あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

戦没者に感謝してよいのか

2013年08月17日 18時20分08秒 | Weblog
 今年の8月15日も靖国神社前などで騒然としたが、極右・安倍政権の成立、中韓の激しい反発という背景を考えると、マスコミの取り上げ方はかなりあっさりしていたのではないかという気がする。
 安倍首相は全国戦没者追悼式の式辞ではじめて「不戦の誓い」も「アジアへの加害」への言及もせず、自らの政治姿勢をはっきり示した。本人は当日に靖国神社を参拝しなかったけれど、閣僚や国会議員は例年通り大挙して押しかけたし、安倍氏が言外に「あくまでポーズです」と言っているのは明らかだろう。

 安倍氏の式辞は、言うべきことを言わなかった点をのぞけば、広島・長崎と同様、「美しい」決まり文句を並べただけだったとも言えるが、たとえばその中にこんな一節がある。

「いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命をささげられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。
「御霊を悼んで平和を祈り、感謝をささげるに、言葉は無力なれば、いまは来し方を思い、しばし瞑目し、静かに頭を垂れたいと思います」

 こういう言葉は右翼が好んで使いたがる。まあ右翼ばかりでなくリベラルの人も好きだろうが。しかしどうにもこの言葉がひっかかる。

 それこそ橋下氏が好きな国語読解力で読み解けば、これは戦没者への感謝の言葉である。なぜ感謝するのかと言えば、その犠牲のおかげで今の平和と繁栄があるからだ。
 では現在、平和と繁栄が無かったら感謝しないのだろうか? 感謝しないのであろう。何が変かと言うとこの「感謝」という言葉が変なのである。

 なぜ犠牲者に感謝するのか。もちろん感謝してはいけないと言っているのではない。そもそも犠牲とは自分たちのために誰か(なにか)をイケニエにすることである。ナザレのイエスは人類のための生贄になったからキリストとされたのだ。
 たしかに日航機墜落事故の犠牲者も東日本大震災の犠牲者も、われわれが安全に暮らす引き換えとしての犠牲だったのかもしれない。

 しかし犠牲者の側からしたら、何で俺がお前のための犠牲にならなきゃいけなかったんだ、と言うことになるのではないだろうか。もちろんそうなると「犠牲者」という言葉自体が問題なのかもしれない。ただ今はとりあえず文脈において考えてみよう。

 同じようなことが自衛隊に対しても言われることがある。
 自衛隊員は身を挺して日本を守ってくれているんだから感謝せよと。
 そういう人たちは自衛隊員に何を期待しているのか。自分のために自分を守るために死んでくれることを期待しているのか。そうして感謝して最大限の敬意を払って憲法で禁止されている海外での戦闘に送り出しているのか。
 もし何かを守りたいんだったら、まず自分が先頭になって行け。自分は安全なところで感謝しながら、自衛隊員には死んでもらおうというのは許さない。新大久保あたりで関係ない市井の人たちに罵声を浴びせるくらいなら、どこでも好きな戦地に突撃して一番最初に死んでみろ。

 死者を悼むのはその人の死を悲しむためである。感謝するのは自分のためである。
 もちろん火災現場で消防隊員に命を救われたのなら素直に感謝してよいだろう。しかし、しなくてよい、するべきでなかった戦争に自分の意思でなく強制的に召集されて戦死してしまった人に、われわれは勝手に感謝してよいのだろうか? それはむしろ死者をさらに傷つけることになるのではないだろうか?