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自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

成熟か衰退か~20世紀は折り返し点か通過点か~(下)

2013年08月14日 00時00分45秒 | Weblog
 技術論的に考えると20世紀で最も重要な技術的「発展」は、言うまでもなく核技術の開発である。これは人類の技術史の上でまさに画期的事件であり革命であった。
 以前のブログで使った言葉で言えば核技術は技術万能神話体系の最後の一章である。まさに夢の永久機関として登場し、永久に消えずに人を襲い続ける悪魔と化した。

 人類が使うエネルギーの大半は基本的に天体エネルギーである。圧倒的な大部分は太陽による。樹木は太陽の光で育ち、風は太陽の熱、水車や水力発電に利用される水の高低差も太陽の熱で生み出される雲と雨の力だ。
 石油や石炭もはるか太古に太陽の力で生きていた動植物だし、地熱は太陽ではないが地球自身のエネルギーである。潮汐力は月の重力による。

 これらは便利だが、使える条件と量に制約がある。そこで自然力に頼らない人間自身がゼロから生み出すエネルギーが求められた。それが可能であると宣言したのが、アインシュタインの有名な公式、"E=MC2(二乗)"である。それはまさにエネルギー革命だったが、人類には制御不能の力だった。
 物理学はいまだに大きな進展を続けているが、自然力に頼らない全く新しいエネルギーは今のところ発見の兆しがない。それ以上に暴走し始めた核問題を収束する手段さえ見つかっていない。もっと重要なことはその暴走は物理学的な問題と言うより、人間の欲望によるものだからより始末が悪いのだが。

 発展し続ける科学技術が明るい未来を作るという夢はもう終わった。それを悲劇であるとは思わないし、人類がリアルな現実に目を向けるしかなくなったという意味で、それは成熟だと言ってもよい。しかしそれは同時に科学万能主義の終焉であり、技術の袋小路、行き詰まりを意味してもいる。

 このことを別の側面から表すのは、核技術の唯一の完璧な「成功」例である核兵器だ。
 核兵器は大量殺戮兵器としては完璧である。あまりにも完璧すぎてそれを使ったらもはや誰も生き残ることができない。だからそれを使うことさえ出来なくなってしまった。
 世界大戦という世界中すべて戦場であり、人類の全てが戦闘に参加し、もしくは巻き込まれるしかない戦争スタイルの「発明」とも相まって、核時代の戦争は袋小路に入り込んだ。それが冷戦である。核時代の冷戦は人類の戦争の究極形だったと言える。
 そこで起きた現象が、戦闘の縮小と戦場の拡散、戦闘員の消失である。大規模な全面戦争は不可能だ。そこで戦いは局地化する。それもポイントでの戦闘になる。戦争が面ではなくポイントで行われるようになったら、それこそ世界中あらゆる場所がポイントになりうる。さらにそこまで戦闘が小さくなれば正規軍のような巨大な組織もいらなくなる。極端に言えばたったひとりでも戦争ができる。
 それがつまり現在の世界で起きている「テロ」と呼ばれる戦闘なのだ。
 戦争もまた20世紀を頂点として行き詰まり、小さく拡散して原始化し粗暴で残虐になった。

 人類の文明は、ビートルズとロシア革命と核兵器の20世紀を頂点として、ついに下降を始めたのだろうか。それともそれは停滞から衰退を意味しているのではなく、人類が成熟期の入り口に到達しようするその直前の最後の苦しみなのだろうか。

 ブラック企業という言葉が流行っている。
 資本主義が勃興し、農民が農業から追われて都市に流入し、労働者という新しい階級が生まれたとき、労働者は過酷な労働を強いられた。やがて労働者の奴隷的労働を規制するためにルールが作られるようになる。それが8時間労働制だったり、週休制だ。それはもちろん労働者自身を守るためのものだったが、同時に資本家にとっても労働者を不用意に消耗せず安定的で高水準の労働力を確保するために必要だったはずだ。
 一方で帝国主義による植民地支配の下では、その後もずっと植民地住民への過酷な労働の強制が続けられた。しかしそれも第二次世界大戦後の植民地独立運動の高まりの中で、しだいに解消する方向へ向かっていった。
 ナショナリズムを超えて世界的な反戦運動が巻き起こったのも20世紀だった。
 20世紀はもちろん夢のようにすばらしい時代ではなかった。むしろ悲劇の時代だったかもしれない。しかしそれでも人類は一歩ずつ進歩したし、この時代が人類の最高到達点であり、そしてその記録はもっと上に伸びていくものと信じられた。

 ブラック企業が意味しているのは、まさにこうした人類の進歩の歴史を踏みにじり、一気に時代を100年以上さかのぼらせようとする人々が層として出現しているということである。
 それは20世紀に人々が獲得してきた人権を奪い取る行為である。しかしそれを易々と奪い取らせてしまうとしたら、それはそれを見過ごしている者たちも歴史に背信しているのだと言ってよい。

 また一方、世界中で右傾化が進み、極右が台頭している。
 復古主義、懐古趣味は歴史の継承ではない。復古は後ろに戻ろうとする動きだが、本当に伝統を継承しようとする者は決して昔に戻ろうとはしない。継承は前に進むからこそ継承できるのである。

 20世紀が人類にとって大きな節目であったことは間違いない。
 しかしそれが折り返し点なのか、それとも新しいステージに進むための通過点なのか、それは今現在を生きる人々の選択にかかっている。
 いずれにしても立ち止まることはできない。どちらに行くのか。何を選択するのか。
 その指標となるものは、歴史に背くのか、背かないのかという人類としての矜持なのかもしれない。 (この記事おわり)
コメント
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