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📚読書備忘録📚
(自己評価★★★★★)+泣ける物語
たまに山ブログ
         

S

2019-06-18 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
『新装版 播磨灘物語(二)』★★

何だろう・・痛快爽快だった(一)を経て、
そこから本格的戦国時代に突入したからなのか、ただ黙々と読み進めた感
官兵衛に感情移入してしまうと、思わずため息が出てしまう。

秀吉が登場し、信長の下で奔走している状況下
官兵衛の目線が信長から秀吉へ(あれ?それって(三)かも)

---


・信長
・英賀の浦
・野装束
・播州騒然
・半兵衛
・加古川評定
・三木城
・風の行方
・秋浅く ←
・村重


---



心理という、このあたらしい言葉で彼の生き方を解こうとするのは、用語として粗雑の気味もあるが、要するに官兵衛は、ひとの情の機微の中に生きている。ひとの情の機微の中に生きるためには自分を殺さなければならない。
(私情を殺せば、たいていの人の心や物事はよく見えてくるものだ)
官兵衛は早くから気づいていた。官兵衛に私情があるとすれば、一つしかない。
が、平素は忘れている。むろん、かれの父親にも洩らしたことはなく、かれ自身、真剣にそれを考えてみるということなどもなく、要するに、いまの日常からいえば桁の外れたことなのだ。
官兵衛はおそらく、みずからそれを思うときでも、ひそかにはにかまざるをえないであろう。つまり、天下を得たいということなのである。天下を得て志を万里のそとに伸ばしたいというのはこの時代の男どものおおかた抱いていた義憤であり、当然なことながら官兵衛だけのことではない。官兵衛の場合は含羞をもってそれを思うだけである。



---

信長で始まり、村重で終わる・・しかし村重許せない! と信長目線
どうしてそうなっちゃうのか。
武士道を最後まで貫かず、全てを捨てて独り奔走することは美学に反する。
やっぱり死が怖い?
始末のつけ方が切腹という世の中(もちろん想像出来ません・・)
生き延びたいという執念から逃げたくもなる?

軍師と呼ばれるだけあって官兵衛の思考は計り知れない。
竹中半兵衛なる同志 気になる(流れはそうなる)









はい まだ続きます。

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S

2019-06-13 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
『新装版 播磨灘物語(一)』★★★★

黒田官兵衛
とうとうココに行き着いた・・(笑)
『街道をゆく』を制覇し、もう一回り再読してから
『梟の城』へと進もうと思っていたのに。
(ちなみに『街道をゆく』残すところ42.三浦半島記、43.濃尾参州記)
司馬遼太郎最初の小説がコレになろうとは・・

黒田官兵衛じゃなかったら「播磨灘ってどこ?」ですよ。

司馬遼太郎独特の語り口が、まるで街道をゆくの続きみたい(それしか知らない)
歴史観をはっきり言い切るのもそうだし、
分からないところをぼんやりさせないところが読んでいて清々しい。
するすると進んでゆくのが意外な感じだった。
崇高な大作だらけで、歴史小説は私にはまだ無理かと。

官兵衛の曽祖父を取り巻く人達が黒田家に魅せられてゆく様がまた笑ってしまうほどおもしろい。
今で言う「人たらし」って言葉が浮かぶ。
その人が纏う空気感
言葉で説明するのは難しいけど、高貴に見えてしまう人っている。
(自分で言うのは何だが、中身の出来はよくないのに、よく見えてしまうわたし)
ハッタリじゃないけど、そういった勘違いから生まれる縁もある。

後半になると、主人公の官兵衛が登場するけど(あと織田信長!)
私的にはその曽祖父と父親に魅力を感じた。








さてまだまだ続きます。

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S

2018-08-06 | 司馬遼太郎



司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 41 北のまほろば 』★★★+


http://publications.asahi.com/kaidou/41/index.shtml

初心に戻るが如く青森
41冊目・・残りわずかで街道をゆく制覇!
道の奥 みちのくを旅してみたくなった。
秋田から先へ。
過去の記憶は十三湖の難破船としじみ汁
あと八戸からのフェリー
三内丸山遺跡
奥入瀬渓流での夕方の陽の残光とせせらぎ
結構覚えてる。
行ったことのないところはまだまだあるけど青森気になる。
ホント影響されやすい(笑)

