あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

「経済成長」という呪い

2013年08月11日 00時00分52秒 | Weblog
 「経済成長」という呪いの呪文が世界を縛り付けている。
 全世界の人たちが経済成長をめざし、経済成長が無くなったら人類が滅ぶとさえ思い込んでいるようだ。
 ありとあらゆる問題が、解決の糸口までいくのに、ことごとく破綻する。
 たとえば今年日本各地で続いている豪雨被害。根本的な原因は地球温暖化と自然破壊にある。気象が極端化する一方、それを受け止める山や川や大地がすでに破壊されていて、水も土も風も防ぐことができない。
 そのことは多くの人がすでに理解している。それでも温暖化も環境破壊も止められない。経済成長を止めることができないから、である。
 落着いて考えてみれば、現代社会のほとんどの問題は「経済成長を阻害する」という地点で解決不能になることがわかる。まさに呪いである。

 人類が発生して以来、数百万年になるだろうが、そのほとんどの期間、人類の生産と消費はプラスとマイナスを繰り返してきたはずだ。その中で、本当に少しずつ生産が増えていき、数百万年の時を使ってやっと近代に到達した。
 問題はそこからのわずか数百年にある。人類の長い歴史のわずか一万分の一以下の期間である。

 経済成長の呪いは近代にかけられた呪いである。
 それまでの人類は意図的に成長を目指したわけではない。暮らしは循環していて、春に始まり夏を経て、秋を迎え冬が来て、また春に戻る。毎年同じように種をまき同じように収穫する。もちろん自然条件によってそれは豊作の年もあれば飢饉に陥ることもあっただろう。しかし全体を通して求められたのは、昨日と同じ今日、去年と同じ今年、親と同じ暮らしであった。そしてその中でゆっくりと生産力が上がり、文化が発展していった。
 成長すること自体が目的になり、そしてそれが必須となったのは20世紀のことだと思われる。

 18世紀までは人類の経済発展の可能性は無限大だったと言える。それはその当時の人類にとっては、世界の大きさが無限大と近似値だったからだ。円周率が3でも良いように、当時の人々にとって世界を無限大だと考えてもなんら不都合は無かった。
 19世紀になると、さすがに世界の大きさがわかってくる。世界が有限であり、すなわち資源が有限であることに気づくことができる条件が整った。しかしここで人類は大きな魔法を手に入れる。
 ひとつは科学万能主義であり、もうひとつは金融資本主義である。

 科学万能主義は有限な自然環境を無限大に変換する魔法であり、金融資本主義は資本を未来からか、それともどこか異次元の魔法の国から引っ張り出してくる錬金術であった。
 人々は(とは言っても実際は人類全体からすればほんの一部の人でしかないが)この魔法を使える限り駆使して、信じられないような夢を現実にしたのである。20世紀を通して人類の高度成長が実現した。

 しかし魔法は魔法である。結果は現実でもそれを生み出した魔法は幻想でしかない。しだいに魔法の効力は薄れてしまった。それでも人々がその魔法を今でも信じ続けているのは、まさに経済成長の呪いに呪縛されているからだ。
 人類はすでに限界を迎えた。それはたぶん多くの人が肌で感じていることだろう。しかし人々は魔法からさめない。経済成長の呪いにはもうひとつ幻覚を見せる作用があるからである。それが人類は永久に発展し続けるという幻覚である。

 呪いを解き、魔法を否定しない限り、人類は経済の悪魔によって滅ぼされるだけだ。ところが呪いと魔法があまりにも強力なので、それを信じる人からはそれを否定する人の方がカルトに見えてしまうらしい。
 幻想の砂上の楼閣の上で夢を見ている人たちは、なんと自分たちこそ現実主義だと主張する。そして本当の現実を見据え、呪いから世界を救おうとする人々を理想主義者と呼んでさげすむのだ。原子力はまさにその象徴であろう。

 この文章を読むどれだけの人が理解してくれるかわからないが、これが現代世界の真実である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎でも噛み合わない安倍総理

2013年08月10日 00時00分35秒 | Weblog
 昨9日は長崎の原爆投下68年だった。
 広島に並んで人類にとってとても重要な日である。
 東北の大雨災害など緊急のニュースもあったのだが、昨日の長崎市長の発言は比較的大きく報道された。しかし全体的に見ると今年は広島も長崎もマスコミの扱いが小さい気がする(*)。政府の方針と関係があるのだろうか? まさに安倍政権の核と戦争の戦略はあからさますぎるほどである。そしてそれと同時進行でマスコミなどへの恫喝も強まっている。

 今年の長崎市長の「平和宣言」と被爆者の「平和への誓い」は明確で力強く、説得力のある演説だったので、ぼくがここでつまらないことを書くより、皆さんがぜひ直接触れていただきたい(**)。

 それに比べて安倍首相のあいさつは焦点がぼかされ、現地の人々との大きな乖離を感じさせた。地元の人たちがいかなる場合でも核兵器を使ってはならない、原発は安易に再稼動してはならない、いまだに苦しみと悲しみは癒えていないと訴えているのに、安倍氏は長崎は立派に復興、発展した、この日はそれを成し遂げた先人に思いを馳せる日でもあると述べた。

 安倍氏は今日から10日間の夏休みに入るそうだ。できることなら涼しいところに行って、じっくり頭を冷やしてもらえたらと願う。

◆参考サイト◆
(*)似たような意見の方がいらっしゃいました
愛国者の邪論/これが被爆国のマスコミか!長崎原爆忌のニュースをないがしろにする被爆国のマスコミを糾し正す!

