スーパーに行ったら防災コーナーが出来ていた。それでそう言えばもうすぐ9月1日なんだなあと思った。
一応うちでも備蓄食料を用意しているが、賞味期限があるので時々は入れ替えをしないといけない。しかしこれがついつい忘れてしまう。そこで、目標として年二回、3月と9月に点検と入れ替えをすると決めた。どちらも防災用品の売り出し月だからだ。
母の出身は新宿の角筈で、今のヨドバシカメラの本店があるあたりらしいが、生まれたのは大正13年だから関東大震災の翌年である。震災の時、母の母は、母の上に生まれていた子供を抱いてハンモックの下に逃げたという。幸い家は壊れなかったが、その後、昭和20年頃になると空襲が激しくなり、延焼を食い止める間引きのためにみんなで縄で引っ張って壊されてしまったそうだ。
関東大震災の悲劇と言えば、甘粕事件や亀戸事件、そして朝鮮人虐殺を思い出す。
甘粕・亀戸事件は、軍もしくは警察が大杉栄などのアナキストや社会主義者を大震災の混乱に乗じて密かに虐殺した事件だ。事件の真相は明らかになっていない。
一方の朝鮮人虐殺はもっとわからない。当時日本にいた朝鮮人が、放火、強姦、殺人、井戸への毒の投入、暴動などを起こしているというデマが流れ、多くの朝鮮人や朝鮮人に間違われた日本人が殺された。
どうやら一番初期の段階では軍や警察はこうしたデマを完全否定していたようだが、後になってニュアンスが変わり、朝鮮人による犯罪が頻発したとも取れる発表になった。殺された人数も警察発表、研究者の推計、また中国や朝鮮・韓国の主張などで大きく違っている。政治的思惑による虚偽発表もあるだろうから中々事実はわからないが、おそらく2500人から7000人くらいの人が殺されたのではないかと思う。
これらの事件は政治弾圧、思想弾圧であり、またもちろん侵略問題でも民族差別問題でもあるが、同時に被差別問題や障害者差別もからまり、そういう意味からも真相は戦後になってもほとんどが闇の中に消されてしまった。
ただ甘粕事件や亀戸事件から察せられることは、当時の軍部や警察の中に社会主義運動や労働運動に神経を尖らせ、機会を見つけて運動を壊滅させようと狙っていた部分が確固として存在していたということである。こうした動きはこの後、治安維持法の制定と昭和16年の改訂を経て合法化・日常化していく。しかし公平に言えば、この当時はまだ軍・警内部を含めて社会全体は比較的冷静、穏健で、朝鮮人を群衆から守り保護した警察や軍の施設、指揮官も複数存在した。
なお、朝鮮人虐殺を実行したのは自警団であり、政府や警察、軍の関わりは無かったというのが、おそらく政府や行政の公式見解であるが、虐殺の犯人とされた自警団や軍関係者などに対する刑は大変に軽く、ほとんどが執行猶予か数年で釈放されている。
本当のところ何が起きたのか確定できることはほとんど無いのだが、ただ朝鮮人暴動のデマが流れ、それを相当数の人が信じたのは事実だろう。
それはなぜか?
