野菜
『おやすみプンプン』。
そういえば
おこ→激おこ→激おこぷんぷん丸→ムカ着火ファイアー→カム着火インフェルノォォォオオオウ→げきオコスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム
ちょっと一回書いてみたかった。
仕事を終えたあと、展覧会とかに行く。
http://www.museum.kagawa-u.ac.jp/event/kikaku13/13kikaku.pdf
昆虫に針を突き刺したりする、「昆虫の色とカタチ」展。
良い時代になったもんだ、いろんなカブトムシの標本は図鑑でしか見られなかったのに……。
虫にウキウキしながら、今度は怪談関係の企画展に行く。
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/11850_I1_ol.html
「怖くて不思議な文学展」。
芥川龍之介がマリオン・クロフォードの「Uncanny Tales」を読んでいたことを見落としてた。ありがとうございます、企画展様。
http://www.museum.kagawa-u.ac.jp/event/kikaku13/13kikaku.pdf
良い時代になったもんだ、いろんなカブトムシの標本は図鑑でしか見られなかったのに……。
虫にウキウキしながら、今度は怪談関係の企画展に行く。
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/11850_I1_ol.html
「怖くて不思議な文学展」。
芥川龍之介がマリオン・クロフォードの「Uncanny Tales」を読んでいたことを見落としてた。ありがとうございます、企画展様。
神輿を転がして壊す「みこしまくり」で知られる、木曽町(←わたくしの田舎)の水無神社祭であるが、先週終わってた。
花火大会もあったはず。
ところで、親から聴いたところによると、木曽で花火を打ち上げたときに良いのは、その音響効果だそうだ。……ということに観光客が気付いたそうである。つまり、打ち上げ花火の音が山にこだまする、木曽谷は自然のコンサートホールのようなものだったわけであった。そういえば、そうだった気もする。意外と地元民はわたくしのごとく気付いていないとみた。
例えば、これをみると、確かにこだましているのが分かるが、実際はもっと残響音が聞こえる。
https://www.youtube.com/watch?v=KMRnyVWXi4s
数年前に高×の打ち上げ花火大会に出かけてみたが、巨大なカップルたちの頭に花火が隠れて見えないばかりか、キレーとかスゲーとかレポートノシメキリイツダッケとか雑談に紛れて花火の音が聞こえなかったので、失望した。
打ち上げ花火は、山奥で観るべし。
西炯子さんとわたくしは出身大学出身学科がおんなじ。だが、共通点はそれ以外になし。
先日は、シーク様だったが、今度は年上の哲学教授が突然……という漫画である。
出来れば国文学者にして頂きたかった。
……というのは、冗談として。この話、少女マンガとして読めば、王子様がやってきた話なんだろうが、王子様から見れば、妙な女子がいきなりやってきた話なのだ。女子からみればテロであり、男からみれば革命である。(逆でもいいが)
ウクライナでもガザでもいいが、いまだに革命に対する帝国主義の反撃は続いているとみるべきで……、そんな文脈でみることも必要であろう。戦後さんざ指摘されてきたように、ロシアとアメリカはもともと似ているのである。しかし、それは彼らの望むところかもしれない。宗教戦争と階級闘争をごっちゃにさせながら、対立ごっこで秩序を維持すればよろしい。彼らが恐れているのは、モンゴル帝国のようなものの復活ではあるまいか。
ガザの大虐殺が本格的にやばいというので、国連でイスラエル非難決議をしようとしたところ、案の定、ロシア中国とアメリカ欧州(日本)に意見が分かれてしまったそうである。(アメリカは「反対」、日本や欧州は「棄権」らしい)最近のウクライナの旅客機撃墜の行く末もそうだが、結局、子分同士の喧嘩が、二大ボスとコバンザメ子分の喧嘩になってしまうであろう。が、これは世の常なのである。その喧嘩を望んでいる連中が案外多いというだけだ。だから、日本は、殊更かっこをつけて「みんな仲良くなさい。ちょっと待っててっ、わたしが真相を究明します」と言うべきである。小学校でいじめたりいじめられりした過去を持つが、中学入学以来は学級委員長となり「かっこつけ野郎」としてみんなの尊敬と軽蔑を一身に浴びるような立場はなかなかよいものではなかろうか。
ところが、そういうかっこいい立場を捨て、ノーベル賞と金儲けと人殺しが好きな大ボスのうしろにちょちょろ隠れようとしくさってからに、「積極的平和主義」って、われ、自分のいっとることの意味わかっとんのかいっ(何かの映画で聴いたような台詞だな……)
