★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

現実離れとわれわれ

2024-05-29 23:16:59 | 思想


だが『資本論』の労働価値説は九三%でなく、「一〇〇%労働価値説」であり、しかもそれの適用される対象は、右のような単純な生産モデルや仮定を許さない、現実の資本主義社会である。そこでは財の価値を労働時間単位で計測することは不可能なのだ。[…]マルクスは複雑労働ないし高度労働は簡単労働への還元計算ができるのだから、価値の労働時間による測定ができると思っていたらしい。しかし、こういう還元計算をおこなうこと自体が、マルクスの意図とは逆に、労働を「時間」という名前の、時間ならざる経済単位で集計することになるのである。


――「マルクス「資本論」の正しい読み方 1――「資本論」に労働価値説は実在するか――」(1973)


この堀江忠男の資本論についての紀要論文なんかをさっき読んでたんだが、同名のサッカー選手がいて、ヒトラー五輪の「ベルリンの奇跡」のメンバーじゃないかすごいじゃないかと思ったら本人じゃないか。。。肩を骨折していたにもかかわらずむかしは交代制度がなく出場して、ナチスよりも強いんじゃないかと言われていたスウェーデンを逆転で破った。五輪の数年前まで、日本人のサッカーレベルはヘディングって何?という状態だったらしいのだ。しかし、心配するにはあたらない、「キャプテン翼」にみられるように、日本人のサッカーというのはつねに自分の現実とは離れたものである。

現実離れするわれわれとしては、現実的な実力なんて現実的すぎてつまらない。むろん、機械的なことは機械にというのは止められない流れではあるが、機械的なことだけを誰かにやらせて自分はもっと高級なことをというはただの妄想で、全体的にあたまがゆるくなって体もだるくなり何も思いつかないというのが一般化してきているにすぎない。そこまで都合良く頭よくできてねえわけである。

現実離れの才能のために、――かしこまって「思考力の育成」とかいっていたらどうなったかといえば、事実や名前や題名を正確に写したりするのが苦手になってしまった。実際そうなってるのだから仕方がない。病気とかではなく全体的に苦手になっている。日本がいまいちになった理由にはいろいろあるが、一種の事務的な能力が転げ落ちてるのだ、なにが創造力だよ

教職人気の低迷の理由は多くあるが、この基盤みたいな学力=体力を「勉強できればよいというもんじゃない」とかいって遠ざけ、あたかも「コミュニケーション能力」を純粋に個人の力能であるかのようにみなすことで、その実、学力が不安な学生のルサンチマンに訴えてしまっている大学にも問題があるのは無論である。「コミュニケーション能力」は環境と状況によるから現場があまりに複雑性を帯びると信用できないのは当然として、上の体力が余りに低いと当然信用されないのはわかりきっている。基盤がないとおどおどするか妙にはしゃぐかどちらかになり、そんな人間に「先生」面してもらいたくないのは当然なのである。やはり「こんぴら先生」だの「大石先生」だの「金八先生」とか極道とかなんとか、現実離れしすぎたのはよくなかった。もはや、現実を直視するほどの勇気もなくなり、遠慮という名の逃亡状態である。しかも、そこにはインターネットの楽しい世界が用意されているのだからたまらない。

ICTで授業が楽になったり、一人一人に対応して学力を伸ばせるとか簡単に言う人というのは、主体性?とやらに裏打ちされた人間の体力と能力というものの野放図さと馬鹿さを過大評価しているし、そもそもそれに乗り気でない人間を蔑視することがおおきな目標になっているからだめなのである。うちの父親と母親は教師の新人時代、録音テープの機械が使えるということで重宝されたらしいが、――どうせ「さすが戦中生まれは科学の子だな、戦争負けたけど」とか言われていたにちがいない。戦争はコミュニケーションであり、それを物量の問題だと思ってしまう頭の悪さにおいては、科学を扱うときにいらぬルサンチマンが混ざってしまうのであった。

あまりにもうまくいかない教育を労働時間の問題に還元しようとするのなんかも、上のサッカー選手に言われるまでもなく、ナンセンスなのである。73年当時、それでもなお「労働価値説」を振り回す人たちがたくさんいたのは、たしかに時間が重圧となっているかのような倦怠が日本中を覆い始めていたからだ。連合赤軍事件なんか、殺した数とか銃の数とか、はては県警が食べたカップラーメンの数だとか、視聴率とかが問題になる体たらくである。事件の前に、もっと面白い現実離れを起こすべきだったのだが、それをやりかけたのは大江健三郎ぐらいだった気がする。

人をアレするアレ

2024-05-16 21:50:36 | 思想


少し感じは異なるが、大阪城もまた古い時代を記念する大きい遺跡である。中の嶋あたりに高層建築が殖えれば殖えるほど、大阪城の偉大さは増して来る。そうしてそれは、江戸城の場合とは異なって、まず何よりもあの石垣の巨石にかかっている。あの巨石は決して「何げのない」「当たり前」のものとは言えぬ。のしかかるように人を威圧する意志があそこには表現せられている。

――和辻哲郎「城」


和辻の文章は、いうまでもなく固有名詞に非常に頼っている。青春の趣がある。青春時代は、固有名になにか魂が宿る的な議論が好まれる。しかしこれは、ちょっと中年以降をバカにしている。アレでだいたい通じ合えるのが中年である。和辻は、「のしかかるように人をアレするアレ」とでもいえば、ナショナリズムを回避できたのに。

逆に、固有名が意味を持つときがあって、死んだときである。死ぬ一年前ぐらいに大江健三郎と行った対談のなかで、三遊亭金馬が、むかし秩父宮がなくなったときにお棺の前で一席やったと言ってたけど、いまでもこういうことあってあるんだろうか。金馬と秩父宮、この組み合わせには過剰な意味がある。秩父宮は宗教葬を拒否することもなかった気がするくらいだ。

一部で「言語の本質」みたいな本が評判になっていて、われわれはアレの存在を言語接地問題みたいに奇妙に納得しつつあるのだが、そうかんたんにはいかない。我々の言語の魔術は我々をいつも狂わせる。「言語の本質」だってその魔術の一部なのである。いまはオノマトペの重要性そのものに従って、――初代ゴジラの足音のドーンドーンもいいけど、「大魔神」のボグォボグォもいいよな、とか言っていればよいかもしれない。いつも意味の広がり危険である。ゴジラも大魔神も野球選手に冠されてから陳腐になってしまった。