そうしたことが起きてもおかしくないと、当時の多くの人々が潜在的に考えていたということである。
たとえて言えば、いま町行く人に、在日朝鮮人が武装蜂起したと言っても大半の人はリアルには感じないだろう。しかし中国軍が尖閣諸島に上陸したと言ったら本当だと思う人がかなりいると思う。
つまりデマが真実性を持つのは、人々の中に不安や恐怖、場合によっては切実な希望や願望が存在しているときなのである。関東大震災当時、人々の中には朝鮮人に対する不安や恐怖が渦巻いていたのだ。
もちろん何も無かったら人は不安や恐怖を感じない。何かがあった。朝鮮人に恨まれる何かがあると感じていた。表向きには言えないこと、と言うより、もしかしたら表層の意識では感じていなかったかもしれないが潜在的に感じていた恐怖感が存在していたのである。
もちろんぼくにはその当時の人のリアルな感覚はわからない。しかしデマの生まれ方は今でも基本的には変わらない。
デマはまれに誰かが意図的に作り出し拡散させることもあるだろうが、ほとんどの場合は自然発生的に生まれる。たとえば都市伝説と呼ばれる怪談もデマの一種である。
最初は事実がある。それは取るに足らないもので、たとえば夜歩いていたら猫の泣き声がしたとか、そんなことから始まるのだ。その話が何人かの伝聞で伝わっていくうち、その話を受け止める人たちの潜在意識にある不安や恐怖もしくは願望が無意識のうちに付け加えられていく。やがて、どこそこでは夜中に不気味な声が聞こえるらしいという風に話が微妙に変形し、やがて因縁話などが付け加えられ、立派な怪談に仕上がっていく。
話を伝えていく人々に明確な悪意は無い。ただ、人の話を聞いたときに自分なりの受け止め方をして、それをまた別の人に伝えていくだけなのだ。この時の「受け止め方」にその人の不安、恐怖、願望が反映する。
だから多くの人に共通した不安や恐怖が存在するとき、デマは巨大な話になり広範囲に拡散してしまう。そう考えたとき、関東大震災時の朝鮮人暴動のデマがリアリティを持った背景には、当時の日本人の間に広く強い朝鮮人に対する不安や恐怖があったと考えるのが自然だし、それは裏を返せば日ごろから自分たちが朝鮮人を虐待している、だからいつか復讐されるかもしれないという(潜在的であれ)意識があったのだと言えよう。
現代において再び、在日朝鮮人が密かに悪事を働いているという「デマ」がインターネットという新しいメディアを通じて広がりつつあるらしい。そしてそれは在特会に象徴される民族差別運動の高まりと連動しているような気がする。
問題はこうしたデマが本当に広がっていくかどうかである。上述したようにデマが巨大化し広範囲に広がるのは、それだけ多くの人が不安や恐怖を持つということを意味している。デマは言ってみれば人の心の弱いところに侵食してくる悪魔である。本当の自分の目で物事を見ようとしない、見ることのできない人を襲う吸血鬼である。そうやって吸血鬼は増殖し続ける。
ぼくの父は秋田出身の没落農家の末っ子、母は名古屋と福島の人を両親に持った東京っ子で、いわば普通の日本人だが、ぼくが生まれる頃に世田谷の朝鮮人に引っ越した。理由はただ経済的なものでしかなかったのだが。1950年代当時、朝鮮・韓国人の引き上げが始まっていて、朝鮮人に空き家が増えたせいだったのだろう。
そういうわけで母の周囲には朝鮮人が沢山いた。特別に仲の良くなった友達もいたらしいが、その人もやがて北朝鮮へ渡ってしまった。
数年の後に、両親は今度は埼玉県の鳩ヶ谷に引っ越すことになる。これもまた経済的理由であった。とにかく家を借りるのにかなり安かったようだ。
鳩ヶ谷あたりにも在日朝鮮・韓国人はいた。同級生にもいたと思うが、ぼくは全く気にしなかった、と言うより気づかなかった。しかし後々話を聞くと小学校の中でも民族差別はあったらしい。考えて見れば小学校、中学校と、たぶんアメリカ人との混血の子や性同一障害の子もいたと思うが、そんなことを意識したことがなかった。気が合うか合わないか、ぼくにはそれしかなかった。
自虐的に言えば、ぼくは「鈍感」なのかもしれない。大人になってからつきあった彼女はとても背の高い子でそれをコンプレックスにしていた。ぼくの方がずっと背が低かったけれど、ぼくはそれも全然気にならなかった。もっとも、同時に周囲から常に服装のセンスがないと言われ続けた。やはり気にならないのである。
服装の件はともかく(でもないかもしれないが)、ぼくが「鈍感」であれたのは両親のおかげだと思う。両親は民族差別を含めて人間を差別しなかった。母は「天然」でそうだったのだと思うが、満州に行っていた父は意識的に心がけていたのかもしれない。
