ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

うっかりしていた(20220516)

2022年05月16日 | 辺野古・大浦湾

 今日は、うっかりしていた。5月15日が終わり、今日は県外の人と、彼の運転でキャンプ・シュワブゲート前に向かった。ところが第4ゲート前手前で、渋滞にはまった。9:30頃。1㎜も動かない。そしたら緊急車の音がしてきた。パトカーだと思ったが、公安私服車だ。暫くして複数の緊急車だ。

 どうしたのかと思った。不吉な予感。機動隊のバス2台と、公安私服車2台の計4台が騒がしく走りさる。これはよほどもめているようだ。5/15に来た人が大量に座り込んだのだろう。私を乗せた車は、反転してぐるっと回ることにした。世冨慶ー許田ー松田ー辺野古へ。結局、到着したのは10時を大分回ってしまった。

 確かにテントに多くの人が座り込んでいた。5/15に来た人たちだろう。その後、私は大勢が座り込む図を撮ろうとゲート前に向かった。よくよくみたら、どうもへん。ある党派系の団体が圧倒的多数のようだ。たまにきて喧しい。私はすっかり撮る気をなくした。ここで彼等が出バル図を私は初めて見た。

 そんなわけで、私もランチに早めに合流した。会話の中で、沖縄の国政選挙への参加はいつでしたかと問われた。72年5月の前だったと記憶していたが、明確でなかった。帰宅後、1970年11月のことだったと確認した。1969年11月の日米首脳会談で1972年5月15日沖縄返還が調印されたので、その後だと思っていたのだが、そうだったのだ。米国は小出しに沖縄の民主的な手続きを引き渡していたのだ。

 ベトナム戦争に劣勢となるなかで、米国は一歩後退、ニ歩前進を画策していたのだろう。しかしあれから50年余りの時間が経ちながら、かえって、新基地建設の話が出てきて(1996年)その動きは止まらず、琉球諸島は日本国の槍の先端を担わされようとしている。50年間の時間は、私たちに如何なる前進をもたらしてきたのだろうか。「時間稼ぎの戦争」から「有事即応」の戦争へ。

 まっさきに絞め殺されるのは、やはり沖縄の民衆か?! 爆弾を抱えてつっこまされたり、スパイだと眼をつけられて叩き切られたり。2度とそんな事を私たちは断じて許してはならない。

 



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