「鬼太郎誕生」も意味が過剰であった。悪者が倒されるときに水木という人が「ツケは払わなきゃなぁ!」と言っていたがこれだけで良かった。

負けたくない人たちの情緒論

2024-04-21 23:20:37 | 思想


故詩日『立我烝民、莫匪爾極。』是以神降之福、時無災害、民生敦厖、和同以聽。莫不盡力、以從上命、致死以補其闕、 此戰之所由克也。

中正の準則みたいなものがない国は負けるというの真理なんだろうと思うんだが、それを認めたくない卑しい輩が爆弾とかメディアの暴力を行使している。多数決だって、そういう時の暴力として、機を見て行使されている。誰が観ても真理が明々白々の場合はそんなものを行使する必要がない。しかし、真理の表面化を懼れる連中が少しの差異を強引に作り出している。

だから、敗戦やプロ野球球団の暗黒期なんてのは人間には必要である。一時期の巨人なんか、もしかしたら2位になってしまうという恐怖のために、毎年4番打者を「少しの差異」を作り出すために入団させていた。いまだって、どこが優勝するか分からない団子状態なのである。かくして、――もう誰か言っているだろうけど、中日ファンはいつまでもファンだからだめなんだよな、いまはファン達こぞって中日「推し」となり、巨人や阪神にぼろ負けした選手の子どもに転生して親の無念を晴らす(「推しの子」参照)、これですわ。。。

前にも書いたけど、野球とかサッカー選手のアスリート化は観客を変えるし、飲み会文化も変えるのではないかと思う。というわけで、我々もアスリート達も大してかわらない庶民となりはてた。

そういえば、無頼派と近代文学派のあいだをうろうろし、おれは何処にも属しないとか言っていた不良文士=大井廣介のプロ野球論はいくつか読んだことがあるが、若い広岡達郎に飲み屋か何かで会ったときに、――「その日私はかんしゃくを起こしていた」んだが広岡さんはいい青年だったみたいな意味不明のことを書いていた。かれにとっては広岡は自分より下の存在なのである。彼の野球論は長嶋以降の国民的なにものかになった野球以前の雰囲気を漂わしている。まだ野球選手はスターでは必ずしもなかった。大井の文章からは、野球を職業にしてしまった給料の低い人たちのその競技が大好きという気持ちが――ゴシップだけが活き活きとした全体としては案外淡々とした文章に溢れている。まあ彼のブルジョア文壇論に通じるところが確かにある。文壇と野球が、結局、職業化して行くプロセスの出来事だったのだ。とはいえ、彼の「バカの一つおぼえ」みたいな文学に関する楽屋落ちみたいなもののほうがよほど下品なかんじで、週刊誌的なセンスから言って無頼派なんてのはほんとは大井みたいな奴のことではないかとおもわれる。

私は忠告する。プロ野球選手を志望する人は、プロ野球に骨までしゃぶられ、廃人になり、普通人としては半端者になり、街頭に放り出されてみると、途方に暮れ、死にたくなる。…プロ野球と心中し、野垂れ死にしても構わない人でないと、やめておいた方が無難だ


――大井廣介(1958年)


そのやめといた方がよいというのは、完全に文士と一緒ではないか。

彼には、娯楽に対する憧れはあったが、情緒がなかったのかもしれない。サルトルの『情動論粗描』の飜訳で、竹内芳郎氏が絶対おれは情動じゃなくて情緒を使うんだと言い張っていたら、ある種、また違う可能性もあったんじゃねえかと昨日思ったが、当時の文人は、先輩達を否定しようとして自ら面白いだけの人たちに顛落したところがある。

かくいう私も、いま思い出したところで言うと、映画を二回以上観にいったのは「キルビル」と「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」だけであって、たぶんわたしにとっては映画とは半分以上音楽であるからだ。あと今気付いたんだが黄色が好きなのではないだろうか。――こんな感じでわたくしも情緒みたいなものに対する憧憬を保っているにすぎない。

電車がくる

2024-04-19 23:22:00 | 思想


これは余談ではあるが、よく考えてみると、いわゆる人生の行路においても存外この電車の問題とよく似た問題が多いように思われて来る。そういう場合に、やはりどうでも最初の満員電車に乗ろうという流儀の人と、少し待っていて次の車を待ち合わせようという人との二通りがあるように見える。
 このような場合には事がらがあまりに複雑で、簡単な数学などは応用する筋道さえわからない。従って電車の場合の類推がどこまで適用するか、それは全く想像もできない。従ってなおさらの事この二つの方針あるいは流儀の是非善悪を判断する事は非常に困難になる。
 これはおそらくだれにもむつかしい問題であろう。おそらくこれも議論にはならない「趣味」の問題かもしれない。私はただついでながら電車の問題とよく似た問題が他にもあるという事に注意を促したいと思うまでである。


――寺田寅彦「電車の混雑について」


わたくしは混雑する電車をさけて次の電車に乗って、更なる混雑に巻き込まれるという人生を送っている。






病膏肓に入る

2024-04-18 23:29:14 | 思想


晉侯夢。大厲被髮及地、搏膺而踊。曰、殺余孫、不義。余得請於帝矣。壞大門及寢門而入。公懼入于室。又壞戸。公覺。召桑田巫。巫言如夢。公曰、何如。曰、不食新矣。 公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩爲之。未至。公夢。疾爲二竪子曰、彼良醫也。懼傷我。焉逃之。其一曰、居肓之上、膏之下、若我何。醫至。曰、疾不可爲也。在肓之上、膏之下。攻之不可。達之不及。藥不至焉。不可爲也。公曰、良醫也。厚爲之禮而歸之。


病膏肓に入る。病の気が膏と肓にかくれてしまって医者が治せなかった。医者が来ることに感づいた病の気の勝利である。「もやしもん」という菌がみえる大学生の話があったが、たしかにわれわれには病がどこかにかくれたりする感覚がある。病だけではない。悩みとか鬱っぽいものとかもどこかにかくれるときがある。

しかし本当にそういう病は存在しているのであろうか。もしかしたらわれわれ自身の一部ではなかろうか。我々はよくうまくいかないのを人のせいにするが、同じように病のせいにしているだけではないだろうか。そもそも上のエピソードでも病が医者が来るのを感づいたのは怪しい。医者が来るのを知っていたのはそいつ本人しかありえないではないか。

我々の文化は粘菌があちこちに手足を伸ばしたところの明哲保身みたいなのであるが、――我々は社会にすら他人のせいという他者性を持ち込んで自分の手足の責任をとろうとしない。

谷崎の「魔術師」を用いて、言葉が魔術――の時代があったかが今日のゼミの話題であった。最近の人間の言葉への過敏さと恐ろしい鈍感さは魔術に対する態度かもしれない、呪物ではなく魔術なのではなかろうか。さんざ言われてんだろうが、「様々なる意匠」の小林秀雄の「言葉の魔術をやめない」というのもレトリックじゃない。ホントの魔術のことなのであろう。

