最低賃金が改定され、北海道をのぞく全国で実質的に生活保護費を上回ることになった…というのだが、そもそも賃金よりも生活保護費の方が高いなどということ自体が社会システムとして破綻しているのだから当然のことではある。と言うより、現状のシステムのままなら生活保護費よりも賃金が上回ったというだけでは不十分で、相当程度高くならなければ働く意欲に繋がらないような気がする。
人々に主体的に働く意欲が生まれない場合、行政としては強制的に働かせるために生活保護の受給を制限しなくてはならず、結果として本当に必要な人にお金がまわらない事態も発生する。
その一方で、生活保護には不正受給の問題もついて回るが、不正受給を防ぐためには行政側もそれなりのコストをかる必要があり、むしろ不正であったとしても支払った方が安く済むという矛盾も生まれる。
また最低賃金の底上げが当然だと言っても、今までそれができなかった理由もある。現実に賃金を支払う側の地方の中小企業が疲弊しているのである。そうである以上、賃金の上昇は、労働者の解雇や非正規雇用の増大、果ては企業の倒産まで誘発しかねない。
どう考えても賃金と生活保護のシステム全体がどこか歪んでいる。何かがおかしいのだ。
問題を単純化して考えてみよう。これは社会の生産する富とその分配の問題である。そうであればベストの方法は社会にとって一番ダメージの少ない形で富の分配が行えればよいということになる。
しかしそれは単純な話ではない。つまり何が社会にとってのダメージであり、何がダメージではないのかという前提的な論議が必要だからである。
地方の中小企業に負担させるのが一番良いと考える人もいれば、カネのあるところから持ってくれば良いと思う人もいる。それは何が違うのかといえば、つまりは思想である。
カネのあるところから取ってくればよいと言う人は、社会とは社会を構成する全個人のことであり、特定の人の負担が背負いきれないほど重くなるような事態が一番のダメージだと考える。だからなるべく平等にするのが良いと考える。
一方、社会とは経済発展のためのシステムだと考える人にとっては、儲けを増やせる人がもっとたくさん儲けられるようになることが重要で、そうした経済の牽引役の負担を大きくしたら、それが社会にとって一番ダメージが大きいと考える。持っている人からたくさん奪ってはいけないと言うのだ。
乱暴な言い方をすれば社会主義的な発想か、資本主義的な発想かということになろう。
そんな論議は聞き飽きたという人も多いだろうが、しかしやはりここが最も大きな分岐点なのである。
一般的に言えば「どっちなんや?」「どっちもー!」というCMみたいな結論になるのかもしれないが、それは正しいようで間違っている。
たしかに現実の政策は様々な要素を加味して、極端と極端の中間のどこかを選択せざるを得ない。それはむしろ柔軟であるべきだし、どのような政策であっても絶対に間違っているとは言えない所がある。
しかし問題なのは、どこを目指しているのかということなのだ。
北へ行く人も南に行く人も、どこかで同じところを通るかもしれないし、同じ場所でなくても似たような地形なら似たような歩き方をすることがあるだろう。平地なら走ることもあるかもしれない。しかし上り坂ならゆっくり歩こうとするかもしれない。
歩き方は同じでも、しかし目指す方向が違えば最後に到達するところは全く別のところになってしまう。
それがつまり思想なのである。
現代人は、とりわけ現代の日本人は思想アレルギーだ。
思想とか宗教と言うと極端に嫌ったり怖がったりする。しかし無思想だ、無宗教だと自分で思っていても、よほど意識的に自分の思想をニュートラルにコントロールできる人以外は、実際にはあいまいかもしれないが何かしらの思想や宗教を持っているものだ。こういう言い方が気に入らないのなら、メタ思想、メタ宗教と言い換えてもいい。もっと別の言い方をすれば、それはその人が社会的合意とか常識と考えていること、と言ってもよいかもしれない。
大切なのは、まず自分の思想とは何かを知ることだ。
思想なんか持っていないと言ってしまったら、そこで終わってしまう。そこで自分を問い詰めるのだ。自分はどこに価値観を置いているのか。
そうやって自分と対話を重ねていくことで、自分の思想的基盤を理解し、自己批判し、鍛えていく。
現実主義的に考えることは、現状肯定することではないはずだ。自分の理想がまずあって、そこから考えること、その地点から現実と向き合うことが現実主義的手法であるはずだ。
どこへ向かうか自分でも知らない人は、永久にさまよい続けるしかない。もちろん向かう場所を決めたところで、さまよう人はさまようのだが、しかし行く場所を知らない人はしばしば誰かの後ろについていってしまうことがある。
