荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『昔々、アナトリアで』 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン

2015-07-13 01:43:31 | 映画
 人間のエゴを容赦なくえぐり出す最新作『雪の轍(わだち)』よりも前に、まずは消化に悪そうなこの奇作について語らねばならない。
 トルコの映画作家ヌリ・ビルゲ・ジェイランの前作『昔々、アナトリアで』(2011)は、ある殺人事件の実況見分が上映時間の大部分を占める。あとは、死体遺棄現場近くの村の村長宅での休憩場面、終盤の病院における検死解剖の場面など、少々のシーンがあるのみ。国際タイトルは「Once Upon a Time in Anatolia」というが、アナトリアの過去などまったくおくびにも出されず、殺人事件の実況見分という、苛酷な現在的時間のみが、不快さと寒さによってガタガタと打ち震えているにすぎない。トルコのアナトリアという半島(私の学校時代には「小アジア」という旧称で習った)には、ノアの方舟が大洪水のあとに流れ着いたとされるアララト山があり、人類史の原初的な地ではあるのだから、「Once Upon a Time in Anatolia」の名のもとに多くの特権的な物語が紡がれてしかるべきだが、ジェイランは愚直なポリス・ストーリーのみを披露する(アナトリア東部のアララト山では、ノアの方舟の残骸が帝政ロシア時代に発見されたが、ロシア革命の混乱による発掘資料の紛失や、5000メートル級の雪山であることから検証作業が進んでいないらしい。しかし米NASAも、衛星写真によって方舟の実在を確認したという情報もある)。
 死体遺棄現場を捜しもとめて、警察、軍警、検察の3台の車両が、深夜のアナトリア高原地帯を右往左往する。犯人の記憶はどこまでも曖昧で、彼の指示するまま3台の車はあてどなくさまようが、夜明け近くになってもいっこうに死体は見つからない。ひょっとするとこの男は真犯人ではないのかも知れない。彼は何かの真実を隠し、真犯人を庇っているのだろう。その真実のきれはしが、物語の途中からちらちらと見え隠れする。
 短気なベテラン警部、のんきな部下の巡査、プライドの高い検察官、寂しげな検死医、機械じかけの人形のような軍警士官、そして愁いを帯びつつ思いつめた犯人。彼らの個人的な問題──たとえば警部には精神疾患で苦しむ息子がいて、家庭でも気が休まらない、とかいった──が、実地検分のすきますきまに顔をのぞかせる。誰かが隣にいる者に身の上話を吐露したところで、むなしさが広がるばかりである。彼ら公安官僚の滑稽な姿態は、大島渚の『絞死刑』(1968)における死刑囚「R君」の実況見分を思い出させる。
 途中休憩のために立ち寄った村長の邸宅で、上等なラム肉や飲み物を振る舞われた一行は、食後の茶を淹れるために客間に入ってきた村長の末娘が放つあまりの美しさに呆然となり、言葉を失う。殺人事件の実況見分という不快な時間がいつ終わるとも知れずに引き延ばされる中、村長の末娘の美は、一行に甘美な幻想をもたらしただろう。この映画の事後、孤独な検死医はあの娘にもういちど逢いに、時機を見計らってその村を再訪すればいいと思うのだが、果たして彼はそうしてくれたのだろうか?


新宿シネマカリテにて、7/17(金)まで上映(DVD素材 料金500円!)
http://qualite.musashino-k.jp