ちょっとだけ書いたが今年の夏の映画で気になるのは「ローンレンジャー」だ。SF映画では「パシフィックリム」が日本の怪獣映画とロボットアニメへのオマージュ作品で、ちょっと怪獣がカッコ悪いというか、やはりCGのモンスターは軽すぎてミニチュア実写の迫力に欠けるようだが、映画館で見たらおもしろいかもしれない。
まだ公開されていないがSF大作としては他にスーパーマンの何度目かのリメイクになる「マン・オブ・スティール」とか、「スター・トレック イントゥ・ダークネス」などがある。スタトレで敵役を演じているベネディクト・カンバーバッチは英BBSの『SHERLOCK』でシャーロック・ホームズを現代によみがえらせた若き名優である。
一方、日本の子供向け映画では今年も「仮面ライダー」の新作が公開されている。またどこかではまた「ウルトラマン展」が開催されている。さらに音楽シーンではサザンオールスターズの復活とか、宮崎駿の「風たちぬ」で使われているユーミンの「ひこうき雲」のアナログ盤が話題になっている。
こうして眺めてみると、かなりの割合で1940~70年代に原点を持つ作品やアーチストが活躍していることがわかる。70年代と言えば今からおおよそ40年前だが、こうしたキャラクターやアーチストはもちろんずっと現役でやってきて今も現役である。
昔では考えられないことである。1970年の時点で40年前と言えば1930年代だ。70年代の頃に1930年代のキャラクターで現役と言えたのはミッキー・マウスとスーパーマンくらいだったろう。もちろん日本の作品やアーチストで見たら、懐古趣味的には需要があったろうが本当の現役と言えるものは皆無だった。
もちろん70年代頃にもリバイバル・ブームはあり、古い時代の作品がリメイクされたりした。丹下左膳、のらくろ、少年探偵団、赤胴鈴之助、月光仮面などがアニメ化されたが、それは大きな人気を得ることができず一過性のものにとどまった。
それと比べて現代では、先に書いたウルトラマンや仮面ライダーの他にも、ドラえもんやルパン三世、宇宙戦艦ヤマト、ガンダムなど、50~40年前の作品がいまだに現役であり、状況が全く違っていることがわかる。
そしてこれはアニメや特撮のキャラクターだけの話ではない。サザンオールスターズやユーミンなどのアーチストも、世代を超えて人気を保っている。親子二代のファンどころか三世代のファンがいるアーチストもいることだろう。
現代の音楽シーンでは、世代の垣根を越えて共有できる楽曲が無いとよく言われる。しかし本当は1970年代の方がずっと世代間で共有する文化が少なかった。
当時は、世代間のディスコミュニケーションを表す「断絶」という流行語が広く日常的に使われていたものだ。
1970年代の音楽環境を思い出してみると、30年前の東海林太郎などはもちろん、戦後の美空ひばりでさえ若者たちには忘れ去られていた。もっとはなはだしいことには、わずか10年前のカバーポップス(その当時はロカビリーと呼ばれていた)ブームのスターでさえ若者は誰も知らなかった。
その後そうしたロカビリー歌手たちは、歌謡曲で復活した弘田三枝子とか、作曲家に転身した平尾昌晃など、そのほか俳優や声優、アニメ歌手などとして活躍している人も多いが、これは継続的な人気というのとは少し違うように思われる。
こうした文化的な断絶は、芸能全般について同様のことが言えた。今は歌舞伎も落語も年齢に関係なくファンがいるが、1970年代には10代、20代の若者が落語好きと言ったら変わり者に分類された。落語というのは「笑点」の大喜利のことだと多くの人が信じていた。
いったい何故こうした激しい世代間断絶が生じたのか。
戦争の影響は大きいと思われる。それは環境と思想の両面において言えるだろう。
環境面ではメディアの増大と拡大、拡散があった。戦前のメディアも新聞、雑誌、書籍、映画、劇場、ラジオ、SPレコードなどいろいろあったが、戦後20年でまず検閲が廃止されて表現の自由が保証され、内容的な広がりがおきた。官製の統制された狭い情報ではなく、人々が自分から欲しいと思う情報が発信され享受されるようになった。
