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「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 ~お亡くなりになられた大田昌秀元沖縄県知事の言葉をお伝えします。 〔DAYSJAPAN〕

2017-07-08 10:55:11 | 沖縄

世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌
https://daysjapan.net/2017/06/12/%E3%80%8C%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E3%81%AF%E4%BA%BA%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E6%95%99%E8%A8%93-%EF%BC%88%E5%A4%A7%E7%94%B0/

「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 (大田昌秀元沖縄県知事 )

沖縄戦を体験し、基地のない沖縄を、戦争を二度としない日本を守るために尽力されてきた元沖縄県知事の大田昌秀さんがお亡くなりになりました。悲しくて、残念で仕方ありません。どれだけ大切な人を、私たちはまた失ってしまったのでしょうか。
 大田さんが生涯をかけて伝えてくださったメッセージを、忘れません。大田さんがDAYS JAPANに寄せてくださった言葉を、数回に渡り、お伝えします。

摩文仁の地で戦争体験について話 す大田昌秀元沖縄県知事。2014 年 5 月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA摩文仁の地で戦争体験について話 す大田昌秀元沖縄県知事。2014 年 5 月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

 
①沖縄の戦争 「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓

沖縄はかつて、本土防衛のための激戦地となり13万人以上の住民が犠牲になった。 大田昌秀氏は当時、学徒らで結成された鉄血勤皇隊として守備軍司令部のもとで任務に就いていた。沖縄最後の激戦地となり、大田氏が死を覚悟で戦火の海に飛び込んだ摩文仁(まぶに)の地で、本誌発行人・広河隆一が話を聞いた。(2014年7月号掲載)

インタビュー/広河隆一  まとめ/丸井春   写真/沖縄公文書館、アメリカ公文書館

南部摩文仁 沖縄最後の激戦地

沖縄本島最南端に位置する糸満市・摩文仁(まぶに)。海岸沿いに広がる沖縄戦跡国定公園から望む海は、かつてここが沖縄最後の激戦地となったとは思えないほど、穏やかな波を立てていた。「ここから海を見ると、海上に敵の軍艦が真っ黒になるくらいに見えたんです」

大田昌秀元沖縄県知事は、14〜17歳の中等学校生徒らによって結成された 「鉄血勤皇隊」の隊員としてこの戦場に送り込まれた。

今はうっそうと生える木々も当時は1本もなく、敗残兵や住民らが身を潜める裸の岩原や壕に、海から上がった米軍の水陸両用戦車の大群が次々と火炎放射攻撃を浴びせていったという。

1945年6月、首里から撤退した守備軍司令部と主力部隊は南部へ後退、摩文仁のある喜屋武半島は、3万人の兵と10万人を超す住民らで溢れかえった。米軍は半島を包囲し、軍民の区別なく激しい攻撃を続けた。

「最後には、海岸から来る戦車と反対側の集落から来る戦車に挟まれて、みんなが海岸のところ一面に追い詰められました。岩間に隠れていた人たちは逃げ場を失い、どうにもならずにみんな海に飛び込みました。私もすっかり疲れきっていたけど海に飛び込んで、意識を失ってしまいました。気がついたら胸まで潮に浸って海岸に倒れていた。何日倒れていたのか今でも分かりません」

沖縄戦では、兵力を補うために地元の住民までが戦場に投入されたが、戦況が悪化しそれでもたりなくなると、今度は中等学校の生徒までが法的な裏付けもないまま駆り出された。大田さんら沖縄師範学校の男子生徒らも「鉄血勤皇師範隊」として、守備軍司令部のある摩文仁で任務に就いた。