(**)全文は以下に掲載されています
【YouTube】長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 長崎市長の長崎平和宣言(2013/8/9)
長崎平和宣言
平和への誓い 被爆者代表・築城昭平さん
安倍首相あいさつ全文=長崎原爆忌



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増税はさせなければいけない

2013年08月09日 00時00分09秒 | Weblog
 安倍首相が消費税増税に向けて50人の有識者会合を召集するという。どうやら賛成派も反対派もどちらも入れる方針らしい。本来ならどんな政府の会議でもそういう姿勢をとるべきだと思うが。つまり、これもただ自分だけにとって都合のよい会議だということだろう。今はどちらとも決めないよという姿勢を示したいわけだ。
 まあそれはともかく、ぼくはずいぶん以前からの増税論者である。
 税金は上げるべきだ。もちろん強い累進税が理想だが、もはや今はそんなことをどうこう言っていられる時でもない。

 もちろんその第一の理由は財政健全化が必要だということだ。国民一人当たり一千万円の借金という事態は、もはや常識では考えられない状況だ。
 
 参考:リアルタイム財政赤字カウンター 13

 第二には税収がないと福祉も環境もめちゃくちゃになってしまう危険があるからだ。批判はもちろん山のように、と言うより巨大山脈のようにあるけれど、結局のところ営利目的で儲け優先の企業や団体は、福祉にも環境にもカネを出すはずが無い。手を出したとしてもそれは自分が儲けられるところだけだ。あのワタミのように。だからどうしてもそれは行政に頼るしかない。
 踏みつけられ、つばを吐きかけられ、奴隷としてこき使われていても、ブラック企業に勤める人は雀の涙の給料のために耐え忍ぶ。今はそれでもまず自分が生きなければならないからだ。福祉や環境問題も同じなのだ。

 そして第三に、実はこれがぼくにとっては一番重要なのだが、日本経済をマイナス成長へ向かわせるための経済政策として必要だと思うからだ。
 日本は何をどう言っても世界中の富を搾取する、まさに「ブラック国家」である。悲しく悔しいことだが、それが現実である。
 そしてこうした不公平は経済の自然な流れとして、かならず補正する力が働く。アジア、アフリカ、中南米、東欧などの諸国がじわじわと経済発展を始めているのは、そのひとつの予兆である。
 いつかは必ず日本は破綻する。その前に我々がみずから意図的に経済の縮小を図り、ソフトランディングを成功させなくてはならない。そのために計画的に日本経済のマイナス成長を、なるべく痛みを少なくする方向でコントロールしながら進めていく必要があるのだ。まさに増税による経済縮小はそのために有効な手段である。
 もちろん安倍さんはそんなことを考えていないのだろうが、ともかくもまず消費税増税、そしてそのダメージに対して民衆が政府を批判することを通じて、経済縮小の中での平等化を促進させる。
 おそらく日本ほどの経済大国なら、相当の経済縮小になったとしても平等化が進めば、庶民はむしろ今より多くの意味で豊かになるはずだ。

 そういう意味で、増税はなんとしても実現させなくてはならないと思っている。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「思想」で考えよう

2013年08月08日 11時27分08秒 | Weblog
 最低賃金が改定され、北海道をのぞく全国で実質的に生活保護費を上回ることになった…というのだが、そもそも賃金よりも生活保護費の方が高いなどということ自体が社会システムとして破綻しているのだから当然のことではある。と言うより、現状のシステムのままなら生活保護費よりも賃金が上回ったというだけでは不十分で、相当程度高くならなければ働く意欲に繋がらないような気がする。
 人々に主体的に働く意欲が生まれない場合、行政としては強制的に働かせるために生活保護の受給を制限しなくてはならず、結果として本当に必要な人にお金がまわらない事態も発生する。
 その一方で、生活保護には不正受給の問題もついて回るが、不正受給を防ぐためには行政側もそれなりのコストをかる必要があり、むしろ不正であったとしても支払った方が安く済むという矛盾も生まれる。

 また最低賃金の底上げが当然だと言っても、今までそれができなかった理由もある。現実に賃金を支払う側の地方の中小企業が疲弊しているのである。そうである以上、賃金の上昇は、労働者の解雇や非正規雇用の増大、果ては企業の倒産まで誘発しかねない。
 どう考えても賃金と生活保護のシステム全体がどこか歪んでいる。何かがおかしいのだ。

