この人の事は騎手現役当時、自分はあまり意識して観戦したことは無かったが、武豊騎手の父君武邦彦氏が2度目のダービー制覇確実視されてたキタノカチドキを負かしたダービーは観た記憶がある
しかし、馬名は記憶に残ったが勝利騎手がこの人だったとはのちに知った程度でござったw
現役時に亡くなったという事も後に知った(小生が競馬から一時遠ざかってた頃かな)
だが今にして振り返ればこの人はある部分天才だったなと思うようになったな~
当時は今みたいに「なんでもかんでも〇〇騎手へ」というような時代では無かったこともあったが
それだけに「名人」とか「剛腕」とか「名手」「天才的」「職人」騎手は何人も居たしそれぞれが確かな腕を見せていたなー
懐かしさもあり、記事をお借りして来たが、記事内にはそれこそ懐かしい名前がちらほら出て来てます
特にWiki見たらあの人もこの人も・・・
「史上初の父子二代ダービージョッキー」競馬に殉じた男・中島啓之の“酒と仲間”「べろ助になると、つぎの日は寝坊するわけですよ」
1985年5月26日、東京優駿。11年前にコーネルランサーで栄誉に浴したその男は、病状を誰にも知らせず特別なレースに臨んだ。酒に生き、仲間と笑い、ダービーを最後にこの世を去った、あるジョッキーの生涯を追う。
現在発売中のNumber1073号掲載の[盟友たちの回想]中島啓之「ダービーに殉じた“あんちゃん”」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文は「NumberPREMIER」にてお読みいただけます】
【写真】「中島さんを悪く言う人はいない」ダービーに殉じた男・中島啓之の”最後の騎乗”(1985年日本ダービー)
中島啓之という男がいた。職業は騎手。馬が好きで、競馬が好きで、負けず嫌いで、なによりも友と酒を愛した。
「中島さんを悪く言う人はいない」
中島を知る人は皆、おなじことばを口にする。中島のまわりには人が集まり、仲間は「あんちゃん」と呼んでいた。
中島は「史上初の父子二代のダービージョッキー」というフレーズで語られてきた。父の中島時一は戦前の調教師兼騎手で、1937年に第6回日本ダービーを牝馬のヒサトモで勝っている。
戦時中の'43年6月に東京・府中でうまれた中島は、疎開先の広島で育っている。戦後、時一は競馬をやめ、広島で農業をしていた。家には農耕馬がいて、村の草競馬にも乗っていた啓之少年が騎手の道を選んだのは自然のなりゆきだった。
重馬場でたびたび穴をあけた「雨のラファール」
'61年、中島は東京競馬場の奥平作太郎に入門する。東京の厩舎エリアは、尾形藤吉厩舎などの大厩舎が居並ぶ内厩と、小さな厩舎がはいる外厩があった。奥平作太郎はおなじ外厩の高木良三と仲がよく、高木厩舎には4歳年下の小島太がいた。中島は小島が見習い騎手のときからかわいがり、小島も中島を慕っていた。
ふたりとも酒が好きで、小島は中島をはじめ吉永正人、大崎昭一ら東京競馬場の先輩騎手とつるんで飲みにいった。いちばん年下でも生意気さでは負けない小島は、いつの間にかタメ口になり、先輩たちと対等に付き合うようになっていた。
'69年に奥平作太郎が亡くなり、中島は、2年後に開業した息子の奥平真治厩舎に移る。そのころの騎乗馬には、重馬場でたびたび穴をあけて「雨のラファール」といわれたラファールや、10番人気で有馬記念を逃げきったストロングエイトがいて、関東の競馬ファンは中島を「万馬券男」と呼んでいた。しかし、小島は「中島さんは、穴ジョッキーではない」と言う。
「じょうずな騎手は冷静でミスがすくない。負けられないレースで、結果をだす。中島さんはそういうジョッキーなんです」
だから、'74年のコーネルランサーのダービーでは「なんとなく、勝つと思っていた」と言う。ダービーが近づくと、府中の厩舎は雰囲気が変わり、異様な緊張感につつまれる。皐月賞2着のコーネルランサーに乗る中島も次第に無口になっていった。それを小島は近くで見ていた。
ただ、この年はキタノカチドキという大本命馬がいた。皐月賞まで7戦無敗。皐月賞でシード馬(人気が集中しそうな馬を単枠に指定する制度)の第一号になった馬だ。騎手は関西の名手、武邦彦。武もまた酒好きの騎手で、関東に来たときには小島はいつも一緒に呑んだ。そこに中島も加わることもあった。酒が友を呼んだ。
キタノカチドキは、1頭になると気を抜いたりする、気性の面でむずかしい馬だった。だから、武は勝負所では横に馬を置き、最後にぐいと前にでる。それを小島は「武邦さんの名人芸」と評した。
「おれのときは山口百恵だから」と自慢していた。
皐月賞につづいてシード(7枠19番)されたキタノカチドキは、ダービーは3着に負けた。ゴール前はコーネルランサーとインターグッドの激しい競り合いとなり、鼻差でコーネルランサーが勝った。
「武さんのこともあったからな。あの日は、たぶん、呑んで騒ぐようなことはしなかったと思う。やったな! と中島さんに合図をした記憶はあるけど」
