マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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20年目の榛原雨師丹生神社の造営祭典

2016年10月12日 08時59分51秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
前月の3月19日に立ち寄った宇陀市榛原の雨師(あめし)。

20年ぶりに丹生神社の造営祭典が行われることを知った。

詳細ではないが、たまたまお会いした村の大工さんが話してくれた。

造営祭典の主役は宮大工が務める。

新しくなった本殿などを祝う上棟祭である。

朝8時に始まると話していたKさんは若くして棟梁を務めている。

雨師に造営があると教えてくれたのは隣村の笠間に住むSさんだ。

Sさんは同市榛原角柄(つのがら)の高龗(たかおかみ)神社に20年ぶりの式年造営竣工報告祭があったと話していた。

その様相はメデイアネット宇陀が記録したビデオ映像でネット放映している。

当日は土砂降り。

祭典は雨音が激しく聞こえるテント内でされていた。

雨師もそうならないように当日は降らないで欲しいと願っていた棟梁の心配もよそに晴れあがった。

着いた時間は丁度の8時。

神社が鎮座する場は前月に伺っていたのですぐ判る。

心配だったのは駐車場があるものの稚児の行列と重ならないか、である。

着いたときに行列があれば神社に向かう道は塞がれてしまう。

写真を撮るどころではない。

出合いは心配をヨソに免れた。

というよりもその後に判った時間帯。

2時間半後だった。

神社の駐車場は今回の造営に合わせて広げられた。

相当数の車を停めることができる。

神社に向かう道は参道。

幟を立てて祭典を盛り上げる。

そこをやってきた村人たちは正装姿。

モーニングまでとはいかないが白のネクタイを締めた礼服である。

真新しい鳥居を潜って登る。

神社に着いてすぐさまこの日の取材をお願いする。

先日、伺った大工棟梁もおられる。

代表者は村の総代であるが、近々にあった事情によって参列することができなくなった。

紹介してもらった代理総代のNさんに挨拶および取材主旨を伝えて撮影に入る。

8時に開始と聞いていたが、それは祭典ではなく参集時間であった。

舞台装置など、大掛かりな設営は前日までに終えていたが、細かい設えはこの日の朝からだったのだ。

祭典舞台から一本の紅白綱が張られていた。

それを緩めて大きな鯛を吊るそうとする男性がおられた。

そこには穴あき五円玉がぎっしり。

連珠のような形にしている五円玉も吊るしていた。

五円玉を挟むようにもう一尾の鯛も吊るす。

これまで県内各地(奈良市誓多林町八柱神社・奈良市長谷町日吉神社・奈良市都祁南之庄町国津神社・奈良市上深川町八柱神社・奈良市都祁藺生町葛神社・奈良市都祁小山戸町町山口神社・山添村桐山戸隠神社・曽爾村小長尾天神社)の造営祭典を拝見してきたが、生の鯛を曳綱に吊るす行為は初めて見る。

これは一体何なのか。吊るす男性や村人に尋ねても答えは判らない、である。

造営祭典は各地域にある。

そこに出仕される宮司さんであればご存じであろうと思って尋ねた結果は、名前はない、である。

この日に務める斎主の宮司さんは宇陀市榛原萩原字天野に鎮座する墨坂神社の太田静代さん。

お顔を合すのは初めてだ。

民俗写真記録の関係で当地を伺ったと話せば、奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏の名を挙げられた。

宮司が云うには「鹿谷勲さんや菅谷文則先生には神社についての執筆で協力をいただいている」ということだ。

それはともかく五円玉を挟んだ2尾の鯛に名前はないが、曳綱の飾りとしか云いようがない、ということであるが、目的は「元気な身体を現し、健康や安全に商売繁盛を願うものでしょう」と話していた。