 問題を単純化して考えてみよう。これは社会の生産する富とその分配の問題である。そうであればベストの方法は社会にとって一番ダメージの少ない形で富の分配が行えればよいということになる。
 しかしそれは単純な話ではない。つまり何が社会にとってのダメージであり、何がダメージではないのかという前提的な論議が必要だからである。
 地方の中小企業に負担させるのが一番良いと考える人もいれば、カネのあるところから持ってくれば良いと思う人もいる。それは何が違うのかといえば、つまりは思想である。

 カネのあるところから取ってくればよいと言う人は、社会とは社会を構成する全個人のことであり、特定の人の負担が背負いきれないほど重くなるような事態が一番のダメージだと考える。だからなるべく平等にするのが良いと考える。
 一方、社会とは経済発展のためのシステムだと考える人にとっては、儲けを増やせる人がもっとたくさん儲けられるようになることが重要で、そうした経済の牽引役の負担を大きくしたら、それが社会にとって一番ダメージが大きいと考える。持っている人からたくさん奪ってはいけないと言うのだ。
 乱暴な言い方をすれば社会主義的な発想か、資本主義的な発想かということになろう。

 そんな論議は聞き飽きたという人も多いだろうが、しかしやはりここが最も大きな分岐点なのである。

 一般的に言えば「どっちなんや?」「どっちもー!」というCMみたいな結論になるのかもしれないが、それは正しいようで間違っている。
 たしかに現実の政策は様々な要素を加味して、極端と極端の中間のどこかを選択せざるを得ない。それはむしろ柔軟であるべきだし、どのような政策であっても絶対に間違っているとは言えない所がある。
 しかし問題なのは、どこを目指しているのかということなのだ。
 北へ行く人も南に行く人も、どこかで同じところを通るかもしれないし、同じ場所でなくても似たような地形なら似たような歩き方をすることがあるだろう。平地なら走ることもあるかもしれない。しかし上り坂ならゆっくり歩こうとするかもしれない。
 歩き方は同じでも、しかし目指す方向が違えば最後に到達するところは全く別のところになってしまう。
 それがつまり思想なのである。

 現代人は、とりわけ現代の日本人は思想アレルギーだ。
 思想とか宗教と言うと極端に嫌ったり怖がったりする。しかし無思想だ、無宗教だと自分で思っていても、よほど意識的に自分の思想をニュートラルにコントロールできる人以外は、実際にはあいまいかもしれないが何かしらの思想や宗教を持っているものだ。こういう言い方が気に入らないのなら、メタ思想、メタ宗教と言い換えてもいい。もっと別の言い方をすれば、それはその人が社会的合意とか常識と考えていること、と言ってもよいかもしれない。

 大切なのは、まず自分の思想とは何かを知ることだ。
 思想なんか持っていないと言ってしまったら、そこで終わってしまう。そこで自分を問い詰めるのだ。自分はどこに価値観を置いているのか。
 そうやって自分と対話を重ねていくことで、自分の思想的基盤を理解し、自己批判し、鍛えていく。

 現実主義的に考えることは、現状肯定することではないはずだ。自分の理想がまずあって、そこから考えること、その地点から現実と向き合うことが現実主義的手法であるはずだ。
 どこへ向かうか自分でも知らない人は、永久にさまよい続けるしかない。もちろん向かう場所を決めたところで、さまよう人はさまようのだが、しかし行く場所を知らない人はしばしば誰かの後ろについていってしまうことがある。
 それはおそらく最も危険なことなのである。あなたにとっても、みんなにとっても。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨時国会は短すぎたのか?

2013年08月07日 18時09分05秒 | Weblog
 臨時国会が閉幕した。
 マスコミは喫緊で重大な問題が山積みなのに、こんなに簡単に終わらせて良いのかと批判している。
 確かにもっともな意見だが、しかし残念ながら現実には、今の日本の国会ではどんなに会期を伸ばしても意味のある論議はなされない。
 いったいどうしたものか。
 これは日本だけのことなのだろうか。それとも世界中どこでも同じなのだろうか。
 議会制民主主義の限界を感じる。ネットを利用した直接民主主義を主張する人たちもいる。しかしそれもおそらくあまり意味がない。混乱が深まるだけだろう。
 なぜなら議会制民主主義が劣化するのは、本来そこに主体的に参加するべき有権者が劣化しているからだ。社会の構成員全体が劣化しているのであれば、いくら直接民主主義を採用したところで優れた政治になるはずがない。
 その意味では第一次大戦後のドイツ国民が自らヒトラーを選んだのだという麻生氏の指摘はまったく正しいし、その話題に対してコメントをくれた「かい」さんの底の浅いマスコミの責任を問う批判ももっともだなあと、つくづく思うのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒロシマを無意味にしないで