日本の得意技は、へいこらしながら綺麗に仕上げた鉄とか部品とか、止まった画とかを金のためではなく「売る」ことだ。言葉の壁の関係でもったいないのは、小説の類だが、これもなかなかいけているから、「売る」べし。「おもてなし」は、出来心があるやり方だから、ろくなことにはなるまい。我々は、変動する対人関係を調整するためにコミュニケーションではなく、綺麗な物を送りあってそれを愛でつつ、なあなあにして喧嘩を避けるという、知恵を発明してきたのだ。そのかわり、何を避けてきたのか忘れることも屡々であるが……
というわけで、さいきん少女マンガで「シークもの」というやつがキテいるという噂を学生から聞いたので、適当に買って読んでみた。
こういうののアイデア自体は、昔ハリウッド映画にもなった小説「シーク」あたりから延長してきているのであろうが……、ダブルスタンダードしか出来ないアメリカは、文化の方面はもう日本に任せなさい。イスラムとかユダヤとか、日本人とか……オリエンタリズムがよく分かってない日本の作者達が、世界を「平和」にしてくれるだろう。
……無理である。
ところが、そういうかっこいい立場を捨て、ノーベル賞と金儲けと人殺しが好きな大ボスのうしろにちょちょろ隠れようとしくさってからに、「積極的平和主義」って、われ、自分のいっとることの意味わかっとんのかいっ(何かの映画で聴いたような台詞だな……)
日本の得意技は、へいこらしながら綺麗に仕上げた鉄とか部品とか、止まった画とかを金のためではなく「売る」ことだ。言葉の壁の関係でもったいないのは、小説の類だが、これもなかなかいけているから、「売る」べし。「おもてなし」は、出来心があるやり方だから、ろくなことにはなるまい。我々は、変動する対人関係を調整するためにコミュニケーションではなく、綺麗な物を送りあってそれを愛でつつ、なあなあにして喧嘩を避けるという、知恵を発明してきたのだ。そのかわり、何を避けてきたのか忘れることも屡々であるが……
というわけで、さいきん少女マンガで「シークもの」というやつがキテいるという噂を学生から聞いたので、適当に買って読んでみた。
こういうののアイデア自体は、昔ハリウッド映画にもなった小説「シーク」あたりから延長してきているのであろうが……、ダブルスタンダードしか出来ないアメリカは、文化の方面はもう日本に任せなさい。イスラムとかユダヤとか、日本人とか……オリエンタリズムがよく分かってない日本の作者達が、世界を「平和」にしてくれるだろう。
……無理である。
37度の狂った暑さのなか、芥川龍之介の「二つの手紙」の演習を……休講にすべきだった。学生のみなさんごめんなさい。
家に帰ったのだが、夜九時なのに
↓
暑いですね。ことしは特に暑いようですね。実に暑い。こんなに暑いのに、わざわざこんな田舎にまでおいで下さって、本当に恐縮に思うのですが、さて、私には何一つ話題が無い。上衣をお脱ぎになって下さい。どうぞ。こんな暑いのに外を歩くのはつらいものです。パラソルをさして歩くと、少したすかるかも知れませんが、男がパラソルをさして歩いている姿は、あまり見かけませんね。
本当に何も話題が無くていけません。画の話? それも困ります。以前は私も、たいへん画が好きで、画家の友人もたくさんあって、その画家たちの作品を、片端からけなして得意顔をしていた事もあったのですが、昨年の秋に、ひとりでこっそり画をかいてみて、その下手さにわれながら呆れてそれ以来は、画の話は一言もしない事にきめました。このごろは、友人の作品にも、ひたすら感服するように心掛けています。
これは、画の話ではありませんが、先日、新橋演舞場へ文楽を見に行きました。文楽は学生時代にいちど見たきりで、ほとんど十年振りだったものですから、れいの栄三、文五郎たちが、その十年間に於いて、さらに驚嘆すべき程の円熟を芸の上に加えたであろうと大いに期待して出かけたわけですが、拝見するに少しも違っていない。十年前と、そっくりそのまま同じでした。私の期待は、はずれたわけですが、けれども、私は考え直しました。この変っていないという一事こそ、真に驚嘆、敬服に価すべきものではないか。進歩していない、というと悪く聞えますが、退歩していないと言い直したらどうでしょう。退歩しないという事は、之はよほどの事なのです。
修業という事は、天才に到る方法ではなくて、若い頃の天稟のものを、いつまでも持ち堪へる為にこそ、必要なのです。退歩しないというのは、これはよほどの努力です。ある程度の高さを、いつまでも変らずに持ちつづけている芸術家はよほどの奴です。たいていの人は年齢と共に退歩する。としをとると自然に芸術が立派になって来る、なんてのは嘘ですね。人一倍の修業をしなけれあ、どんな天才だって落ちてしまいます。いちど落ちたら、それっきりです。
変らないという事、その事だけでも、並たいていのものじゃないんだ。いわんや、芸の上の進歩とか、大飛躍とかいうものは、ほとんど製作者自身には考えられぬくらいのおそろしいもので、それこそ天意を待つより他に仕方のないものだ。紙一重のわずかな進歩だって、どうして、どうして。自分では絶えず工夫して進んでいるつもりでも、はたからはまず、現状維持くらいにしか見えないものです。製作の経験も何もない野次馬たちが、どうもあの作家には飛躍が無い、十年一日の如しだね、なんて生意気な事を言っていますが、その十年一日が、どれだけの修業に依って持ち堪えられているものかまるでご存じがないのです。権威ある批評をしようと思ったら、まず、ご自分でも或る程度まで製作の苦労をなめてみる事ですね。