ぼくは自分が差別的な人間ではないと言いたいわけではない。自分にもかなり差別的なところがあると気づかされることが度々ある。しかし難しいのは差別というのは差別している側はそれに気づいていないという点である。
意識的に差別するなどという人はかなり特殊な人だろう。差別と感じずにやるから差別なのである。それが「常識」になってしまう。
南アフリカにおけるアパルトヘイトも、ナチスドイツにおけるユダヤ人差別も、当時の「国民」にとっては特別なことではなく常識でしかなかったのだろう。しかしそれでもどこかに「間違っている」という意識、いつか逆襲を受けるのではないかという恐怖感は潜在的に存在した。そしてだからこそ、より差別は苛烈になっていった。
人間が差別に陥るのは、ある種の宿命なのかもしれない。しかしそれを差別と理解する直感や理性も同時に備わっている。少なくとも近代社会を経験した我々はそうした能力を持っている。
何が差別なのかという質問に答えるのは大変難しい。しかし差別なのかもしれないと気づくヒントはたくさん存在している。一番いけないのは、それと気づきかけたとき、逆に自分に対して「いや、これは差別ではないのだ」と引き戻してしまう心の存在である。なぜこんな気持ちが生じるかと言えば、それを差別と認めてしまうと自分が差別をした人に、悪い人になってしまうからだ。自己否定しなくてはならなくなるからだ。
そこにその人の人間としての強さが試される。
ワシントンの桜の木の教訓というのがある。桜の木を切ってしまった非を認め、素直に謝ることこそが本当の勇気だと、この教訓は教えている。出来すぎた話かもしれないが、これは近代人にとって最も重要なモラルであろう。
自由であるがゆえに自制をしなくてはならない。自由であるがゆえに自己批判的に自分を見直し続けていなくてはならない。
それを忘れてしまったら、それは近代的個人としてはまったく失格であろう。しかも彼はもはや前近代に戻ることも出来ない。たがの外れた人外、モンスターになってしまうのである。
一応うちでも備蓄食料を用意しているが、賞味期限があるので時々は入れ替えをしないといけない。しかしこれがついつい忘れてしまう。そこで、目標として年二回、3月と9月に点検と入れ替えをすると決めた。どちらも防災用品の売り出し月だからだ。
母の出身は新宿の角筈で、今のヨドバシカメラの本店があるあたりらしいが、生まれたのは大正13年だから関東大震災の翌年である。震災の時、母の母は、母の上に生まれていた子供を抱いてハンモックの下に逃げたという。幸い家は壊れなかったが、その後、昭和20年頃になると空襲が激しくなり、延焼を食い止める間引きのためにみんなで縄で引っ張って壊されてしまったそうだ。
関東大震災の悲劇と言えば、甘粕事件や亀戸事件、そして朝鮮人虐殺を思い出す。
甘粕・亀戸事件は、軍もしくは警察が大杉栄などのアナキストや社会主義者を大震災の混乱に乗じて密かに虐殺した事件だ。事件の真相は明らかになっていない。
一方の朝鮮人虐殺はもっとわからない。当時日本にいた朝鮮人が、放火、強姦、殺人、井戸への毒の投入、暴動などを起こしているというデマが流れ、多くの朝鮮人や朝鮮人に間違われた日本人が殺された。
どうやら一番初期の段階では軍や警察はこうしたデマを完全否定していたようだが、後になってニュアンスが変わり、朝鮮人による犯罪が頻発したとも取れる発表になった。殺された人数も警察発表、研究者の推計、また中国や朝鮮・韓国の主張などで大きく違っている。政治的思惑による虚偽発表もあるだろうから中々事実はわからないが、おそらく2500人から7000人くらいの人が殺されたのではないかと思う。
これらの事件は政治弾圧、思想弾圧であり、またもちろん侵略問題でも民族差別問題でもあるが、同時に被差別問題や障害者差別もからまり、そういう意味からも真相は戦後になってもほとんどが闇の中に消されてしまった。
ただ甘粕事件や亀戸事件から察せられることは、当時の軍部や警察の中に社会主義運動や労働運動に神経を尖らせ、機会を見つけて運動を壊滅させようと狙っていた部分が確固として存在していたということである。こうした動きはこの後、治安維持法の制定と昭和16年の改訂を経て合法化・日常化していく。しかし公平に言えば、この当時はまだ軍・警内部を含めて社会全体は比較的冷静、穏健で、朝鮮人を群衆から守り保護した警察や軍の施設、指揮官も複数存在した。
なお、朝鮮人虐殺を実行したのは自警団であり、政府や警察、軍の関わりは無かったというのが、おそらく政府や行政の公式見解であるが、虐殺の犯人とされた自警団や軍関係者などに対する刑は大変に軽く、ほとんどが執行猶予か数年で釈放されている。
本当のところ何が起きたのか確定できることはほとんど無いのだが、ただ朝鮮人暴動のデマが流れ、それを相当数の人が信じたのは事実だろう。
それはなぜか?
