ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

2022年5月15日朝を迎えた(20220515)

2022年05月15日 | 沖縄暮らし

 おはようございます。2022年5月15日朝を迎えました。名護は曇。昨夜は22時過ぎに帰宅しましたが、一字も書くことができませんでした。頭がいっぱいです。夕飯、食えず。

5月13日夜:「5.13脱植民地化沖縄集会」に参加。基調講演 知花昌一「『日本復帰』50年を問う」他の発言(金城実、清水早子、奥間政則)にもそれぞれ光るものがあった。

5月4日は3本だて。

午前:南北の塔(糸満市)でのイチャルパ(供養祭)ー撮影

午後:「ガッティンナラン!日本「復帰」50年/日米の植民地支配を許さず 琉球孤の自己決定権の行使を! ~再び沖縄を戦場にしないために~」ー参加し部分撮影

夜:映画「シバサシー安里清信の残照」ー鑑賞(海燕社主催)

 もう頭一杯。頭がいっぱいすぎて整理できていない。残念なことに午後の部のまとめと、夜の部がだぶり、討議を聞けなかった。

 午前中、糸満市への行き帰り、岸田首相ご一行様とニアミス。また午後、車で移動の際、首里のそばでもニアミス。午前中は50mほど手前で止められた。まったく!

 今年は私が沖縄に住み始め、初めて、受け入れる側から参加する側に回った。その分体力的には楽だったが、たくさんの課題を頂いた。感謝します。

 フォトグラファーは、空間を撮り、時間を撮るものだと、沖縄で(刺激をうけながら)考えてきた私だが、その思いを再確認。植民地支配という問題を重く受け止めたい。だからこそ、私は「植民地支配」する側にある個人として、これと向き合っていく。

 また恥をさらすようだが、「シバサシ」に描かれている金武湾を守る会は1972年からだったと知った。この1972年とは、沖縄が日本に「復帰」した年だが、同時に田中角栄内閣の「列島改造」の年だった。日本国内では、1960年「全国総合開発計画」、1969年「新全国総合開発計画」、72年「列島改造論」と、自然破壊と環境破壊が激化していく時代。

 あれは1972年だったのかと今更のように知って感慨深い。悔しい。沖縄のことを、日本政治の動きの中で捉えること、沖縄のことを米日政治の中でとらえなけえばならない。

 何よりも沖縄から、米日政治を捉え、アジア政治を捉えていかなければならない。沖縄が米国の軍事植民地にされて77年間が経過している。このことは日米安保条約によるように見えるが、それは正確ではない。ひとことでいえば、日本国が米国の「属国」となり、1952年4月28日「独立」したかにみえたのは、沖縄をご自由に「基地の島」にしてと約束したからだ。

 沖縄の民衆は、平和憲法がある「日本復帰」を切望したが、この憲法はそもそも沖縄の軍事基地化とバーターだったのだ。ここを見破るべきだったのは、日本民衆の責務だったはず。これを全くできなかった私たち。あれよあれよという間に、米日一体の軍事態勢ができあがり、米軍の指揮下で戦う軍隊をもち、行使できる改憲が政治日程に上っている。

 このままでは、沖縄は安保に絞め殺されていく。日本民衆は再び国家に縛られた国民として、ふんぞりかえる。そうした一部がヘイトで先取りされてきた。

 よほど多角的な視野をもち、自分に欠けていることに自覚的な関係をつくるべく、私は努力していくしかないだろう。難儀を恐れては、ダメ。

 今日は5月15日だ!

 

 

 



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