---未---

直近で岡山、鳥取、山口、
あと・・海を渡って愛媛、徳島、高知
海を渡って宮崎

--------




























よくある常識って何だろうってふとあたまをよぎった。
「普通そうだよね」っていう「普通」
何を基準にしているのか、それは今までの経験値でしかない。
だから意外な発想に目が覚める思いで惹かれてしまう。
イラッとしたら無視して時の流れを待つのが一番


夜10時の熱海の動かぬ渋滞
既に気分は夏休みなんだけど、現実は真夜中の混み合う環八を睡魔に襲われながらの帰宅
そしてこの一週間を乗り切って9連休~

伊東温泉に貢献
https://www.hotespa.net/hotels/komeya/

https://retty.me/area/PRE22/ARE319/SUB7604/100000725257/

http://www.steak-ikeda.jp/


とても充実した運があるようなないようなふらっと小旅行
波乗りしてシュノーケリングして温泉入って美味しいもの食べて^^
かばんの中には椎名誠の東北記


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S

2018-05-24 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 40 台湾紀行 』★★★+

http://publications.asahi.com/kaidou/40/index.shtml

半年ブランク司馬遼太郎
40冊目となる台湾紀行(冊数だとスゴク読んだ感)
「国家とはなにか」がテーマ
時代背景は別として、色々な人との交流があり、一味ちがった旅行記
台湾に関する膨大な文献を読んでいるなと思わずにはいられない。
身になる読書をしている人って司馬遼太郎みたいな人を言うのね。
あと残りわずか・・
今のところそのまま一巡して再読の楽しみへ。
先の展開が浮かんできたらそれはそれでおもしろいかなと。
色々吸収したい。

読む本が山になってるよ~
分かっているけど、この本はスピードを上げられない。

電子版→https://publications.asahi.com/kaidou/
紙派としては興味薄
この台湾紀行も結構な古本で匂いたつ。くんくん。
































続いているjump one
しかし、先日の帰り道メールが溜まっていたから、
いつも通る道を避け、裏道で思う存分歩きスマホしていたら・・
!!!穴にハマった・・
足首がガクッとなりそのまま再起不能・・しばらく動けなかった。
最近よく聞く歩きスマホを注意する電車のアナウンスを思い出した。
あぁついてない。
夜道の歩きスマホ要注意(知らない裏道は特に)
おかげでジムはお休み///ぴょんぴょん



ココ最近はBJ1★パンチパンチパンチ

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S

2017-12-22 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 39 ニューヨーク散歩』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/39/index.shtml

さらっとした39巻目
年末差し迫り
読書している場合じゃない師走?
お正月読書は夏目漱石と苦戦挫折なベトナム戦争
あと読書会の課題本(未定)


司馬遼太郎はしばしお休み また来年~



---





たまに見られる書き込み「ご親切に」

あ これ前巻のオホーツクだった・・(笑)



---





今回も下北の例のカフェにて待ち読書
しかし店員さんの態度にせっかく気に入ってたのにもぅ行かないかも・・
だからお客さんが少ないのかもね?






























この季節だからこそなのか、80%OFFは迷わず買い~
キレイなブルーのスカート



ドタキャンされ「大変申し訳ございません。」なんて逆にどうなの?って思ったけどそれがryoさんらしさ。

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S

2017-12-15 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 38 オホーツク街道』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/38/index.shtml

しばしの距離を取ってみた(と言っても一週間ほど?)
ファイナル近し!
季節にあった読書*流氷一度は見てみたい*
知床トレッキングもしてみたい。
来年は北海道かなって思ってる。登別温泉