「米軍はどうしたかというと、トンボと呼ばれていた小さな飛行機からガソリンタンクと焼夷弾を投下して壕内の人たちを焼き払ったのです」

 摩文仁での激戦中大田さんらが身 を寄せていた日本軍管理部の壕。 大田さんら「鉄血勤皇隊」のほか17 〜20歳の女性らも炊事の任務に 当たっていた。2014年2014年5月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA摩文仁での激戦中大田さんらが身 を寄せていた日本軍管理部の壕。 大田さんら「鉄血勤皇隊」のほか17 〜20歳の女性らも炊事の任務に 当たっていた。2014年2014年5月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA


師範学校の鉄血勤皇隊のうち、大田さんが所属していていた千早隊と呼ばれる22名の学徒らは、軍司令部情報部からの通達を得て、各地の壕に潜む兵士や民間人に戦況を伝える情報伝達の任務を与えられていた。

「最初はみんな非常に情報に飢えているものですから喜ばれて歓待してくれたのですが、後半になるとわれわれが伝えるニュースと現状が全然違うわけです。ですから次第に疑われるようになりまして、大変苦しい思いをしました」

摩文仁の丘ともうひとつの高い崖を挟んだ反対側には、住民を追い出した米兵らがテントを張っており、海岸寄りには岩盤に覆い被せられた窪みのようになった場所がある。大田さんらはそこにある日本軍管理部の壕に身を寄せていた。

「ここは食料を蓄えていましたから、ここから私たちは2人で米俵を担ぎ、守備軍司令部に運んで行ったわけです。そうすると海上にいる敵の軍艦から丸見えになるものですから、重機関銃で集中攻撃されました。私たちは坂道の中腹で担いでいた米俵を放り出し、身を伏せるしかありませんでした」

壕には炊事場があり、そこでは17〜10歳ぐらいまでの女性15人ほどが炊事 に当たっていた。 「壕は岩で覆われていますから、砲弾は頭上を飛び越えていくわけです。そうすると米軍はどうしたかというと、トンボと呼ばれていた小さな飛行機からガソリンタンクと焼夷弾を投下して壕内の人たちを焼き払ったのです。私はそのとき、右足底をえぐられて1週間ぐらい岩の溝のところに横たわっていましたから、その少女たちが目の前で焼き殺されるのを見ていたわけです。本当になんとも言えない生き地獄です。人間が火事場の焦げた柱みたいになって横たわっているのですから」

「沖縄の住民が食料を持っていると、兵隊たちがすぐに奪い取っていったんですね。『俺たちはわざわざ遠いところから沖縄を守るためにやって来た。だからお前たちは食料を出せ』と言って」

6月も下旬になると、摩文仁での激戦はますます激しくなった。日本兵の死者は1日に1000人を超えるよう になり、飢えも激しく、負傷している大田さんも海岸を腹這って食料を求めた。

「敗残兵が岩間から海岸に出て、貝を拾っていました。そうすると、上半身裸の米兵が摩文仁の丘の上にやって来て、弁当を食べながら自動小銃でその敗残兵たちを狙い撃ちしていました。まるでゲームを楽しむように敗残兵を殺すわけです」

一方、大田さんは日本軍の敗残兵が 味方の敗残兵を殺すということも毎日見てきたという。 「雑嚢(ざつのう)という食料品などを入れる肩掛けの布袋があるのですが、それが膨らんでいるのを見つけてはその袋を持っている兵を殺し、雑嚢を奪うということをしていました。それを見て私は、ああ、この戦争はおかしな戦争だ、生き延びることができたら、何としてでもなぜこんなことになったのか、その理由を明らかにしないといかんということを思ったわけです。日本兵が同じ日本兵を簡単に殺すなんて、夢にも思わなかったし、想像したことさえありませんでした」

食料の強奪は兵士間だけのことではない。沖縄戦では、日本兵による住民への暴力も熾烈を極めていた。「沖縄の住民が食料を持っていると、兵隊たちがすぐに奪い取っていったんですね。『俺たちはわざわざ遠いところから沖縄を守るためにやって来た。だからお前たちは食料を出せ』と言って。出さないと射殺して奪うということもありました。

