丁度女子競輪が廃止した直後に出現したのが樋口久子や、中山律子、須田開代子といった女子プロスポーツ選手。
とりわけ、樋口は世界的なプレーヤーであり、1977年の全米女子プロを優勝した。ゴルフの女子世界4大メジャーを制した選手は、いまだ日本人では樋口しかいない。
中山は、東京12チャンネルで放送されていたボウリング番組でパーフェクトを達成したことで一躍有名となったが、実績は須田のほうが上だった。
この3人が日本女子スポーツ界に与えた影響力は大きかった。
ま、ボウリングはブームが去った後は、見るスポーツとしては衰退していったため、上記2人のような注目を集めるようなことはなくなってしまったが、ゴルフは今もなお、プロを目指す者が後を絶たない。
その後、プロレスや競艇が女子のプロスポーツ選手としては花形になっていく。
もっとも、今は厳密なアマチュア規定など形骸化してしまっているので、例えば、フィギュアスケートの選手などは、CMやアイスショーなどでもバンバン稼ぎまくっている。また、バレーボールなどの団体スポーツについても、昔とは違って、今は競技に特化した契約選手制度を取っているところがほとんどである。
つまり、女子競輪が廃止された直後の女子スポーツ界は「激変した」といってもいい。
そんな状況であるため、女子競輪の復活については、「何を今更」という声があるのは事実であろう。
第1期の女子の応募者数は47名。確かに、この数字を見た限りでは、心もとない気がした。だって、落ちる人数のほうが少ないからねぇ。
五輪選手の渡邊ゆかりが合格者として名を連ねているが、実は二次試験を途中で遂行できなくなり、後日改めて再試験を行なっている。ま、応募者が多ければ、そのような特例は認められなかったであろうが、今は、競輪側からすれば、渡邊のような「生徒」を逃すと、二度と他競技の五輪選手から相手にされなくなる、という危機感があったのかもしれない。
しかしながら、渡邊に加え、「さくらジャパン」なる愛称で話題となった、ホッケー北京五輪代表の岡村育子も合格した。岡村はもっとホッケーをやりたかったのだが、年齢が行き過ぎていたために、代表から外されてしまったのだという。
年齢云々というと、デビュー時には50歳となる高松美代子が合格したことにもビックリ。何せ、マスターズやシニアでもないのに、50歳でデビューするスポーツ選手なんて聞いたことがないからねぇ。自転車だと、ジャニー・ロンゴが今確か50ウン才だったと思うけど、それに次ぐ「女子高齢選手」の誕生となりそう。
しかしながら、高松は市民ロードレースあたりでは相当に強いらしく、また自転車を始めたのも今から10年ほど前ぐらいからというから、自分ではまだ伸びしろはあると言っている。
ま、話題性はいろいろとありそうな女子競輪、といえそうかな。
いや、少なくとも、「初代女子競輪」とは比べものにならないほどレベルは高いと考えられる。「初代」の場合は、強い選手がだいたい決まっており、特に、田中和子については、男子も練習レベルであれば勝てなかった選手が少なくなかったという話すらあるそうだが、それに続く選手との力の差があまりにもありすぎたため、落車以外のレースは全部1着だったという年もあったとか。
したがって、田中が引退した後は、女子競輪の開催を嫌がる施行者が続出したらしく、要は、田中の引退がきっかけになって女子競輪は立ち行かなくなった、といっても過言ではない。
加えて、「初代」の頃の競輪はイメージそのものが悪すぎた。よって、競輪がそれこそゴルフやボウリング並みの形で世間で認めてくれていれば、廃止せずに済んだ可能性もあったかもしれない。
ところで、競輪選手の登録番号は今、14000台だが、内、1000を越える女子選手がいたそうである。それだけいたにもかかわらず、一旦は消滅してしまった女子競輪。
よって、「二代目」については、もはや失敗は許されない。ここで失敗するようならば、三度目はもうないであろう。ということは、5月から入校することになる女子生徒は、「風前の灯火」状態に陥っている競輪そのものの建て直しをも背負うことになる。
もっとも、女子競輪は何のために行なうのか?という目標さえきちんと掲げてさえいれば、その目標がはっきりしない「男子」よりも面白くなる可能性があるかもしれない。女子競輪の目標はやはり、まずはオリンピック選手を誕生させることであろう。さらにいずれは、世界的大会で「勝つ」ことに主眼を置き、女子競輪を周知の知らしめる。このことに尽きるのではないか。
