ちょこ歴旅

歴史旅…というほどじゃない、気楽な史跡巡り備忘録
(※和菓子ネタはブックマーク「和菓子の国の人だから」へGo!)

金魚の町大和郡山へ

2012年02月26日 22時17分39秒 | オートバイ
先々週の岸和田、先週の河内長野に続き、
今週も大和郡山へオートバイでプチ歴史
ツーリングに出掛けます。

寒いので、早朝を避け午前9時半に出発。
府道12号線(堺大和高田線)を東へ、
近鉄大阪線の河内国分駅付近から国道25号線
に合流、法隆寺前を過ぎ「中宮寺東」交差点
から県道9号線を北上すれば11時頃には
大和郡山へ到着。

大和郡山市は奈良県の北部、奈良市の南西に
位置する人口9万人弱の都市。
豊臣秀吉の天下統一を支えた弟「大和大納言」
豊臣秀長の城下町。
また、江戸時代に武士の副業として広まった
金魚の養殖が有名です。

<大和郡山城の追手門とその周辺>

追手門、追手向櫓、追手東隅櫓等は市民の
寄付により再建されたもの。

大和郡山城は筒井順慶の後、1585年に
豊臣秀長が大和・紀伊・和泉の3ヶ国に
河内の一部を加え110万石の大大名として
入部し、それに相応しい城にするため大改修。
1591年秀長が没し、養子秀保も1595年に
急死すると、豊臣家五奉行の一人増田長盛が
入城、関ヶ原の戦いの後は松平、本多など
徳川譜代大名が相次いで入城し、その後は
1724年に柳沢吉里が甲府城から15万石で入城。
6代続いて明治維新を迎えたそうです。

<大和郡山城天守台、天守台からの眺め>

お地蔵さんや墓石が組み込まれた天守台からは
奈良の町並みが見渡せます。

<柳沢文庫>

城内にあり、郡山藩主柳沢家の資料や書物が
展示されています。(入館\200)

今日は「盆梅展」が開催され、お城に多くの人が
集まり、撮影スポットに自転車が停まってたり…
写真が撮れない…。
まぁ、何度も来ているのでもういいか。
気を取り直し、今度は城下町をブラブラ。

<城下町の建築>

今なお風情ある建物が散見されます。
左端は元造り酒屋、右端の洋風建築は明治時代
のもので現役の小児科医院。

大和郡山の城下町は箱本十三町と呼ばれる自治
組織があったそうです。
豊臣秀長がこの地を治めていた時、商業保護の
ため同業者を一地区に集め、営業上の独占権を
与え、これを書き記した文書を箱に納めて
十三の町が一月ごとに持ち回りで保管。
当番町の代表者である「年寄」が城下町の責任者
として自治にあたったとのこと。

<箱本館紺屋>

紺屋町は江戸時代は紺屋が立ち並んだところで、
道中央に用水路があります。
ここは江戸時代の町屋を修復した建物で、藍染め
の道具・金魚コレクションが展示されており、
藍染め体験もできる施設。

<こちくや>

紺屋町にあり、面白い金魚グッズがたくさん。

<源九郎稲荷神社>

源義経がこの稲荷(狐)に助けられたことに感謝し、
源九郎の名を贈ったという由緒ある神社(らしい)。

<大納言塚>

城下町の外れにある豊臣秀長公の墓所。

大和郡山は案内図で見るよりもずっと
コンパクトで歩きやすい。
城下町を一通り見たし、せっかくなので
金魚関連の施設も見たい…
という訳でやって来ました。

<金魚の養殖池>

以前より減ったとはいえ、今でも養殖池が
たくさん。
柳沢吉里が甲斐の国より転封してきた際に
持ち込み、その後武士の副業として拡がった
金魚養殖は現在も大和郡山の特産品。
なんと年間8000万匹の金魚を生産し、
全国シェアの40%を占めるそうです。

<金魚の群れ>

出荷直前の池の中は、朝のラッシュアワー
並みです。
このツラさ分かるな~。

後で知ったのですが、大和郡山には赤い金魚
がデザインされたマンホールやゆるキャラ
「きんとっとくん」もいるそうです。

さて、ちゃんとお土産の和菓子も買ったし、
寒いので、そろそろ帰ります。
大和郡山、意外とおもしろかったな~、
探せばもっと色々ありそうです。

帰路は国道24号線バイパスを南下、新堂から
国道165号線を西へ竹内峠越え。
走行距離は106キロのプチツーリングでした。


~今回の甘いもん~
※姉妹ブログ「和菓子の国の人だから」へGo!
004(奈良)大和郡山 御城之口餅
005(奈良)大和郡山 源九郎餅

ちょこっと河内長野へ

2012年02月19日 17時31分46秒 | オートバイ
先週に引き続き、今週もまだロードバイクに乗れないので…
またしてもオートバイでプチ歴史ツーリングです。
目指すは大阪府の南東部、河内長野市。
つまり河内、その中でも南河内といわれる辺り。