そうしたことが起きてもおかしくないと、当時の多くの人々が潜在的に考えていたということである。
たとえて言えば、いま町行く人に、在日朝鮮人が武装蜂起したと言っても大半の人はリアルには感じないだろう。しかし中国軍が尖閣諸島に上陸したと言ったら本当だと思う人がかなりいると思う。
つまりデマが真実性を持つのは、人々の中に不安や恐怖、場合によっては切実な希望や願望が存在しているときなのである。関東大震災当時、人々の中には朝鮮人に対する不安や恐怖が渦巻いていたのだ。
もちろん何も無かったら人は不安や恐怖を感じない。何かがあった。朝鮮人に恨まれる何かがあると感じていた。表向きには言えないこと、と言うより、もしかしたら表層の意識では感じていなかったかもしれないが潜在的に感じていた恐怖感が存在していたのである。
もちろんぼくにはその当時の人のリアルな感覚はわからない。しかしデマの生まれ方は今でも基本的には変わらない。
デマはまれに誰かが意図的に作り出し拡散させることもあるだろうが、ほとんどの場合は自然発生的に生まれる。たとえば都市伝説と呼ばれる怪談もデマの一種である。
最初は事実がある。それは取るに足らないもので、たとえば夜歩いていたら猫の泣き声がしたとか、そんなことから始まるのだ。その話が何人かの伝聞で伝わっていくうち、その話を受け止める人たちの潜在意識にある不安や恐怖もしくは願望が無意識のうちに付け加えられていく。やがて、どこそこでは夜中に不気味な声が聞こえるらしいという風に話が微妙に変形し、やがて因縁話などが付け加えられ、立派な怪談に仕上がっていく。
話を伝えていく人々に明確な悪意は無い。ただ、人の話を聞いたときに自分なりの受け止め方をして、それをまた別の人に伝えていくだけなのだ。この時の「受け止め方」にその人の不安、恐怖、願望が反映する。
だから多くの人に共通した不安や恐怖が存在するとき、デマは巨大な話になり広範囲に拡散してしまう。そう考えたとき、関東大震災時の朝鮮人暴動のデマがリアリティを持った背景には、当時の日本人の間に広く強い朝鮮人に対する不安や恐怖があったと考えるのが自然だし、それは裏を返せば日ごろから自分たちが朝鮮人を虐待している、だからいつか復讐されるかもしれないという(潜在的であれ)意識があったのだと言えよう。
現代において再び、在日朝鮮人が密かに悪事を働いているという「デマ」がインターネットという新しいメディアを通じて広がりつつあるらしい。そしてそれは在特会に象徴される民族差別運動の高まりと連動しているような気がする。
問題はこうしたデマが本当に広がっていくかどうかである。上述したようにデマが巨大化し広範囲に広がるのは、それだけ多くの人が不安や恐怖を持つということを意味している。デマは言ってみれば人の心の弱いところに侵食してくる悪魔である。本当の自分の目で物事を見ようとしない、見ることのできない人を襲う吸血鬼である。そうやって吸血鬼は増殖し続ける。
ぼくの父は秋田出身の没落農家の末っ子、母は名古屋と福島の人を両親に持った東京っ子で、いわば普通の日本人だが、ぼくが生まれる頃に世田谷の朝鮮人に引っ越した。理由はただ経済的なものでしかなかったのだが。1950年代当時、朝鮮・韓国人の引き上げが始まっていて、朝鮮人に空き家が増えたせいだったのだろう。
