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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

面倒な関係

2013年08月25日 18時54分33秒 | Weblog
 ものすごく個人的なことなのだが、数日前から母のことで少し問題が起きている。無視しておいてもとりあえず何でもないことなのだが、いろいろ考えていると、悪い方に転がってしまう危険もあるかなとかどんどん深みにはまって行き、とても落着かない。
 家族というのは面倒くさいものだ。

 話は変わるが、先日、愛媛県で女性の遺体が入ったピンクのスーツケースが見つかった事件で女性の48歳の息子が逮捕された。無職だと言われている。男は犯行当日に行きつけのスナックで何か話しをしていたらしいが、近所の人とはほとんど付き合いがなかったという。
 その前に世間が大騒ぎした山口県の小さな村で5人が殺害された事件の犯人は63歳で、こちらも近隣とうまくいっていなかった、と言うよりイジメめの標的にされていたという話もある。
 偶然だと言ってしまえばそれまでだが、この人たちは先ごろ世の中を騒がせた麻生発言の中で批判されていた「50代、60代」の世代である。ちなみに飛び降り自殺して世間を騒然とさせている藤圭子も62歳だった。

 ぼくは密かに「おじさんクライシス」が始まっているのではないかと危惧している。

 ぼく自身がまさにそうなのだが、独身の中高年男性が孤立化する問題について10年以上前から危機感を感じていた。と言うのも周辺に同じような境遇の奴がたくさんいるからだ。
 ぼくは団地に住んでいるのだが、数年前に同じ階段の50歳くらいの独居男性が孤独死していたことがある。その人もお母さんと二人暮らしだったが、その母親が死んで間もなくのことだった。かなりつき合いの悪い人で、住民の中には怒鳴られた人もいたらしい。ぼくもその当人とはたった一回しか顔を合わせたことがなかった。
 ぼくの友人の50代の男性は若い頃からずっと統合失調症で、普通に雇ってももらえないのにも関わらず、制度上の不備から公的支援も受けられないまま老親と暮らしている。他にも、遅い結婚で子供が生まれて家を買った直後、くも膜下出血で3年入院し、失語症や身体麻痺の後遺症が残る中、離婚してひとり子供の養育費と田舎の親の生活費を稼いでいる男とかがいる。

 こうした人たちは明らかな病気が原因で困難な状況に追い込まれたのだが、しかし現実の生活の中では、周囲に嫌われたり、迷惑がられたりしている。統合失調症の症状が出れば被害妄想で近くにいる人を糾弾してしまうし、自殺衝動が出ることもある。失語症の人とコミュニケーションするには忍耐が必要だし、もともとその人の性格が少し弱くて他人に甘える傾向があると、病気の影響もあって特定の人にしつこくつきまとうようになってしまったする。
 まあ一言で言えば周囲の人間にとっては面倒くさい相手になってしまうのだ。多少面倒くさくても若く可愛い女の子なら手を差し伸べようとする人もいるかもしれないが、50を越えたキタナいオヤジでは、積極的に面倒を見てやろうという人はまず現れない。こうして彼らは更に孤立していく。

 以上の例にあげた人たちは不可抗力で周囲から孤立しているのだが、実際には特殊な事情がなくて嫌われるおじさんも多い。市民運動をやっていたころの話だが、熱心に活動する中年のおじさんがいた。工務系の職人だった。ひとつ問題だったのはシモネタ話などをするのが好な人だったのだ。彼の人生の中ではごく普通の冗談だったりするのだが、運動の中心にいたのは皆ちょっと上品な中流階級のご婦人方だったので、この人は相当に嫌われた。もっとも運動内ばかりでなく、家庭においても離婚していたし、娘さんにも嫌われていたようだった。そんな状況でひとり癌にかかった90代のお母さんの面倒をみていた。
 はっきり言って彼はそんなにひどく下品な人ではなかった。ぼくが勤めていた工場だったらむしろ上品と思われたかもしれない。しかしこの人は運動内では相当いづらかったようだ。