河内といえば、「えんやこらせ~どっこいせ~…」で始まる
お馴染み『河内音頭』やミス花子さんの名曲『河内のオッサンの唄』、
「おー、よう来たのワレ~まあ上がって行かんかいワレ~…」という
勇ましいフレーズが頭をよぎるけど、それはもっと北の地域かな?

とにかく、オートバイで国道310号線を南下、七つ辻交差点で
国道371号線へと直進し三日市駅方面へ。
ちなみに七つ辻は国道170号(旧道)、310号、371号(旧道)
が交差しているほか市道も含めてその名の通り七つではなく実は八つ、
見方によっては九つの道が集まるややこしい交差点。

<七つ辻>

こんな感じ。

この七つ辻から国道371号線を南へ1kmほどの小さな交差点を
右折すれば、右手に現れる小山にあるのが烏帽子形城跡。

<烏帽子形城跡全景>

ロードバイクでは麓を頻繁に走ってるけど、この城跡を訪れるのは
今日が初めて。
早速、オートバイを公園の駐車場に停めて、いざ出陣!

ちなみに、この烏帽子形城は高野街道に睨みを利かせる交通の要衝で、
1332年に楠木正成が赤坂城の出城として築城したもの。
室町時代には河内守護・畠山氏の家督争いの舞台となり、1615年
橘正治が大坂の陣の戦功により2千石(旗本)で城主となったものの
城を維持できずに1617年に廃城となったそうです。

<烏帽子形城跡の空堀>

画像で見るよりももっと両側の斜面が急で、取り囲まれている感があり、
明らかにに人の手が加わっていることが分かります。

<烏帽子形城跡の主郭からの眺め>

土づくりで砦に近い感じですが、高野街道を見下ろせます。

烏帽子形城跡を後にし、南海高野線三日市駅方面へ。
この辺は高野街道の宿場町として栄え、現在も数件の旧家が残っています。

<高野街道三日市宿の家並み>

やはり旧街道の家並みは風情があって落ち着きますね~。
幕末、京都を出発した吉村寅太郎ら天誅組が、五條代官所攻め、
高取城攻めに向かう前にここ三日市宿に宿泊、観心寺の楠木正成
の首塚に詣でるため、立ち寄ったそうです。

私も天誅組と同じく、三日市宿から観心寺へ。
ここはロードバイクで奈良県の五條市方面へ向かう際に必ず
立ち寄る休憩ポイント。
しかし、シューズの靴底にはクリート(ペダルと一体化する器具)
が着いていて歩けないので、拝観せずにお手洗いを拝借するのみ。
そういうわけで、今日は小学校以来ウン十年ぶりの拝観です。

ここ観心寺は西暦701年に修験道の開祖・役行者が開き、後に
弘法大師空海が真言宗の道場とした由緒ある寺院。
また、「大楠公」楠木正成とも深い縁があり、後醍醐天皇の勅令で
奉行として金堂の造営にあたったほか、自身でも三重の塔の造営に
あたったそうです。(拝観料:大人\300)

そんな由緒あるお寺で、お手洗いを拝借するのみとは罰当たり。

<観心寺山門>


<観心寺金堂(国宝)>

室町時代初期の和様、禅宗様、大仏様の折衷様式で大阪府下
最古の国宝建築です。
いつもお世話になっているので、お賽銭は大目に…金額は秘密。

<観心寺 楠公建掛塔(重要文化財)>

楠木正成が三重の塔の造営にあたったが、その途中1336年の
湊川の戦いで敗死したため、今の姿となったとのこと。
いかにも建て掛けらしく、屋根が茅葺の簡易的なものです。
今日は寒かったため昼にも関わらず、つららが下がっています。

