけで疲れてくる。仕方がないので、彼は香水だけに絞って資生堂やカネボウの商品を調べた。そして電話もかけてみた。そうこうするうちに、秀樹は思いがけない問題点に遭遇したのである。
それはアルコール度数が60%を超えるものは、国際郵便などで外国に送れないというのだ。それは引火の危険性があるからだという。郵便局のサービスセンターで確かめたら、ほとんどの香水はアルコール度数が60%を超えているため郵送できないというのだ。秀樹はがっくりきた。せっかくエレーナに香水を送ろうと思ったのに、諦めざるを得なかったのだ。
それなら何が良いのだろう。秀樹はいろいろ考えたが、ふと日本製の電子辞書が良いのではと思いついた。エレーナは学校で英語や日本語を教えているはずだ。それなら日本の素晴らしい電子辞書が最適ではないか。そう思って、彼はすぐにスカイプでエレーナに問い質した。
「香水が駄目だからいろいろ考えたけど、日本製の電子辞書はどうだろうか。とても便利ですよ」
すると、彼女の返事は素っ気ないものだった。
「わたしはもう電子辞書には興味がないのです。もっと和風の日本独特のものが良いのです」
エレーナの答え方に秀樹は少しムッとしたが、できるだけ冷静に問い続けた。
「じゃあ、何がいいの? 和風の物って沢山あるんだけど」
エレーナはしばらく考えていたが、やや控え目な感じで次のように答えた。
「わたしは日本の花模様が好きですので、できればそうした純和風の財布などが良いと思います」
彼女の答えが具体的だったので、秀樹はようやく贈り物を絞り込むことができた。
「花模様のある純和風の財布ね。分かった、探してみます」
秀樹はそう答えてスカイプを切ったが、正直言って“贈り物選び”には少し疲れた。異性へのプレゼントに慣れていないし、まして相手が外国の女性である。香水や化粧品から電子辞書、そして純和風の財布へと彼は相当に神経を使ったのだ。
それに、小説『サハリン物語』の執筆にも全力を挙げていたから、疲労が蓄積したのだろう。12月の下旬に秀樹は“ぎっくり腰”になった。始めはさほどでもないと思っていたが、ぎっくり腰はなかなか治らなかった。ちょうど寒くなる季節だったから、余計に長引いたのかもしれない。
年の暮れが近づいたころ、エレーナから丁寧なエアメールが届いた。彼女はイスラム教徒だから、クリスマスカードの体裁はまったく取っていない。そのころ、2人の親しい関係をいぶかしく思ったのか、妻がそのエアメールを覗きにきた。
「大したことは書いてないのね。字もあまり上手くないし」
妻が言うように文面は紋切り型の挨拶で、来年もよろしくどうぞといった平凡なものである。しかし、秀樹にとってはエレーナからの初めての手紙だから、悪い気はしない。
「外国人らしい挨拶文だよ。別にどうってことはないね」
彼はそう言って妻の疑念を晴らしたつもりで、内心は浮き浮きした気分になっていた。そして、ネットで花模様のある純和風の財布を調べていったら、京都の西陣織の「金襴織物」を見つけた。それは絢爛豪華な印象を与えるもので、花柄の財布が何種類もあったのである。
秀樹はさっそく、どんな花模様が良いかとエレーナに聞いた。彼女は桜の花をあしらったものが良いというので、京都のK店から高級財布を取り寄せることにした。そうした中で年が明け、2013年(平成25年)の正月を迎える。秀樹はこの年にエレーナとの関係が大きく進むことを期待していた。
大きく前進するといっても、2人の関係が具体的にどうなるかを想定していたわけではない。何事も成り行きに任せるというのが彼の“哲学”であり、いつも、人生は成るようになるさと考えるのが秀樹の処世術だった。ただ、エレーナとの仲が飛躍的に進むことを漠然とした気持で望んでいたのだ。
この時点で、彼はまさか自分が近いうちに「脳梗塞」で倒れるとは、夢にも思わなかった。それはそうだろう。いくら年を取ろうとも、健康な人間は自分が“病魔”に倒れるとは想像もしないし、そう思いたくないのが常だからだ。
2013年(平成25年)の正月はいつものように息子や娘など親族が集まって、賑やかな団らんを楽しんだ。孫たち4人にも囲まれ秀樹は幸せな一時を過ごしたが、エレーナのことはもちろん忘れるものではない。早くも3日には、どちらからともなくスカイプで連絡を取り合った。
充実した日々を送っていたものの、秀樹の悩みはまた“ぎっくり腰”が再発したことである。いったん良くなりかけたのに困ったものだ。しかし、あまり気にしないで秀樹は通常の生活を続けることにした。そして、K店から例の財布が届くと、すぐにそれをエレーナの元へ郵送したのである。
国際郵便には、EMSという「国際スピード郵便」があってとても便利である。秀樹が郵便局の窓口で聞くと、3~4日もあれば海外のほとんどの地域に届くという。彼は贈り物をEMSで送るとすぐにエレーナに連絡した。彼女も嬉しそうに弾んだ声を上げていた。
こうして全てが順調に進むかに見えたが、14日に降った“初雪”の除雪作業で秀樹が無理をしたため、彼はまた腰を痛めたのである。無理をしなければ良かったのに、秀樹は気分が高揚して張り切りすぎたのだ。それに、エレーナの元へ早く着くはずの贈り物がまだ届いていないという。