最近、正力松太郎がCIAだったという話題がまたむしかえされていたが、広島カープですら、原爆投下の後始末としての対日工作の結果だったというのだ。そのカープ対日工作説が正しいとすると、「はだしのゲン」の後半、戦災孤児たちが野球にクルってゆく様はもうなんというかより悲惨な話にみえてくる。中沢氏の「広島カープ物語」とかも同様である。――ようするに、われわれが手足と思っている外部に戦後はあったのだ。敗戦というのはそういうことだ。反省によってはそれを捉えることは出来ない。膏肓にアメリカがいることさえ分からない。

学者が本質な革命を諦めて「研究者」になり、外☆資金の公共的テーマに縛られ研究がかえって夏休みの調べ物的になって本質的な跛行がなくなり、面白くない五カ年計画の地獄に落とされている人は多い。特に共同研究は身動きできなくなるから大変である。まあコルホーズか何かである。別にやりたきゃやっていいし共同作戦でやるべき物事も確かにあるわけだが、全員に強制してどうするのであろう。かかることを推し進めればどういうタイプが出世して、誰が未来への尻ぬぐいに奔走するのかやる前にわかるだろうに。もともとの革命の担当者が鋭敏な優しさを用い、ぼろぼろになった組織の運営や知的革命の萌芽を守る担当者になってしまい、一方「研究者」の側は公共的結論に向かって強制労働を続けるのである。これは、シャーレのなかの菌の動きみたいなものである。組織や革命こそが粘菌の手足の外部にあるのは当然である。

博士論文を書くときなんかに、幕の内弁当をうめてくみたいなやりかたは、自分なりの「角度」がないのになにかやってしまった感がでるので危険であるのはさんざ言われているが、これは論文だけの問題じゃなく、「角度」を死守して小説をどうかくかみたいな問題と、リアリズムの問題をうまく考えられなかったことと共通している。坂口安吾の「意欲的創作文章」論にでてくる観点である。わたくしは、結局、菌がシャーレを出られない、シャーレの壁を風景と錯覚する問題と思うわけである。

「宋襄の仁」が失われた世界

2024-04-11 23:11:00 | 思想


子魚曰,君未知戦.勍敵之人,隘而不成列 天贊我也.阻而鼓之,不亦可乎.猶有懼焉.且今之勍者,皆吾敵也.雖及胡耇,獲則取之.何有於二毛.明恥教戦,求殺敵也.傷未及死.如何勿重.若愛重傷,則如勿傷.愛其二毛,則如服焉.三軍以利用也,金鼓以声気也.利而用之,阻溢可也.声盛致志,鼓儳可也.

確かに、われわれはやたら文章から表象を取り出す読み方をしつけられているから、宋襄の仁においても、白髪の老人が無惨に殺されるシーンなどを想起してしまいがちである。しかし、昔の人だって、イメージしなかったわけはないのだ。それを乗り越える観念と意志がリアルだっただけだ。窮地に陥った敵に情けをかけるような礼は果たして妥当なのか、優先順位を考えて息の根を止めておくべきなのか、判断はいろいろあるにせよ、例えば「人道状況の悪化」みたいな言葉で理解していることと、「宋襄の仁」みたいな言葉で理解していること、――前者が優れているかはわからないのは当然なのである。むしろ我々は、事態を常に道徳化して考えるような癖もつけすぎている。だから残酷なのである。

ペルーからポリネシアに筏で渡ったヘイエルダールの「コンチキ号探検記」の最初に、筏の上でゲーテを読む仲間の話が出てくる。そのあともでてきたかもしれないが、ゲーテとはこんな旅にも持って行くものであるということが、高校生のころのわたしにやっぱり西洋人なかなか侮れんなと思わせたのを思い出した。確かに、ゲーテはそういう冒険における死と快をさける生を見つめていたところがあるかもしれない。

学生に「葬送のフリーレンは何で出来ているか」という話をしながら、今の説明にはでかいパーツが抜けているようだとか言ってたら、「先生それたぶんゲーム。。」と言われたことがあるんだが、やはりマリオもドラクエもやったことがないからワシは分からないのだ。冒険というものが仮想空間で行われることが全くわたくしには理解できていない。文学を生業としているくせに、冒険譚をあまり好きではないのはそのせいなのか?ゲーテをちゃんと読んでないせいなのか?

ヘイエルダールの頃とは違って、地球が認識内に閉じているということはある。冒険は、アメリカのサブカルがそうであるように、暴力に入れ替わったのである。ジョン・カーペンターの「クリスティーン」で、最後に車に殺されかかった女の子が「ロックンロールは嫌いよ」と言っている。その車がいつも古いロックを勝手に車内に流すからなのだが、文化的にも含みがあるんだろうなと思った。いまの日本でいうと「昭和の暴力は嫌いよ」みたいな感じなのであろう。

例えば、自分が非リア充と思っている文学青年たちが溺愛すべきなのは、梶井とか安吾とか宮沢賢治みたいなあれであって、まちがっても鷗外や芥川、太宰とかみたいなモテるやつではない。ときどき逆になっている奴がいるので忠告しておきたいのであるが、言葉は生身の状態と解離すると兇器だからだ。他人がそういう兇器をほって置くはずがない。どうも冒険が暴力として経験されているから、我々はそこら辺がいつも混乱しがちなのではなかろうか。芥川は、望んだ結婚が出来なかったからといって人のエゴイズムがなんたらとか口では言っているが、――最近の発見でもわかるように押し花を本に挟んだりする気障な野郎である。

そういえば、今頃気付いたんだが、「エイリアン」の怪物は力もそうだけど体液が酸で食欲?が全身に漲っているというのが怖ろしいわけだが、「ドラゴンボール」はどんな敵でも卑怯な酸とか食欲みたいなものじゃなくて、基本殴り合いをしてくれる者の群像劇である。作者も気付いてたのか、魔神ブーのときに相手をお菓子にするというのがあったが、お菓子にするまでもなく食えば良いわけで、でもそうはしない。食と性がどことなく抑圧されているから我々は安心しているところある。鳥山明は「ドラゴンボール」に限らず二次創作的な作品な訳で特に後半はエイリアンのパロディとしてすごく意味があった。アラレちゃんはパロディにする必要がなさそうなのにしてるみたいで私はあまりのれなかった。で、庵野秀明とかはパロディではなく、シンとかいいつつ本質を模倣しようというかたちにして、エイリアン以降のパロディにしないと生理的に収まりがつかないものではない、――子どもにたいして暴力的で真面目な娯楽をとりもどすという感じなのであろう。思想として正しいのかは知らないが。

最近、木曽町出身の俳優田中要次氏が朝ドラで、いい人だが完全に脇役でまた登場している。いつもいいよ、とかおじょうちゃんがしんぱいで、みたいなこと言いながら画面の潤滑油みたいなかんじを担っているのだが、木曽はいつまでも周縁じゃねえぞ。これから主人公と法廷でキスしたり、主人公と一緒に東條英機を暗殺したりする方向でたのむぜ、女の権利が踏みにじられているのはあたりまえじゃねえか。――みたいな感想が出てくる程、我々はまったく冒険をしなくなっているのだ。そうすると、あとは正義と暴力だ。