とりわけ、樋口は世界的なプレーヤーであり、1977年の全米女子プロを優勝した。ゴルフの女子世界4大メジャーを制した選手は、いまだ日本人では樋口しかいない。
中山は、東京12チャンネルで放送されていたボウリング番組でパーフェクトを達成したことで一躍有名となったが、実績は須田のほうが上だった。
この3人が日本女子スポーツ界に与えた影響力は大きかった。
ま、ボウリングはブームが去った後は、見るスポーツとしては衰退していったため、上記2人のような注目を集めるようなことはなくなってしまったが、ゴルフは今もなお、プロを目指す者が後を絶たない。
その後、プロレスや競艇が女子のプロスポーツ選手としては花形になっていく。
もっとも、今は厳密なアマチュア規定など形骸化してしまっているので、例えば、フィギュアスケートの選手などは、CMやアイスショーなどでもバンバン稼ぎまくっている。また、バレーボールなどの団体スポーツについても、昔とは違って、今は競技に特化した契約選手制度を取っているところがほとんどである。
つまり、女子競輪が廃止された直後の女子スポーツ界は「激変した」といってもいい。
そんな状況であるため、女子競輪の復活については、「何を今更」という声があるのは事実であろう。
第1期の女子の応募者数は47名。確かに、この数字を見た限りでは、心もとない気がした。だって、落ちる人数のほうが少ないからねぇ。
五輪選手の渡邊ゆかりが合格者として名を連ねているが、実は二次試験を途中で遂行できなくなり、後日改めて再試験を行なっている。ま、応募者が多ければ、そのような特例は認められなかったであろうが、今は、競輪側からすれば、渡邊のような「生徒」を逃すと、二度と他競技の五輪選手から相手にされなくなる、という危機感があったのかもしれない。
しかしながら、渡邊に加え、「さくらジャパン」なる愛称で話題となった、ホッケー北京五輪代表の岡村育子も合格した。岡村はもっとホッケーをやりたかったのだが、年齢が行き過ぎていたために、代表から外されてしまったのだという。
年齢云々というと、デビュー時には50歳となる高松美代子が合格したことにもビックリ。何せ、マスターズやシニアでもないのに、50歳でデビューするスポーツ選手なんて聞いたことがないからねぇ。自転車だと、ジャニー・ロンゴが今確か50ウン才だったと思うけど、それに次ぐ「女子高齢選手」の誕生となりそう。
しかしながら、高松は市民ロードレースあたりでは相当に強いらしく、また自転車を始めたのも今から10年ほど前ぐらいからというから、自分ではまだ伸びしろはあると言っている。
ま、話題性はいろいろとありそうな女子競輪、といえそうかな。
いや、少なくとも、「初代女子競輪」とは比べものにならないほどレベルは高いと考えられる。「初代」の場合は、強い選手がだいたい決まっており、特に、田中和子については、男子も練習レベルであれば勝てなかった選手が少なくなかったという話すらあるそうだが、それに続く選手との力の差があまりにもありすぎたため、落車以外のレースは全部1着だったという年もあったとか。
したがって、田中が引退した後は、女子競輪の開催を嫌がる施行者が続出したらしく、要は、田中の引退がきっかけになって女子競輪は立ち行かなくなった、といっても過言ではない。
加えて、「初代」の頃の競輪はイメージそのものが悪すぎた。よって、競輪がそれこそゴルフやボウリング並みの形で世間で認めてくれていれば、廃止せずに済んだ可能性もあったかもしれない。
ところで、競輪選手の登録番号は今、14000台だが、内、1000を越える女子選手がいたそうである。それだけいたにもかかわらず、一旦は消滅してしまった女子競輪。
よって、「二代目」については、もはや失敗は許されない。ここで失敗するようならば、三度目はもうないであろう。ということは、5月から入校することになる女子生徒は、「風前の灯火」状態に陥っている競輪そのものの建て直しをも背負うことになる。
もっとも、女子競輪は何のために行なうのか?という目標さえきちんと掲げてさえいれば、その目標がはっきりしない「男子」よりも面白くなる可能性があるかもしれない。女子競輪の目標はやはり、まずはオリンピック選手を誕生させることであろう。さらにいずれは、世界的大会で「勝つ」ことに主眼を置き、女子競輪を周知の知らしめる。このことに尽きるのではないか。