毎年8月になると戦争関連のドラマや映画が増える。今年のエンターテインメント映画の大型作品では「終戦のエンペラー」や「風立ちぬ」などだ。(戦争とは関係ないがぼく自身は「ローンレンジャー」が懐かしい。ぼくの子供時代は西部劇と言えばローンレンジャーだった)
もちろん、ぼくは上に挙げた映画を見ていないし、おそらく映画館で見ることは無いだろう。だからこれらの映画について肯定も否定もできないし、評論することもできない。
ただすでに左翼陣営からは批判の声が上がっているようだ。とは言え、ぼくはそれらの批判も読んではいないので、その批判についての評価もできないのだが。
もちろん批判することは良いことだ。文化や社会は批判によって前に進んでいける。ただ戦争を扱ったら戦争肯定だというレベルの批判では意味がない。
繰り返すが、ぼくは「終戦のエンペラー」も「風立ちぬ」も見ていないので、それが天皇の戦争責任を否定しているのか、ゼロ戦を作った堀越二郎を美化しているのか、それはわからない。また批判者がそういう批判をしていると言っているのでもない。批判の方も読んでいないからだ。ただ一般論として、そのレベルの批判だったら意味がないと言いたいだけだ。
宮駿であれ、美術家の会田誠であれ、その批判が排除の論理に陥ると、それはどこまでも歯止めが効かなくなり、最後には何も残らなくなってしまう。
それはつまり純化思想だからだ。もちろんこの社会の中には本当に排除しなくてはならない事物もある。しかしそれはあくまで限定的であるべきだ。批判は排除の論理に陥らない批判であることが重要なのだ。
まずもって現実の政治や評論と文芸作品を同列で評価することはできない。なぜなら政治や評論などの実業は論理的整合が求められるが、文芸は逆に矛盾を描くものだからだ。と言うより矛盾を描かない芸術はただのプロパガンダでしかない。
文芸(芸術)作品はただ作り手の考え方だけで成立するわけではない。受け手の側の解釈があってはじめて作品として成立するのである。そうでなければ「古典」が存在するはずがない。
たとえば「源氏物語」や「伊勢物語」のエピソードが21世紀の日本で現実に起きたら、それこそ女性差別でありセクハラであり、ひょっとしたら刑事事件に発展するかもしれない。しかしそんなことは誰も考えない。現代人はおそらく当時の作者が思っていたこととは全然違う読み方をし、そうして現在の自分をそこに投影して様々なことを感じるのである。
それはけっして間違った読み方なのではなく(少なくとも学問ではない鑑賞としては)、それが可能だからこそその作品は古典として残ってきたのだ。
たとえばぼくは映画「スターウォーズ」の中に出てくる帝国をアメリカ合衆国に重ね合わせ、米国の世界支配に対するレジスタンスの物語のように感じながら見ている。しかしもちろんそれはぼくの見方であって、当然他の人は他の見方をするだろうし、ぼくとは全く逆の感じかたをするする人も多いだろう。
ひとつの作品が作者の手を離れて、受け手の多様な読み方を可能に出来たら、それこそ本当の傑作なのだと思う。つまり良い作品は受け手(鑑賞者)の鏡なのである。受け手の感性が作品に投影されて帰ってくるところに、感動が生まれるのだ。
ただもう少し踏み込めば、人間はむしろ意識的・積極的にひとつの作品を解釈しなくてはならないのだと思う。
作品が鑑賞者の鏡であると言っても、しかしもちろんそれは作者やその背景にある文化を反映している。そこで鑑賞者は自分の価値観と作者の文化の価値観とを対決させざるを得ない。人間である以上まったく同じ価値観を共有しているとは限らない、むしろ違っていて当たり前だからだ。つまりこの対決こそが「批判」である。
単純に作者の価値観を肯定したり否定したりするだけだったら、それは評論にも批判にもなっていない。
文芸は人間の矛盾を描く。だからこそそれは論文になり得ない。論理的に整合した主張なら、何も文芸の形にする必要はない。論文であった方がよっぽどわかりやすいだろう。だから文芸作品の内部には文芸の形でしか表現できないものが必ず存在しているはずである。
文芸作品を鑑賞しそれを評価するためには、鑑賞者はその混沌とした矛盾の中に一度身を浸さなくてはならない。泥をかぶらねばならないのだ。
鑑賞者はとにかく一度作品を肯定しなくてはならない。その作品の世界観の中に入り込み、その作品を内側から眺めなくてはならない。もちろんそれはとても恐ろしいことだ。作品の質が高ければ高いほど、自分がその中に取り込まれてしまいそうになる。無条件で肯定したくなってしまう。
だから批判するのなら作品の外側から批判する方がずっと簡単で安全だ。しかしそれでは文芸作品を文芸作品として評価したことにはならない。ただの政治的断罪のようなものにしかならないのだ。