2024-04-09 22:26:12 | 思想


祭仲専、鄭伯患之、使其壻薙糾殺之。将享諸郊。雍姫知之謂其母、曰、「父与夫執親」。其母曰、「人尽夫也。父一而已。胡可比也」。遂告祭仲曰、「雍氏舎其室而将享子于郊。吾惑之。以告」。祭仲殺雍糾、尸諸周氏之汪。公載以出。曰、「謀及婦人。宜其死也」。夏、厲公出奔蔡。六月、乙亥、昭公入。

所謂天合(親子関係)と義合(義理の関係)の戦いで、娘はあっさりと政治的に好き勝手しはじめた父親を殺そうとする夫を裏切った。どうもこれは娘が女だから舐められているような気がしないでもないのだが、このあっさりとしたところがいいし、謀った厲公も「婦人にばれちゃしょうがねえ」と言ったという。こんなにみんなが大物でもいいのであろうかと思うが、こういうのを読まないといずれにせよいろんな義はそもそも成立しようがない。

そういえば、わたくしが小物もいいとこだと思うのは、ガリガリ君食べたいなーとかもじもじと商品の前をいったり来たりしている隣で0.2秒ぐらいでチョコモナカジャンボを摑んでいる細を見るときである。古本屋では私のほうが手が早いところから考えて、本好きというのはずばり本を食べたがっているとみてよい。積ん読のが本質的な読書とかウンコみたいな理屈をこねてないでリスのようにためてますといえばよいのである。

我々を支配しているのは、義ではなく、好、あるいは冬に備えての食料の備蓄である。ほとんどのことがそれが説明がつくような気がしないでもない。

主体と影

2024-04-08 23:39:20 | 思想


君子曰、石碏純臣也。惡州吁而厚與焉。大義滅親、其是之謂乎。

これなんか、こんなせりふをしらずとも、また道徳の授業なんかなくともわりとわれわれは内面化している。――とおもったが、そうでもないかもしれない。むろん、左氏伝の作者もべつに道徳を発明したわけじゃなく、こういうことは昔からわれているんだが、この行為がそういうことだよね、といった人の言葉を引用するという、又聞きの又聞きのなのである。

そういえば、秋山駿も中原中也伝の最初に、彼にとって落第がとても決定的な出来事だったと言って居るぞ。みんなで落第しようぜ。

安部公房もどこかで、「高等学校は思想の遊歩場でなければならぬ」といっておったぞ。

「人生は歩いてゐる影たるに過ぎん」とは、大望失敗後のマクベスの歎息語で、〔略〕奇警な言葉でも珍らしい言葉でもなく、東西古今の人が、事に触れて口にする陳腐な言葉であるに過ぎないが、外国の都邑の道路を漫歩してゐる時なんかには、「歩いてゐる影」といふ言葉を痛切に感ずる

――正宗白鳥「無用人」


わたしなんか、自分の蔭どころか、ジャージをしばしばひっくり返して着たり、後ろ前逆に着ていたりする。自分が空っぽであるのは近代人の常であるが、それ以上に自分の謎は深い。だから、われわれは自分でないものはすばやく影のように過ぎ去ってほしいと思っている。だから、押見修造と村上春樹は似ている。すごくはやく読めるところである。作品は重いのだが、影のように過ぎ去る作品群を生産し続けている。

同時代性というか同世代感をいい加減にかんじたことがないでもないのは「老人Z」である。作り手たちはかなり年上なんだが、まだ馬鹿ふざけす主体が疑われていなかったから、影はあまり見えなかった。平中悠一氏の「細雪」論がとどいたので、ことし中に読む予定である。谷崎はその点、――影と主体の関係に於いてすごく奇妙なあり方をしている。

そういえば、92歳でまだ生きてる谷川俊太郎が話題らしいので、――朝日ドットコムの記事をちょっと読んだ。食うために詩を書くしかなかったみたいに言っているのは、金田正一と同じだ。二人とも、早熟、他作。多くの敵がいる。あんまり谷川の詩を読んでないのでなんともあれだが、わたくしが七〇年代あたりに大学生であったなら絶対谷川殲滅とかデモをうっている。

亀裂

2024-04-07 22:06:57 | 思想


衞莊公娶于齊東宮得臣之妹、日莊姜。美而無子。衞人所爲賦碩人也。 又娶于陳、日厲婚。生孝伯。早死。 其娣戴媯生桓公。 莊姜以爲己子。 公子州吁、愛人之子也。有寵而好兵。

近代の文学者だって、じぶんたちのやってることは「和漢朗詠集」とどう違うのかぐらいは頭にひっかかっていたとみるべきであるが、前近代の世界おいて、上のようなエピソード自体には和漢の亀裂はなさそうにみえる。いや、いまだってそれほどありえなくはない。亀裂を意識するとき、我々はどこかしら人間でなくなっているのである。今日は、中山淳雄氏の『推しエコノミー』を斜め読んだあと、人間世界から離れた気がしたので、古荘匡義氏の綱島梁川論で勉強した。人間から離れているのは綱島梁川のほうのような気がするのに、印象は逆である。思うに、「推し」は亀裂そのものの逃避からの逃避であって、綱島のほうがまだ不合理の合理を行っているだけ人間であろうとしている感じなのである。

裸の猫が春の庭に寝て

近代はなにか表象というか映像というか、何者かに欺されているような世界であるが、センスのいい人にかかるとそうでもない。永井荷風の「おもかげ」を眺めているといい本だなあと思う。写真の使い方の上手さは安部公房並みではなかろうか。写真と言えば、安井仲治写真集もよかった。写真はどこかしら人間であることを成し遂げている。

我々は事象と人間の一致、――当事者性とかいう言葉を手に入れてある種人間ではなくなった。それに、当事者といってもそれは幇間の当事者性だろとしかいいようのないものも多々あり、そのひとを実際によくみてみないと分からないことが多すぎる。ようするにこれは、和漢の亀裂と一緒で偽の亀裂なのだ。批評の用語もしばしば亀裂をつくる。例えば、星座は批評の用語としても使われたりするのであるが、星座は、そもそも見えている空の広さと狭さを忘れさせるところがある。香川の空は広いからオリオン座は小さい。それよりも大きい星座の存在がおもしろい。

木曽ではそもそもオリオンが山に立っており、他は頭を山の中にツッコんでいた。

細と苺大福食ったから春だし今日はサラダ記念日

テレビではお花見のニュースを延々ながしていた。そんなに飲みたいのなら百日草なんかうえれば半年はお花見で飲めるぜと思った。江戸の植木屋さんたちは、一所懸命うえた桜の樹がこんなに大騒ぎになってるとは思いも寄らなかったに違いない。