小島太は述懐する。このダービーには後日談がある。騎手仲間で呑んでいてダービーの話になると、中島はいつも「おれのときは山口百恵だから」と自慢していたという。当時、優勝騎手には車が贈られ、歌手や女優がプレゼンターだった。
「中島さんがコーネルランサーで勝ったときは大変だったよ」
そう言うのは小島浩三である。小島太の6歳下のいとこで、太を頼って北海道から上京、競馬の社会にはいった。太とおなじ高木良三厩舎の厩務員になり、高木が亡くなったあと奥平真治厩舎に移った。
「コーネルランサーは勝又(忠)厩舎の馬なんだけど、中島さんが『おれの宴会やるから来いよ』と言って奥平厩舎の皆を集めて、一杯呑みに行くぞってね。外厩で、奥平厩舎の近くに勝又厩舎があってね。あのときはすごかった」
中島啓之の話になると、すべてが酒に結びついていく。後輩の面倒見がよく、仕事が終わると友人を誘って酒になる。中島も吉永正人も普段は口数がすくなくまじめな男だが、皆で呑むときには、はしゃいで悪さをすることもあった。
「中島さんと吉永さんは、悪さをしても悪く言う人いなかったし、マスコミにも悪く書かれなかった。なんで、おれだけ悪く言われたんだろう」
嫌がる中島を強引に病院へ「帰りに、銀座に連れて行くから」
そう言って笑う小島太は、中島とは「死ぬ寸前までの付き合い」だった。ともだちというより、家族や兄弟のようでもあり、プライドも見栄もなく、すべてを見せられた。そんな関係だった。
「中島さんはよく調教に出遅れたよ」
小島浩三はなつかしそうに言った。
「普段の仕事ではまじめな人だけど。太もそうだけど、中島さんも、べろ助になると、つぎの日は寝坊するわけですよ。あのころはまだ、ひとり者だったからね」
尾形藤吉厩舎など内厩の大厩舎は、朝、厩務員が馬を引いていくと、乗り役がずらりと並んで待っていた。しかし、奥平厩舎のエース、中島は調教時刻になっても起きてこない。小島浩三は中島の家まで起こしに行ったことが何度もあったという。
「起こしても起きないんだ。まあ、あれだけ呑んでいればね」
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年譜
※記録は全て日本中央競馬会でのもの。
1943年 東京都府中市に生まれ。生後間もなく父の故郷・広島へ。
中学卒業まで吉田町で育つ。
1959年 馬事公苑騎手養成所に入所。
1962年 3月3日、奥平作太郎厩舎所属騎手としてデビュー。ピンクドーターに騎乗し7着。
9月23日、スグレホープに騎乗し初勝利。
1965年 5月16日、ジンライに騎乗して東京アラブ障害特別に優勝し、重賞初勝利。
1966年 9月25日、キヨシゲルに騎乗してクイーンステークスに優勝し、平地重賞初勝利。
1967年 8月20日、中央競馬通算100勝達成。
1969年 5月10日、奥平作太郎の死去により稲葉幸夫厩舎に移籍。
1971年 3月1日、奥平真治厩舎に移籍。以後死去するまで奥平厩舎所属となる。
1973年 12月16日、ストロングエイトに騎乗し有馬記念に優勝。八大競走を初制覇。
1974年 5月26日、コーネルランサーに騎乗し東京優駿(日本ダービー)を制覇。親子二代のダービージョッキーとなる。
1975年 11月19日、コクサイプリンスに騎乗して菊花賞に優勝。
1980年 3月15日、通算500勝達成。
1982年 アズマハンターに騎乗して皐月賞を制し史上10人目の三冠ジョッキーとなる。
1984年 11月11日、通算700勝達成。
1985年 5月19日、タカラスチールに騎乗してカーネーションカップに優勝、最後の勝利となる。
5月26日、トウショウサミットで東京優駿に騎乗し18着。最後の騎乗となる。
6月11日、肝臓癌で死去。
騎手通算成績(中央競馬)
通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 713 754 746 4335 6548 .109 .224
障害 16 14 20 37 87 .184 .345
計 729 768 766 4372 6635 .110 .226
全国リーディング最高3位(1980年・63勝)
重賞競走29勝(うち八大競走4勝)
主な騎乗馬
※括弧内は中島騎乗による優勝重賞競走。
タマミ(スプリンターズステークス)
ラファール(安田記念、京王杯オータムハンデキャップ)
ストロングエイト(有馬記念、アメリカジョッキークラブカップ、鳴尾記念)
コーネルランサー(東京優駿)
コクサイプリンス(菊花賞)
トウショウゴッド(弥生賞、ダービー卿チャレンジトロフィー、目黒記念・春)
エイティトウショウ(中山記念2回、金杯・東)
トウショウペガサス(中山記念、ダービー卿チャレンジトロフィー)
アズマハンター(皐月賞)
アンドレアモン(フェブラリーハンデキャップ)
トウショウサミット(NHK杯)