---

秋の旅 冬の旅

縄文の世
モヨロの浦
札幌の三日
北天の古民族
韃靼の宴
遙かなる人々
アイヌ語学の先人たち
マンモスハンター
研究者たち
木霊のなかで
樺太からきた人々
宝としての辺境
花発けば
ウイルタの思想
コマイ
アイヌ語という川
遠い先祖たち
シャチ
貝同士の会話
雪のなかで
声問橋
宗谷
泉靖一
林蔵と伝十郎
大岬
大海難
黄金の川
佐藤隆広係長
紋別まで
森の中の村
小清水で
町中のアザラシ
斜里町
斜里の丘
流氷
旅の終わり

---



「インディギルカ号遭難事件」
冬の海に消えた700人・・
http://www.vill.sarufutsu.hokkaido.jp/hotnews/detail/00000361.html
































私的な北海道の想い出は根室の夕焼けかな。
どこまでも広がる地平線、全てがオレンジ色に染まってとても眩しかった。
子供の頃の記憶でも覚えている。




























先日の「ひとり」アピール・・
本当に「ひとり」だったのか・・
結構しつこく繰り返し言ってたから何だかおかしかった(笑)
意図的なのか自然なのか??
まぁそこで「ひとり」と言わなきゃ「誰と来たのよ」得意の勘繰り

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S

2017-11-23 | 司馬遼太郎



司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 37 本郷界隈』★★★
http://publications.asahi.com/kaidou/37/index.shtml


出来れば同じ病院でずーっと定期健診を受診したいのだけど・・
会社の場所も変わったし、お引っ越ししたのもある。
利便性を考え、今回は新宿の金内メディカルクリニック
その待ち時間に読む読む。
8時半に受付、11時過ぎに終了///

機械の視力検査で0.8って言われ「そんなはずない!」って悲観したら、
旧式の方法で(壁に貼ってある紙)検査してくれて「1.5見えてますね」だって。
ホッとした。


後日、本郷界隈を歩いてみようと思ってる。
白山は高校生の頃来たことがあり、思い出深い?場所
あの頃は何を考えていたんだろう?



---

索引から

・油坂
・壱岐殿坂
・傘谷坂
・切通坂
・炭団坂(たどん)
・団子坂
・忠弥坂
・天神石坂(男坂)
・天神女坂
・根津裏門坂
・福山坂
・見送り坂/見返り坂
・無縁坂
・弥生坂

---

坂だけでもこんなに!!



気になるワード

---

牽引から

・岩崎邸
・追分→本郷の追分
・クスノキ
・朱舜水

---







































季節を感じよう* カメラ目線で笑って^^


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S

2017-11-20 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 36 本所深川散歩、神田界隈』★★★

http://publications.asahi.com/kaidou/36/index.shtml

元我が住まい、既になつかしく思う。
5年の間だったけど都内で一番ながく住んだ場所



---



神田神保町の古本屋さんの棚の前で本に見入っている中年の男の横顔がじつにいい、活字が視線に吸いこまれて脳細胞がうごき、その脳神経のうごきがふたたび光にともなわれて活字に吸いこまれている。人間というのはすばらしいですね。……



---



下町という言葉を、この頃は「下層の町」という意味に使ったり、そのように解釈している人があるが、下町は山の手の対する呼び名で、東京の地形から出ている。



---



江戸でも神田は火事が多かった。
その神田でも神田佐久間町が火元の場合がとくに多かったといわれている。
――佐久間町じゃなくて、悪魔町だ。
などと、いわれた。このことは、神田花岡町(明治初年は、秋葉の原)の火伏の神である秋葉神社のくだりで、わずかにふれた。
佐久間町というのは神田の東の端で、地下鉄秋葉原駅の東側にある小地域である。
駿河台の東麓にあたるため、冬の西北風がはげしく吹くと、低い佐久間町で気流が渦巻き、わずかな火でも大きくなり、遠くへひろがりという説がある。げんに、江戸時代、佐久間町から出た火が佃島まで飛火したという例が二度ばかりあった、
“火もとは佐久間町っだ”というと、江戸じゅうがふるえあがったらしい。佐久間町のひとたちにとって、たまったものではなかった。
それほど火事に縁がありながら、佐久間町には材木商や薪商が軒をならべていて、火が出るたびに火勢を大きくした。そんな商売が多かったのは、この町が神田川の北岸にあって、筏を入れるのに便利がよかったためである。
明治二年(1869)の神田大火は、またしても佐久間町にちかい相生町から出火して、十ヵ町をひとなめにしてしまった。新政府はちょうどさいわいとおもったのか、火災のあと、九千坪の町屋をとりはらって火除地をつくった。