ちなみに今回は五円玉になったが、前回の20年前の造営では古銭の八文銭だったという。

八文銭がどのようなものか判らないが、収納してあったとされる蔵などを探しても見つからなかったそうだ。

蔵でなければどこであるのか、所在が掴めず行方不明になった八文銭代わりに五円玉にしたという。

ちなみに宮司さんが云うには宇陀市榛原や大宇陀などでは多くの地域で曳綱飾りの鯛吊りが見られるという。

平成23年10月2日に行われた宇陀市榛原額井・十八神社の予行上棟祭がある。

翌日の本祭に向けたリハーサルである。

造営舞台から長く伸ばす紅白の曳綱を設営していた。

その曳綱である。

予行では見られなかったが、本祭にはこの綱に生の鯛を吊るすと話していた。

神職は太田静代さんではないが、同じような形であったろう。

ちなみに当地と同じような紅白の曳綱に2尾の鯛を吊っている映像を紹介していた村の人のブログが見つかった。

鯛の上に広げるような形のモノがある。

これは何であろうか。

造営の民俗に興味が湧いてくるが、現地は断定できない。

本殿の設えなどに忙しく動き回る神職や造営委員の人たちの邪魔にならないように気配りしながら撮らせてもらう。

20年ぶりの造営には後世に残すべき記録が要る。

撮影者は村のカメラマンに応援を願った三重県伊賀市在住のA氏。

二人は村の記録係り。

存在が判るように腕章をつけている。

ヨソから突然のごとく現れた私の存在も知ってもらっておいたほうが良いだろうと思って名刺交換する。

氏曰く、知り合いの写真家の名を告げる。

それがどういう意味をなすのか判らないが有名な写真家である。

懇意にしているという写真家は私もよく存じているKさんだ。

A氏は風景写真を主に撮っているらしい。

民俗どころか行事の撮影はたぶんに経験未知数と思えた。

それは曳綱に吊っていた鯛で判った。

村の人が鯛をぶら下げて綱を調製していた。

氏の目の前であるが、関心を寄せることなく動き回っていた。

重要な造営祭典の一つがそこにある。

これを落としてはなにもなるまいと思ったのは私だけだろうか。

記録といえばもう一組ある。

宇陀市の行事取材でときおり同席することもあるビデオ収録グループである。

それは宇陀市全域を対象に地域の伝統行事やまちの話題を取り上げ収録した情報をネット配信しているNPO法人メデイアネット宇陀だ。

こちらの取材陣にも声をかけてお互いの共有化を計っておく。

こうしておくことが大事だと思うのである。

ちなみに前述した曳綱に吊った生鯛のことも映像造りが効果的になるものであると伝えておいた。

拝殿に置いてあった紅白の餅を撮らせてもらった。



盛った桶の数量はそうとうな数である。

上蓋のように載せている大きな餅は「カサモチ」と呼ぶ。

手尺で測ってみれば直径はおよそ20cm。

コモチよりも薄く伸ばしたようなモチである。

これらのモチは一石八升も搗いた。

3月の31日に搗いた餅は70臼。

丸一日の作業だったと話す。

ちなみに御供桶に「丹生神社 上棟祭」の文字がある。

今回の造営に作ったものと思える新しい桶もあれば古くから使われているような桶もある。

さて、本日の造営祭典は三部構成である。

一部は拝殿内で行われる造営竣工報告祭。

二部は舞台が主な上棟祭。

三部も舞台で行われる竣工式である。

造営竣工報告祭の式次第は修祓の儀、宮司一拝、献饌の儀、宮司の祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌の儀、宮司一拝。