そして沖縄戦では、住民は沖縄語による会話が禁じられていましたから、標準語を話せない高齢者たちが大勢、スパイだとして日本軍によって殺害されました。一番みじめだったのは、壕の中には赤ちゃんを抱っこしている女性たちもいるわけですね。そうすると、小さい子どもが泣くと、兵隊は『それを外に出せ』と。出さないと銃剣で刺殺したりしました」

沖縄には、字誌(あざし)という公刊物がある。字(あざ)とは村よりも小さい単位を言い、ほとんどの字が戦争の記録を綴った字誌 を出している。大田さんは今、それをまとめる作業を進めている。 「そこには、われわれ戦場にいた者さえびっくりするようなことが、はっきり書かれています。旧日本軍が地元住民を何人殺したということが、何月何日の何時ごろ、どういう階級の日本の兵隊にどのように殺されたのか。被害者の名前もはっきり載っています」

字誌は膨大な量だというが、大田さんは「沖縄戦をもう一度総ざらいしないとその実態は分からない」と作業を進める。「ショックを受けるようなことが次々と出てきて、なかなか前へ進まないのですが……」

大田さんは戦後、苦しいことがある度に摩文仁の壕に足を運んできた。 「自分の戦後の人生はここから始まったのです。自分がここで生き延びたということを思い出して、一度死んだ命 じゃないか、苦しいことなんて当時に比べたら話にならん、と。それでまた元気になって帰って行くんです」

師範学校の鉄血勤皇隊は386人。 そのうち226人が戦死した。

慰霊碑に刻む 学友らの記憶

鉄血勤皇隊として犠牲になった沖 縄師範学校の生徒と職員を祀った慰霊碑「沖 縄師範健児の塔」の横に立つ「平和の像」。 右側の少年から「友情」「師弟愛」「永遠の平 和」を象徴している。2014 年 5 月 21 日 Photo by Ryuichi HIROKAWA鉄血勤皇隊として犠牲になった沖 縄師範学校の生徒と職員を祀った慰霊碑「沖 縄師範健児の塔」の横に立つ「平和の像」。 右側の少年から「友情」「師弟愛」「永遠の平 和」を象徴している。2014 年 5 月 21 日 Photo by Ryuichi HIROKAWA


大田さんたちは1946年、壕近くに慰霊碑「沖縄師範健児の塔」を建てた。そこには、戦死した生徒ひとりひとりの所属と名前が刻まれている。

「離島のおじいちゃんおばあちゃんたちが朝やって来て、自分の息子の名前を涙を流しながら手でなぞり、夕方まで座り込んで動かないわけです。戸籍簿などが全部焼き払われてしまいましたから、この1行の名前だけがその人がこの世に生きていたという証拠になったのです」

大田さんは、碑に刻まれた学友たちの名前をじっと見つめながら続ける。 「学徒ら25名で編成された〝特編隊〟という隊がありました。守備軍首脳たちが首里から摩文仁に下がってくるときに、彼らの安全を守るというのが任務でした。この隊は全滅しています。なぜかというと、学徒たちは、爆薬を詰めた木の箱を持って身体ごと敵の戦車に突っ込んで行って死んでしまったのです。また〝斬り込み隊〟という57名の隊員から成る隊もありましたが、46名が死んでいます。みんな、剣道や柔道の精鋭ばかりが集まって作った隊でしたが……」

大田さんによると、沖縄戦では13万人を超える住民が犠牲になったが、その8割以上が、この南部の激戦で命を落としたという。

「私は戦争体験があるものですから、基地だけは絶対に受け入れられません。沖縄はもう二度と戦場にしたくありませんし、沖縄の人々は基地に対して徹底して嫌がっています」

大田さんは、知事時代も積極的に沖縄の「平和」について訴え続けてきた。 それにも関わらず今、安倍政権の掲げる「積極的平和主義」の下、日米同盟 はさらに強化され、新たな基地建設まで押し進められようとしている。