2013年08月06日 23時48分32秒 | Weblog
 ヒロシマの原爆投下から68年。

 今日の平和記念式典での安倍総理のあいさつほど、怒りを通り越して脱力感しか感じない発言は無かった。99パーセントが欺瞞である。まだ無内容で無害なあいさつの方がずっと良かったくらいだ。
 いちいちその内容に突っ込む気力も失せているが、アメリカの核の傘の重要性を強め、NPTの会議での共同声明にも賛同せず、原発再稼動と輸出に血道を上げている安倍氏が、その言い訳をするわけでもなく、悪びれることなく全く逆に核廃絶を誓っていた。
 政治家の言葉の軽さが問題になるが、これほど軽い言葉も無いだろう。
 野球解説の張本勲氏の被爆体験を語る言葉の方が何百倍も心に迫る。

 今日の朝日新聞の特集記事などを読むと、すでに世界からは「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」が反核のスローガンではなくなっているのではないかという気になってくる。
 もはや日本は見透かされてしまっているのだ。核の傘に頼り、原発を輸出し、しかも自分たちのやった侵略への反省も無い一方的な被害者的発言をしていると思われているのではないだろうか。日本への共感と信頼がどんどん崩れているのではないのか。

 同じ朝日の夕刊には20代の社会学者・古市憲寿氏への取材記事が掲載された(「戦争、知ったかぶりやめないか」)。
 この中で古市氏は、日本は国家として戦争の位置づけをしてこなかったのではないか、だから日本人の多くは戦争について何も知らない。それなら今さら評価する必要は無く、戦争を知らないままの方が良いと主張しいてる。
 ぼくとしてはいろいろ批判するべき点がある論だと思うが、しかし若い世代からこうした意見が出てくるようになったのは、間違いなく我々世代の責任だ。

 我々「昭和30年代」生まれの世代は、たぶん戦争の生々しいイメージを受け継ぐことの出来た最後の世代だった。子どものころには周囲に実際に直接戦争を体験した人たちが普通に沢山いた。路上にはまだ傷痍軍人だって座っていた。
 しかし我々の世代は社会問題から目をそらし、結局バブルで踊って何もかも忘れ去ってしまった。我々こそが戦争の語り部のバトンを受け取り損ねたミッシングリンクである。

 ただ、若い世代にはひとつだけ言いたい。
 官製の歴史観など百害あって一利なしだ。そんなものはけっして求めるな。しかし自分自身ではしっかり歴史を見据え、考えてほしい。あなた自身の見識を持ってほしい。
 それはきれいに整合性のある歴史教科書である必要は無い。感覚でよいのだ。いやむしろ感覚が重要なのだ。
 もはや若い世代には直接戦争のイメージを伝えてくれる人はいないかもしれない。しかし文芸は残っている。小説でも詩歌でも映画でも、その日その時の誰かの感情をパックした作品がたくさんあるはずだ。
 説教を聞く必要は無い。感性を受け取ってほしい。

 戦争を誰のものでもない、あなた自身の一部として取り込んでほしい。
 そうしたら、おそらくそれが自分とは関係のない遠いところの話ではなく、実は自分や今現在世界で起きている様々なことと、そんなに遠くないところにあることに気づくだろう。
 それを知ったところから、明日について考えてもらいたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それが「○○の碑」だったとしたら

2013年08月05日 00時00分30秒 | Weblog
 米国ロサンゼルス近郊のグレンデール市に、従軍慰安婦の記念像が設置された。
 この問題がどのくらい日本で関心を持たれているのか知らないが、先日TBSの「サンデーモーニング」を見ていたら、意外にも司会の関口宏氏が強い反発を示していた。
 ちかごろ米国では在米韓国人団体が中心となって慰安婦問題でデモをしたり、記念碑を建てたりする運動が強まっている。今回のグランデール市の記念像については、東海岸で初めてということと、米国内では珍しく日系市民が強い反発を示し公聴会が荒れこことなどから、注目度が高かったようだ。
 記念像はソウルの日本大使館前に置かれたのと同形で、少女がベンチの片側に座っている像である。地面側にプレートが埋め込まれているようだが、特に威圧的でもないし暴力的でも挑発的でもない。
 なぜ静かに敬意を払って見守ることができないのだろうか。
 グレンデール市の公聴会では日系市民が「慰安婦問題は歴史の捏造だ」「慰安婦は売春婦だった」などと激しく市当局に抗議したそうだが、残念ながら慰安婦問題は歴史的事実であり、その点は現在の安倍政権でさえ認めているところである。「捏造」と言う方が歴史を歪曲している。
 明らかに問題を引きずっているのは日本側だ。もし戦前の日本の侵略政策とは一線を画している、戦前の日本のあり方を否定していると言うのであれば、慰安婦問題も戦争犯罪の一環として、韓国人とも米国人とも一緒に同じ立場を共有できるはずである。
 逆に言えば、慰安婦問題が捏造であると言う立場は戦前の日本を肯定する立場に他ならない。
 果たしてこれがナチスによるユダヤ人虐殺の碑だったらどうなのか。もっと踏み込んで言えば、これが原爆被害者の慰霊碑だったらどうなのか。
 これはあなたへの問いかけでもある。
 この問題は、平等、公平、平和主義、国際主義、そうした感性をあなたに問うている問題でもある。誰の立場でもないあなたという人間個人の意思、感性としてこれをどう見て、どう考えるのか。いったい誰にこそ寄り添うべきなのか。戦争を起こす側か犠牲者の側か。この碑が9.11テロ犠牲者の碑だったら? パレスチナやアフガニスタン、イラクの犠牲者の碑だったら?
 終戦の日に向けてのひとつの宿題としたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麻生「ナチス発言」の真意を考える