また物理的環境としてもテレビが出現し、それはやがてカラー化する。テレビの出現によってメディアの中心は映画や劇場のようなパブリックメディアからホームメディアへ移行し始める。
レコードはステレオLPレコードになってより繊細で多様な表現が出来るようになり、トランジスタラジオの普及とラジカセの開発によって、音楽はより個人的なパーソナルメディアへと変わって行った。
こうした急激な環境変化に翻弄されて、たとえば浪曲のように戦後の大ブーム到来から一気に転落するというような事態も生まれた。
もちろんもう一方では思想的なと言うか、精神史的な葛藤も存在した。つまり戦争への批判と忌避感、さらには敗戦を期に一夜で180度思想転換した「おとな」への懐疑である。
若者世代に存在したこうした前の世代への拒絶感が、文化的断絶を生んだ要因であることも間違いない。
こうした文化的混乱とも言える状況は大きな戦争が起きた後に発生しやすい。とりわけ日本のように完敗した場合には。
しかしおそらくその混乱も70年代あたりから収束し始めたのだ。だからその頃からは文化が断絶することなく現代にまで継承されているのだろう。
このことは不自然なことではない。おそらく江戸時代には年寄りも若者もおなじ芝居を見、同じ寄席に行き、将棋や囲碁など同じゲームで遊んだだろう。もちろん世代間での文化の違いはあったろうが、むしろ階級間の違いの方が大きかったのかもしれない。
東海林太郎のファンは極めて限られている一方、ビートルズには三世代にわたるファンが存在しているとしたら、それは文化が混乱期から成熟期に移行したことを示していると言えるのではないだろうか。
以上はある意味で日本の戦後文化史を肯定的に描いた図式である。
ぼく自身は文化的成熟を歓迎するが、しかしもう少し大きな視点でこの現象を眺めてみると、別の見方も出来るだろう。つまり成熟とは腐敗と同義語だという考え方である。
この点については、もう少し考えてみよう。 (つづく)
まだ公開されていないがSF大作としては他にスーパーマンの何度目かのリメイクになる「マン・オブ・スティール」とか、「スター・トレック イントゥ・ダークネス」などがある。スタトレで敵役を演じているベネディクト・カンバーバッチは英BBSの『SHERLOCK』でシャーロック・ホームズを現代によみがえらせた若き名優である。
一方、日本の子供向け映画では今年も「仮面ライダー」の新作が公開されている。またどこかではまた「ウルトラマン展」が開催されている。さらに音楽シーンではサザンオールスターズの復活とか、宮崎駿の「風たちぬ」で使われているユーミンの「ひこうき雲」のアナログ盤が話題になっている。
こうして眺めてみると、かなりの割合で1940~70年代に原点を持つ作品やアーチストが活躍していることがわかる。70年代と言えば今からおおよそ40年前だが、こうしたキャラクターやアーチストはもちろんずっと現役でやってきて今も現役である。
昔では考えられないことである。1970年の時点で40年前と言えば1930年代だ。70年代の頃に1930年代のキャラクターで現役と言えたのはミッキー・マウスとスーパーマンくらいだったろう。もちろん日本の作品やアーチストで見たら、懐古趣味的には需要があったろうが本当の現役と言えるものは皆無だった。
もちろん70年代頃にもリバイバル・ブームはあり、古い時代の作品がリメイクされたりした。丹下左膳、のらくろ、少年探偵団、赤胴鈴之助、月光仮面などがアニメ化されたが、それは大きな人気を得ることができず一過性のものにとどまった。
それと比べて現代では、先に書いたウルトラマンや仮面ライダーの他にも、ドラえもんやルパン三世、宇宙戦艦ヤマト、ガンダムなど、50~40年前の作品がいまだに現役であり、状況が全く違っていることがわかる。