「今の政府のみなさんというのは、全然沖縄のことを知らないのだと思います。沖縄の人の感情に考慮するということは全くない。遠く離れて目に見えないですから」

沖縄の人々にとっての戦後は、絶えず基地と隣り合わせにあり、反対する人々の声は繰り返し無視され続けてきた。沖縄がまるで政府の所有物のよう に扱われることに対して、大田さんは、今に始まったことではないと話す。

「もともと沖縄は非武装の王国だったのです。15世紀末から16世紀の始めにかけて即位していた琉球王国の尚真王という王がいましたが、彼は住民に対して一切の武器の携帯を禁止しました。沖縄で空手が発達したのもそのためだと言われています。やがて1609年に薩摩の琉球侵略がありましたが、薩摩は、琉球人が反乱を起こすことを恐れて、武器の輸入を全部禁止しました。ですから、琉球は500年ほどの間、武器のない「守礼の邦」として知られていたわけです。 それが1879年の廃藩置県のとき、明治政府は、琉球に熊本の第六師団の分遣隊を常駐せしめるということを言い出したわけです。それに対して琉球王国の代表たちは、こんな小さな島に軍隊を置くのはかえって危険を招くから絶対に軍隊などいらないと拒否しました。すると明治政府は『どこに軍隊を置くということは政府が決めるべき問題であり、(琉球王国が)口出しする問題ではない』と言い、第六師団の400名の兵隊と200名の警察官を連れて来て、首里城を占拠したわけです。そこから沖縄の悲劇が始まるわけなんです」

15世紀以降独立国として栄えた琉球王国は、アジアの周辺地域と密接につながりながら、交易を中心に独自の文化を築き上げてきた。その平和な非武装の王国に突如軍隊が押し寄せてくる。 警戒を示したのは住民だけではなかった。

「清の李鴻章という外務省の大物が、軍事力を用いて強制的に琉球を併合していたら、日本はそのうち台湾を獲って朝鮮を襲い、さらに中国に侵略してアジア侵略をするだろうと予言していたら、その通りになりました。そのため日本が真珠湾攻撃をして半年、アメリカ政府は沖縄を日本から切り離し非軍事化する計画を練っています。そして沖縄を国際機関に委ねて25年ごとに軍事化されていないかチェックさせるという計画を立てたわけです。  ところが戦後、いざ天皇制国体を維持した平和憲法を作るときになると、平和憲法では軍隊を持てませんから、その担保として沖縄を軍事基地化して米軍を置けばいいとして、連合国軍総司令部官のマッカーサーが、せっかく非軍事化することになっていた沖縄を米軍の軍事基地化してしまいました」

日本が降伏した当時、日本国内には434万人の軍隊が残っていた。そのため沖縄の基地化は、日本軍の反乱を恐れた連合国軍が、それに対応するために作ったという事情もある。

「たった百十数年前まで武器を持たない平和な暮らしが営まれていた場所が、やがて戦場になり、その後基地と化しました」

大田さんは、今の日本はまるで戦争に向かっているようだと話す。そして日本が戦場になった時、まっさきに犠牲になるのは、近隣の強国にもっとも近く基地を持つ沖縄だという。

「とにかく、今年はひょっとしたら沖縄の最悪の年になりかねないと私は心配しています。今、着々と辺野古への基地の移設が進められていますが、これが進んでいけば、沖縄の人々の怒りは、必ず爆発するでしょう。そうすると、コザ騒動(注1)どころの騒ぎじゃない。沖縄はずっといじめられてきたものですから、人々の怒りが火を噴いたときには予想も出来ないような事態になるかもしれません」

「たった百十数年前まで武器を持たない平和な暮らしが営まれていた場所が、やがて戦場になり、その後基地と化しました」。沖縄の人々の悔しさと怒りは大田さんには痛いほど伝わる。そして大田さんは、戦争のつけを負わせられ続けている沖縄の人々の思いをこう代弁する。

