異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

近ごろ気になることー「天皇を護憲の守護神のごとく見てよいのか」 〔澤藤統一郎の憲法日記 2016.9.7〕

2016-09-07 23:41:16 | 昭和天皇 平成天皇 天皇制

澤藤統一郎の憲法日記 http://article9.jp/wordpress/より転載

改憲への危機感から毎日書き続けています
 

近ごろ気になることー「天皇を護憲の守護神のごとく見てよいのか」

「憲法日記」と題した当ブログ。本日で連続更新1256回となる。3年5か月と7日。毎回が何の節目でもない積み重ねの一コマ。毎日途切れることなく、飽きることなくよく続くものと、自分でも感心している。

ときおり、読者から励ましの言葉をいただく。
励まし方には二とおりある。名誉毀損であるとして高額損害賠償請求訴訟の被告とされることも、「不敬言動調査会」などの「警告」も、私には発憤の材料である。そのたびに、「萎縮してはならない」と自分に言い聞かせる。嬉しくはないが、非難も罵倒も恫喝も励ましには違いない。誰にも心地よく、毒にも薬にもならない無難な内容のブログなら、時間と労力をかけて書き続ける意味はない。

他方、本当の意味での暖かい励ましの言葉をいただくと本当に嬉しい。私の意見は、常に少数派のもの。その少数派の人たちに、「同感し、励まされます」と言っていただくと、書き続けることの意義を再確認して、また書き続けようという意欲が湧いてくる。偶然だろうか、最近は出版関係の0Bの方から、そのような励ましをいただくことが多い。

下記は、そのような励ましのお手紙に添えられた、「職域関係会報に載せた」というご意見の抜き刷り。ご紹介して是非お読みいただきたい。筆者は戦中派の年代の方。

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近ごろ気になること(2016・4・24)

 2月27日の朝日歌壇に《フィリピンで果てにし父よ両陛下慰霊で供花す暑さの中を》など、天皇訪比を称える歌3首が載っていた。

同じ選者が選んだものだ。選者は「評」の中で「両陛下のフィリピン慰霊の旅、日比両国民に犠牲を強いたあの戦争を忘れてはならぬというお言葉に共感を示す歌が多く寄せられた」と書いている。3月26日の東京新聞「平和の俳句」には「今現に九条貫く天皇あり」という句が選ぱれ、選者は「潔い句だ。作者の気持ちの込め方も、その対象の天皇のお姿も言動も、まことに潔い。今次大戦を深く悔いて、平和を願う天皇皇后」と述べていた。

 安倍暴走の中、時おり見せる平和主義的言動のゆえに天皇を護憲の守護神のように見なす傾向が強まっている。ある元外交官は「大御心」という古語を使って礼賛し、ある政治学者は九条の会関係の講演で「お言葉」「お立場」「おっしやいました」を連発して感激している。
 しかし、天皇はこうした護憲的イメージと裏腹な言動を見せることもある。昨年4月パラオ慰霊の旅への出発時には「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々」云々と述べた。右側の人たちは歓喜した。その一例《ご出発に当ってのお言葉に、「祖国を守るべく戦地に赴き」との一節。一見、何気ないご表現に見えるかも知れない。しかしこれは、戦役者への「顕彰」に他ならない。わざわざ「祖国を守る」為と明言されているのだから。
[略]
 これらは紛れもなく、ご嘉賞(お褒め)のお言葉と拝すべきだ。それらの戦地で斃れた英霊たちを、ひたすら″気の毒な″被害者、犠牲者と見るようなお態度では、全くない》(新しい歴史教科書をつくる会副会長のブログ)。このブログの言う通り、天皇は、この時、戦死者を顕彰すべき英霊として捉え、あの戦争は祖国防衛戦争であって侵略戦争などではないと言っていたに等しい。

 また、2006年12月には、イラクに派遣された自衛隊員約180名を皇居に招き、「ブッシュの戦争」と呼ばれる露骨な侵略戦争に関わった武装組織の労をねぎらった。この4月には「神武天皇没後2600年」という驚くべき行事に出席している(この行為には憲法20条3違反の疑いもある)。こうした言動に対してマスメディアは勿論、護憲派諸組織も、疑念や懸念を表明したことはない。