主とする上棟祭は修祓の儀、宮司一拝、降神の儀、棟札の儀、献饌の儀、宮司の祝詞奏上、四方祓の儀。

そして、宮大工の大工棟梁が主役を務める上棟祭の主軸の儀式。

文中では判りやすい大工棟梁としておくが、式典での呼び名は工匠長である。

はじめに工匠長の祝詞奏上。

次が振幣の儀。

次が工匠長盃の儀。

その次は丈量の儀、墨入れの儀、手斧の儀、鉋の儀。

工匠長道具が登場、所作する四つの四器の儀である。

次は雨師の里の巫女が奉納する巫女神楽の舞。

次は六組に分けて行われる槌打ちの儀である。

主たる式典の後は玉串奉奠、撤饌、昇神の儀、宮司一拝で終える。

三番目は竣工式。

祝いの造営に至った経緯の報告や祝辞・挨拶。締めは御供撒きである。

祭典が始まってからでは舞台に登ることはできない。

式典が始まる前に撮らせてもらった大工棟梁が用いる四器の道具。

サシガネやペンチなどもある。

横には里の巫女が棟梁に酒を注ぐ長盃もある。

祭壇は鶴が舞う扇で作った日の丸御幣が五本。

桶に盛った御供餅や神饌もある。

また、槌打ちの槌もある。

絵柄は白梅だ。

一旦は仮宮で暮らされた神さんは美しくなった本殿に坐います。

朱塗りの本に前拝殿ともに鮮やかな色具合だ。

拝殿には幕が張ってあった。

紺に白抜きの文字。

「昭和五十一年四月吉日 丹生神社」の文字から判るように40年前に寄贈された造営を祝する幕である。

また、社務所には前々回、前回の記念に撮られた祭典関係者一同の写真が掲示されていた。

左右の弓矢の位置や御幣を立てる場所も同じだった。

式典次第にない祝杯が始まった。

樽酒の鏡開きだ。

上蓋を木槌で打って割るのは宮司と長老。

お見事に割れた樽酒。



柄杓で汲んで酒枡に注いで渡す。

目出度い日の目出度い酒を飲み干す氏子たちは笑顔に包まれていた。

天候良しの祝いの日を彩る桜色。

神社付近などを染めていた。

造営竣工報告祭が始まった。

予定通りの午前10時。

拝殿に登る神職に続いて氏子たちが参進する。

そのころともなれば礼服などで身を固めた村人たちが集まってくる。

祝いの日は正装。

子どもたちも正装している。

村の中央辺りから打ち鳴らす太鼓の音が聞こえてきた。

公民館を出発した稚児行列だ。

先頭を務めるのは代理総代のNさん。

後続につく宝船の速度に合わせて先導する。



下見に聞いていた宝船の名称。

お稚児さんとともに集落を巡るとK大工棟梁が話していたのはこれだった。



聞いていたイメージは夢枕に出るような宝船を想定していたが・・紅白幕を垂らした稼動台車はキャタピラで動く三菱製パワーカート。

荷台に積んでいたのは桶に入れた紅白餅の御供だった。

宝船を迎える村の人の列を抜けて神社に向かう。

そろりそろりと歩む稚児行列は神楽を舞う4人の里の巫女さんが先頭。

後続に外孫も入れた稚児26人の行列に親御さんや爺ちゃん婆ちゃんもつく。

雨師の里山はなだらかな田園。

ある地点からは急坂になる。



横から撮った写真でその角度がよく判る。

一歩、一歩を踏みしめるような足取りで神社に向かう。

新しい鳥居の下で記念の写真。

ゆっくり撮っている間もなく、神職に向かえてもらったお稚児さんたちは神社に参進する。

鳥居を潜っても急な坂道。高低差はご覧のとおりだ。

先に参集していた役員たちも境内から見下ろして迎えてくれる。

一同が揃えば境内で記念写真。

前々回、前回どおりに配置することは不可能に近いごった返し方。

雨師集落の戸数は20戸。

これほど多い子どもたちの姿を見るのは20年ぶり。

それとも秋のマツリ以来かも知れない。

とにかく多い状況に腕章をつけたカメラマンは一苦労。

いうことを聞いてくれないと零されるが、小さなお稚児さんたちでは無理がある。

親もついていくわけにはいかない記念写真の並びを撮るには大声を出すしかない。

私はなんどもそう対応してきた。

慣れないこの日限りの臨時的、しかも動きのない景観を撮っている風景写真家では土台、無理がある。

村のカメラマンも同じようなオタオタ感は申しわけないが不慣れな証拠だと思った。

ちなみにお稚児さんの装束は貸衣装だ。

商店名を縫い付けていた名札は「阿部稚児衣装店」。

三重県津市で商売をされているようだ。

