ぼくは20代の全部を革命家として生きた。一般的な意味での職業としては学生だったり会社員だったりしたが、自分の本職はずっと革命家だと思っていた。最後は名実ともに本職の革命家になったのだが。
しかし革命家としての才能は残念ながらほとんど無かった。そして最後には組織から逃げ出した。
それからの10年は何も出来なかった。もちろん飯を食うための職業には就いていたし、市民運動でボランティアをしたり、少しは政治的な集会やデモにも行った。創作活動をしたり、アーチストのファン活動もした。しかし自分の中では空白の10年である。
それから後の10年は考え続ける期間だった。長い時間をかけて自分自身の総括をしていたように思う。
なぜ自分は敗北したのか、自分が闘い続けていたら世界を変えることが出来ただろうか、いったい何が間違っており、何が正しかったのか。
そうしているうちに世界は激変した。自分が所属していた組織も脱左翼宣言をして革命運動を放棄した。ぼくが最も影響を受けた(とは言え全くの不肖の弟子だったが)指導者も死んでしまった。
しかし一方、あのころ時間を共有し、ともに日本革命の実現を目指した人々の中には(直接の知り合いではないとしても)いまだに巷間で街頭で、またあるいは獄中で戦い続けている人達がたくさんいる。
ぼくにとって最大の疑問は、いったい世界を変えることは可能なのだろうかということだ。
少なくとも、ぼくにもぼくの仲間にも世界を変えることは出来なかった。しかしもちろん歴史を見れば世界中で多くの革命が実現している。だがそうであったとしても、そこにももうひとつ大きな疑問が残る。それは本当に意図した革命だったのだろうかということだ。
ロシア革命は人類史の大きな希望を一身に受けて成功した。しかしそこに出現したのは人民を抑圧する巨大な秘密警察国家だった。アラブの春で民主化したはずだったエジプトはいつの間にか逆走しているように見える。
革命ではないけれど、敗戦後の日本は民主主義と平和と自由の国になったはずだった。しかしそれを主導したはずのアメリカは戦争と収奪と抑圧の大国であり、日本はそこにどんどん引きずられ続けている。
革命の原点は正しかったとしても、それはいつかズレ始め、やがて醜悪な思いもよらない所に落ち込んでしまう。
ぼくは革命を志していた頃、当然ながら革命の実現を信じていた。自分の生きている間には無理でも、必ず実現するはずだと思っていた。
よくよく考えてみればその根拠は歴史にあった。どんな国家も政治も思想も経済体制も永久に続いた例は無い。世界は変わる、それは間違いの無い真実である。
そうだとすれば、つまりはこういうことなのだ。世界は変わるが、思ったように変えることは決して出来ない。
それは別の言い方をすれば、人間は自分自身をコントロールすることが出来ないということである。この社会は人間自身が作り出したものだが、一度出来てしまった社会は人間の思い通りにはコントロールできない。それは究極的には人間が自分の心をコントロールする強さを持っていないからだ。
マルクス主義は近代主義であると以前書いたことがあったと思うが、それはまさにマルクスが(実際にはほとんど書いていないのだが)自分の共産主義理論を近代合理主義的に構想していたということである。
つまり人間は合理的な選択をする、だから人間社会において最も合理的な経済システムである共産主義が実現するのは必然だと考えていたのである。しかし人間はどこまでも非合理的存在だった。必ずしも合理的に正しい結論に到達するわけではない。
ここから先はまた別の問題になるので、革命論についてこれ以上の追求はやめておくが、いずれにせよ、「ぼくが」世界を変えることなどそもそも出来なかったのである。結論から言えば、自分が思ったような世の中に世界を変えるなどという夢はあきらめなくてはならないのだ。
しかし。
あきらめるということは、そんなに悪いことなのだろうか。
近代主義は合理主義であると同時に実践至上主義でもある。理想よりも実利、夢よりもカネ、学問より実業が賞賛される。マルクスも有名な「フォイエルバッハ・テーゼ」で「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのはそれを変革することである」と実践至上主義を宣言している。
