ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

「琉球諸島で考える『日本』という国」 第4回不思議な空間―米軍が駐留・支配している国だということの①(20220727)

2022年08月04日 | 他紙執筆原稿

●本稿は、『世田谷市民運動いち』の2022年8月1日号に寄稿したものを転載します。

●お詫び●
 5月下旬から私のパソコンが故障してしまい、使えませんでした。7月初めに回復しました。このため2回原稿をお送りできませんでした。誠に申し訳ありません。

(Ⅰ)「島嶼防衛」の裏側にあること
 前回(5月号)で、「島嶼部」について、地理的要件を概説した。ここから本題に入りたかったが、この国の「防衛」(安全保障=軍事)は、日本政府の責任(指揮・監督)で起動していないのが現実だ。ここをしっかりと頭に入れていただきたい。だが、これを逐一やっているといつまでも完結しない。一言で言えば、あの「大東亜共栄圏」を叫んだ大日本帝国の末路は、米国がこの国のボスたちを押さえ、ボスだった吉田茂首相(1951年、サンフランシスコ平和条約を締結した当時)が完全に了解し、安保条約と「行政協定」(1952年施行)を同時に結んだのだ(1960年「日米地位協定」に改定)。この裏に天皇裕仁の戦争責任(戦争犯罪)の免罪(「天皇メッセージ」もあり)という事実が隠されてきた。
 だからこそ、米国は沖縄等を「日本国」から引き離し、沖縄の軍事占領を1972年まで続けてきた。沖縄の米軍はベトナム戦争に沖縄から直接出撃していた。沖縄には日本国憲法は適用されていなかった。「日本復帰50年」の今日も、9条に限って言えば、未だに適用されていないと言わざるを得ない。そうした状態のまま2015年、『安全保障法制』(戦争法)は、集団的自衛権「限定容認論」が「解釈改憲」によって強行されたのだ。こうして、日本国憲法第9条は瀕死の状態に陥った。尚、反「安保法制」の闘いの渦中では「島嶼防衛」批判の論点は殆ど論じられずに終わった。

(Ⅱ)経緯の中から
 1972年5月15日以降、自衛隊は沖縄島等に配備されたが、米軍施設が自衛隊に移管されたのだ(施設+機能)。当時の最西端基地は宮古島の航空自衛隊第53警戒隊(対空レーダー基地)。72年10月11日、引き継ぎ、73年2月15日、第53警戒隊新編。この組織再編は、同時に自衛隊がつかんだ情報は米軍に流すことになっていく。当時、沖縄では自衛隊を皇軍の再登場とみて、反対の声が強まり、「自衛官に住民票を出すな!」という声まで上がっていた。
 しかし「復帰50年の自衛隊」は、ほぼ完全にリニューアルされたかのように、沖縄に受け止められている。那覇市議会は、去る4月、「自衛隊へ、離島からの患者搬送1万人感謝決議」をあげたほどだ(反対は保守の2名のみ。共産が賛成、他の革新は退場)。この50年の変容はなぜ起きたのか? 沖縄出身の自衛官が増え、家族会が増えたばかりでなく、こうしたことも与那国島・石垣島・宮古島で、沖縄島でも自衛隊基地建設反対の声が広がらない一因だろう。

 ここで私は白状しておく。こう書いているのだが、別の原稿を書いたことから、今思い当たったのだ。皇軍(旧軍)、米軍、自衛隊の変貌、切断と接点、共同軍化の推移を検証し、考え直すことが必要だったのだ。
 次回は、日米地位協定の問題にふれながら、考えたい。



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