ところが、世にもふしぎなことがある。
東京じゅうを火の海にした関東大震災(大正12・1923年)のとき、神田はおろか東京の下町(低地)のほとんどが焼けてしまったのに、神田佐久間町だけは、二丁目から四丁目まで涼やかに焼けのこったのである。
奇跡でもなんでもなく、地震から四時間後に発生した東京大火のなかで、佐久間町のひとびとが、町内を一歩もしりぞくことなく、中世の籠城軍のように火という火を叩きふせて消してしまったのである。むかしからの不評判に、全員が腹をたてていたにちがいなく、こんな話は日本都市史上、稀有なのではないか。むろん、官の指導でもなく、また玄人の消防がやってきてくれたわけでもなかった。
佐久間町を襲った火は、まず神田駅方面からやってきて神田川の南岸を舐めつくした。佐久間町は北岸である。火は南岸から町にむかってさかんに火の粉を降らせた。
この間、佐久間町のひとびとは逃げるよりもいっせいに踏みとどまり、さまざまな手段で消してまわった。その当時、豆腐屋、魚屋、八百屋には専用の井戸があったから、ひとびとはそれをつかい、ほとんど、バケツリレーだった。
なかでも危険な建物は、木造二階建の佐久間小学校で、その二階天井裏に火が入ったときばかりは、ひとびとはこれまでかとおもったらしい。なかでも勇敢なひとたちが教室にとびこんで学童用の机を天井裏まで積みあげ、それにのぼり、下からバケツリレーを受けては天井裏に水をかけ、しまいには豆腐をぶっつけて火を消した、という。その話が、千代田区編纂の『おはなし千代田』に出ている。
これが、九月一日のことであった。
夕方には消しとめたのだが、その夜の八時ごろになって火はこんどは国鉄(JR)秋葉原駅のほうからやってきた。それを四時間かかって食いとめた。
翌二日の朝八時ごろ、三度目の大火が蔵前方面から延びてきて、佐久間町を、その東と北からはさみうちするように襲いかかった。町内のひとびとは十数時間、消火に駆けまわって消しとめた。
この九月二日の消火段階になるとひとびとは馴れてきて、和泉町にあった東京市の下水道ポンプ場の水を利用した。
また佐久間町に「帝国ポンプ」というポンプ屋さんがあって、たまたまガソリンポンプが置かれていた。ひとびとはそれを操作し、まず井戸水を汲みあつめ、右のポンプでもって放水した。
足かけ二日、消火に駆けまわった時間は三十一時間で、世界防火史上、類のない奮闘で、見返してやるんだという意気ごみでいえば、いかにも下町っ子らしい働きだったといえる。
いま、
「町内協力防火守護之地」
と刻まれた碑が佐久間小学校の校庭にあるというが、私は見ぞこねている。

明治三十七年うまれの神田っ子である故永井龍男氏は、神田について「東京のうちでも火事の多いことで知られていた」ち、『落葉の上を』(朝日新聞社)に書いている。

……北風が吹きすさんで、横丁の裏店のトタン屋根までガタピシ突っ込んでくる冬の夜は、お袋は位牌と火災保険の証書を枕もとに置き、シャツ・モモヒキ類は、火急の際にも身につけられるように命令を下した。