そうであるがゆえに近代人は「あきらめる」ことができない。実践することだけが唯一の価値基準だから、「やらない」という選択肢は無いのである。
しかしもちろん人間は現実には常に何かをあきらめて生きている。いつまでも我を張って固執するのは幼児性であり、正しくあきらめられるのが大人である。それなのに現代の日本では「あきらめない」者ばかりが賞賛を受ける。あきらめた者は敗北者だ。
宗教というものを考えると、多くの宗教が、そして長い歴史を持つ宗教ほど「あきらめる」ことを教えている。仏教にも諦念という教えがある。悟りは諦念である。イエスも磔刑の最後に神に見放されたとあきらめる。
あきらめることを知らない人類は、まだ幼年期を脱せない。
世界は変えられないとあきらめることから、新しい見方が生まれる。あきらめたら終わり、ではなく、あきらめることから始まることもある。
どうせ世界を変えることが出来ないのなら、何も実践的に有効なことだけをする必要はない。
何をしてもダメなら、逆に考えれば何をしても何を考えても同じだ。それなら何をしても何を考えても良いと言うことになる。
それならば、自分の思ったことを言い、自分の思ったことをすればよい。そして、そうすべきだと思う。
今ではほとんど死滅してしまった言葉に「結果より過程が大事」という言葉がある。昔は学校でも家庭でも職場でも、どこでも普通に言われていた。いつの間にか「過程はどうでも良い。結果を出せ」に変わってしまったのだが。
もちろんこの言葉は現実とは矛盾していた。いくら過程が大事と言っても求められることは常に結果だったからだ。しかし、結果は結果でしかなく、どうなっても仕方がないとあきらめることが出来るなら、この言葉は強い説得力を持つ。
人生の目的は何かを成し遂げることではなく、どんな生き方(=過程)をするかである。人間は必ず死ぬ。いわば人間の結末は「死」だとあらかじめ決まっている。ぼくは唯物論者だから神も死後の世界も信じない。だから死は無である。それはとりわけて良い事ではないが、別に悪いことでもない。ただそうだと言うだけのことだ。
何をしたって結論が無であるなら、無なんだと「あきらめる」ことができるなら、問題になるのは結論ではなく過程だけになる。結果ではなく、いま生きているこの瞬間に、自分らしく生きられるかどうかが唯一の問題になる。
こう言うと、また別の疑問が生じるだろう。
それなら自分の好きなように、自分勝手に、他人の迷惑など気にしないで、面白おかしく生きればよいのかと。
ここに出てくるのが思想の問題である。
自分の好きなように生きろ、と言われたとき、好き勝手に面白おかしくやるというのも、ひとつのその人の思想である。しかし、誰でも、どの時代、どの場所でも、人がそう思うわけではないはずだ。あえて極論すれば、好き勝手に面白おかしく生きるという思想は、典型的な近代個人主義的発想である。「どこで何をしていても神が見ている」と考える人は、好き勝手に生きたいと単純には思わないだろう。
だから問題なのは、その人がどういう思想を持つかということだ。
世界を変えることは出来ない、世界は変わるだけだ、と書いた。
しかしそれでも世界を変えるのは人間である。自分の思ったようにすることは出来ないが、やはり人間社会を変える力は人間自身だ。それではその力の源は何か。思想である。(正確に言えば宗教なのだが、この話はまた別論になるのでここでは割愛する)
世界を変えるのは人間自身というよりも、人間が生み出す世界思想の力なのだと思う。
人間は結果に縛られずに自由に生きることが出来るし、生きるべきだ。しかし自由とはただの身勝手ではない。それは自由に発想し自由に考えることであり、思想を獲得する自由であり、その思想に従って生きる自由である。
そのようにして人々が生き、考え、行動するる中で、世界を脱皮させることのできる次の思想が醸成されていき、やがてそれが広がりきったところで初めて「革命」が実現する。