2013年08月04日 15時24分32秒 | Weblog
 麻生副総理兼財務大臣の「ナチス発言」だが。
 もっと早くに取り上げようかとも思ったのだが、正直言って何を言っているのか全く意味不明なので、批判の仕様がなかった。
 マスコミは麻生氏がナチス政権を肯定したというトーンで報道しているが、それは本当なのか、そしてそうだとすれば、なぜ、何のために、そしてナチス政権のどの部分を肯定したのか、そこのところがさっぱり分からなかったのである。
 まあ、揚げ足を取って追い込むのもいいのだろうが、やはりその人が本当に言いたかったことは何かを知ることは大事だと思う。たとえそれがおもしろおかしいことでなかったとしてもだ。

(なお、麻生発言全体についてはここでは再録しないので、みなさんで調べてもらいたい。たとえば次のサイトなどが参考になると思う。【総括】麻生副総理の「ナチスの手口」発言が行われた政治的背景と深層 #麻生発言 #憲法改正

 さて、麻生氏はバカではない。しかしそれは知識が豊かであることとは別問題だ。彼は言葉を知らず、漢字が読めず、歴史の知識はあやふやで(そもそも「ナチス憲法」というのは歴史上存在しない。この件は後段で考察する)、またお坊ちゃん育ちのためか、鷹揚と言えば聞こえがいいが、周りに細かな配慮をすることができない。
 それにもかかわらず、と言うか、彼のレトリックは高度に複雑である。吉田茂ゆずりなのか、英国流の諧謔を含んだ何重にも畳み込まれた発言は、なかなかその真意にたどり着くことができない。分かる人にだけわかればよい、分からない人間は表面的なところだけ聞いていればよい、というスタンスなのだ。
 だから彼の発言はかなり注意深く聞く必要があり、そのためにはできるだけ生のソースに当たる必要がある。
 ただ残念ながら今回はネット上で発言全体の録音が見つからなかったので、部分的に書き起こしたものと部分的な録音をもとにするしかなかったが、麻生氏の発言の真意をそこから探ってみたい。

 まずこの発言がどこで行われたのかという点から考察しなくてはならない。麻生氏が誰に対してアピールしようとしたのかということである。
 この発言が行われたのは、極右アジテーターの櫻井よしこ氏が理事長をつとめる国家基本問題研究所の例会で、「日本再建への道」と題された参院選後の憲法改訂問題を中心テーマにしたシンポジウムの中でのことだった。
 つまり麻生氏は確信的な極右の人たちに対して何かを伝えようとしたのだ。だからここでの発言は内々のもので外部に大々的に流れていくとは思っていなかったのかもしれない。
 その脈絡で考えると、実はマスコミがほとんど伝えていない部分にこそ核心が隠れいてるのだと思う。
 たとえば麻生氏は次のようなことを語っている。

「(社会に対する意識は)20代、30代の方が極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら、なんとなくいい思いをした世代、バブルの時代でいい思いをした世代が。ところが今の20代、30代はバブルでいい思いなんてひとつもしていないですから」
「この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う、しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる」

 これは何を意味した言葉か? 文字通り現在の50~60歳代の人々に対する批判である。それは具体的には誰のことを指しているのか。それはまさに安倍グループではないのか。安倍晋三氏やとりまきの山本一太氏、高市早苗氏などの政権中枢極右グループはまさに皆50代で、安保闘争における左右の激闘も知らず、バブルに浮かれて苦労を知らない世代である。
 麻生氏は自分たちの世代はもっと大変な時代を生き、多くの苦労をしてきた。今の若者たちも就職氷河期やデフレの時代を生きてきて苦労を知っている。それにくらべて50~60代世代は能天気で浮かれている、と批判しているのだ。

 それでは、それはどこに係る批判なのかというと、それは報道もされている次のような言葉から明らかである。

「今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない」

 麻生氏はこの発言全体の中で、確かに同様のことを何度も繰り返し言っている。彼がこの発言の中で言いたかったことはまさにこの点だ。喧騒の中で憲法論議をしてはいけないと主張しているのだ。