 現在の日本において天皇は至高の存在だ。メディアで報じる時は必ず最大級の敬語を用いなければならない。右のような言動についてもその評価を自由に論じることなど事実上許されていない。そんな状況の中で、民主主義と自由を希求する護憲派が、いかに安倍政治に対抗するためとはいえ、賛美する一方で良いのだろうか。戦時中「天皇陛下のおんために死ねと教えた父母の」などと歌わされ、先生の訓示の中で「天皇陛下」という語が出てくるつど全員さっと直立不動の姿勢をとらされた経験を持つ人間としては、どうも気になるところだ。

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まったく同感である。天皇を護憲の守護神のごとくたてまつってはならない。憲法が厳しく限定した枠を超えて天皇の言動を許してはならない。また、天皇の個性は偶然のことがらで、天皇制の持つ意味は必然のことである。この両者の区別を意識しなければならず、混同してはならない。

私の拙いブログが、このような意見を持つ方たちと励まし合う関係になるのなら、欣快の至り。「憲法日記」ずっと書き続けなければならない、と思う。
(2016年9月7日)

 

 

 


天皇のおことば表明 退位への動き、昨夏から 6年前に意向、議論進まず〔毎日新聞 2016.9.7〕

2016-09-07 23:00:24 | 昭和天皇 平成天皇 天皇制

毎日新聞http://mainichi.jp/articles/20160907/ddm/010/040/004000cより転載

天皇陛下おことば表明 退位への動き、昨夏から 6年前に意向、議論進まず
毎日新聞2016年9月7日 東京朝刊

 
ビデオメッセージで象徴としての務めについてのおことばを述べる陛下=8月8日、宮内庁公表

 天皇陛下が退位の意向を周辺に示されて以後、どのような水面下のやりとりを経て表明に至ったか。宮内庁と首相官邸はどう動いたのか。高齢と象徴天皇の在り方について、陛下がこめた思いとは何か。これまでの経緯を検証する。

 

「定年制」問題提起

 
胃や十二指腸に出血の痕が見つかった日から18日後の誕生日の一般参賀で、皇后さまとともに人々に笑顔で手を振る天皇陛下=2008年12月23日、長谷川直亮撮影

 天皇陛下は8月8日のおことばで「ここ数年、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました」と話された。宮内庁の風岡典之長官は同日の記者会見で、「ここ数年」とは5、6年前からだったと説明した。宮内庁幹部によると、2010年夏ごろからだったという。

 陛下は03年1月に前立腺がん手術、12年2月には心臓の冠動脈バイパス手術を受けた。2度目の手術前の11年11月には気管支炎での入院もあり、陛下も周辺も年齢をより意識するようになった。秋篠宮さまが「(天皇の公務の)定年制というのはやはり必要になってくると思います」(11年11月の誕生日に合わせた会見)と問題提起したのはこのころだった。

 宮内庁の羽毛田信吾前長官も12年6月の退任会見で、「ブータンのようにある年齢で退位するなら別ですが、わが国は終身天皇。そのジレンマをどう解決するか、ずっと引っかかっている」と発言。陛下の退位の意向を踏まえてのものとみられるが、当時は官邸も含め真意に気が付かなかった。

 12年10月、野田政権は女性宮家についての論点整理をまとめた。宮内庁と首相官邸の幹部が一緒に有識者からヒアリングを行っており、当時の官邸幹部は「宮内庁と意思疎通をしていた」と言うが、それでも退位の意向は官邸に知らされなかったという。当時の宮内庁幹部は「今とは切実度が違ったから」と話す。12年12月に第2次安倍政権が発足すると女性宮家の検討は封印された。皇室典範改正準備室は開店休業状態となり、宮内庁と官邸の日常的な意思疎通のパイプは細くなっていった。

転機は「8月15日」

 
心臓の冠動脈バイパス手術を受けた後、東大病院を退院する陛下=12年3月4日(代表撮影)

 退位への動きが突然進むのは昨年後半からだ。杉田和博内閣官房副長官のもとにも極秘検討チームが設置された。きっかけは「終戦記念日」だった。

 陛下は、昨年8月15日の全国戦没者追悼式で黙とうと追悼のおことばを述べる順序を間違われ、10月25日に富山県であった「全国豊かな海づくり大会」でも進行を誤解したとみられる場面があった。12月18日に82歳の誕生日に合わせた記者会見で、陛下は行事での間違いに自ら言及した。