「ぼく(たち)」には世界を変えることは出来ないが、しかし世界を変える要素になることは出来る。ぼくは今そう考えている。
しかし革命家としての才能は残念ながらほとんど無かった。そして最後には組織から逃げ出した。
それからの10年は何も出来なかった。もちろん飯を食うための職業には就いていたし、市民運動でボランティアをしたり、少しは政治的な集会やデモにも行った。創作活動をしたり、アーチストのファン活動もした。しかし自分の中では空白の10年である。
それから後の10年は考え続ける期間だった。長い時間をかけて自分自身の総括をしていたように思う。
なぜ自分は敗北したのか、自分が闘い続けていたら世界を変えることが出来ただろうか、いったい何が間違っており、何が正しかったのか。
そうしているうちに世界は激変した。自分が所属していた組織も脱左翼宣言をして革命運動を放棄した。ぼくが最も影響を受けた(とは言え全くの不肖の弟子だったが)指導者も死んでしまった。
しかし一方、あのころ時間を共有し、ともに日本革命の実現を目指した人々の中には(直接の知り合いではないとしても)いまだに巷間で街頭で、またあるいは獄中で戦い続けている人達がたくさんいる。
ぼくにとって最大の疑問は、いったい世界を変えることは可能なのだろうかということだ。
少なくとも、ぼくにもぼくの仲間にも世界を変えることは出来なかった。しかしもちろん歴史を見れば世界中で多くの革命が実現している。だがそうであったとしても、そこにももうひとつ大きな疑問が残る。それは本当に意図した革命だったのだろうかということだ。
ロシア革命は人類史の大きな希望を一身に受けて成功した。しかしそこに出現したのは人民を抑圧する巨大な秘密警察国家だった。アラブの春で民主化したはずだったエジプトはいつの間にか逆走しているように見える。
革命ではないけれど、敗戦後の日本は民主主義と平和と自由の国になったはずだった。しかしそれを主導したはずのアメリカは戦争と収奪と抑圧の大国であり、日本はそこにどんどん引きずられ続けている。
革命の原点は正しかったとしても、それはいつかズレ始め、やがて醜悪な思いもよらない所に落ち込んでしまう。
ぼくは革命を志していた頃、当然ながら革命の実現を信じていた。自分の生きている間には無理でも、必ず実現するはずだと思っていた。
よくよく考えてみればその根拠は歴史にあった。どんな国家も政治も思想も経済体制も永久に続いた例は無い。世界は変わる、それは間違いの無い真実である。
そうだとすれば、つまりはこういうことなのだ。世界は変わるが、思ったように変えることは決して出来ない。
それは別の言い方をすれば、人間は自分自身をコントロールすることが出来ないということである。この社会は人間自身が作り出したものだが、一度出来てしまった社会は人間の思い通りにはコントロールできない。それは究極的には人間が自分の心をコントロールする強さを持っていないからだ。
マルクス主義は近代主義であると以前書いたことがあったと思うが、それはまさにマルクスが(実際にはほとんど書いていないのだが)自分の共産主義理論を近代合理主義的に構想していたということである。
つまり人間は合理的な選択をする、だから人間社会において最も合理的な経済システムである共産主義が実現するのは必然だと考えていたのである。しかし人間はどこまでも非合理的存在だった。必ずしも合理的に正しい結論に到達するわけではない。
ここから先はまた別の問題になるので、革命論についてこれ以上の追求はやめておくが、いずれにせよ、「ぼくが」世界を変えることなどそもそも出来なかったのである。結論から言えば、自分が思ったような世の中に世界を変えるなどという夢はあきらめなくてはならないのだ。
しかし。
あきらめるということは、そんなに悪いことなのだろうか。
近代主義は合理主義であると同時に実践至上主義でもある。理想よりも実利、夢よりもカネ、学問より実業が賞賛される。マルクスも有名な「フォイエルバッハ・テーゼ」で「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのはそれを変革することである」と実践至上主義を宣言している。