作品を評論しようとする者は、だから一度作品を肯定し、そしてその次にその内側から批判をしていくしかない。いちど作品と自分を一体化した後、言わば自己批判・自己否定としてその作品を内側から批判するのである。
その時には鑑賞者は作者の怒り、悲しみ、喜び、誇り、そうした様々な要素を理解した上で、しかしさらにそこに違う価値観を持ち込み別の意味を対峙させるのである。そのときはじめて、最初のナマの自分の価値観とも、作者の持っていた価値観とも違う、第三の新しい価値観が生まれてくるのだ。
そうした過程を経ることによって、鑑賞者は作品を通じて自己変革する。少なくとも名作と言えるような作品であればそうしたことが可能になる。それは別の言い方をすれば弁証法的な思想の発展である。
実はそれは文芸作品だけに限った問題ではない。
文芸作品が人間的な矛盾を、つまりは人間を描いているものである以上、こうした弁証法的方法論は、ある人間、ある誰かを批判する場合でも全く同じことだと言えるのだ。
ある人を批判するのなら、つまり本質的に批判しようとするのなら、まず相手の内面に、相手の論理に入り込み、彼の本質にまで降りていかなくてはならない。
そしてその場所から、彼の論理の内側からそれを批判しなければならない。そうしないと批判はただ表面的な非難で終わってしまうからである。
批判は非難ではなく説得であるべきだ。直接的に批判の対象者を説得するという意味もあるが、そうでなくてもその批判を通じて違う誰か第三者を説得するのである。もし説得の手段で無かったら批判はただの憂さ晴らしの悪口にしかならない。それなら何も言わない方がずっとましだ。
更にまた批判は常に自己批判でなくてはならない。
相手の内側に入り込むということは、当然相手の側から自分を眺めることを意味する。相手の論理から見たとき自分の主張にはどんな問題があるのかを理解し、場合によっては反省しなくてはならないかもしれない。
また当然のことながら、相手に対する批判は自分に直接跳ね返ってくる。相手に他者のものを盗ってはならないと批判するなら、当然自分も誰からも盗むことはできない。もし自分が過去に誰かから何かを奪ったことがあったとしたら、それは自分に対する批判でなければならないし、一方で未来の自分を規定もする。
批判は相手を批判することにとどまらない。
自分も絶対ではない。相手を批判する過程で自分の誤りや不十分さを自己批判し、その中で相手のものでも自分の主張そのものでもない新しい答えが見つかってくる。まさに批判は弁証法的でなくてはならないのだ。
もちろん、ぼくは上に挙げた映画を見ていないし、おそらく映画館で見ることは無いだろう。だからこれらの映画について肯定も否定もできないし、評論することもできない。
ただすでに左翼陣営からは批判の声が上がっているようだ。とは言え、ぼくはそれらの批判も読んではいないので、その批判についての評価もできないのだが。
もちろん批判することは良いことだ。文化や社会は批判によって前に進んでいける。ただ戦争を扱ったら戦争肯定だというレベルの批判では意味がない。
繰り返すが、ぼくは「終戦のエンペラー」も「風立ちぬ」も見ていないので、それが天皇の戦争責任を否定しているのか、ゼロ戦を作った堀越二郎を美化しているのか、それはわからない。また批判者がそういう批判をしていると言っているのでもない。批判の方も読んでいないからだ。ただ一般論として、そのレベルの批判だったら意味がないと言いたいだけだ。
宮駿であれ、美術家の会田誠であれ、その批判が排除の論理に陥ると、それはどこまでも歯止めが効かなくなり、最後には何も残らなくなってしまう。
それはつまり純化思想だからだ。もちろんこの社会の中には本当に排除しなくてはならない事物もある。しかしそれはあくまで限定的であるべきだ。批判は排除の論理に陥らない批判であることが重要なのだ。
まずもって現実の政治や評論と文芸作品を同列で評価することはできない。なぜなら政治や評論などの実業は論理的整合が求められるが、文芸は逆に矛盾を描くものだからだ。と言うより矛盾を描かない芸術はただのプロパガンダでしかない。
文芸(芸術)作品はただ作り手の考え方だけで成立するわけではない。受け手の側の解釈があってはじめて作品として成立するのである。そうでなければ「古典」が存在するはずがない。
たとえば「源氏物語」や「伊勢物語」のエピソードが21世紀の日本で現実に起きたら、それこそ女性差別でありセクハラであり、ひょっとしたら刑事事件に発展するかもしれない。しかしそんなことは誰も考えない。現代人はおそらく当時の作者が思っていたこととは全然違う読み方をし、そうして現在の自分をそこに投影して様々なことを感じるのである。
それはけっして間違った読み方なのではなく(少なくとも学問ではない鑑賞としては)、それが可能だからこそその作品は古典として残ってきたのだ。