そのお袋は、生命保険のことなどこれっぱかりも知らないが、火災保険だけは無理に無理をして再契約した。

なんだか火の上で暮らしているような覚悟のよさで、このあたりはさすが火事が名物のまちだけに、さきにふれた奈良、京、金沢という火の用心が徹底したまちとは、気分がちがっている。
近火が発生した町には、警察の手で非常線が敷かれる。警官たちは口に呼び笛をふくみ、手に六尺棒をもっている。火事場のまわりに非常線を張るのは全国共通であるにしても、火事を背にして警官が変に勇んでいるようにもおもえる。当時は、東京の警察は茨城県出身が多かったが、
もっとも、警官が排除すべき弥次馬のほうも、多かったろう。
永井さんは、末っ子である。「長兄は十二歳の頃、小学校を中退して印刷工場の徒弟(『東京の横丁』)になったが、その火事のときにはすでに若者になっていた。永井さんの一家が手当たり次第に家財をかついでは、市電の線路道まで運び、線路上で夜あかししていると、思わぬとこに長兄がそこを見つけてやってきた。
長兄は、勤めを終えて神田小川町で友達と呑んでいると、猿楽町が火事だときいた。人力車を飛ばして火事場をめざしていると、駿河台下で非常線に引っかかった。友達が、とっさに永井さんの長兄を華族の若様に仕立て、
――若様、お邸が燃えています。お早く。
といった。おかげで、警官が目をつぶってくれたという。神田は下町とはいえ、一部お屋敷町もあって、古風な洋館の小松宮家や西園寺公望の邸があった。“若様“には現実感はあったのである。
幼い永井さんがそのときの長兄の姿を見ると、「着ていた羽織を一つかみにふところへねじ込んだ威勢のいい姿」だったという。火事場に駆けつける若者の心得もうかがえる。
永井さんの小学校の錦華小学校も、このひとが四年生のときに焼けてしまい、六年生の卒業まで二部授業で、卒業式もよその学校を借りておこなわれたらしい。



---

長文抜粋してしまった。



























わたしの中の神保町界隈は、上京してから何度となく通っている街
お気に入りのカレー屋さんもそう、
なつかしのゴルフスクールもそう、


先日ふらっと喫茶店開拓☆





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S

2017-11-09 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 35 オランダ紀行 』★★

http://publications.asahi.com/kaidou/35/index.shtml
結構厚めなハードカバー
オランダ・・全く分からない・・
ゆるゆると一日一時間 各駅停車で見知らぬ異国へ旅をする。







---



ヨーロッパ人にとって、つねに隣国はめざわありで滑稽であるらしい。
だから、一口噺が多い。
「あるとき、ベルギーの酒場に二人のオランダ人がやってきて、やがてけんかをしはじめました」
というのは、どうやらベルギー製の一口噺らしい。
「店の主人が割って入りわけをきくと、支払いのことだ、という。どちらがカネを払うかということでもめているという。じゃ、私が仲裁しましょう、と主人がいって、水を満たしたバケツを二つ持ってきて、“顔を浸けなさい、早く顔をあげたほうが支払うんです”ということにしました。オランダ人たちは、従いました」
「そのあと、どうなりました?」

「二人とも死にました」
ということだった。説明するまでもないが、この一口噺はオランダ人はケチだということを主題にしている。
オランダ人も負けていず、オランダ製の一口噺も多い。

世界一薄い本が、二つあるんです。一つはドイツ人のユーモア本で、一つはベルギーの歴史の本です。

たしかに、国家としてのベルギーの歴史は若い。







---



入念村にゆくまで

「ニューネン(Nuenen)」
という小さな村の名は、私は日本におけるゴッホについての本によって“ヌエネン”としておぼえていた。
しかしオランダにきてみると、たれもがニューネン、もしくはヌーネンと発音していた。
「ヌエネン」
というと、けげんな顔をされた。ニューネンという簡単なことばがなかなか頭に入らず、ついに、
「入念村」
としておぼえることにした。ゴッホの浮彫(レリーフ)のように盛りあげた作品が、入念という語意にふさわしいとおもったのである。
といって、ゴッホの描法が丹念であるということではない。
ゴッホは、ある時期から迷わずに一挙に形を描き、修正することをしなかったそうである。色彩についても自分の直観を信じ、色をえらぶのにひるむことがなかったらしい。
が、構想については入念だった。







私どもは、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh 1853~90)への旅に出る。
すこし気どっていえば、才能を抱かされてしまった者への悲しみの旅といっていい。
芸術家にとって最大の侮辱は、――君には才能がない。
ということだが、普通の生涯を送ろうとする者の場合、才能とはおよそ荷厄介なものである。善良な父が、あどけない嬰児に才能をもとめるだろうか。才能のために、窮乏、あるいは数奇な生涯を送ることをのぞむかどうか。

