http://syuklm.exblog.jp/26158073/よりの転載
2016年 09月 01日
93回目の関東大震災の日に。「虐殺」に走った人と、とめた人を分けたのは、何だったのか?
今だからこそ読み返したい一冊。
「九月、東京の路上で
1923年関東大震災ジェノサイドの残響」
加藤 直樹さん著
■自警団だけではなかった
1923年9月1日の関東大震災後。
「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」
「鮮人が暴動を起こす」という不確かな情報に
恐怖を感じた人たちの手で、
数千とも言われる人の命が、
わずか数日の間に奪われました。
在日韓国朝鮮人の人たちだけでなく、
中国人労働者や、
標準語を発音できなかった聴覚障害や
沖縄の人たちも犠牲になっています。
犠牲を大きくしたのは、自警団だけでなく、
未確認情報を拡散したメディア、
「暴動鎮圧」のお墨付きを与えた警視庁、
そして朝鮮本国での弾圧さながらに出動した軍隊でした。
後から事実無根に気づいた警察が事態を収拾するまで、1週間。
虐殺の嵐が吹き荒れる一方で、それに抗して、
在日の人たちを命懸けでかくまい、
守った人たちも存在していました。
その人たちと、「虐殺する側」とを分けたものは、一体なんだったのか。
この問いこそ、私が知りたかったことでした。
まさにそれがこの本の白眉となっています。
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”朝鮮人を殺した日本人と、朝鮮人を守った日本人。
その間にはどのような違いがあったのだろうか。
朝鮮人虐殺を研究する山岸秀はこれについて、
守った事例では、
「たとえ差別的な関係においてであっても、
日本人と朝鮮人の間に一定の日常的な人間関係が成立していた」
と指摘している。
つまり、朝鮮人と実際に話したこともないような連中とは違い、
ふだん、朝鮮人のだれかと人としての付き合いを持っている人の中から、
「守る人」が現れたということだ。
言ってしまえば当たり前すぎる話ではある。
だがこの当たり前の話を逆さにしてみれば、
「ヘイトクライム(差別扇動犯罪)」とは何かが見えてくる。”
”ヘイトクライムは、
日常の場を支えている最低限の小さな結びつきを
破壊する犯罪でもあるのだ。
ごく日常的な、小さな信頼関係を守るために、
危険を冒さなくてはならなかった人々の存在は、
日常の場に乱入し「こいつは朝鮮人の、こいつは敵」と叫んで
暴力を扇動するヘイトクライムの悪質さ、
深刻さをこそ伝えている。”
”「間化」を進める者たちが恐れているのは、
人々が相手を普通の人間と認めて、
その声に耳を傾けることだ。
そのとき、相手の「間」化によらなければ通用しない歴史観やイデオロギーや妄執やナルシズムは崩壊してしまう。
だからこそ彼らは、「共感」というパイプを必死にふさごうとする。”
”私は、90年前の東京の路上に確かに存在した人々のことを
少しでも近くに感じる作業を読者と共有したかったからこそ、
この本を書いた。
記号としての朝鮮人や日本人ではなく、
名前を持つ誰かとしての朝鮮人や中国人や日本人が
そこにいたことを伝えたかったのだ。
「共感」こそ、やつらが恐れるものだから。
そして、文章をまとめていくなかで気づいたのは、
実は90年前の路上もまた、
「間」化と共感がせめぎあう現場だったということだ。
ときには同じ人間の中でそのせめぎあいがおきている。
殺してしまった相手を、殺した人間が供養するのは、
そういうことだろう。”
”右翼政治家たちがけしかけ、メディアが展開する、
集団ヒステリーのような「間」化=
レイシズム・キャンペーンを、誰も疑問に思わない状況。
それはどこにたどり着くのだろうか。
私たちはそのなかで、
いつまで当たり前の共感を手放さずにいられるのだろうか。”
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■「当たり前の共感」が、ヘイトスピーチ禁止へ
この本の発行(2014年)の後、今年5月、
ヘイトスピーチ(差別扇動表現)を根絶するための法律が、
ついに国会で可決。
さらに6月、川崎市は、
在日コリアンや様々な人たちが共生する街・桜本を標的にしたヘイトデモに対して、
「市民の安全と尊厳を守るため」、
使用許可を出さないことを決定。
共生へ希望貫く川崎・「ヘイト」デモ中止↓
http://www.kanaloco.jp/article/177372
”わが街で、わが子の目の前で
「ゴキブリ朝鮮人、死ね、殺せ」と言われた絶望が、
「きょう、みなさんと一緒に希望によって上書きされた」。”
(崔 江以子さん)
法案成立前に野放しだったヘイトデモが
桜本の小さな商店街に入ろうとした時、
路上に身体を投げ出して阻止したのは、
何十年も同じ街に住み、同じ商店街で買い物をし、
同じ地域の祭りを担ってきた住民同士、
全国から駆け付けた同じ思いの人達でした。
この日常的な共感こそが、
小さな結びつきひとつひとつが、
紡いだ結晶だと思います。
■結晶を壊させないために
一方で、津久井やまゆり園の障害者襲撃事件に露わになった、
「障害者は抹殺していい」という思考。
日本人人質事件後に巻き起こった、イスラム教徒への排除…。
まさにいま現在進行形で、この日常空間で、
せめぎあいが続いています。
2016年を、ヘイトスピーチ・ヘイトクライム廃絶の元年にできるように。
どこの街でも、誰に対しても、
ヘイトスピーチ・ヘイトクライムをさせない。
制止・禁止するだけでなく、
生み出させないために。
小さな結びつきを手放さないで、
繋ぎ続けていきましょう。