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大川小学校遺族訴訟、いよいよ大詰め 今後の焦点は証人尋問へ
東日本大震災で児童74人と教職員10人が犠牲となった宮城県石巻市立大川小学校の惨事を巡り、23人の児童の遺族19家族が市や県に国賠請求を求めた裁判は、いよいよ大詰めを迎えている。11月13日には、仙台地裁の裁判官によって、被災校舎や周辺の裏山などの現地視察が行われた。今後は、教職員で唯一の現場からの生還者であるA教諭らの証人尋問の採否が焦点となる。
この日、高宮健二裁判長ら裁判官3人は、原告側の遺族や弁護士、被告側の石巻市と宮城県の関係者らと一緒に、遺族たちが「避難できた」と訴える裏山の3つのルート、校舎の状況や2階からの北上川の眺め、当時、子どもたちを引率して目指したとされる川の堤防上にある三角地帯などを約1時間半かけて確認した。
■ 遺族自ら道路や建物など失われた街並みをテープで再現
原告遺族たちは、震災直後から「目の前に裏山があるのになぜ避難できなかったのか?」「広報車の“河川に近づかないでください”という呼びかけを認識しているはずなのに、なぜ避難先に選んだのが河川のすぐそば(堤防上の三角地帯)だったのか?」などといった点の真実の解明を求めてきた。
今回の視察の目的は、当時、子どもたちが待機していた校庭から避難できる状況にあったのかどうか、「避難できたはずの場所」までの距離感や、津波が襲来してきた河川までの近さなどを体感してもらおうと、原告の遺族側が求めていたもの。
「何日もかけて、道路や建物がどこにあったのか、子どもたちがどういうふうに歩いて行ったのかなど、何もないところからみんなで力を合わせてテープを貼り、当時の景観を再現できた。私たちが日ごろから言っている原告の遺族全員が代理人となって、子どもたちの真実を追究していく作業が一体となってできたのではないか」
そう原告側の吉岡和弘弁護士は、視察後の囲み取材で説明する。
■ 裁判官は革靴のまま裏山へ
この日の現地視察で、革靴をはいた高宮裁判長ら3人は、3つの裏山ルートを実際に登り、津波到達地点(約8.6m)を確認した。震災の9カ月ほど前に当時の小学3年生が授業をした裏山のコンクリートたたきの2段目にも上がって、校舎などを一望した。ちなみに、津波到達地点の上に1段目がある。
視察に先立ち、裁判所の指示で原告側は、校庭で並んでいた場所から津波到達地点までの3つのルートにかかる所要時間をビデオ撮影しながら測定した。それによると、かつて児童がシイタケ栽培していた場所のあるAルートは徒歩で2分01秒、小走りで59秒。当時、生存児童らが焚火して一夜を明かした竹藪の中を通るBルートは徒歩で1分45秒、小走りで1分08秒。フェンス脇からコンクリートたたきを登るCルートは徒歩で1分49秒、小走りで1分08秒だった。
また、実際に当時、子どもたちが移動した三角地帯方向の民家裏の行き止まり地点までの時間は、徒歩で2分30秒ほどかかった。津波到達時刻の15時37分から逆算すると、終始、徒歩で移動したとすれば、15時34分過ぎくらいから移動を開始したと推測できる。
被告側からは、裁判所に見分を希望する点として、<三角地帯の標高が校庭に比較して6m弱高いこと、周囲に三角地帯以外に安全・円滑に到達できる高所が見当たらない><校舎2階からは川の水面は見えなかった>ことの確認のほか、<震災当時の実際の状況(余震が続いていたこと、前日の積雪、当日の雪・みぞれ及び寒さ、植生の状況、高齢者や幼児を含む地域住民が一緒に行動していたこと)に思いを巡らせて頂きたい>などと訴えた。
また「(学校がある釜谷地区の住民が建立した)慰霊碑の前にも行って欲しい」との要望も出された。被告側は、「子ども以外にも釜谷地区の住民がたくさん亡くなっている。地域住民はここに津波が来るとは思っていなかった」などと主張している。しかし、慰霊碑の視察は行われなかった。
■ 津波到達地点は、児童がシイタケ栽培していた場所のすぐ上と判明
この日は新たに、被告側の示す裏山のシイタケ栽培場所からわずか2~3メートル先が津波到達地点だったことが、被告側の説明でわかった。もしシイタケ栽培場所に移動していたら、子どもたちは助かった可能性があったといえる。
原告の遺族によると、裁判官の視察中、被告の市側は、シイタケ栽培跡地周辺の雑草が上半身くらいまで生い茂る今年7月撮影の写真を出してきて、「遺族が開放感を増すような草刈りをした。ここは登りにくいところであることを裁判所には理解してほしい」という趣旨の主張をしたという。しかし、原告の吉岡弁護士は「震災当時の3月11日の雑草の状況がどうだったのかが問題。論点とは外れた主張をしてきたことに、遺族はさらに怒りを感じている」と話す。
さらに、校舎の2階の窓から何が見えるかの話をした際、被告側からは桜の木で河川が見えないなどの意見が出されたのに対し、原告側は「3月当時なので葉が落ちていて川は見えた」と主張したという。
■ 生存教諭の尋問は実現するか?
一方、裁判の過程で最近、学校現場から教職員で唯一生還したA教諭の診断名と主治医名が初めて明らかにされた。
これは、原告側がA教諭や当時の校長らの証人申請をしたのに対し、被告の市側が提出した証人採否に関する意見書によって判明したものだ。同文書によれば、A教諭は「心的外傷ストレス障害(PTSD)」と診断され、2011年6月16日以降、地元の病院で治療中であるとしている。主治医は、「法廷での証人尋問はトラウマ体験を『強引に引き出す』ものと予測される」として、「裁判での証人尋問は許可できない」と意見しているため、市も証人尋問に反対せざるを得ないと主張している。
生存者で唯一の大人であるA教諭は、震災後の2011年4月9日、第1回保護者説明会で避難の経緯を話して以降、子どもたちや遺族の前に1度も姿を現していない。A教諭の語った内容に様々な矛盾点が見つかったため、遺族たちは、どこまで真実なのかA教諭に直接確認したいと、その後もずっと面会を求めてきた。しかし、市教委は、主治医が拒否していることを理由に、A教諭の診断名や主治医名も明かさず、市教委さえも面会できないと説明し続けてきた。
遺族たちは、2014年2月にまとめられた大川小学校事故検証委員会の検証報告書でも、A教諭が語ったとされる証言や当時行動したとされる場所等の矛盾がますます浮かび上がったとしている。実際、津波襲来前後、学校現場や裏山において、避難したり救助されたりした住民らの間で、A教諭の姿は目撃されていない。A教諭に対する証人尋問の申請は、納得できない遺族たちが真実を求めて裁判を起こすきっかけになった大きな目的でもある。
裁判は、来年1月までに主張立証が出尽くされる予定で、証人尋問が3月以降に行われる見通しだ。