ともかくもゴッホは生まれつき才能という毒気に中っていた。
死の前々年のクリスマスの前夜、かれは自分の左耳たぶを切りとり、娼家へゆき、
ラシェルという娼婦に、
「これを。――」
と、手渡した。
かれは、自殺を賛美したことは一度もない。が、耳切り事件の二年後、麦畑のなかでピストルを発射してしまった。
古ぼけた連発式ピストルで、自分の左脇にあてて撃ち、そのまま宿に帰って、ベッドに寝た。
パリから、かれの終生の保護者だった弟のテオ(Theo)がかけつけたとき、ゴッホは冷静にいった。「泣かないでくれ、みんなのためによかれと思ってこうしたのだ」(アルバート・J・ルービン著、高儀進訳『ゴッホ/この世の旅人』講談社)
やがて、テオの腕のなかで死んだ。
テオは豊かではなかったが、ゴッホに送金しつづけてきた。ゴッホにとってテオだけが頼りだった。そのテオが家庭をつくった。結婚し、男児を得た。そのことが、ゴッホの心を重くした。自分は見すてられるのではないか。でなくとも、弟にとって自分の存在は負担なのではないか(むろんテオはゴッホを見すてるどころか、ゴッホの傷つき、翌年死ぬのである)。
こんな厄介な生涯を、世のつねの人はえらびたがるだろうか。



「ゴッホさんは、疲れるね」
と、家内がつぶやいたのが、印象的だった。



黄金の十七世紀のレンブラントは描きつづけたが、十九世紀のゴッホは、衰弱したオランダのように悲しいのである。







---










わたしの中のゴッホはこれかな★
一体何人の結婚式にこの電報を贈ったことか・・







































自分の身体の中で何が起こっているのか。
よく観察してみましょう
yogaでよくきく言葉



新たなる出逢い
「あなたとは世界がちがう」それでいて「鈍感」
ハスキーボイス

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S

2017-10-24 | 司馬遼太郎


司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 34 大徳寺散歩、中津・宇佐のみち 』★★+

http://publications.asahi.com/kaidou/34/index.shtml

会津のみちでテンション上がって、
それを引き継ぎつつ大徳寺散歩・・好き 高桐院

20代の若かりし頃に京都にハマり、毎年のように通ってた。
最近は疎遠気味で最後に行ったのは・・確か5年ぐらい前?
本当は来月京都予定だったんだけど、鹿児島に。
京都のどこが好き?と聞かれたら「詩仙堂」って迷いはないけど、
印象深かったのは「高桐院」も同じ。

この街道をゆくを全制覇したら『梟の城』と思っているけど、
再度巡ることも考える。
たった一回読んだだけじゃ得られない。

久々に読書会に参加希望☆
こちらも新たなるご近所仲間と。


さて後半の中津・宇佐のみちで一気に失速・・
「さすがに飽きてきた?」と内心不安がるも
!!!
合元寺での黒田如水親子による豊前の豪族 宇都宮氏の謀殺
それにまつわる赤壁伝説にグッと惹きこまれ一気に読破


今回の司馬散歩も身に染みました。
あぁ儚きことは美しき かな。

戦国時代に生きていたら命の尊さ、生きている実感
どころじゃないんだろうね。


最後中津城の天守のくだりは ははは おもしろかった!























































ご褒美高級エステを失念するって何?
完全に抜けてた・・老いと上手く付き合う。
最近「美魔女」って聞かなくなった・・だって 魔女 だぜ?

日帰り温泉で湯上りのすっきりした肌に、
再び化粧を施してゆく人を結構見かける・・
(わたしは化粧水乳液でてかてか肌のまま帰るけど)
そこまでキレイに見せたい?
それこそ外見ぐらいはありのままでよいのでは?なんてね(笑)
寝化粧・・オーバーナイトファンデーション!?
こうなったら何でもありね。

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