「沖縄の人々は歴史の中で何度も痛みを感じていますから、単純な痛みに対しても非常に気を配るところがあります。特に、朝鮮戦争の頃から、沖縄基地から出撃する米軍によって外国の何ら罪のない人々を殺害することに胸痛めてきました。沖縄の方言に『チュニクルサッテン、ニンダリーシガ、チュクルチェ、ニンダラン』という言葉があります。つまり、他人に痛めつけられても眠ることはできるけれど、他人を痛めつけては眠ることはできないということです。 それが、沖縄の人々の普通の考え方なんです。沖縄の人々の意思に反して、沖縄の人々が加害者の役割を担わされることにも、沖縄の人々はいつも苦しんでいます。その意味では、本土の日本人も米軍に加担しているのではないでしょうか?」

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(注1)1970年12月20日未明、米施政権下の沖縄コザ市(現沖縄市で)で起きた沖縄の人々らによる騒動。米軍人が沖縄人を車ではねたことをきっかけに、米軍車両や施設を次々焼き討ちにした。米施政下での沖縄の人々の不満が爆発し、自然発生的に起きたとされる。

marui投稿日: 2017年6月12日フォーマット 画像カテゴリー 沖縄, 社会タグ ,

 

 

 

 

 


東京新聞7/7【社説】盧溝橋事件80年 歴史に「愚」を学ぶとき / 今夜は七夕。盧溝橋事件80ヶ年、日中全面戦争に突入した日〔M・Watanabe 2017.7.7〕

2017-07-08 00:18:12 | 平和 戦争 自衛隊

 Manabu WatanabeさんFBより

2017.7.7

今夜は七夕。盧溝橋事件80ヶ年。日中全面戦争に突入した日です。

 画像に含まれている可能性があるもの:橋、屋外、水

 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で日本軍の支那駐屯軍(ママ)と国民革命軍第29軍が衝突し、日中間の全面戦争がはじまりました。

その後、日本軍は中国戦線において、無差別爆撃や大虐殺、略奪、性暴力を繰り返しました。

でもなぜ、あの夜、日本軍が北京にいたのでしょうか。

盧溝橋事件の37年前、義和団の乱(1900)に軍事介入した日本は、中国大陸に出兵します。
そして、翌1901年に調印した北京議定書を根拠にして日本は中国大陸に軍隊を常時駐屯させていたのでした。

これが事実です。
歴史の事実をねじ曲げることはできません。
あったことをなかったことにするなんてとんでもないことです。

明治維新(1868)でアジアではじめて近代国家を建設した日本は、アジア諸地域の独立運動や抵抗運動を支援・連帯するのではなく、欧米諸国とともに帝国主義侵略国家の道を歩みました。

1945年まで続く「侵略の80年」をきちんと捉え返していかないといけないと思います。

今、戦争の足音が近づいている。

今こそ、反戦平和のたたかいを!

日中不再戦の熱い誓いを胸に!

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2017070702000137.html

東京新聞【社説】

盧溝橋事件80年 歴史に「愚」を学ぶとき

 北京郊外で旧日本軍に銃弾が撃ち込まれた盧溝橋事件から八十年になる。これが八年間に及ぶ日中戦争の発端になった。止められた戦争と歴史は教える。

 十三世紀にイタリア人のマルコ・ポーロが「東方見聞録」で「世界一美しい橋」と西欧に紹介した。橋のたもとには十八世紀の乾隆帝の筆による「盧溝暁月」の石碑も立つ。

 一九三七年七月七日夜。日本軍の支那(しな)駐屯軍は盧溝橋近くで夜間演習をしていた。橋の東岸には宛平県城があり、城を守る中国兵の姿があった。演習前に中隊長は「支那兵に向けて、挑発的な行為や言動があってはならない」と訓示している。

