高知の住人さんのコメントより
http://blog.goo.ne.jp/yoroshiku109/e/9800e0117bf75f77ef0755a726f5d335
>根底には自転車競技の定着もある。
これって結構重要な話ですよね。昔、福島国体に出た時、泉崎競技場に地元の老若男女が観客として沢山来場し、熱気ある声援を送っていて羨ましく思った事でした。ここが競輪場だったら地元選手は嬉しいやろなとも、感じました。
しかし、同様に自転車競技熱が高いはずの大阪にその熱気が無いってのは・・・・
なんか不思議と言うか、不可解な感じです。
確かに今、大阪で競輪をやってる人間なんて少ないだろうな。
しかし、競輪創世記の大阪は違っていた。
住之江、といえば、今は競艇場の代名詞のような存在だが、競艇場が狭山から住之江へ移転する前までは、住之江といえば競輪だった。
しかも競艇は、住之江移転直後は苦戦を強いられており、競輪とバッティング開催する日には、
『まだ、競艇はやってまっせ!』
といって、競輪客を少しでも引っ張ってこようという姿勢が見られたという。
大阪の競輪が衰退し始めたのは、1955年に発せられた「河野発言」を、当時の石橋湛山通産大臣が了承したことに起因する。
つまり、公営競技は土日以外の開催は原則的に行なってはならない、という閣議申し合わせが出されたことにより、当時の赤間文三大阪府知事が、このままでは競輪は赤字になってしまう、ということを危惧したわけである。
これに基づき赤間知事はまず、豊中競輪を同年に廃止。さらに赤字続きだった大阪競馬も1959年に廃止することを決めた。
この動きに同調したのが大阪市である。競馬をやめたことで、長居を公園化しようという話が持ち上がり、1962年3月の記念開催をもって、大阪中央競輪場は廃止されてしまった。後に大阪中央競輪場は、現在の長居スタジアムへと変貌することになる。
ところで長居スタジアムの最寄り駅はというと、JRであれば鶴ヶ丘であるが、駅を降り立つと商店街が立ち並んでいる。
しかし、どんな店があるかというと、酒屋とか食堂とかいった類のところがほとんどである。しかも店のたたずまいというと、はっきりいって、おしゃれさ、というものはない。ということは、要はもとは、競輪客を相手に商売を行なっていたのではないかと思われる。もしそうであるならば、当時は客が一杯いた競輪が廃止されることにより、商売は大打撃を受けたはずなのに、よくぞ持ちこたえたといえるかも。
大阪中央がなくなったことにより、住之江は大阪市内で唯一つ残る競輪場となった。しかし・・・
大阪府は当時まだ財政が豊かであり、さらに既に大阪競馬を廃止していたこともあってか、すっかり公営競技に対する関心を失っていた。しかし、廃止する大義名分が立たないので、本来は計画すら立てていない、競輪場の移転という名目で休止という形にした(今でも住之江は名目上、廃止ではなく休止である)。だが、最初から移転などする気がないので、当時の左藤義栓知事はそのまま放置した。というわけで、1964年、大阪市内から競輪場が消滅してしまった。
住之江、大阪中央という2つの競輪場が消滅したことにより、大阪の競輪客も、はたまた競輪選手も、はっきりいって弱体化した。
大阪の選手というと、横田隆雄と後藤欣一が、住之江で行なわれた第1回の日本選手権の優勝者である他、山本清治やその弟子の西村公佑、坂本昌仁、西地清一、半田弘之、高橋恒、西田勇といったタイトルホルダーがいた他、石田雄彦も、登録地は長らく和歌山だったが、出身は大阪である。つまり、昭和20、30年代というと、大阪は紛れもなく「競輪王国」を謳歌していた。
ところが、昭和40年代に入り、大阪の選手は急速に弱体化した。中川茂一が1969年の秩父宮妃賜杯で優勝して以後、大阪を登録地とする選手が現在のG1を優勝した例はない。
また、競輪場がなくなったことにより、大阪から他へ登録地を移す選手も出始めた。そうこうしているうちに、競艇に人気を奪われ、今や大阪における競輪はというと、「風前の灯火」状態に。
ところで、住之江や大阪中央があった頃の競輪については、このサイトが詳しい。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~one-eight-k-k/14781481/
ここに書かれている記述を見ると、当初、住之江も大阪中央も、ギャンブル以前に自転車競技としての競輪を楽しんでもらおうという意図があったことが伺える。
それがいつしか、競輪はただ財政再建のための道具でしかなく、一定の成果が出たことで、世論の風当たりもきついし、ムリしてやることもないか、ということに繋がってしまった。
仮に今、住之江か大阪中央のいずれかが残っていれば、大阪の競輪事情も少しは変わっていたかもしれない。ひいては競輪そのものの事情についても。