「10日に送ったから、あなたの所にもう着くはずですよ。おかしいな~」
秀樹がスカイプでそう言うと、エレーナはいろいろ調べてみるという。翌日さっそく、彼女から返事があった。
「ロシアは駄目なんですよ。郵便物は全てモスクワに集められ、それから郵送先へ送られるそうです。馬鹿みたいですね、ホッホッホッホッホ」
えっ? そんな馬鹿な・・・EMSだと3~4日で届くはずなのに、それではどのくらい時間がかかるか分からないじゃないか。モスクワから東の果てのサハリンまでは実に遠い。秀樹が郵便局の窓口で聞いた話とはえらい違いだ! 要するにEMS・国際スピード郵便でも、各国の事情によってそれぞれ違うのだ。
「嫌になりますね~。もう少し様子を見ましょう」
秀樹はそう答えるしかなかったが、ロシアに対して少々呆れてしまった。そんなやり方では、例えば沖縄から台湾へ物を郵送する場合、いちいち東京を経由するようなものだ。沖縄から台湾へ直接 送られないのだ。これでは時間がかかってしまう。
仕方がないと秀樹は思ったが、エレーナの誕生日の22日までに間に合うだろうか。そんな心配事をしているうちに、腰の痛みが治らないので彼は近くの整骨院で診てもらうことにした。
最近は腰だけでなく背中もうずく感じがして、秀樹はこれはもう放っておけないと思ったのだ。そして、週末にT整骨院へ行ったらその日は休診だったので、週明けに行くことにした。一方、エレーナに送ったプレゼントは、ようやく20日に彼女の手元に届いた。誕生日の2日前である。彼女がすぐにスカイプで報告してきた。
「ありがとうございます。とても素敵な贈り物をいただき、嬉しくて仕方がありません。ずっと大切にしていきます」
この日、エレーナは初めて自分の方から“ビデオ通話”をかけてきた。彼女は満面に笑みを浮かべ、その表情が一段と美しく輝いて見える。エレーナとは5ヵ月ぶりに顔を接したので、秀樹の方も感無量だった。
「エレーナさんは相変わらず美しいな~。僕も嬉しいよ。あなたの誕生日までに届いて、本当に良かったですね」
何よりもホッと一安心したが、秀樹は彼女と喜びを分かち合えて幸せな気分に浸った。それと、改めてスカイプ・SKYPEって凄いな~と思った。ビデオ通話で相手と顔を突き合わせて対話ができるのだ。それがエレーナの方から初めてかかってきたので、彼は余計に嬉しかったのである。
その日すぐにメールで、エレーナが艶やかな財布の写真を3枚送ってきた。秀樹はそれを見て、つくづく良い贈り物ができたと思った。彼女が肌身離さず大切に持っているよう願ったのである。そして、彼はその財布のように、自分が彼女の“懐”にずっと抱かれる妄想を楽しんだ。
21日(月)の午後に、秀樹はT整骨院へ初めて行った。その日の日記に彼はこう書いている。
「腰痛なので近くの整骨院へ初めて行く。結論・・・行って良かった! 電気マッサージから始まって、ウォーターマッサージ、人のマッサージ、微弱電流治療など5種類を受ける。中でもウォーターマッサージは、ノズルから温かい水を噴流する装置だそうで、揉んだり押したり擦ったりと実に気持がいい。楽しかった。初回だというのに、腰がだいぶ楽になった感じだ。」
秀樹は整骨院での治療に大いに満足し、次の日も、またその次の日も行きたいと思った。ところが、医学的なことはよく分からないが、この治療が彼の疲れた体にかえって負担になったのだろうか? 翌日、とんでもない事態が発生した。
1月22日(火)、秀樹は起床するとすぐに、フェイスブックでエレーナに誕生祝いのメッセージを送った。彼女は34歳になったのである。ありきたりの祝い文だったが、間もなく彼女からも御礼の返信が届いた。エレーナの都合を聞くと、夕方にはスカイプで話すことができそうだ。
それを楽しみにして、秀樹は最終局面を迎えた小説『サハリン物語』の創作を続けた。そして昼過ぎになり、今日も整骨院へ行こうかと思っていたら、妙に体が“だるく”感じられる。変だな~、どうしてだるいのだろう・・・ 大したことはないと思いながら、秀樹はテレビを見たりして時を過ごした。
そのうち、体がますますだるくなったので、秀樹はベッドに横になった。少し“うたた寝”をしただろうか。どうもおかしい。秀樹は起き上がり庭へ出ようとした。すると全身に“けだるい”快感が襲ったようで、彼はそのまま書斎に閉じこもった。そして、フェイスブックでエレーナに宛てて、今日はスカイプを止めようと伝えた。そのあと、秀樹は脳梗塞で倒れたのである。(完)
(参考)脳梗塞の記録・・・http://blog.goo.ne.jp/yajimatakehiro/e/2c0aa83e105acb8aa7eeae8072751397
ヴィーナスか 美魔女か(笑)
初めて拝見させていただいたので現実か物語かわかりませんでした。
アルカリ性の食品が良い体質をもたらしてくれます。
お体を大事にされてください。
7年半前のことですが、脳梗塞になりました。救急車で早く入院できたので、幸いにも後遺症はほとんどありません。
しかし、リハビリは約半年続き、厄介でしたね。
その後、投薬などで血圧は安定しています。
ご助言、ありがとうございました。