 陛下にとって8月15日は天皇の務めのなかでも特別の意味を持つ。その役割を十分果たせなくなるという思いが、以前から持っていた退位への意思を一段と強くしたと宮内庁関係者はみる。

 

 

 

「早期に」希望強く

 

 風岡氏は今年8月8日の記者会見で、おことば表明の時期について「昨年から公にするのにふさわしい時期が来ているとの思いはあった」と明らかにした。宮内庁幹部によると、昨年12月に陛下の誕生日会見での表明も検討したが、「熟度が足りない」と見送られた。官邸での検討が十分に進んでいなかったためとみられるが、早期に表明したいという陛下の意思が強かったことがうかがえる。

 今年に入ると、陛下は1月にフィリピンを訪問、4月の熊本地震後には現地視察をするなど公務が続いた。官邸では杉田官房副長官のチームが「生前退位は難しいので摂政で対応すべきだ」とする結論を伝えたが、宮内庁は「できるだけ早くお気持ちを公にしたい意向がある」と、今夏の表明に向けて準備を進めた。5月半ばには宮内庁幹部らが頻繁に会合を重ね、検討を加速させた。今年12月の陛下の誕生日の会見では遅いと考えたからだった。

 宮内庁が想定した当初の表明日は8月第1週。「静かな環境で国民が聞ける時期を探さないといけない」(幹部)と、参院選(7月10日投開票)、東京都知事選(7月31日投開票)の政治日程に区切りがついたところを狙った。

 しかし内閣改造が8月3日に行われ、閣僚や副大臣の認証式が5日まで続いた。6日は広島原爆の日、9日は長崎原爆の日、15日は終戦記念日が続く。日程の隙間(すきま)を縫い、8日の表明が決まった。

 ◆おことばの背景

 天皇陛下のおことばは、今の憲法下で初めて即位し、平成流の天皇像を築いてこられた陛下の歩みが凝縮され、高齢という課題にどう向かうべきかを国民に問いかけている。(記事中の太字はおことばからの抜粋)

 

象徴としての在り方 「天皇像」自問自答


 「象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」。おことばは、象徴としてのあるべき姿を自問自答し、実践してこられたことが強調されている。

 憲法は、天皇が行うべきことを「国事行為」と定め、「栄典の授与」などを明文化している。陛下は、国事行為に含まれない活動も象徴として行ってきた。「事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」もその一つだ。1991年7月の雲仙・普賢岳(長崎県)噴火の被災地訪問にはじまり、陛下の被災地や避難所への訪問は50回以上に上る。膝をついて被災者と向き合い、励ましの言葉をかける姿が幾度も国民の目に焼き付いた。

 陛下は、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」も大切にしてきたと述べた。陛下は即位してから15年目の2003年までの間に全ての都道府県を訪問している。これまでに訪問した島の数は奄美大島(鹿児島県)など25に上る。

 こうした活動を陛下は「人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と振り返った。「信頼と敬愛」は、昭和天皇が自らの神格性を否定した46年1月の「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で用いた文言だ。昭和天皇は国民との関係を「終始相互の信頼と敬愛とに依(よ)りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非(あら)ず」と述べた。宮内庁関係者は「陛下は人間宣言を念頭に置かれたのだろう」と話す。

高齢、2度の外科手術 公務へ強い思い

 課題として浮かんだことは、現在82歳の陛下が、今後さらに高齢となられることへの対処だ。陛下は「二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃」からこの問題を考えるようになったと述べた。「二度の外科手術」は、03年の前立腺がん手術と12年の心臓の冠動脈バイパス手術を指す。

 宮内庁関係者によると、年齢を意識するようになったきっかけは、このほか、10年8月の石尊山(せきそんさん)(長野県)登山などが考えられるという。同年12月の77歳の誕生日に合わせた記者会見で陛下は、詳しい状況には触れなかったが、「下りは滑りやすく、秋篠宮や眞子に助けられました。以前登ったときには考えられなかったこと」と話した。昨年12月の82歳の誕生日に合わせた会見では「年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました」と発言した。

 おことばの中の「次第に進む身体の衰えを考慮する時、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないか」との文言には、公務への強い思いがにじむ。公務は「全身全霊」で臨むべきものという信念を表すような表現で、「象徴の地位と活動は一体不離」という陛下の考え方とも重なる。陛下は「象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろう」と述べたうえで、「摂政」という選択肢に否定的な思いを示した。「だれにも代行できない活動が天皇にはあるというお気持ちが、表れている」と宮内庁関係者は話す。