山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです(小林秀雄)

蛙さんが庭の春で目覚めたから如雨露で水かけてあげた。

リニアで環太平洋をぐるっと(棒読み)

2024-04-04 23:49:07 | 思想


況君子結二國之信。行之以禮。又焉用質。風有采繁。采蘋。雅有行葦。泂酌。昭忠信也。

礼と詩の二方面からの説得で仲良くせよ、みたいなのはいまでもおこなわれないことはない。しかし、庶民が物々交換をやめてしまったいま、残された詩の責務は重すぎる。某知事の発言は、農家などを比較しているみたいな言い方になっているが、面と向かって馬鹿にしているのは県庁職員で、県庁職員にしちゃ馬鹿が多すぎるんでいいかげんにしてくれみたいな発言だ。普通に考えて、これは県庁内での政治家と役人達の関係の問題である。彼らは、物々交換的なものを国家の法律やらで代替しようと心をくだいているだけまだましなのであって、庶民はもうそういうことさえ分からなくなっている。知事の発言は、知事と同じように、役人を馬鹿にしている視点が、知事の発言に反発することによって共有されてしまう可能性がある、――そもそもそういう意図的なものかもしれない。リニアの件では報道もされていないゴタゴタが県庁内で、県庁(県知事)に向かってあったはずで、もうめんどうくせえからどうやって炎上して辞めるかしか考えてなかったんじゃねえかなと思った。

この知事はもと京都学派八〇年代バージョンみたいなひとであって、リニアも日本から環太平洋をぐるっと通せばいいんだよ、と私なんかはそういう風に筋を通せばよろしいものを、昔風の「お殿様」になろうとしたところに馬鹿さがある。これはしかし、もともとの大東亜共栄圏的な発想にも見られる、あほさである。

更にアホなのは、彼をつかまえて、毛沢東全集愛読者でだから中国の見方だみたいな記事であった。――毛沢東全集くらいインテりはみんな読んでるわ、わしも流石にスターリン全集までは全部読んでねえけど。

ちゃんとした、リラダンの実践的バージョンみたいな、まともに思いあがったインテリが知事とかをやんないと、某知事みたいなねじ曲がりかたが生起するんだとおもうな。計算機みたいなやつばかり大統領制的地位に立たせてちゃだめだよね。あれじゃ逆に官僚達がじぶんたちと知事と存在被っちゃってお互いに誇りを失うのだ。

書経的世界と鳥山明

2024-03-08 19:58:05 | 思想


惟今之謀人,姑將以為親。雖則云然,尚猷詢茲黃發,則罔所愆。」番番良士,旅力既愆,我尚有之;仡仡勇夫,射御不違,我尚不欲。惟截截善諞言,俾君子易辭,我皇多有之!

秦の穆公がいう、道に従う人は疎んで目先のことを考える人に親しんできましたがまちがえてました。これからはこのお年寄り達にしたがっていこうと思いますと。

よのなかは、例えば右の藤岡信勝が、左の舩山信一の弟の娘と結婚してたりする、舩山信一の弁証法論みたいな展開をなすものであり、つまりは先を読んで「新しい」ことをしようとすると、弁証法の悲惨が訪れる。夫婦とか家族の道もそうである。自分で御飯をつくって食べるときとパートナーに作ってもらって食べるときとどちらが態度が大きくなるかというと圧倒的に後者でなぜなのかわからんが逆ではない。老いも若きもそうなっている。客的になるからなのか子ども時代に帰るからなのか食事づくりにつかれてないからなのか。一人暮らしでも弁当買ってきたとき態度がでかかったことを思い出す。最近論文に絶望が足りないのはキルケゴールよまずにモーパッサンとか読んでたからかもしれない。独身を守り通したキルケゴールはこれ以上偉くなりたくなかったのだ。

これに対して、むかしの王のすごさに倣った道を行けばよいのだという考え方はどうやって成立するのか?

世界的人気漫画家の鳥山明氏が死去していた。イタリアに新婚旅行行ったら朝テレビで「ドラゴンボール」をやってた。イタリア語はまったくわからないが、楽しい朝だった。気のせいか、ミラノあたりでも街頭でかめはめ波撃っている子どもがいたと思う。それほど孫悟空の人気は圧倒的である。わたくしが鳥山明を読んだのは予備校の時が最初だとおもうが、中学の頃たぶん同世代がよく読んでて、木造校舎で中学男子がかめはめ波撃ってた。彼らはかめはめ波撃つために登校していたと言ってよいだろう。みんな言っていると思うが、鳥山明のマンガには死が存在しない。結構生き返るし復元される。作者が死ぬ前にドラゴンボールはもう他の人が連載しててかなりの時間が経つ。キャラクターも作品も永遠の命を得ているというのはまさにこのことである。

この永遠性というのは「子どもたちの時間」のものだ。鳥山明は80年頃、まんがを子どもに取り戻した。道ばたでウンコを串刺しにする、「じゃ結婚すっか」「んだ!」ですぐ子どもが出来てしまい、それを悪者が掠ったんで、追いかけて宇宙で悪者を退治する。友達が殺されたので強くなる。死もセックスもない、子どもの元気な夢だ。出世作「ドクタースランプ」というのは第1巻しか読んだことがないが、――そこには、「ドラゴンボール」のブルマもそうだが、小さい男の子が年上のお姉さんがどうみるかみたいな感覚と同時に、鄰の席から自分を叩いてくる同級生の女の子みたいなものが描かれていた。結局、ウンコを道ばたでつつくみたいな男子小学生の目線から書かれているのである。鳥山明によって漫画界の空気も一変してしまったというし、そのことで描けなくなってしまったひともいたと思う。あの絵は絶対に真似られないにもかかわらず空気が変わってしまったのは、目線が変わったからだ。

それは、バブルの浮ついた日本と関係があり、そのパロディックな「ペンギン村」というのは一種の日本なのである。「ドラゴンボール」はそれに比べると中国や群馬や千葉あたりの何処かわからないかんじで、世界的ヒットは結局西遊記の普遍性と組んだのがよかったともいえる。この普遍性も日本の文脈でのポストモダンのなかにあるが、世界的には単に東洋のおもしろいSFだった。最近いろんな人が亡くなって、もはやここは日本ではないかんじがするのは、そのねじれが本格的に消滅したからである。作品がのこってるからいいやというのは一面の真実にすぎず、生産者の存在がどこかでわれわれを過去に結びつける。

世界のみなさんは、ドラゴンボールを探しに行くついでに八犬伝を読んで頂きたい。ナショナリストとしてのわたくしはそう言いたい。

日本は当分悲しみに沈むであろう。アイドルや俳優の死の後追い自殺とかはきくけど、ほんとは作家とか漫画家の死で絶望する人も相当数いると思うんだよな。わたしだって、中上や大江が死んだときには蒲団被って寝てた。