<楠木正成公首塚>


<楠木正成公銅像>


霊宝館内には重要文化財クラスの貴重な仏像がたくさんあったけど、
仏像に心惹かれるほど悟っていないので、早々に退散。

それにしても「観心寺ってこんなに広かったのか~」と改めて感心。
あっ、これは駄洒落じゃないですよ!(念のため)。

午後1時、まだ早いけど、日差しが暖かいうちに帰ります。
来週こそはロードバイクに乗るぞと心に誓い、鼻唄を口ずさみつつオ
ートバイにまたがるのでした…。

「おー、よう来たのワレ~ まあ上がって行かんかいワレ~ 
 ビールでも飲んで行かんかいワレ~ 久しぶりやんけワレ~
 何しとったんどワレ~ 早よ上がらんけオンドレ何さらしとんど~
 河内のおっさんの唄~ 河内のおっさんの唄~♪」

ふらりと岸和田へ

2012年02月11日 21時44分05秒 | オートバイ
ブログを始めました。
これから、オートバイで歴史スポットに
出掛けたり、
ロードバイクで走ったり、徒然なるまま
書いていきます。


今日はこの季節にしては暖かく、最高の
お出かけ日和。
NHK連続テレビ小説「カーネーション」で
盛り上がる岸和田をオートバイで訪問。
といっても自宅からほんの30分ほど。
これでもツーリング…?

岸和田は、寛永17(1640)年に摂津国
高槻から岡部宣勝が入城して以来、明治維新
まで岡部氏が13代にわたって治めた岸和田
藩5万3千石の城下町。

ともかく、まずはシンボル岸和田城から。
<本丸と天守を南東から見た景観>

この角度が個人的にお気に入り。
この三層の白亜の天守は昭和29年に鉄筋
コンクリート造りで復興されたもの。
本来の天守は松本城や岡山城同様に、五層の
下見板張りで、小出秀政により築かれました。
残念ながら、文政10(1827)年に落雷
によって焼失。
もしも五層の黒い天守が聳えていたら、
壮観だったでしょうね。

訪れた時、二の丸跡の広場や本丸を取り囲む
内堀周りの遊歩道が工事中…。
どうやら工事が終わるのは「カーネーション」
の放送終了の頃…
やっぱり、お役所のやることはずれてる。

岸和田城は本丸、二の丸の石垣と堀が残り、
大阪府下では他に大阪城ぐらいしかない
貴重な遺構。
その割には世間の注目度が低いのが残念。
やっぱり「岡部の殿様」が誰もが知るような
ビッグネームではないからでしょうか。

<二の丸から見た城下>

旧26号線沿いの趣のある屋敷の向こう側が
紀州街道。

<西側から二の丸を見る>


<だんじり会館>

岸和田といえばだんじりですが、今日はパス。

<紀州街道の街並み>

お城の西側、紀州街道は古い街並みが保存され
ていい感じ。
きっと住民の協力があるからなんでしょうね。

<紀州街道沿いにある円成寺>

街道沿いの円成寺の門に龍の彫り物を発見。

<武家屋敷>

次は城の東側へ移動し、貴重な上級武家屋敷の
長屋門を撮影。
この辺りの見通しの悪い道はいかにも城下町。

<自泉会館>

二の丸の北側にある自泉会館という市の施設。
元は岸和田紡績の倶楽部の建物として昭和7年
(1932年)に建てられたというスペイン風
の小粋な建物。

<旧泉州銀行本店>

昭和34年(1959年)村野藤吾氏の手に
よる重厚な建物。
村野さんって、かなり有名な建築家らしい。

<洋裁コシノ、カーネーションギャラリー>

商店街は「カーネーション」放送中のため、
なかなかの賑わい。
以前にこの辺りで働いていた頃は祭り以外で
こんなに賑わうのを見たことなかったけど、
まだまだNHKの影響力は馬鹿にできんな~。

<お好み焼きの福村>

お昼になったので、馴染みのお好み焼き屋へ。
「モダン焼き:\700」おいしかったな~。
大阪ミナミやキタでこのボリューム、味なら
\900ぐらいするはず。
また、商店街より一本北の通り沿いなので、
落ち着いて食事ができます。

午後1時半、お腹もいっぱいになったから
そろそろ帰ります。

岸和田には他にも見どころがたくさんあって、
食も充実、和菓子なら「むらさめ」以外に
「くるみ餅」、地酒、水茄子、がっちょ、
しゃこ、わたり蟹などなど…。
近いのでまた来るか~。


~今回の甘いもん~
※姉妹ブログ「和菓子の国の人だから」へGo!
001(大阪)岸和田 時雨餅