ここまで主に日本の戦後文化を考えてきたのだが、先の戦争の規模が世界大戦であったために、世界中で似たような状況が生まれたと思われる。
ポピュラーミュージックで言えば、プレスリーやビートルズの登場と席巻である。もちろんそれは、アンプとマイクロフォンの発明、ジャズやR&Bの出現など、前提になる文化からの影響、進化、派生と見ることもできるが、しかしやはりそこには革命があった。
その後の戦後の世界のポピュラーミュージックは様々な展開を示したが、主流的な流れはいまだに彼らの影響下にあると言える。もちろんその前の世代であるルイ・アームストロングやエディッド・ピアフが忘れ去られたわけではないけれど、やはり主流の音楽への影響を考えると、戦前と戦後を分ける大きな変化があったと言えるだろう。
同じことを繰り返すが、つまりそれが悪いというわけではないとしても、新しいものが生まれなくなってしまったのではないかという疑念も同時に沸いてくるのである。
文化は停滞、もしくは衰退してきているのか、それともそんなことを言うのは急ぎすぎ、焦りすぎなのか。
そこで視野を広げて見る。何が見えてくるだろう?
たとえば現代世界に広まっている原理主義である。
もともと「原理主義」という言葉は合衆国内の宗教的保守派に対してつけられた呼称である。簡単に言えば、あの進化論を否定するような人たちである。しかしそうした傾向はイスラム教の中にも発生した。言うまでもなくイスラム原理主義である。こうした原理主義の最大の特徴はそれが儀式宗教の内部に留まらず、現実政治の理念として存立している点であろう。
ぼくは必ずしも宗教的理念と現実政治の理念が重なり合うことを否定しない。政教一致でもかまわないと思う。問題なのは政治理念がどこから来るかではない。その内容が人類の歴史の流れと整合するかどうかである。封建制の社会から近代民主主義へ発展してきた歴史の流れに沿っているかどうかである。(もっと言えばさらにその先を志向するかどうかだが)
そうした視点から見た場合、現在のいわゆる原理主義者たちは(キリスト教であれイスラム教であれ)明らかに人類の歩んできた道を後戻りしようとしている。
原理主義が跋扈(ばっこ)し始めた理由は何か?
私見ではそれはソ連邦の自己崩壊と世界的なマルクス主義運動の衰退である。
これは日本でも同じことだが、冷戦が終結してしまうと国内の左翼は急激に衰退した。社会党は事実上解体、保守二大政党体制に再編された。新左翼も多くが次々と転向し、最後に残った部分も内ゲバ、内々ゲバで疲弊し、今ではかろうじて市民運動の下支え役が出来る程度という状況である。
今では、強固な組織でなんとか生き残った日本共産党だけが、最左派として最後の牙城を守るという事態になってしまった。
外側に敵を失った右翼は、今度はその矛先を内側に向ける。それが合衆国ではキリスト教原理主義であり、日本では右傾化として現れている。リベラルを自認する人たちはその傾向に憂慮を感じているが、リベラルと言ってもしょせんは右派であり、現状の政治システムを基本的には守ろうとする資本主義勢力である以上、本質的なところで極右と戦うことができない。
一方、ソ連が崩壊しマルクス主義が消滅したとしても、現実の世界で矛盾が無くなったわけではない。むしろ矛盾や摩擦は圧倒的に増大した。つまりグローバリズムという合衆国中心の世界戦略の下で、弱い国、弱い人々はより過酷な状況に陥ることになった。
そこでそれまでそうした帝国主義のハードもしくはソフトな侵略に対抗してきたマルクス主義勢力の穴を埋める形で台頭してきたのがイスラム原理主義勢力である。
マルクス主義は別に突然降って沸いて出てきたものではなかった。
それは封建領主の支配体制を打ち壊した市民革命の流れの延長として生まれてきたものである。まさに「自由・平等・博愛」の正当な継承者として登場したのだ。
(だからこそ、マルクス主義は近代の「殻」を被っており、そのことがまさにマルクス主義の致命的欠陥であった。さらにレーニン主義はインテリゲンチャによる党建設のマニュアルでしかなかったのだが、それがロシア革命の成功により、マルクス=レーニン主義として革命と革命国家建設の一般的教科書にされてしまった。そのことが新左翼をしてスターリン主義と呼ぶところの腐敗を発生させ、最後には世界マルクス主義運動の壊滅にまで至らせることになったのである。この諸問題については、いつか改めてゆっくり考察したいと思う)
世界思想と呼べるような思想は、マルクス主義以降あらわれていない。思想家によっては、もはや人類は世界全体を包括するようなマクロな思想を持つことができないと断言する人もいる。
それが事実かどうかはともかく、いずれにしてもそうである以上、マルクス主義は少なくとも現状における人類の思想の最先端(もしくは最終端)なのである。
それが行き詰まり消滅したとき、次に現れたのが人類史を後退させるような原理主義であった。これを単純な悲観論で語れば、人類は20世紀において頂点にまで達し、ついに今、下降線に入ったと言うことになろう。そうであるなら人類にはもはや衰退する以外の道がない。
この問題は実は思想的な問題にとどまらない。そこで、さらにもう少し別の視点から検討してみたいと思う。 (つづく)
ポピュラーミュージックで言えば、プレスリーやビートルズの登場と席巻である。もちろんそれは、アンプとマイクロフォンの発明、ジャズやR&Bの出現など、前提になる文化からの影響、進化、派生と見ることもできるが、しかしやはりそこには革命があった。
その後の戦後の世界のポピュラーミュージックは様々な展開を示したが、主流的な流れはいまだに彼らの影響下にあると言える。もちろんその前の世代であるルイ・アームストロングやエディッド・ピアフが忘れ去られたわけではないけれど、やはり主流の音楽への影響を考えると、戦前と戦後を分ける大きな変化があったと言えるだろう。
同じことを繰り返すが、つまりそれが悪いというわけではないとしても、新しいものが生まれなくなってしまったのではないかという疑念も同時に沸いてくるのである。
文化は停滞、もしくは衰退してきているのか、それともそんなことを言うのは急ぎすぎ、焦りすぎなのか。
そこで視野を広げて見る。何が見えてくるだろう?