お稚児さんの記念写真の次はもっと大勢になる。

神職、棟梁たち、巫女さん、氏子一同の並び。子供さんと違って大人。

整然と並んでハイ、シャッター。

専属カメラマンだけでなく氏子を撮る外氏子家族も、である。

こうした記念写真を撮り終えたらようやく祭典に移る。

神職、大工棟梁、造営委員は舞台に登って厳かに上棟祭が営まれる。

前述した次第とおりに進捗する。

午前11時20分。

ほぼ予定とおりだ。

まずは修祓の儀に始まって宮司一拝、降神の儀、棟札の儀、献饌の儀、宮司の祝詞奏上、四方祓の儀、である。

四方にキリヌサを撒くが、その際に合わせて撒くモノがある。

紅白の紐をつけた五円玉の銭撒き。

いわゆる撒銭の儀である。

写真では判り難いが、赤い印が見られるのが撒銭である。

そして、宮大工の棟梁が上棟祭の主役を務める儀式に移る。

はじめに棟梁の祝詞奏上がある。

大工にとっては誉れある祝い日。

高らかに口上される。

次が振幣の儀。棟梁はひときわ大きい幣を手にして左右に振る。

いわゆる奉幣振りの儀式であるが、舞台の柱で棟梁の姿が見えなくなってしまった。

次は工匠長盃の儀。

里の巫女女児たちは四人。

うち二人が盃を手にして工匠長の前に立つ。

朱塗りの酒杯を手渡して湯とうを持つ巫女が酒を注ぐ。

いわゆる献酒の儀式は始めの小さな酒杯に三度注ぐ。

工匠長が飲み干して次に大きい酒杯に替える。

これもまた三度注ぐ。

さらに大きな酒杯に替えて三度注ぐ。

遠目で断定はできないが三々九度のような所作であった。

次は丈量(じょうりょう)の儀。



棟梁と副棟梁の二人が登場する。

太い棟木の両側に分かれて端を抱える。

始めに「よろしいか」と声をかけられた棟梁は「オウ」と声をだして棟木を持ち上げた。

続いて、「よろしいか」の声を合図に反対側に居る副棟梁も棟木を持ち上げる。

次の「よろしいか」に「オウ」と応えた棟梁が持ち上げる。

棟木を床に降ろすときはドンと音を鳴らすように下ろす厳粛な作法にしばし見惚れる儀式は棟木の長さを測る儀式である。

次は墨入れの儀だ。

今度も棟梁と副棟梁が登場する。

手にする大工道具は墨壺。

副棟梁が墨糸を手にして棟木の端に動く。

棟梁は墨壺を持って端につく。

棟梁は墨糸を持って上方に揚げる。

「よろしいか」の声がかかれば「トウ」と声を出して糸を下ろす。

これで一直線の墨痕が棟木につく。

これを三回、繰り返す。

次は手斧の儀だ。



手斧と書いて「チョウナ」と呼ぶ。

今度も棟梁と副棟梁が登場する。

二人が手にした手斧は模したもの。

この日の祝いに金色に塗った手斧だ。

棟木中央に登場する二人は向かい合わせ。

「よろしいか」の一言に心あわせて振り上げて下ろす。

棟木を削るような所作は三回、繰り返しながら後方に動く。

この日に参拝していた大宇陀野依住民のTさん。

孫さんを連れて祝いの場に立っていた。

Tさんは野依で行われた2月の豆占いや5月の節句オンダ取材で世話になったお方だ。

Tさんが云うには「チョウナ」ではなく「チョンナカケ」と云っていた。

「チョウナ」が訛って「チョンナ」。

手斧を振り下ろして削る。

それを表現するのが「チョンナカケ」になるようだ。

次は鉋の儀。

目立って大きい金色塗りの鉋が登場する。

手にしたのはもう一人の副棟梁だ。

「よろしいか」の声がかかって「オウ」と応える副棟梁は大きな鉋で棟木を削る。

綺麗に磨きをかける鉋削りに笑いはでなかった。

こうして四つの大工棟梁の儀式が連続して行われた次は雨師で生まれ育った里の巫女が奉納する巫女神楽の舞である。

名前を呼ばれて会釈する巫女さんが可愛い。

榊を手にして一礼。

雅楽が奏でられて唄う神楽楽曲は宮司の太田静代さんの生声だ。



演奏は生ではないが、浦安の舞であろうか。

棟梁の儀式も神楽の舞も柱や手すりに遮られてうまく撮れなかった。

上棟祭の〆を飾るのは槌打ちの儀。

大勢が参加されるので六組に分けて行われる。

脇についた副棟梁は曳綱を持つ。

始めの組に登場するのは宮司に長老ら。

副棟梁に後ろについたのは御幣を持つ棟梁だ。

槌をもって棟木の前に位置する。

そして、声がかかった。



「セーンザーイ トウ」と大声をかけた棟梁は幣を左右・上方に振り上げてトンと下ろす。