それにしても「ドラゴンボール」というのは、これから興味深さがましてくる作品だ。「四書五経」読んでると、書経なんか一種の天下一武道会みたいに思えてくる。ただし順番にちゃんと英雄が入れ替わったり定期的に王が堕落するけれども。悟空は、何回か地球を救っても誰にも知られていなかったし、もう死んでるからいたかどうかもわからない。しかしそれをその物語を読んだ読者は知っているみたいのは、まあ日本の神話をはじめとしてよくある構造なんだが、天界が存在するところが舞台が中国っぽいという点とあわせて結構特異なかんじはする。ドラゴンボールの世界をひっくり返すとダンテの神曲みたいになるのかしらん?しかも罪への接近ではなく、罪がすべて許された天国、ではなく天界である。「書経」にかかれている、昔の聖人君主に従っていこうみたいな主張は、悟空のやったことはすばらしかったな、みたいなかんじかもしれない。で、その理屈のために、悟空は実在が確認できない王でなければならない。

ゴジラが厄災の神の誕生だったとすれば、悟空は神武天皇とか堯とかの誕生ではなかったであろうか。

嗚呼!乃罪多、參在上

2024-03-07 23:48:36 | 思想


西伯既戡黎,祖伊恐,奔告于王。曰:「天子!天既訖我殷命。格人元龜,罔敢知吉。非先王不相我後人,惟王淫戲用自絕。故天棄我,不有康食。不虞天性,不迪率典。今我民罔弗欲喪,曰:『天曷不降威?』大命不摯,今王其如台?」王曰:「嗚呼!我生不有命在天?」 祖伊反曰:「嗚呼!乃罪多,參在上,乃能責命于天?殷之即喪,指乃功,不無戮于爾邦!」


滅び行く王の罪は多くそれが天に積み重なっている。であるからして、王の寿命は天によって保証されません。王はあなたの国に殺されます。はい死ね

天がどこかしらないが理不尽なことだ、こんな殺人が行われないためにも、人民裁判はいけないよ、というのがある種の意見であった。もっとも、上の場合は、王が自滅した先例をしめすことで、読む王達にプレッシャーをかけているわけであって、これを過去の犯罪と取ってしまうのが令和の人民だ。我が国の場合は、――武士達の時代にもしかしたら、正当な天を抱いての政権簒奪革命の反復みたいな状態にもってゆくための試行錯誤があったのかもしれない。坂口安吾の言うカラクリに頼らない堕落からの知恵が御成敗式目なんかにはありそうにも感じられるからだ。しかし、明治時代にあきらかにその挫折があったのは知るところである。天の再登場には、なにか農村ユートピア幻想みたいなものもくっついていた。天皇に頼らない政体がかえって堕落がだらだら続くディストピアをつくってしまったと感じられてもいたわけだろう。

いまだって、天皇の弱体化のせいかなのかしらないが、そんなディストピアじみた雰囲気がある。スクールカーストなんかその一例である。これは東浩紀の言う訂正可能性を奪うあり方である。これはしかし、武士的なラディカリズムと裏腹でもある。『芸能界最強不良列伝』というのが以前コンビニで売っていたから買って読んだことがあるが、松田優作とか羽賀研二とかのワルの列伝をやったあと最後が蛭子能収で、聖武天皇とかの死因をおまけでつけたりしている。結局、出版のラディカルさというのは、「出しちゃいました訂正できません」というところにある。これは上の本に描かれている不良たちの「やっちまったものはしかたがない」というあり方と同じである。

社会はよく「役に立つこと教えろ」とか学校に言ってくるのだが、スクールカーストの天辺にのさばるカスとの喧嘩の仕方とかを教えるべきだ、しかしそうはならない。「できちゃいました訂正できません」というがカーストである。そういうことをあまり知りすぎることは老人的でよろしくない。日本人が無常観とかいって生悟っているわりには欲望だけ生々しいのは、爺婆に育てられすぎなんじゃねえかな、と思うのだ。しかしまあ、いまはそうでもなくなってると思いきや、同居している親が歳とっているから無常観の塊だし、長生きの爺婆と自分が中年頃まで付き合うから、青臭く死ぬために生きるぜとか文字通りイキレないのだ。

一生独身でも一生双身でもなんでもいいけど、自分とは違う境遇を自分の合理化に使うなや。といっても自分で自分を合理化できるならもうやっている。結局、独身であれ結婚であれ、カーストの成立に使われているに過ぎないからだ。批評家というのは、カーストのなかにとりこまれがちな文学者のなかで、天=外側からそれを討つのが仕事だった。いま果たして、有効な「批評」は果たして可能なのか。

高峰秀子様が衆議院での発言でテレビに対しては「批評家」は成り立たない、と言ってる。見直すことができないからというのが当時の理由だが、いまだってそれほど事態が違っているわけではない。とくに作り手は時間を埋めなきゃいけないから反省なんかしやしない。自分のつくったものをきちんと見ない。ドラマやバラエティはまだいいのだ。いちばんやばいのはニュース番組で一番反省の余裕がない。いちど堕落したらなかなか立ち直れない。ネットの批評だってまともに考える余裕がないほどニュースのテンポにつきあわされてしまう。俗悪になるのはあたりまえだ。

労働の桎梏が時間を支配されるということであるとするなら、テレビはそれを娯楽というかたちでやっているだけである。わたしも結婚してからテレビをよくみるようになったが、まさに夫婦にとってテレビはかすがいで、調子が悪いときにでも画面につっこめるようになっているのがテレビの内容である。批評にはならない、つっこみである。ネットの書き込みが実際はかすがいとして機能としているのとおなじことだ。紅白歌合戦が家族の団らんの象徴として語られるようになった時点でいろんなものが終わっていたという感じである。

こういう状態ででてくるのは、昔の責任を負った「家長」よりもひどい、ヤンキーともヤクザともつかないボス猿である。仕事ができるかとかは関係ない。ただなんか下品なだけである。自分たちは仲悪いんですみたいなこと言うとき、言っているやつが主犯格であってその発言が責任回避行動だという場合がある。小学生か。でもこれは大人の組織でもよくある。たいがいの喧嘩は本当は喧嘩ではない。だから、それぞれに理由があるみたいな相対主義で処理してはいけないのである。リーダーは、きちんと主犯を抑圧する責任をいまだに負っている。まずは褒めろみたいな方法論をコミュニケーション全般に適用しようとした馬鹿のあとしまつである。