 ぼくの周囲には50代独身男性は他にもたくさんいる。必然的に皆一人暮らしか、親と同居しているかだ。そしてかなりの確率で社会的にも孤立ぎみである。
 こうした人たちはやがて独身中年から孤立高齢者になっていく。それを踏まえて、ぼくはかつて独身高齢男性同士で支えあうようなコミュニティを作る必要があると思っていた。理想的にはシェアハウスのようなものがあったら良いと考えていたのだが、現実には構想を立てるところにすらいかなかった。
 そもそもこういう人たちは、孤立していると言っても一応の経済基盤を持っているのだし、他人に干渉されることを強く嫌う人も多い。我が強いというか、一言で言えば気難しいのだ。もちろんだから周囲から嫌われているわけだが。

 かつての社会ではこういう人たちも社会の中に取り込んでいた。会社でも家庭でも、面倒がられ嫌われながらも、周囲の人はそうした人を見捨てられず、万年ヒラ社員とか頑固親父とかとしてあきらめつつ認めていた。
 昭和的世界である。

 昭和と言えば、「『三丁目の夕日』批判」というものが根強くある。ブームとしての「三丁目の夕日」は現実とは違う美化された昭和のイメージでしかなく、現実の昭和の社会は、暗く、汚く、臭く、貧しく、不便でうっとうしい世の中だった。現在の方が決定的に良いと言うのである。
 事実については確かに正しい。昭和は理想の天国ではなかった。多くの人の努力が積み重ねられてきた分、当然現在の方が良くなっていなくてはならない。その意味では「三丁目批判」は間違っていない。
 ただ問題にすべきなのは、価値観が変わってきた、そしてむしろこれからは積極的に変えていかなくてはならないということなのだ。

 たとえば衛生面で言えば現在の日本は大変に清潔な社会になった。しかしそのことがかえって病気に対する抵抗力を失わせたり、アレルギーの原因になっているのではないかという指摘もある。
 食事も西欧化し栄養は豊富になったが、それが肥満や生活習慣病を引き起こしているし、飽食と食品廃棄量の増加はモラルの問題としても大きい。
 交通、通信の充実、24時間の眠らない街は大変便利だが、それが人間のヒトとしての生理を乱したり、労働強化の遠因ともなってストレスが増す社会になったとも言われる。

 つまり20世紀にマイナスの評価しか無かった事象が、21世紀の今日、むしろ評価されるようになってきたのである。極端に言えば、現代の状況からしたら、もっと暗く、汚く、臭く、貧しく、不便でうっとうしい世の中になった方が良いのではないかという価値観の転倒が生まれてきているのである。
 「三丁目の夕日」ブームは単に昭和懐古のノスタルジーだけではなく、そうした価値観の変化を背景にしている側面もあるのだ。

 「『三丁目の夕日』批判」派は、昭和の「人情あふれる濃厚な人間関係」は、むしろ共同体の因習の押し付けと個人の自由への抑圧であると主張する。
 確かにそのとおりだ。多く人々は戦前の「家」制度や世襲、相互監視システムであった「隣組」などに反発し、自由な個人の確立を目指して核家族化へ向かった。やがてそれは核崩壊家庭となり孤族化した。
 それを良しとする思想を必ずしも否定しない。ぼく自身も含めてそれはそれで社会にとって必要な過程であったのだと思う。
 しかし、いよいよそれではやっていけない段階にまで来てしまった。自由な個人であることを求める人間の行動は、ついに社会自体を崩壊させかねない状況を生み出しつつある。

 うっとうしい社会、面倒くさい人間関係も、やはり完全に排除してはならないということに人々は気づき始めた。それが東日本大震災の時に流行した「絆」という言葉に現れている。
 「おじさんクライシス」とは、個々のおじさん達の危機ではない。孤立化したおじさんたちが社会から欠けてしまう、最悪の場合はそうした人たちが暴走してしまうという事態が、社会に大きな損害を与えることになるのだ。

 もちろん単純に「昭和」に戻れと言うのではない。単純に過去に戻るのはただの後退、退化である。衛生、安全、豊かさ、便利さ、自由と個性を徹底的に追求してきた歴史と成果を踏まえた上で、その現状から全く新しい社会へ脱皮していく、弁証法的に言えばアウフヘーベンしていくことが求められている。
 面倒なこと、うっとうしいこと、そうしたマイナスの事をみんなが嫌々ではなく実現できる社会。それは別にそんなにエキセントリックなことではない。今の世の中でも、よろこんでジョギングやダイエットをする人たちは大勢いる。今のところ誰も説得力のある新しい価値観を提示することが出来ていないだけのことだ。もちろんそれが最も難しいことなのだが。