生前退位の制度策定 憲法尊重を強調

 「憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません」との文言は、憲法4条の「(天皇は)国政に関する権能を有しない」という条文に重なる表現だ。

 生前退位の実現には、皇室典範の改正や、特別法の制定が必要だ。一方、今回のおことばの公表を巡っては、その中で示された意向を受ける形で政府が制度の策定に乗り出すと、憲法4条に抵触するおそれが生じるとの見解がある。おことばの憲法4条に言及した文言は、こうした見解を視野に入れたものとみられる。

 安倍晋三首相は陛下のおことばについて「重く受け止めている。どのようなことができるのか、しっかり考えていかなければいけない」と述べ、政府として対応を検討する考えを示した。有識者会議の設置などに向けた動きも始まっている。横田耕一九州大名誉教授(憲法学)は「おことばは陛下の個人的な考えという形式をとってはいるが、生前退位を希望していることが明らかな内容であり、それを受けて政府が動き出すのは憲法4条の規定からみて望ましくない」と指摘する。

 陛下は、おことばの中で「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したい」とも述べられた。これも憲法4条を踏まえた文言だ。宮内庁関係者は「天皇の立場についての認識を2度にわたって述べられている。憲法尊重の立場を明確に示そうとの意向が伝わってくる」と話している。


 この特集は野口武則、小山由宇、田中裕之、前田洋平、高島博之、山田奈緒が担当しました。

 

 

 

 


天皇のお言葉は安倍政権に対する怒りだったと書いた毎日新聞の衝撃 〔天木直人のブログ 2016.9.7〕

2016-09-07 22:24:06 | 昭和天皇 平成天皇 天皇制

天木 直人のブログ

http://xn--gmq27weklgmp.com/2016/09/07/post-5351/

お言葉は安倍政権に対する怒りだったと書いた毎日新聞の衝撃

2016年9月7日  天木 直人

 きょう9月7日の毎日新聞が、天皇陛下のお言葉表明の背景を検証した一大特集記事を掲載している。

...

 その内容は国民必読だ。

 あまりにも衝撃的だ。

 私が予想した通り、お言葉は、安倍政権に対する天皇陛下の怒りだった。

 それを毎日新聞は一面トップで書いた。

 「陛下の本気度伝わらず」と。

 すなわち、天皇陛下の退位の意向は、昨年夏の戦没者追悼式での読み間違えの時から伝えられていた。

 そして、その思いを、天皇は昨年12月の天皇誕生日を前にした記者会見で、みずから「行事の時に間違えることもありました」という表現で述べられた。

 それにもかかわらず、安倍政権はその意向に沿った対応をとろうとしなかった。

 それどころか、退位ではなく摂政で対応すべきだと答えていたというのだ。

 つまり、仕事をせずに在位を続けているだけでいい、というわけだ。

 これこそ、天皇陛下が最も嫌った事だ。

 それを押し付けようとしたのだ。

 安倍政権は今年の春ごろから杉田和博内閣官房副長官をトップとした極秘チームを作って検討を重ね、そういう結論を宮内庁に伝え、これで一件落着と思っていた。

 ところが、ね耳に水の、天皇退位のNHK報道が流れた。

 まさしく天皇陛下の怒りがあの渾身のお言葉になって表出したのだ。

 しかも、それに対して安倍首相はどう対応したか。

 天皇陛下がお言葉を表明する数日前に、宮内庁から届いた原稿案が摂政に否定的な表現だった事を知って、なお、「摂政を落としどころにできないか」と宮内庁に伝えようとしていたという。

 どこまで天皇陛下の気持ちを踏みにじろうとするつもりだ。

 そして、極めつけは、天皇陛下のお言葉が表明されて一か月ほどたった数日前の産経新聞のスクープ記事である。

 問題を先送りして、鎮静化を図り、特別立法と皇室典範の附則変更でごまかそうとしている。

 どこまで天皇陛下のお気持ちを軽視すれば気が済むのか。

 これは平成の大謀反だ。

 とても内閣総辞職どころではおさまらない、日本の歴史に残る一大事件である(了)

 

 <関連>

天皇陛下の生前退位、特措法で検討 皇室典範は改正せず:朝日新聞デジタル 2016年9月7日21時43分