そういうわけで母の周囲には朝鮮人が沢山いた。特別に仲の良くなった友達もいたらしいが、その人もやがて北朝鮮へ渡ってしまった。
数年の後に、両親は今度は埼玉県の鳩ヶ谷に引っ越すことになる。これもまた経済的理由であった。とにかく家を借りるのにかなり安かったようだ。
鳩ヶ谷あたりにも在日朝鮮・韓国人はいた。同級生にもいたと思うが、ぼくは全く気にしなかった、と言うより気づかなかった。しかし後々話を聞くと小学校の中でも民族差別はあったらしい。考えて見れば小学校、中学校と、たぶんアメリカ人との混血の子や性同一障害の子もいたと思うが、そんなことを意識したことがなかった。気が合うか合わないか、ぼくにはそれしかなかった。
自虐的に言えば、ぼくは「鈍感」なのかもしれない。大人になってからつきあった彼女はとても背の高い子でそれをコンプレックスにしていた。ぼくの方がずっと背が低かったけれど、ぼくはそれも全然気にならなかった。もっとも、同時に周囲から常に服装のセンスがないと言われ続けた。やはり気にならないのである。
服装の件はともかく(でもないかもしれないが)、ぼくが「鈍感」であれたのは両親のおかげだと思う。両親は民族差別を含めて人間を差別しなかった。母は「天然」でそうだったのだと思うが、満州に行っていた父は意識的に心がけていたのかもしれない。
ぼくは自分が差別的な人間ではないと言いたいわけではない。自分にもかなり差別的なところがあると気づかされることが度々ある。しかし難しいのは差別というのは差別している側はそれに気づいていないという点である。
意識的に差別するなどという人はかなり特殊な人だろう。差別と感じずにやるから差別なのである。それが「常識」になってしまう。
南アフリカにおけるアパルトヘイトも、ナチスドイツにおけるユダヤ人差別も、当時の「国民」にとっては特別なことではなく常識でしかなかったのだろう。しかしそれでもどこかに「間違っている」という意識、いつか逆襲を受けるのではないかという恐怖感は潜在的に存在した。そしてだからこそ、より差別は苛烈になっていった。
人間が差別に陥るのは、ある種の宿命なのかもしれない。しかしそれを差別と理解する直感や理性も同時に備わっている。少なくとも近代社会を経験した我々はそうした能力を持っている。
何が差別なのかという質問に答えるのは大変難しい。しかし差別なのかもしれないと気づくヒントはたくさん存在している。一番いけないのは、それと気づきかけたとき、逆に自分に対して「いや、これは差別ではないのだ」と引き戻してしまう心の存在である。なぜこんな気持ちが生じるかと言えば、それを差別と認めてしまうと自分が差別をした人に、悪い人になってしまうからだ。自己否定しなくてはならなくなるからだ。
そこにその人の人間としての強さが試される。
ワシントンの桜の木の教訓というのがある。桜の木を切ってしまった非を認め、素直に謝ることこそが本当の勇気だと、この教訓は教えている。出来すぎた話かもしれないが、これは近代人にとって最も重要なモラルであろう。
自由であるがゆえに自制をしなくてはならない。自由であるがゆえに自己批判的に自分を見直し続けていなくてはならない。
それを忘れてしまったら、それは近代的個人としてはまったく失格であろう。しかも彼はもはや前近代に戻ることも出来ない。たがの外れた人外、モンスターになってしまうのである。