34歳のころの話だ。
アパートの隣の男性が自殺した。
推定47歳くらいの男性だった。
職業は左官で、病気がちの人だった。
一度だけ、話をした。
俺が自転車のパンクを修理していると、
彼は近寄ってきて、そのとき、いろいろな話をした。
だが、正直、
それ以前に、彼には、いい印象はもっていなかった。
職人なので、
仲間がたくさん集まってきて、
うるさかったのだ。
昼間はいいが、早寝の俺としては、
夜うるさいのは困る。
それで騒音を注意したことがあった。
でも彼は、それを根にもつこともなく、
気軽に、自転車修理をする俺に、
笑顔で話しかけてきたわけだ。
いい人だと思った。
それから数週間して、
たまたま彼の部屋の前を通りかかると、
窓から、薬の匂いがプーンとした。
あとで他人から訊くと、
彼は心臓が悪かったそうだ。
病気がちで仕事も休んでいたらしい。
そして数ヵ月後、
その日の朝、俺は家にいた。
時間は忘れたが、
朝の11時ころだったかもしれない。
隣室から壁を通して、
ものすごいウナリ声が聞こえてきた。
その声は尋常じゃなかった。
俺は「左官屋さんは、病気でうなされているんだろう」と思った。
ただ高熱でうなされるとか、
そういうものじゃなかった。
「すごく痛い」という感じのウナリ声だった。
俺も一度、すごく腹痛を経験しているが、
そのときのことを思い出した。
今だからわかるが、
狭心症か何かの発作の可能性が強い。
そのウナリ声は、かなりの時間続いた。
(その時間も、覚えていないが、30分は続いたと思う。
狭心症の発作としては、あまりに長すぎる。
でも、間歇的に起きたと考えると、ありえるかもしれない)
俺はどうしようかと思った。
ドアは閉まっているだろう。
じゃ、ベランダ?
そう。
ベランダのガラス戸から、彼の家の中を見ることはできた。
でもガラス戸が閉まっている可能性も高い。
ガラス戸を割るのか?
そんなことを何度も考えたが、
行動には移さなかった。
そのうち彼の声は聞こえなくなった。
数日後、不動産業者から、
彼は自殺したことを知った。
詳しい内容は、
訊かなかった。
今から思うと、
病気をはかなんで、
首吊りをしたのかもしれない。
あるいは、あのウナリ声は、
割腹自殺を試み、
死に切れずに出していた断末魔の声かもしれない。
俺の心は、今でも、ちょっと痛い。
あのとき、俺はどうすべきだったか?
アパートやマンションの隣室から、
ウナリ声が聞こえたら、
あなたは、どうしますか?
親しい人なら、
すぐにベランダから、
声をかけるか、
救急車を呼ぶだろう。
でも一度話をしたとは言え、
知らない人だからなあ・・・
知人と他人の差は大きい。
年齢差も大きい。
でも、人類皆兄弟だ。
やっぱり、声をかけるべきだったと思う。
彼のご冥福を祈りたい。
やっぱり、いい人だったと思う。