そうであるがゆえに近代人は「あきらめる」ことができない。実践することだけが唯一の価値基準だから、「やらない」という選択肢は無いのである。
しかしもちろん人間は現実には常に何かをあきらめて生きている。いつまでも我を張って固執するのは幼児性であり、正しくあきらめられるのが大人である。それなのに現代の日本では「あきらめない」者ばかりが賞賛を受ける。あきらめた者は敗北者だ。
宗教というものを考えると、多くの宗教が、そして長い歴史を持つ宗教ほど「あきらめる」ことを教えている。仏教にも諦念という教えがある。悟りは諦念である。イエスも磔刑の最後に神に見放されたとあきらめる。
あきらめることを知らない人類は、まだ幼年期を脱せない。
世界は変えられないとあきらめることから、新しい見方が生まれる。あきらめたら終わり、ではなく、あきらめることから始まることもある。
どうせ世界を変えることが出来ないのなら、何も実践的に有効なことだけをする必要はない。
何をしてもダメなら、逆に考えれば何をしても何を考えても同じだ。それなら何をしても何を考えても良いと言うことになる。
それならば、自分の思ったことを言い、自分の思ったことをすればよい。そして、そうすべきだと思う。
今ではほとんど死滅してしまった言葉に「結果より過程が大事」という言葉がある。昔は学校でも家庭でも職場でも、どこでも普通に言われていた。いつの間にか「過程はどうでも良い。結果を出せ」に変わってしまったのだが。
もちろんこの言葉は現実とは矛盾していた。いくら過程が大事と言っても求められることは常に結果だったからだ。しかし、結果は結果でしかなく、どうなっても仕方がないとあきらめることが出来るなら、この言葉は強い説得力を持つ。
人生の目的は何かを成し遂げることではなく、どんな生き方(=過程)をするかである。人間は必ず死ぬ。いわば人間の結末は「死」だとあらかじめ決まっている。ぼくは唯物論者だから神も死後の世界も信じない。だから死は無である。それはとりわけて良い事ではないが、別に悪いことでもない。ただそうだと言うだけのことだ。
何をしたって結論が無であるなら、無なんだと「あきらめる」ことができるなら、問題になるのは結論ではなく過程だけになる。結果ではなく、いま生きているこの瞬間に、自分らしく生きられるかどうかが唯一の問題になる。
こう言うと、また別の疑問が生じるだろう。
それなら自分の好きなように、自分勝手に、他人の迷惑など気にしないで、面白おかしく生きればよいのかと。
ここに出てくるのが思想の問題である。
自分の好きなように生きろ、と言われたとき、好き勝手に面白おかしくやるというのも、ひとつのその人の思想である。しかし、誰でも、どの時代、どの場所でも、人がそう思うわけではないはずだ。あえて極論すれば、好き勝手に面白おかしく生きるという思想は、典型的な近代個人主義的発想である。「どこで何をしていても神が見ている」と考える人は、好き勝手に生きたいと単純には思わないだろう。
だから問題なのは、その人がどういう思想を持つかということだ。
世界を変えることは出来ない、世界は変わるだけだ、と書いた。
しかしそれでも世界を変えるのは人間である。自分の思ったようにすることは出来ないが、やはり人間社会を変える力は人間自身だ。それではその力の源は何か。思想である。(正確に言えば宗教なのだが、この話はまた別論になるのでここでは割愛する)
世界を変えるのは人間自身というよりも、人間が生み出す世界思想の力なのだと思う。
人間は結果に縛られずに自由に生きることが出来るし、生きるべきだ。しかし自由とはただの身勝手ではない。それは自由に発想し自由に考えることであり、思想を獲得する自由であり、その思想に従って生きる自由である。
そのようにして人々が生き、考え、行動するる中で、世界を脱皮させることのできる次の思想が醸成されていき、やがてそれが広がりきったところで初めて「革命」が実現する。
「ぼく(たち)」には世界を変えることは出来ないが、しかし世界を変える要素になることは出来る。ぼくは今そう考えている。