学校においては、校長とかのレベルのひとが、「教師は体★会系がいい」とか平気で言ってしまうようなケースが散見される。部活の顧問問題といえば勤務時間の問題みたいに表向きはなっているが、もっと精神的な問題なのである。あらゆる教育関係の組織で起こっている、組織のスクールカースト化で、誰がどのようにボス猿になろうとするのかは、これからの研究対象である。いまは白い巨塔みたいなもののなかに商人猿や体★会系猿みたいなタイプも実際混じっていて、そこに合理的配慮もどきで許された亜種も台頭していまやカオスであろう。

移動

2024-03-06 23:51:15 | 思想


今予將試以汝遷,安定厥邦。汝不憂朕心之攸困,乃咸大不宣乃心,欽念以忱動予一人。爾惟自鞠自苦,若乘舟,汝弗濟,臭厥載。爾忱不屬,惟胥以沈。不其或稽,自怒曷瘳?汝不謀長以思乃災,汝誕勸憂。今其有今罔後,汝何生在上?今予命汝,一無起穢以自臭,恐人倚乃身,迂乃心。

遷都をするというの大変なことであるが、必要なことでもあった。もちろん災害を避けるとかいろんな現実的意味はあるのだが、根本的に、王の力、いまなら政治家の力量とは、人とものを物理的に動かす力であって、これがないと、下々は理屈を理解しようとはしないからであった。人間は理屈を屁理屈として言う。しかし、物が動いたりすると理屈は原理として感じられるのだ。いまでも、すぐ何かをおっ立てようとする人たちがいるのは、かかる事情だけは認識しているからである。しかしもう世界はものをしっかり堅めてつくる文明を発達させてしまった。どちらかというと、有機物より鉱物を使う文明である。かくして、人びとはあまりにヨコには動かないのでタテに動こうとする。

住めば都と言うが、わたくしは、いまでも自分を移動させることは重要だとは思う。しかし、それはキャリアアップとか受験とかみたいな学校的な邪悪な目的につられがちではあるから、もうその重要性は失効しているかも知れない。たぶん本質的にはわれわれはどこまでも定住にむかって突き進んでいるのである。もはや精神しか頼るところはない。

わたくしなんか、受験勉強不足とただの頭の悪さで浪人したが、結局その二つの要素は持続して、――結局浪人先の名古屋で結果的にしてたのは、本屋で楽しそうな本をみつけて読みまくるだけの、大学の授業の予習。いや違う。むしろやっていたのは既に今の仕事だった。若い頃はまだ弁証法がありうるからいい。いまは反から合に往くときに逝きかねない。それはともかく、結局、わたしは、中学校あたりから学校に行きながら行っている感じがしない解離状態にあって、ある意味、実質、中学中退で仕事をやってる気がする。こういう人はわたしの同業者には多いはずで、だから、大学をあくまで学校と捉えている人たちの気持ちがわからない傾向があるとおもう。で、わからないからちゃんと考えてもいなくて、放置してしまっていたわけだが、もうそうもいっていられない、精神的中学中退の労働者として大学生をとりあえず弾圧することに決めました。

勝新太郎は無頼だとかいうイメージが崩壊する「鬼の棲む館」は、元妻の高峰秀子と愛人の新珠三千代の戦いがすごい映画であるが、新たな女をめざし、貴族から夜盗に変容する勝新太郎や、煩悩を断とうと出家した佐藤慶に対して、おんなたちは頑として自分のあり方から動こうとしない。はたしてわたくしは、動く方の側なのであろうか、動かない側の方なのであろうか。

爾萬方有罪、在予一人

2024-03-04 23:51:46 | 思想


各守爾典,以承天休,爾有善,朕弗敢蔽,罪當朕躬,弗敢自赦,惟簡在上帝之心,其. 爾萬方有罪,在予一人,予一人有罪,無以爾萬方,嗚呼,尚克時忱,乃亦有終

天に判断を任すというのは、実際は誰が誰を許し許さないのかという理念として実現不可能ではあるが実行可能な、難しい問題を引き寄せる。自分が罪人だったら簡単だが、みんなが罪人だったばあいはどうするのか?裁く人は果たしているのか。居るとすれば人は平等でありうるのか。現代の三権分立においても道徳律においては天がでてくるからそう問題は簡単ではない。

ソ連で大衆化と前衛運動の一致がなにか目標であったような時期に書かれたのかも知れない、ショスタコービチの第3番というのがある。駄作とされていたが以前より演奏されるようになった。よく鳴る管弦楽団がやるとけっこうな演奏効果であって、いまどきの映画音楽をまとめてみましたみたいななんちゃって交響曲よりも、ちゃんとOST的交響曲としてまとまっていて、楽器の使い方も華やかだし、最後なんだか合唱が入って祝祭だ。我々は映画時代をかなり生きてきて、ついにこの第3番の境地においついたのではなかろうか。この曲は全然ばらばらの場面が連続する曲で、部分部分が赫きながら一応まとまっているように聞こえる。第2番のウルトラ対位法は群衆そのものの表現にすぎないが、第3番はいわば登場人物ひとりひとりの輝きに接近するようで、その部分部分がダサく感じられたら全体がだめに感じるであろう、勇気ある作品である。ハイドンの交響曲なんか、部分部分はいまいちでもなんか様式感があるぞということで、音楽以上のハイドンの固有性=「ハイドンの交響曲」なのであるが、ショスタコービチの場合は、それはない、つまりそこに作曲者の自我がかんじられない。しかし、この自我を捨てた実験をよそに、プロレタリアートを束ねる政権が全体主義化して作曲者を責めはじめた。罪をえた作曲者は自分だけが罪人であるような交響曲を書き続けて死んだ。

ネット上の匿名もほんとに匿名ではなくて名無しのなんとかと名前がついていたわけで、ハンドルネーム?などにしてもペンネームの一種かもしれない。自分の名前で発言することはもちろんほんとの匿名も案外勇気がいることなんじゃねえかなと思う。それは交響曲第3番みたいに表現することだ。で、それがだめだと思った作曲者は、自分の痕跡をDSCHの音型に焼き印のようにした。それは言葉ではないが、言葉に近い。

ヴァレリーみたく、人間の造る力を盲信して何でもかんでも一からつくろうとするから万博なども金かかるのだ。木曽でやれ、少なくとも山と坂とか水とか義仲の怨恨とかがただで使える。たぶん、環境何とか学みたいなかんじで言っても、こっちのほうがトレンドだろう。万博などの祭のあと、木曽の木に制作者達の怨み節が掘ってあった、こんな結末が現代ではまだ許せる範囲じゃないか。ソ連化した日本においては。