たとえばぼくは映画「スターウォーズ」の中に出てくる帝国をアメリカ合衆国に重ね合わせ、米国の世界支配に対するレジスタンスの物語のように感じながら見ている。しかしもちろんそれはぼくの見方であって、当然他の人は他の見方をするだろうし、ぼくとは全く逆の感じかたをするする人も多いだろう。
ひとつの作品が作者の手を離れて、受け手の多様な読み方を可能に出来たら、それこそ本当の傑作なのだと思う。つまり良い作品は受け手(鑑賞者)の鏡なのである。受け手の感性が作品に投影されて帰ってくるところに、感動が生まれるのだ。
ただもう少し踏み込めば、人間はむしろ意識的・積極的にひとつの作品を解釈しなくてはならないのだと思う。
作品が鑑賞者の鏡であると言っても、しかしもちろんそれは作者やその背景にある文化を反映している。そこで鑑賞者は自分の価値観と作者の文化の価値観とを対決させざるを得ない。人間である以上まったく同じ価値観を共有しているとは限らない、むしろ違っていて当たり前だからだ。つまりこの対決こそが「批判」である。
単純に作者の価値観を肯定したり否定したりするだけだったら、それは評論にも批判にもなっていない。
文芸は人間の矛盾を描く。だからこそそれは論文になり得ない。論理的に整合した主張なら、何も文芸の形にする必要はない。論文であった方がよっぽどわかりやすいだろう。だから文芸作品の内部には文芸の形でしか表現できないものが必ず存在しているはずである。
文芸作品を鑑賞しそれを評価するためには、鑑賞者はその混沌とした矛盾の中に一度身を浸さなくてはならない。泥をかぶらねばならないのだ。
鑑賞者はとにかく一度作品を肯定しなくてはならない。その作品の世界観の中に入り込み、その作品を内側から眺めなくてはならない。もちろんそれはとても恐ろしいことだ。作品の質が高ければ高いほど、自分がその中に取り込まれてしまいそうになる。無条件で肯定したくなってしまう。
だから批判するのなら作品の外側から批判する方がずっと簡単で安全だ。しかしそれでは文芸作品を文芸作品として評価したことにはならない。ただの政治的断罪のようなものにしかならないのだ。
作品を評論しようとする者は、だから一度作品を肯定し、そしてその次にその内側から批判をしていくしかない。いちど作品と自分を一体化した後、言わば自己批判・自己否定としてその作品を内側から批判するのである。
その時には鑑賞者は作者の怒り、悲しみ、喜び、誇り、そうした様々な要素を理解した上で、しかしさらにそこに違う価値観を持ち込み別の意味を対峙させるのである。そのときはじめて、最初のナマの自分の価値観とも、作者の持っていた価値観とも違う、第三の新しい価値観が生まれてくるのだ。
そうした過程を経ることによって、鑑賞者は作品を通じて自己変革する。少なくとも名作と言えるような作品であればそうしたことが可能になる。それは別の言い方をすれば弁証法的な思想の発展である。
実はそれは文芸作品だけに限った問題ではない。
文芸作品が人間的な矛盾を、つまりは人間を描いているものである以上、こうした弁証法的方法論は、ある人間、ある誰かを批判する場合でも全く同じことだと言えるのだ。
ある人を批判するのなら、つまり本質的に批判しようとするのなら、まず相手の内面に、相手の論理に入り込み、彼の本質にまで降りていかなくてはならない。
そしてその場所から、彼の論理の内側からそれを批判しなければならない。そうしないと批判はただ表面的な非難で終わってしまうからである。
批判は非難ではなく説得であるべきだ。直接的に批判の対象者を説得するという意味もあるが、そうでなくてもその批判を通じて違う誰か第三者を説得するのである。もし説得の手段で無かったら批判はただの憂さ晴らしの悪口にしかならない。それなら何も言わない方がずっとましだ。
更にまた批判は常に自己批判でなくてはならない。
相手の内側に入り込むということは、当然相手の側から自分を眺めることを意味する。相手の論理から見たとき自分の主張にはどんな問題があるのかを理解し、場合によっては反省しなくてはならないかもしれない。
また当然のことながら、相手に対する批判は自分に直接跳ね返ってくる。相手に他者のものを盗ってはならないと批判するなら、当然自分も誰からも盗むことはできない。もし自分が過去に誰かから何かを奪ったことがあったとしたら、それは自分に対する批判でなければならないし、一方で未来の自分を規定もする。
批判は相手を批判することにとどまらない。
自分も絶対ではない。相手を批判する過程で自分の誤りや不十分さを自己批判し、その中で相手のものでも自分の主張そのものでもない新しい答えが見つかってくる。まさに批判は弁証法的でなくてはならないのだ。