どうも暑いですね。こんな暑い日にはいっそドテラでも着てみたら、どうかしら。かえって涼しいかも知れない。なにしろ暑い。
――太宰治「炎天汗談」
クリーンキャンパスといって、教職員と学生が学内の草刈りとかごみ拾いをやるという、行事があるのだが、たいがいこの時期と秋頃行われる。学生の模擬授業の練習につきあい、それが終わると、すぐさまそのクリーン行事に向かう。
気温だいたい35℃
ババぐそに、おそるおそるタワシをあてます。
ボトン、ボトン、便つぼに落ちます。
ガス弾が、鼻の頭で破裂したほど、苦しい空気が発散します。
心臓、爪の先までくさくします。
落とすたびに、くそがはねあがって弱ります。
[…]
便所を美しくする娘は、
美しい子どもをうむ、といった母を思い出します。
ぼくは、男です。
美しい妻に会えるかもしれません。
……浜口国雄の有名な「便所掃除」であるが、これを知った中学生のわたくしは、最終連の意味不明さに疑問を持った。当時、わたくしのいた中学校は、管理教育の失敗から「自問清掃」などの修養主義へ、すなわち――外部統制から内部統制に移っていた。うちの中学は、校則の試験まであり、そこでわたしは優等生ぶりを発揮したしか最高点をとったはず。というわたくしの愛読書はヘルマン・ヘッセだったから、外部統制は許せても内部統制は御免被りたい気分であった。そんなわたくしは、上の最終連にさえなにか労働を内面化しようとする陰謀でも感じたというところであろう。しかし、いま読み返してみると、この「美しい」を繰り返す作者の周辺に、どんな汚い世界が、比喩的にも実際の風景としても広がっていたかを、わたくしは考えるべきであった。しかし、労働は、まだ未来に美を夢想することができたのだ、と言えるかも知れない。
とすれば、真に労働が、価値の問題として白々しく我々にのしかかるのは、これからだと言わざるを得ない。
というのは、たぶん勘違いで、よく見たらいろいろと汚いものは残っているのであった。
「バッタ君町に行く」とかミュージカル映画「レ・ミゼラブル」を観ると、果たして我々はどのような時代に住んでいるのかと不安になってくるのであるが、わたくしは、とりあえず、その不安を、アラゴンの例えば
砕けたさかずきから こぼれ流れる酒のように
姿かたちもないわたしの亡霊はどこへ急ぐことやら
土の重みにおしつぶされた すみれの花の
ほのかな香りに酔って わたしの足は千鳥足
(「エルザの狂人」大島博光訳)
といったイメージで慰めもするのであるが、これはわたくしがロマン派のしっぽを引きずっている為でもあろう。とはいえ、「バッタ君」や「レ・ミゼラブル」を作り上げる実力がないのに、いろいろな思想を超克し続けてもなにかおかしいと思うのもたしかなのである。「レ・ミゼラブル」をブルジョアジー的だとか、女子どもをなんと心得るっ、「抑圧委譲の原理」を見逃しているっ、フェミニズムからいえばあまりに時代錯誤である……とか、まあいろいろ言うことは出来るのだが、音楽や台詞の「素朴」な輝きを無視することはできない。現実や歴史に立脚してしまえばその「素朴さ」――思想や芸術に殆ど意味はなくなる。やっかいなのは、戦後の運動にみられるように、その素朴さが「あしたのジョー」やら高倉健の映画に乗っ取られてしまい、思想の素朴さにも芸術の素朴さにもたどり着きにくくなってしまったことである。オウム真理教における「宇宙戦艦ヤマト」の模倣問題もその一例だ。模倣するものがおかしいことをやらかしてしまうのは、模倣されたものの作品の素朴さ――極言すれば芸術としてのレベルの高さ――の実質がやはり原因だと思う。
我々が「バッタ君」や「レ・ミゼラブル」を持たず、「野菊の墓」や「水戸黄門」を持っていることが与えている影響は、上野千鶴子の著作がどのような意味を持つかという問題と絡んでくるとわたくしは思う。
わたくしは、『家父長制と資本制』とか上の本とかが、上野千鶴子の本領を発揮している本ではないかと思う。ただ、わたくしは上の「素朴さ」の問題として、「はじめに」と「あとがき――祈りに代えて」をひっくり返した方が良い気がする。我々のシニシズムは素朴さで自分を持ちこたえることが出来ないところから来ているからである。上野千鶴子は「あとがき」に書かれているようにカトリックの家に生まれ、「祈り」を拒否する思想家である。しかし、それは「レ・ミゼラブル」で言えば、ジャン・バルジャンがパンを盗んじゃった地点にあたっているのであり、それが最後に出てくる必要はないのである、とわたくしは思った。
横山三国志を三十年ぐらい掛けてついに読了しました……。
最後に突然出てきた劉一家はあほやのう……。親父の劉禅が、せっかく身分とか漢の再興とかより女の子と音楽と平和という、三国志の中で唯一現代に通用する価値観を打ち出しておるのに、降伏に承服せず勝手に一家心中しおって。何もせんかったのはおまえじゃ。劉備も曹操もその部下たちも人殺しの暴力団ではないか。中国や日本が劉禅を再評価するのはいつの日であろう。