おはようございます。嫌なニュースが続きます。今朝の新聞を見て、さらにゲンナリ。ロシアの戦争を盾にして、武装国家を説き、核「共有」といいながら【核保有】を説く輩。
この動きは2003年のイラク戦争から始まりましたが、当時は隠れながらやっていた。偽装ですね。2010年の「島嶼防衛」は、衣の下の鎧から、衣を脱ぎ始めた。そして今、ジャーンと本音をご開陳。
彼等の頭の中には、あの「軍艦マーチ」が唸っているんだろうか。昔も今も特攻だ。昔はそれこそ兵に突っ込ませた。今の特攻は、「国民」もろともだ。核戦争じゃけんねぇ。いったい、彼等は、どこに待避するつもりじゃろう。奴らだけがコソコソ隠れる「地下帝国」を造っているのか。
私は北京で、中ソ戦争を想定した、大地下壕に入ったことがある。大地下街だ。今のウクライナではソ連時代に造られた、地下鉄の構内が地下壕だったらしい。何が役に立つか分からない。しかし、まだ核戦争になっていないから水の補給も食料の補給も可能だろう。もしも、もしもだよ、核戦争になれば、核汚染が広がり、飲んだり食べたりできなくなる。物理力としての核防護は生命の生存を保てない。この冷厳な事実を直視しよう。
今こそ核廃絶を訴えたい。私は不戦を掲げる。
さて力の入れ方だ。文を書くのも力がいる。写真を撮るのも力がいる。もちろん、包丁で豆腐を切る事にすら力がいる。如何にしたら適切な力の入れ方ができるのか。これが問題だ。野球などでも力んではダメだと言われる。無駄な方向違いの力が入るからだろう。
写真を撮るときの力の入れ方は、極めて難しい。文を書くならば、自分で完結する。相手がいても想像の世界だから。具体的な相手がある場合でも、書いているときに応答はない。書いている事後だから、それなりに準備しておけば良い。
写真の場合は、そのときにある。人はもちろん、生物ならば全て。こちらに力が入っていると、彼等はよってこない。逃げる。脅かすことになる。いやぁ、敏感だよ。防衛本能なのだろうか。猿がいた(沖縄にはいない)、慌ててザックからカメラを出している様を、彼等は見ている。出した途端に、消えている。不用意に歩いていると、エゾシカがわずか5mのところを通過していく。おーい、待って!と言っても遅いのだ。
理屈として力まないといっても、撮る気になると無意識に力が入る。力が入っていなければ、密度の高い写真は撮れない。だから力は内心で、内部へ、なのだ。外に出さない。これ以上私には表現できないので、書けません。試みてください。
だから私は、こちらから追いかけない。近づいてくるのを待つ。近づいても大丈夫よと、メッセージを送る。そうすると案外来てくれる。その関係性が緊張感があって、おもしろい。そのぐらい余裕があると、観察眼も鋭くなり(やわらかくね)、気づきも多くなる。
人を撮るのもそうです。「笑顔を見せて」と言っても、自分が緊張していたら、ダメでしょう。人物写真には、ポーズの付け方とかあるようですが、形だけつけても「お人形さん」になってしまう。
腕を磨きましょう。心を磨こうね。
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