それはおそらく最も危険なことなのである。あなたにとっても、みんなにとっても。
人々に主体的に働く意欲が生まれない場合、行政としては強制的に働かせるために生活保護の受給を制限しなくてはならず、結果として本当に必要な人にお金がまわらない事態も発生する。
その一方で、生活保護には不正受給の問題もついて回るが、不正受給を防ぐためには行政側もそれなりのコストをかる必要があり、むしろ不正であったとしても支払った方が安く済むという矛盾も生まれる。
また最低賃金の底上げが当然だと言っても、今までそれができなかった理由もある。現実に賃金を支払う側の地方の中小企業が疲弊しているのである。そうである以上、賃金の上昇は、労働者の解雇や非正規雇用の増大、果ては企業の倒産まで誘発しかねない。
どう考えても賃金と生活保護のシステム全体がどこか歪んでいる。何かがおかしいのだ。
問題を単純化して考えてみよう。これは社会の生産する富とその分配の問題である。そうであればベストの方法は社会にとって一番ダメージの少ない形で富の分配が行えればよいということになる。
しかしそれは単純な話ではない。つまり何が社会にとってのダメージであり、何がダメージではないのかという前提的な論議が必要だからである。
地方の中小企業に負担させるのが一番良いと考える人もいれば、カネのあるところから持ってくれば良いと思う人もいる。それは何が違うのかといえば、つまりは思想である。
カネのあるところから取ってくればよいと言う人は、社会とは社会を構成する全個人のことであり、特定の人の負担が背負いきれないほど重くなるような事態が一番のダメージだと考える。だからなるべく平等にするのが良いと考える。
一方、社会とは経済発展のためのシステムだと考える人にとっては、儲けを増やせる人がもっとたくさん儲けられるようになることが重要で、そうした経済の牽引役の負担を大きくしたら、それが社会にとって一番ダメージが大きいと考える。持っている人からたくさん奪ってはいけないと言うのだ。
乱暴な言い方をすれば社会主義的な発想か、資本主義的な発想かということになろう。
そんな論議は聞き飽きたという人も多いだろうが、しかしやはりここが最も大きな分岐点なのである。
一般的に言えば「どっちなんや?」「どっちもー!」というCMみたいな結論になるのかもしれないが、それは正しいようで間違っている。
たしかに現実の政策は様々な要素を加味して、極端と極端の中間のどこかを選択せざるを得ない。それはむしろ柔軟であるべきだし、どのような政策であっても絶対に間違っているとは言えない所がある。
しかし問題なのは、どこを目指しているのかということなのだ。
北へ行く人も南に行く人も、どこかで同じところを通るかもしれないし、同じ場所でなくても似たような地形なら似たような歩き方をすることがあるだろう。平地なら走ることもあるかもしれない。しかし上り坂ならゆっくり歩こうとするかもしれない。
歩き方は同じでも、しかし目指す方向が違えば最後に到達するところは全く別のところになってしまう。
それがつまり思想なのである。
現代人は、とりわけ現代の日本人は思想アレルギーだ。
思想とか宗教と言うと極端に嫌ったり怖がったりする。しかし無思想だ、無宗教だと自分で思っていても、よほど意識的に自分の思想をニュートラルにコントロールできる人以外は、実際にはあいまいかもしれないが何かしらの思想や宗教を持っているものだ。こういう言い方が気に入らないのなら、メタ思想、メタ宗教と言い換えてもいい。もっと別の言い方をすれば、それはその人が社会的合意とか常識と考えていること、と言ってもよいかもしれない。
大切なのは、まず自分の思想とは何かを知ることだ。
思想なんか持っていないと言ってしまったら、そこで終わってしまう。そこで自分を問い詰めるのだ。自分はどこに価値観を置いているのか。
そうやって自分と対話を重ねていくことで、自分の思想的基盤を理解し、自己批判し、鍛えていく。
現実主義的に考えることは、現状肯定することではないはずだ。自分の理想がまずあって、そこから考えること、その地点から現実と向き合うことが現実主義的手法であるはずだ。
どこへ向かうか自分でも知らない人は、永久にさまよい続けるしかない。もちろん向かう場所を決めたところで、さまよう人はさまようのだが、しかし行く場所を知らない人はしばしば誰かの後ろについていってしまうことがある。
それはおそらく最も危険なことなのである。あなたにとっても、みんなにとっても。