結局日常が祝祭的な空間であることをやめたのがまずくて、日常が酒飲みの祝祭で終わっていたのは重要だったのだ。例えば、サブカルもそういうものだった時期がある。「らんま1/2」ていうの、はじめてすこし読んだけど、なるほどこれは人気出る、と思った。楽しい。高橋留美子というのはオタク文化のなにかとして語られるし実際そうなんだろうが、そこに描かれているのは学校行って友達とふざけて楽しいとか馬鹿な女の子とか男の子とふざけて楽しいみたいな世界を、学校生活という現実にも持ち込んでいけるマインドを与えるかんじで、現実逃避と違う。高橋留美子のおかげで漫画の世界から離れられなくなったという自意識を持つ人もいるけれども、高橋留美子のおかげで学校に楽しくいけた人もかなり多いんじゃないかな。「ドカベン」が部活のすすめになってたのとおなじように。

時と行為の一致について

2024-03-03 23:45:52 | 思想


「惟時羲和顛覆厥德,沈亂于酒,畔官離次,俶擾天紀,遐棄厥司,乃季秋月朔,辰弗集于房,瞽奏鼓,嗇夫馳,庶人走,羲和尸厥官罔聞知,昏迷于天象,以干先王之誅,《政典》曰:『先時者殺無赦,不及時者殺無赦。』

酒を飲んで乱れきっていた連中のおかげで日蝕までおこる。確かに、日蝕のおこる間隔とわれらが為政者ならびに御役人が㋔狂いになる間隔はにたところがあるかもしれない。いまは学問が進んでわからなくなっているが、人の行うことを自然現象とみなすところから我々のサイエンスは出発しているので、なんだか自然との類似性がみえてしまうわけである。それは類似性に過ぎないので、それを同一性にもってゆきたいのが人情だ。だからなのか、時と行為を一致させなかった奴は殺せと上の文章の最後でも言っている。

例えば、中興の祖というのが歴史上にはいるが、常識的に考えて危機を作り出した張本人である場合もあるにちがいない。転形期にあまりにそういう厄介な「中興の祖」が多すぎる場合、誰かを肯定的な真の中興の祖にしておきたいところだが、王権や政権の息が長いとやりやすい――時代が年表みたいにみえるから――ことは確かであろう。万世一系の裏には、そういうカオスを隠す暴力がある。時と行為を1対1にしておきたい欲望がその本体だ。

しかしかえって、我々の時代は、こんな激しさをもたず、人生を主観で包みたい時代なのである。なにしろ、人生100年である、長いのである。というわけで、こんな長さを自分の行為と一致させるのは無理があるのである。一致させるのは、いま・ここに生きることだ。しかし、いまはそんなことをやっていたらつかれてしまう。先日、長谷川宏氏の『日本精神史』を眺めていた。この書物は、長谷川氏がやっている塾に来ている親御さんとの読書会がもとになっているようだ。ずいぶん長い試みであったであろう。――ところで、この長谷川氏がヘーゲル研究の人であることに読んでいる途中で気付いたわけだが、ヘーゲルは時代を終わらせることで時代をトピックにしてしまった人で、もうマルクスのような時間操作の哲学へはあと一歩だった。しかし、長谷川氏の上の書物は、なにかいま流行っているアニメ「葬送のフリーレン」を思わせる。それは、仲間と一緒に魔王を倒し、仲間が死んだ後で永遠に生き続けるエルフの物語である。

我々の世代までは、もともとすっかり世の中に絶望しているへこみ具合をエネルギーに変換することだけをたよりに大学生あたりまでやってきたつもりの人が、――なんか出世競争みたいなものに乗せられたら頭がおかしくなる現象がある。それは遅れてきた受験戦争であって、いつまでたっても老後に行き着かないのである。で、ある種の若者達はきづいているわけだが、思い切って――何もやってないが終わったことにしよう、という生き方の有効性が出てくる。魔王も倒してない「葬送のフリーレン」である。しかし、魔王を倒すことは一大事業ではあったかも知れないが総力戦や近代兵器のやらかすそれではない。魔法で魔王を倒すというのは現代では戦争の比喩にならないのである。結局それは文字通りの魔法を使えるゲームのなかでの経験に近い、神話の読書とか。この作品をなにかもやもやしてあまりちゃんと見れないのは私がゲームをやったことがないことと関係がありそうだ。「戦争と平和」を読んでも『平家物語」を読んでも自分が戦後にたどり着いた感じは全くないが、ゲームはその点違うのであろうか。。

現実の老いは、フリーレンのように、優秀な自らの魔法と頭脳と、優秀な孫みたいな連中に囲まれて、「昔の幸福がわかった」みたいなものではない。例えば、最近、「ビバリーヒルズ高校白書」の俳優達の名前はなかなか思い出せないが、さっきも手塚治虫の「こじき姫ルンペネラ」の「ロマンポルノ術」あたりのせりふはまだ完璧に覚えていることが判明した。こういう邪悪なものが老いなのである。また、さっき思い浮かんだことがなにか自分のものの感じがしなかったから本棚探ってたら昔読んだ『情動の思考』の一節がそれだとわかった。いつ読んだんだ、まったく記憶がないが。。――こういうのもそうである。

実際、戦後ではなく戦中なのにも関わらず、我々のみえる世界は恰も「戦後」の風貌をやめない。「戦後」は、フランクフルト学派、その後の構造主義やフェミニズムも含めて反省の学であって、もっと言ってしまえば「理論」である。起きてしまったことの原理に遡る学問である。しかし、我々のなかの若者は、こういう戦後の老後感に堪えられない筈である。日本には、その反省に付き合いたい心優しき若者が多いが、世界的にみてそういうのは普遍的ではない。アメリカでは、もはや哲学や社会学や文学理論だけでなく、MBAもいらねえんじゃねえかみたいな議論があるそうだ。イーロン・マスクはMBAを人事で意図的に排除しているという。――しかし、理論だから非現実的というより、理論の適用とかに対する理解が間違ってて、それは他の分野と一緒なのである。教育学とかもそうだから。言葉遊びみたいだけど、原理じゃなくて理論に傾くというのがなにか役に立てようとするときにでてくる傾向で、社会主義もある意味おなじだった。

わたくしは大リーグの外国人問題をほとんど本気で植民地問題だと思っているので、大谷氏が見た目と出自がメラニア夫人みたいなひとと結婚して、Jocks問題に一石を投じ日本人を落胆させるみたいな幻想をいだいていた。わたくしが理論的である所以である。こういうのをかえって若者が嫌うのは当然だ。恋愛や結婚はあくまで実践にしておきたいのである。日本のどこかの中高一貫の男子校(中3)で、自分のジェンダーバイアスを学歴差別と絡め小説を例に問題にする授業が行われたそうだ。途中で、内職やってた学生と教師が口論になったそうだが、それはともかく、高校生がこういうものに反発するのは当然のような気がする。わたしだったらたぶん、中3男子だからといって馬鹿にしやがって+ジェンダーバイアスの話をするのに小説を使う根拠は?とか思って、かなり反抗的な態度を取ったと思う。