そのときの発声は「トウ」である。

それに合わせて「オウ」と応えた人たちは槌をトンと三回打つ。

続いて「マーンザーイ トウ」で幣を振り下ろす。

先ほどと同じように槌をトンと三回打つ。

続いて「エーイ エイ トウ」だ。

「セーンザーイ」は「千歳」。

「マーンザーイ」は「万歳」。

「エーイ エイ」は「永々」。

それぞれ漢字で表せば意味が判るだろうか。

千歳、万歳の目出度い詞に永々。

「トウ」は「棟」。

つまり、造営の上棟祭を祈念に今後も将来に亘って神社も村も永遠に栄えるようにということだ。

ところで曳綱役の副棟梁はどうしていたか、である。

「トウ」の掛け声のときに曳いていた綱を離すのだ。



それに連れて吊られていた鯛が揺れる。

実は生の鯛は吊るしたときから汁がポタポタ落ちていた。

その下に氏子さんがおられたら鯛の滴がかかってしまう。

それを避けたくて鯛にはナイロン袋が被されていたのである。

鯛は袋で見えなくなったが、綱を放つ都度揺れていたことに気づく人は少ない。

次の組は氏子総代や自治会長、篠楽の氏子総代に外氏子代表も並んで「セーンザーイ」、「マーンザーイ」、「エーイ エイ」に合わせて槌を打つ。

三組目、大工棟梁や瓦工務店、建材店の人たちも打つ。

四組目、造営委員の人たちも。

五組目、四人の里の巫女さんも打つ。

六組目はお稚児さんたち。

母親とともに参上した幼子だ。

七組目、大きいお稚児さんも参上する。

八組目もお稚児さん。

九組目もお稚児さん。

大勢であるだけに行列していたお稚児さんは四組に分けて槌を打った。



この子たちの20年後。

槌を打ったことを覚えているだろうか。

年長者は記憶があるかもしれないが、幼児はたぶんに記録した写真で蘇ることであろう。

時刻は12時を過ぎていた。

予定より30分遅れで始まった竣工式。

宮司や造営委員長の挨拶。

3年前に立ちあげた造営委員会。

平成27年8月より造営工事が始まったなどと話す祝いの造営に至った経緯の報告や祝辞を経て閉会した造営祭典の締めくくりは紅白餅の御供撒きだ。



造営祭典を村では「ゾーク」と呼んでいる。

「造営」がどのような経緯があって「ゾーク」と呼ぶのか、未だに判っていない。

この日に斎主を務められた太田宮司も何故でしょうという。

これまで数か所の地域で造営愛典を取材してきたが、どの村も「ゾーク」と呼んでいる。

まだ拝見していない村も同じように「ゾーク」と呼ぶ。

訛ったのかどうか判らないが経緯が読めない。

県内特有の呼び名でもない「ゾーク」。

奈良県の西に位置する御所市や五條市・葛城市・生駒市には云十年に一度の式年遷宮は見られない。

見られないだけに「ゾーク」という詞も存在しない。

盆地平たん部や吉野など県内南部も同じである。

「ゾーク」があるのは県内東山間ばかりに、である。

御供撒きに多くの餅を手に入れた氏子たちは神社道を下って戻っていったが、造営委員の人たちは撤去作業がある。

奇しくも神武さんの日だったという4月3日。

それも大祭であるのなら、雨師も造営も20年に一度の大祭である。

歓びを感じる大祭に斎主となられた宮司は笑顔で応える。

それを象徴するのかどうか判らないが、舞台に飾った大きな弓矢を降ろされた。



よく見ていただければ判ると思うが、矢にあるのは「鶴」と「亀」の絵柄だ。

村の長寿を願う「鶴」と「亀」。

永遠に繁栄が続くことだろうと思った。

すっかり片付いた神社に揃って手を合わせる家族が居た。

村を出た次男坊であるが、住まいする大阪市西淀川の鎮守社に毎月の1日、15日は欠かさず参っているという。

1日参りに15日参りは村に住んでいたときも同じであるという。

片づけはまだまだあるが、御供を盛った木桶を持って階段を下る二人の婦人がいた。

この桶は前述したように「丹生神社 上棟祭」の文字がある。

「昔は竹で周りを縛っていた」という婦人たちは年配者。

造営委員でもある。

前回の造営は20年前の平成8年。

そのときに村が作った木桶は村全戸に配られた。

それを持ち寄って御供盛りをした。



次回は20年後。

私が生きておれば85歳。

いなくなっても上棟記念の桶は代々継がれていくだろう。

(H28. 4. 3 EOS40D撮影)