◆「撃たれたら撃て」の命令

 午後十時半ごろ。いったん夜間演習を中止するため、伝令を走らせると、背後から三発の銃声が襲った。ひゅー、ひゅーと、空気を切って飛ぶ、弾丸の飛行音が聞こえた。さらに十数発もの弾丸が…。兵隊たちの頭上をかすめて続けざまに実弾が飛んだのだ。

 けたたましいラッパが鳴った。残る二個中隊と機関銃中隊、歩兵砲隊が動きだした。大隊が集結したのは翌午前三時ごろである。また三発の銃声があった。

 北京市内にいた連隊長の牟田口廉也は緊急連絡に「敵に撃たれたら撃て」と指示した。総攻撃の命令に他ならなかった。

 中国国民党の指導者蒋介石は日記に「倭寇(わこう)は盧溝橋で挑発に出た。(中略)われわれを屈服させようというのだろうか?」「宛平県城を固守せよ」(蒋介石秘録)と書いた。

 盧溝橋事件で日本軍は死傷者を出したわけではない。また、誰が発砲したのか、いまだに諸説あって不明なのである。

 それなのに国内では既に「蒋介石など一撃で倒せる」という「強硬論」が沸き立っていた。

◆拡大・不拡大で割れる

 参謀本部の作戦課長、陸軍省でも軍事課長らが主張した。陸相の杉山元ら幹部も拡大論だった。

 むろん不拡大論を強く主張する者もいた。参謀本部作戦部長の石原莞爾がそうである。戦争指導課や陸軍省軍務課の多くも「不拡大論」であった。

 軍部の中でも「拡大」「不拡大」の意見が真っ二つに割れていたのである。

 首相の近衛文麿は不拡大方針だった。かつ現地で停戦協定が成立したにもかかわらず、華北への派兵が決定し、戦争拡大へと歯車は動きだした。盧溝橋事件は幾重にも謎に包まれている。それなのに戦争を始める。「愚」である。不要な戦争であった。

 七月十七日になると蒋介石も「最後の関頭」と呼ばれる有名な談話を発表した。徹底的な抗戦で民族を守る決意の言葉である。そして、中国国内で対立していた国民党軍と共産党軍とは「国共合作」で手を結び、ともに抗日戦争を戦うことになった。

 日中戦争は華北での戦闘ばかりか、上海での戦闘もはじまり、日本からは派兵に次ぐ、派兵…。全面戦争に陥った。泥沼の戦争と化していったのである。

 終結の見通しもなく戦争を始めるのも「愚」、莫大(ばくだい)な戦費を考えないのも「愚」である。首都・南京を陥れても奥地へ逃げられると考えないとしたら、これも「愚」である。背後からソ連に突かれないと信じた「愚」もある。

 そもそも戦争の公式目的が「中国を懲らしめるため」である。そんな荒っぽい理屈が当時の国際社会に受け入れられるはずもない。戦争の名目さえ立たなかったのも「愚」である。

 むろん途中で幾度か和平の道も探られた。しかし、そのたびに日本は相手に厳しい要求をするため、和平はとても成立しなかった。寛容さがあれば、戦争を止めることもできた。和平を台無しにした「愚」もあるのだ。

 日中戦争ばかりでない。三一年の満州事変は、何と日本の「自衛権」の発動として引き起こされた。それ以後、中国東北部は日本軍の占領下に置かれ、やがて満州国がつくられた。日本の傀儡(かいらい)国家としてである。

 この問題については、有名なリットン調査団が報告書をつくり、三三年に国際連盟総会で採択が行われた。その報告書に不満を持った日本一国のみ「反対一票」を投じ、国際連盟を脱退した。

◆平和主義変質の今こそ

 日本の国際的な孤立はこのときから始まる。この「愚」こそ、日中戦争にも、のちの太平洋戦争にも確実に結び付いている。

 戦争の歴史は私たちに示唆に富んだ教訓を与える。戦後七十二年になる今、平和主義の道を進んできた日本が「戦争のできる国」へと変質しつつある。

 こういう時こそ、歴史の「愚」を学ぶときであろうと思う。