ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

ひめゆり平和祈念資料館から魂魄の塔脇まで(20210218-②)

2021年02月22日 | 沖縄島中南部

2021年2月18日(木)曇り 

 遺骨混じりの(埋立て)土砂の採掘をやめろという取り組みが起き始めている。私も現地を見たいと考えた。どうせなら久しぶりにひめゆり平和祈念資料館を見てから行こうと考えた。

 9:20頃、ひめゆりの塔バス亭で下車。コロナ禍だから空いており、ゆっくりと見れると考えた。大正解だった。中の写真は撮影禁止のため撮れていない。私が同館を訪れたのは3回目か4回目。室内・展示も整理されており、展示は見やすい。

 ひめゆり学徒隊と言われているのは1945年3月23日に南風原の陸軍病院に動員された240人からなる。学徒222人、教員18人だ。このうち、学徒隊の渦中で亡くなった方々は136人。学徒123人と教員13人。このほかに、同校の学徒らで沖縄陸軍病院に動員された以外で亡くなったのは、学徒87人教員3人となっている。また同校(2校計)の学徒の総数は710人、学徒隊への動員数は222人で31%。

 展示内容については切りがないので省略するが、「ひめゆり学徒隊」(ひめゆり平和祈念資料館編 2004年12月刊)等参照願いたい。

資料館を出たところから中庭をのぞく。痛ましい記録だが、落ち着いた環境が整備されているので、じっくりと見学できる。11:23

ひめゆり平和祈念資料館の門の外から。そうしゅじゅの木がまぶしかった。11:20

沖縄陸軍病院第3外科壕跡(この大きなガマの中)とひめゆりの塔 11:28

このレリーフは当時の移動・撤退の奇跡が書かれている。資料館の中にもあったが、時間と空間を同時に知ることができる。正直に言って私はこの時間と空間の関係を理解していなかった。11:30

そこで整理しておく(前記資料より)。

1945年3月23日 ひめゆり学徒隊、南風原の陸軍病院に動員された。

4月24日 陸軍病院の組織が外科・内科・伝染病科から第1外科から第3外科に編成替え。学徒もそれぞれに配置された。 

5月25日 陸軍病院が南部(糸満)に撤退

6月初め 南部への砲爆撃が激しくなる。

6月18日 解散命令

6月23日 生存した殆どの学徒が米軍に収容された。

8月22日 最後のひめゆり学徒7人が収容された。

この顕彰碑は、ハワイ2世のハーリー・シンイチ・ギマさんがこの敷地を買い上げ、ひめゆり同窓会に1951年に寄贈されたことを示している。ひとり一人の尽力が歴史を刻んできたのだ。11:32

ひめゆり平和祈念資料館のある米須(こめす)から魂魄(こんぱく)の塔に南下する。歩道がサトウキビで通れない。11:42

と歩いていると、右側奥に怪しい斜面が見えてきた。11:45

多分ここだ。自然公園法などに違反したまま開発を始めてしまった鉱山。沖縄県が工事差し止めしているが、業者は申請書類を後出ししている。受理後30日で開発が可能になる。

アップで撮る。11:45

詳しくは後で肉薄する。

魂魄の塔に入る道。トラックが出入りしている。なんだい? どこかから土砂を運び出しているようだ。嫌な予感。11:55

魂魄の塔対面の広島の塔。毎年6月23日に国際反戦集会を開催している場所だ。人がいないとやけに広く感じる。ここで昼食を取った。12:30

写真の枚数が多く、また然るべく整理しておかないと肝心な土砂採掘地がわかりにくくなるので、別項とする。ご容赦願いたい。

 

 



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