「いつから騒ぎにしたんですか。マスコミですよ!(机を叩く)(拍手)違いますかね?(拍手)いつのときからか騒ぎになった? と私は。騒がれたら中国も騒ぐことにならざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、しっ、静かにやろうやあ、と言うんで。」

 責任はマスコミにある。マスコミが騒ぐから中国や韓国が騒ぐ。だから悪いのはマスコミだ。だがしかし、ここは静かにやらないとうまくいかない、と言っているのである。
 それなのに今の憲法論議は「わーわー、わーわー」騒いでやっている。それではいったい誰が騒がせているのか。安倍氏ら何もわかっていない50代のグループである、という脈絡でこの批判は繋がっているのだ。
 そして、そこで出てくるのが「(ナチスの)あの手口学んだらどうかね」という言葉なのである。

 もちろんここでなぜナチスが引き合いに出されるのかという問題はある。麻生氏の不見識と言ってしまえばそれまでだが、しかしこれをただの失言問題として終わらせてしまうわけにもいくまい。
 ここには日本においては戦争責任の決着がつけられてこなかったという重大な背景が存在している。ちょうど映画「終戦のエンペラー」が公開されているが、まさにあの時しっかりとした戦争の総括がなされていれば、日本の戦後史と政治風土は大きく違っていたかもしれない。
 世界的なスタンダードで言えば(必ずしもそれが正しいかどうかはともかく)ヒトラーとナチスは「絶対悪」である。どの国も、当のドイツでもそういう総括がされて人々の思想の中に浸透した。仮にナチスを評価する人であっても、まずそれがスタンダードだということを前提に議論を始めざるを得ない。
 しかし日本の、特に与党政治家の中にはそうした常識が普通の常識として入らなかったのだと思える。戦争に賛同し協力した多くの「戦犯」政治家が戦後までずっと国家のリーダーとして居座り続けたからである。
 麻生氏の祖父である吉田茂はともかく、麻生氏自身はそうした与党自民党の中で政治家となり育ったわけで、いわば戦前と戦後の間の敷居が限りなく低い、そのひとつの表れが気楽なナチス発言として現れたのかもしれない。

 もちろんもっと一般的に言えば、麻生氏だけでなく、多くの人が現状の日本政治を見てヒトラーとナチス政権を思い起こしていることも事実ではある。ぼくもこのブログでフロムの「自由からの逃走」について言及したことがあったと思うが、まさに麻生氏自身も次のように語っている。

「いま(憲法改正発議要件としての議会の)3分の2っていう話がよく出てくるんですけど、じゃ伺いますが、ドイツは、ヒットラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒットラー出てきたんですよ。(中略)ヒットラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒットラーを選んだんですよ」
「ワイマール憲法という、当時ヨーロッパで最も進んだ憲法下にあって、ヒットラーが出てきたんだから。だから常に、憲法はよくても、そういったことはありうるっていうことですよ」

 まさに麻生氏が正しく指摘するように、選挙で大勝したからと言ってその勢力が正義であるわけではない。いかに日本国憲法が先進的で理想的なものであったとしても、その下でなお、安倍内閣の様な巨大極右政権が誕生してしまう。
 ただ麻生氏がここで言っていることは、安倍政権やナチス政権の肯定とか否定とかいう個別の問題ではなく、あくまで一般論なのだと思われる。
 まさしく彼は戦後政治の全過程を間近で見聞きし体験しているからこそ、ひとつ風が吹けば議会の多数派など簡単に変わってしまうことを知っている。安倍氏の持論である憲法改正の発議要件の緩和には(自分たちにとっても)リスクがある、ということをちゃんと理解していて、そのことを言いたかったのではないだろうか。

 だからこその「あの手口学んだら」発言なのである。
 もちろん脈絡から言ってこれはジョークである。それはどういうジョークかと言えば「現在の安倍氏のやり方は、あのヒトラーよりも劣る」という意味だ。
 問題の発言はこうだ。

「憲法もある日気づいたら、ドイツの、さっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わってたんですよ。だれも気づかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。(会場爆笑)」

 これは先に引用した「静かにやろうやあ」の直後に来る言葉である。
 ここでは実は「ナチス憲法」という言葉もひとつのキーワードなのかもしれない。先に指摘したようにナチス憲法なるものは存在しない。ヒトラーが「全権委任法」という法律を作って、憲法の文言には手をつけずに憲法自体を無効化してしまったのである。
 麻生氏がそれを知った上で言っているとすれば、彼は憲法無効化という刺激的な言葉をあえて避けたということになろう。そして当然、ナチスの手口とは憲法の無効化そのもののことである。