たとえば現代世界に広まっている原理主義である。
もともと「原理主義」という言葉は合衆国内の宗教的保守派に対してつけられた呼称である。簡単に言えば、あの進化論を否定するような人たちである。しかしそうした傾向はイスラム教の中にも発生した。言うまでもなくイスラム原理主義である。こうした原理主義の最大の特徴はそれが儀式宗教の内部に留まらず、現実政治の理念として存立している点であろう。
ぼくは必ずしも宗教的理念と現実政治の理念が重なり合うことを否定しない。政教一致でもかまわないと思う。問題なのは政治理念がどこから来るかではない。その内容が人類の歴史の流れと整合するかどうかである。封建制の社会から近代民主主義へ発展してきた歴史の流れに沿っているかどうかである。(もっと言えばさらにその先を志向するかどうかだが)
そうした視点から見た場合、現在のいわゆる原理主義者たちは(キリスト教であれイスラム教であれ)明らかに人類の歩んできた道を後戻りしようとしている。
原理主義が跋扈(ばっこ)し始めた理由は何か?
私見ではそれはソ連邦の自己崩壊と世界的なマルクス主義運動の衰退である。
これは日本でも同じことだが、冷戦が終結してしまうと国内の左翼は急激に衰退した。社会党は事実上解体、保守二大政党体制に再編された。新左翼も多くが次々と転向し、最後に残った部分も内ゲバ、内々ゲバで疲弊し、今ではかろうじて市民運動の下支え役が出来る程度という状況である。
今では、強固な組織でなんとか生き残った日本共産党だけが、最左派として最後の牙城を守るという事態になってしまった。
外側に敵を失った右翼は、今度はその矛先を内側に向ける。それが合衆国ではキリスト教原理主義であり、日本では右傾化として現れている。リベラルを自認する人たちはその傾向に憂慮を感じているが、リベラルと言ってもしょせんは右派であり、現状の政治システムを基本的には守ろうとする資本主義勢力である以上、本質的なところで極右と戦うことができない。
一方、ソ連が崩壊しマルクス主義が消滅したとしても、現実の世界で矛盾が無くなったわけではない。むしろ矛盾や摩擦は圧倒的に増大した。つまりグローバリズムという合衆国中心の世界戦略の下で、弱い国、弱い人々はより過酷な状況に陥ることになった。
そこでそれまでそうした帝国主義のハードもしくはソフトな侵略に対抗してきたマルクス主義勢力の穴を埋める形で台頭してきたのがイスラム原理主義勢力である。
マルクス主義は別に突然降って沸いて出てきたものではなかった。
それは封建領主の支配体制を打ち壊した市民革命の流れの延長として生まれてきたものである。まさに「自由・平等・博愛」の正当な継承者として登場したのだ。
(だからこそ、マルクス主義は近代の「殻」を被っており、そのことがまさにマルクス主義の致命的欠陥であった。さらにレーニン主義はインテリゲンチャによる党建設のマニュアルでしかなかったのだが、それがロシア革命の成功により、マルクス=レーニン主義として革命と革命国家建設の一般的教科書にされてしまった。そのことが新左翼をしてスターリン主義と呼ぶところの腐敗を発生させ、最後には世界マルクス主義運動の壊滅にまで至らせることになったのである。この諸問題については、いつか改めてゆっくり考察したいと思う)
世界思想と呼べるような思想は、マルクス主義以降あらわれていない。思想家によっては、もはや人類は世界全体を包括するようなマクロな思想を持つことができないと断言する人もいる。
それが事実かどうかはともかく、いずれにしてもそうである以上、マルクス主義は少なくとも現状における人類の思想の最先端(もしくは最終端)なのである。
それが行き詰まり消滅したとき、次に現れたのが人類史を後退させるような原理主義であった。これを単純な悲観論で語れば、人類は20世紀において頂点にまで達し、ついに今、下降線に入ったと言うことになろう。そうであるなら人類にはもはや衰退する以外の道がない。
この問題は実は思想的な問題にとどまらない。そこで、さらにもう少し別の視点から検討してみたいと思う。 (つづく)