そしてこれはアニメや特撮のキャラクターだけの話ではない。サザンオールスターズやユーミンなどのアーチストも、世代を超えて人気を保っている。親子二代のファンどころか三世代のファンがいるアーチストもいることだろう。
現代の音楽シーンでは、世代の垣根を越えて共有できる楽曲が無いとよく言われる。しかし本当は1970年代の方がずっと世代間で共有する文化が少なかった。
当時は、世代間のディスコミュニケーションを表す「断絶」という流行語が広く日常的に使われていたものだ。
1970年代の音楽環境を思い出してみると、30年前の東海林太郎などはもちろん、戦後の美空ひばりでさえ若者たちには忘れ去られていた。もっとはなはだしいことには、わずか10年前のカバーポップス(その当時はロカビリーと呼ばれていた)ブームのスターでさえ若者は誰も知らなかった。
その後そうしたロカビリー歌手たちは、歌謡曲で復活した弘田三枝子とか、作曲家に転身した平尾昌晃など、そのほか俳優や声優、アニメ歌手などとして活躍している人も多いが、これは継続的な人気というのとは少し違うように思われる。
こうした文化的な断絶は、芸能全般について同様のことが言えた。今は歌舞伎も落語も年齢に関係なくファンがいるが、1970年代には10代、20代の若者が落語好きと言ったら変わり者に分類された。落語というのは「笑点」の大喜利のことだと多くの人が信じていた。
いったい何故こうした激しい世代間断絶が生じたのか。
戦争の影響は大きいと思われる。それは環境と思想の両面において言えるだろう。
環境面ではメディアの増大と拡大、拡散があった。戦前のメディアも新聞、雑誌、書籍、映画、劇場、ラジオ、SPレコードなどいろいろあったが、戦後20年でまず検閲が廃止されて表現の自由が保証され、内容的な広がりがおきた。官製の統制された狭い情報ではなく、人々が自分から欲しいと思う情報が発信され享受されるようになった。
また物理的環境としてもテレビが出現し、それはやがてカラー化する。テレビの出現によってメディアの中心は映画や劇場のようなパブリックメディアからホームメディアへ移行し始める。
レコードはステレオLPレコードになってより繊細で多様な表現が出来るようになり、トランジスタラジオの普及とラジカセの開発によって、音楽はより個人的なパーソナルメディアへと変わって行った。
こうした急激な環境変化に翻弄されて、たとえば浪曲のように戦後の大ブーム到来から一気に転落するというような事態も生まれた。
もちろんもう一方では思想的なと言うか、精神史的な葛藤も存在した。つまり戦争への批判と忌避感、さらには敗戦を期に一夜で180度思想転換した「おとな」への懐疑である。
若者世代に存在したこうした前の世代への拒絶感が、文化的断絶を生んだ要因であることも間違いない。
こうした文化的混乱とも言える状況は大きな戦争が起きた後に発生しやすい。とりわけ日本のように完敗した場合には。
しかしおそらくその混乱も70年代あたりから収束し始めたのだ。だからその頃からは文化が断絶することなく現代にまで継承されているのだろう。
このことは不自然なことではない。おそらく江戸時代には年寄りも若者もおなじ芝居を見、同じ寄席に行き、将棋や囲碁など同じゲームで遊んだだろう。もちろん世代間での文化の違いはあったろうが、むしろ階級間の違いの方が大きかったのかもしれない。
東海林太郎のファンは極めて限られている一方、ビートルズには三世代にわたるファンが存在しているとしたら、それは文化が混乱期から成熟期に移行したことを示していると言えるのではないだろうか。
以上はある意味で日本の戦後文化史を肯定的に描いた図式である。
ぼく自身は文化的成熟を歓迎するが、しかしもう少し大きな視点でこの現象を眺めてみると、別の見方も出来るだろう。つまり成熟とは腐敗と同義語だという考え方である。
この点については、もう少し考えてみよう。 (つづく)