 全権委任法とはつまり、法律(立法、司法)を無視して政府(行政)が独裁的権力を握るということだ。事実上の三権分立の否定である。
 そして最も問題なのは、実はそれが今現在の安倍政権の方針だということなのである。
 ぼくは麻生氏は阿部氏とそのグループを批判していると書いた。しかしもう少し丁寧に言えば、麻生氏が批判したのは参院選前の安倍氏のやり方だったのだ。安倍氏は選挙を目前にして憲法論議に関するトーンを下げたと言われているが、それこそまさに麻生氏が主張する「喧騒の中で決めない」「ナチスの手口」への路線変更だったのである。
 つまりそれこそ「解釈改憲」の飛躍的な拡大なのだ。

 恐ろしいことに、それはすでに着々と現実化している。それが内閣法制局の長官人事であり、自民党の国会改革検討チーム始動なのである。これまで憲法が禁じているとされてきた集団的自衛権の位置づけを変更し、国会改革と称して事実上の国会の権限縮小をはかろうとしているのである。

 さて麻生発言の問題に立ち返ると、もしそうであるならすでに方向転換をしている安倍氏たちを、ここで批判する必要はないことになる。
 つまりここに麻生氏のレトリックの真髄があるのだ。彼はすでに自分の思ったような方向に向かい始めた安倍氏自身ではなく、その安倍氏を右側から煽って威勢の良いことを言ってきた人々、つまりは当日の櫻井よしこ氏が主催したシンポジウムを聞きに来ていた聴衆たちに対して釘を刺したのだと考えられるのである。なんとなれば麻生氏ははっきり「50代、60代。ここに一番多いけど」と名指しているではないか。
 いま安倍政権が憲法問題で後退しているわけではない。むしろヒトラーがやったように実を取ろうとしているのだ。だからむやみと騒いで邪魔をするな。麻生氏が言いたかったのはそういうことだったのである。

 おそらく安倍政権はしばらく憲法論議を封印するだろう。当面の問題は消費税である。そしてその間、まさに静かに静かに実質的な改憲を進めていくことになるのだろう。
 マスコミは「改憲」となれば大騒ぎするが、ひとつひとつの政策については、ただ政府の発表を垂れ流すだけである。たぶん多くの人はソマリア沖に派兵されている自衛隊が、先月事実上大きく位置づけを変えて、船舶警護の任務からアメリカの戦闘部隊の一員に組み込まれてしまったとことを知らない。
 まさにこういうことの積み重ねこそが「安倍・麻生の手口」なのである。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

批判のあり方について考える

2013年08月01日 22時47分08秒 | Weblog
 毎年8月になると戦争関連のドラマや映画が増える。今年のエンターテインメント映画の大型作品では「終戦のエンペラー」や「風立ちぬ」などだ。(戦争とは関係ないがぼく自身は「ローンレンジャー」が懐かしい。ぼくの子供時代は西部劇と言えばローンレンジャーだった)

 もちろん、ぼくは上に挙げた映画を見ていないし、おそらく映画館で見ることは無いだろう。だからこれらの映画について肯定も否定もできないし、評論することもできない。
 ただすでに左翼陣営からは批判の声が上がっているようだ。とは言え、ぼくはそれらの批判も読んではいないので、その批判についての評価もできないのだが。

 もちろん批判することは良いことだ。文化や社会は批判によって前に進んでいける。ただ戦争を扱ったら戦争肯定だというレベルの批判では意味がない。
 繰り返すが、ぼくは「終戦のエンペラー」も「風立ちぬ」も見ていないので、それが天皇の戦争責任を否定しているのか、ゼロ戦を作った堀越二郎を美化しているのか、それはわからない。また批判者がそういう批判をしていると言っているのでもない。批判の方も読んでいないからだ。ただ一般論として、そのレベルの批判だったら意味がないと言いたいだけだ。

 宮駿であれ、美術家の会田誠であれ、その批判が排除の論理に陥ると、それはどこまでも歯止めが効かなくなり、最後には何も残らなくなってしまう。
 それはつまり純化思想だからだ。もちろんこの社会の中には本当に排除しなくてはならない事物もある。しかしそれはあくまで限定的であるべきだ。批判は排除の論理に陥らない批判であることが重要なのだ。

 まずもって現実の政治や評論と文芸作品を同列で評価することはできない。なぜなら政治や評論などの実業は論理的整合が求められるが、文芸は逆に矛盾を描くものだからだ。と言うより矛盾を描かない芸術はただのプロパガンダでしかない。

 文芸(芸術)作品はただ作り手の考え方だけで成立するわけではない。受け手の側の解釈があってはじめて作品として成立するのである。そうでなければ「古典」が存在するはずがない。
 たとえば「源氏物語」や「伊勢物語」のエピソードが21世紀の日本で現実に起きたら、それこそ女性差別でありセクハラであり、ひょっとしたら刑事事件に発展するかもしれない。しかしそんなことは誰も考えない。現代人はおそらく当時の作者が思っていたこととは全然違う読み方をし、そうして現在の自分をそこに投影して様々なことを感じるのである。
 それはけっして間違った読み方なのではなく(少なくとも学問ではない鑑賞としては)、それが可能だからこそその作品は古典として残ってきたのだ。
 たとえばぼくは映画「スターウォーズ」の中に出てくる帝国をアメリカ合衆国に重ね合わせ、米国の世界支配に対するレジスタンスの物語のように感じながら見ている。しかしもちろんそれはぼくの見方であって、当然他の人は他の見方をするだろうし、ぼくとは全く逆の感じかたをするする人も多いだろう。
 ひとつの作品が作者の手を離れて、受け手の多様な読み方を可能に出来たら、それこそ本当の傑作なのだと思う。つまり良い作品は受け手(鑑賞者)の鏡なのである。受け手の感性が作品に投影されて帰ってくるところに、感動が生まれるのだ。

 ただもう少し踏み込めば、人間はむしろ意識的・積極的にひとつの作品を解釈しなくてはならないのだと思う。
 作品が鑑賞者の鏡であると言っても、しかしもちろんそれは作者やその背景にある文化を反映している。そこで鑑賞者は自分の価値観と作者の文化の価値観とを対決させざるを得ない。人間である以上まったく同じ価値観を共有しているとは限らない、むしろ違っていて当たり前だからだ。つまりこの対決こそが「批判」である。

 単純に作者の価値観を肯定したり否定したりするだけだったら、それは評論にも批判にもなっていない。
 文芸は人間の矛盾を描く。だからこそそれは論文になり得ない。論理的に整合した主張なら、何も文芸の形にする必要はない。論文であった方がよっぽどわかりやすいだろう。だから文芸作品の内部には文芸の形でしか表現できないものが必ず存在しているはずである。
 文芸作品を鑑賞しそれを評価するためには、鑑賞者はその混沌とした矛盾の中に一度身を浸さなくてはならない。泥をかぶらねばならないのだ。

 鑑賞者はとにかく一度作品を肯定しなくてはならない。その作品の世界観の中に入り込み、その作品を内側から眺めなくてはならない。もちろんそれはとても恐ろしいことだ。作品の質が高ければ高いほど、自分がその中に取り込まれてしまいそうになる。無条件で肯定したくなってしまう。
 だから批判するのなら作品の外側から批判する方がずっと簡単で安全だ。しかしそれでは文芸作品を文芸作品として評価したことにはならない。ただの政治的断罪のようなものにしかならないのだ。

 作品を評論しようとする者は、だから一度作品を肯定し、そしてその次にその内側から批判をしていくしかない。いちど作品と自分を一体化した後、言わば自己批判・自己否定としてその作品を内側から批判するのである。
 その時には鑑賞者は作者の怒り、悲しみ、喜び、誇り、そうした様々な要素を理解した上で、しかしさらにそこに違う価値観を持ち込み別の意味を対峙させるのである。そのときはじめて、最初のナマの自分の価値観とも、作者の持っていた価値観とも違う、第三の新しい価値観が生まれてくるのだ。
 そうした過程を経ることによって、鑑賞者は作品を通じて自己変革する。少なくとも名作と言えるような作品であればそうしたことが可能になる。それは別の言い方をすれば弁証法的な思想の発展である。

 実はそれは文芸作品だけに限った問題ではない。
 文芸作品が人間的な矛盾を、つまりは人間を描いているものである以上、こうした弁証法的方法論は、ある人間、ある誰かを批判する場合でも全く同じことだと言えるのだ。
 ある人を批判するのなら、つまり本質的に批判しようとするのなら、まず相手の内面に、相手の論理に入り込み、彼の本質にまで降りていかなくてはならない。
 そしてその場所から、彼の論理の内側からそれを批判しなければならない。そうしないと批判はただ表面的な非難で終わってしまうからである。

 批判は非難ではなく説得であるべきだ。直接的に批判の対象者を説得するという意味もあるが、そうでなくてもその批判を通じて違う誰か第三者を説得するのである。もし説得の手段で無かったら批判はただの憂さ晴らしの悪口にしかならない。それなら何も言わない方がずっとましだ。
 更にまた批判は常に自己批判でなくてはならない。
 相手の内側に入り込むということは、当然相手の側から自分を眺めることを意味する。相手の論理から見たとき自分の主張にはどんな問題があるのかを理解し、場合によっては反省しなくてはならないかもしれない。
 また当然のことながら、相手に対する批判は自分に直接跳ね返ってくる。相手に他者のものを盗ってはならないと批判するなら、当然自分も誰からも盗むことはできない。もし自分が過去に誰かから何かを奪ったことがあったとしたら、それは自分に対する批判でなければならないし、一方で未来の自分を規定もする。

 批判は相手を批判することにとどまらない。
 自分も絶対ではない。相手を批判する過程で自分の誤りや不十分さを自己批判し、その中で相手のものでも自分の主張そのものでもない新しい答えが見つかってくる。まさに批判は弁証法的でなくてはならないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする