★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2023-11-09 23:53:04 | 映画
この本鈍器だなとか枕だな、とか言っている人でも実際に鈍器や枕にした人は少ないに違いない。わたくし、『文学的絶対』を昨日枕に、朝起きた後、幼いGを圧死させたことを告白しますありがとうgざいました。ゴジラはトカゲじゃないからいいのであろうが、一度トカゲやら何やらを飼ってみれば、かれらにちょっと意地悪をしてみたときの動きが目に見えない的に尋常じゃないことはわかる。その時には文学事典や『文学的絶対』である。文学の力はかような物理的力である。

かくて講師待つほどに、我も人も久しくつれづれなるに、この翁と物言ふやう、世継『いで、さうざうしきに、いざ給へ。昔物語して、このおのおはさふ人々に、「さは、古は、世はかくこそ侍りけれ」と、聞かせ奉らむ』と言ふめれば、いま、一人、繁樹『しかしか、いと興あることなり。いで覚え給へ。時々、さるべきことのさし答へ、繁樹もうち覚え侍らむかし』と言ひて、言はむ言はむと思へる気色ども、いつしか聞かまほしく、おくゆかしき心地するに、そこらの人多かりしかど、物はかばかしく耳留むるもあらめど、人目に表れて、この侍ぞ、よく聞かむと、あどう詰めりし。

翁たちは記憶を再生する。これが教育なのかはわからないが、思い出すことの重要さを昔の人も知っていたわけだ。同時代を知らない若者達が、今度は虚構として記憶を再生する側にまわる。そのときに、過ちをあまりに犯さないために、翁達は尋常じゃなく長く生きたことにしてある。実際は、このような作品を文学として書いたものの物理的膂力こそが必要であった。それが歴史の中で生きるということである。



ゴジラは伝統芸能と化しているから、もはや記憶ではない。今回のゴジラの監督の作品も、そもそも、三丁目のなんとかとか、永遠に0みたいな――とくに、後者は爺の回想を聴く大鏡風の話を恐ろしくアイドル映画的に大げさに展開してきた。つまり虚構の側面がだいぶ大きい。ところが、数年前、虚構もしっかり大きくすると現実につながるみたいなことをこの前の「シン・ゴジラ」が主張した。日本はでっかいG(原爆)でしかG(現実)、つまりアメリカに占領された日本に対峙できない、という閉塞への指摘である。それになぜか勇気を獲た監督が今回、とにかく、ゴジラの咆吼、加速的爆発的火炎を描き出し、音楽も54年版に匹敵する音割れに接近するマッチョな方向で娯楽的にやりきっている。なかなかのエンタメである。――傑作というのは、似たような過去の作品が駄作であったのは、この到達点へのプロセスだったからだみたいな理屈の誕生を意味する。三丁目とか永遠にOとかなんやかんやもこれで成仏できる

とりあえず、これを現実だと錯覚する人のために忠告しておきたい。貧乏学者は浜辺美波さんと結婚できると朝ドラをみて思ってしまった学者予備軍に告げます、この作品はフィクションです。特攻帰りは浜辺美波さんと同棲できるとゴジラを見て思ってしまった戦闘的な皆さんに告げます、この作品はフィクションです。

ホームランの軌道

2023-07-19 23:44:08 | 映画


シャルロットゲンズブールのお母さんが亡くなったと聞いて、ある学生に「きみたちはなまいきシャルロットっていう映画を知っているかね」と聞いたら、「クレヨンしんちゃんみたいなやつですか」と聞かれたので「まあそうかも」と言っておきました。そう言われればそんな気がしてきました。よのなかガラガラポン的な感じになって、もう一回何十年か前に帰っている。われわれは、根本的に戦前の抵抗運動の性格である隠微な太宰・花田的アイロニーを身に纏うどころではない。初級編だというて、授業で「君たちはどう生きるか」の抵抗精神の話をしても学生は暗い顔するだけだ。

が、「青い山脈」とか「颱風とざくろ」の話をするとけっこうニコニコするし、「青い山脈」とか「娘十六ジャズ祭り」とかで笑う。学生のセンスはいまの八十代とかに近いぞ案外。。。

暑さでつかれているせいもあるが、わたくしも素朴な模倣でアイロニーを跳ばす努力ぐらいしか出来ない。――大谷が3試合連発ホームランらしいが、おれもさっき爪楊枝でビー玉をつついて消しゴムに三回連続当てたのでいいとおもう。

とにかく我々は戦時中と似た「精神の危機」(ヴァレリー)以上に危機なのである。AIでもグーグルでもなんでもいいが、それができる以前にそれっぽくなっているのがわれわれで、いまだに我々の似姿しかつくっていない。そりゃシンギュラリティするに決まっている。我々の方が合わせているのである。それをなんかもっともらしく悟った風にみせかけても無駄である。

香川にもとブルーハーツの梶原さんが障碍者と一緒に太鼓叩きに来ていて、テレビでも報道されてたが、彼は仏教徒なのである。リンダリンダーとか言いながら仏教徒みたいなのが確かに仏教徒らしい。スマホを覗き込んでいるのは、むかしなら木の棒なんかを趣味で持ち歩いているおかしな人であって、決して悟りはしないのであった。

わたくしが今日気付いたことは、――外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」の最初の拍子木のところが、クマゼミのなき声に似ていることだけだ。クマゼミの声って子どものときにあまり聴かなかったからわからなかったのか。。。わたくしは、この曲が民謡のコラージュにすぎずと思いすぎていたために、夏の風景をえがいていたことに気がつかなかったのである。それにしても、この曲は、日本の風景よりもなにか別世界への軌道を描いている。

以前、あるホームランバッターのホームランを球場で生で見たけど、ほんとボールが落ちてこなかった。落ちたんだけど落ちてこない軌道で飛んでいたのである。こういう幻想にしか希望はない。

ジャン・リュック・ゴダール死去

2022-09-13 23:20:27 | 映画


今日は、ヤクルトの村上が五五号を打ったりしたが、一番のニュースは、ゴダールがなくなったというあれである。エリザベスや安倍が文化にとって重大ではあっても、ゴダールみたいな模倣者を呼び寄せるごきぶりホイホイ的な機能はなかった。前者がバルサン的な存在であるのと対照的である。

わたくしも文系思春期人の端くれとして、ゴダールの主要な作品は、大学院時代までにはだいたい観た。一番すごいのは『映画史』のような気がするが、体調がよいときにしか観返す気になれない。ゴダールの本性は、美女に吸い寄せられてしまう中学一年生みたいなところにあって、あまりに感性がプラトニックなので忘れがちであるが、初期思春期の頭が猿状態の面白さを非常に色濃く残している。大きく物語が展開しようとすると、流行歌を歌ってやめてしまうみたいなところである。

とにかく、ゴダールの映画には、この世の欲望を超越したようなものすごい美女が映っているのですごい。これほどまでに美女をプラトニックラブ的に撮れるのは完全に異常である。アンナ・カリーナの意味不明なウィンクをみたければゴダールを見るしかない――「女は女である」。処女懐胎を描いた「こんにちは、マリア」、あれはいかん、けしからんにも程がある。(正直、ゴダールを十回以上見たのはこれだけ

「勝手にしやがれ」もやっぱりかっこいい映画であったが、ヒロインがおなじということもあるが、これは「悲しみよこんにちは」を喰ってしまう野蛮な映画であった。おかげで、セシルカットはゴダールのヒロインから流行っていったという歴史修正を授業中行ってしまったことを懺悔します。『映画史』をとったことからしても、彼の映画は映画史の構築であり映画批評である側面が強い。それが、彼の若さで時々美女批評になってしまうことがあるだけであった。

生を批評することは物語を拒むものである。ウルピッタの『不敗の条件』は、保田與重郎の「木曽冠者」論でセンチメンタルに閉められているわけだが、田舎もんはローマ生まれのウルピッタ、奈良生まれの保田らのためのカンフル剤ではない。木曽義仲は別に偉大な敗北をしたわけではなく、殺されたのであって、もし木曽義仲が巨大なロケットを持っていたら、ローマも奈良京都の文化も灰になっているのだ。死が小さいから多数の生が生き残るのである。

しかしまあ確かに、保田的に、死が文化を生にするというのもわからなくはないのだ。宮谷一彦も多くの人に忘れ去られていたのに彼が死んだら思い出したし、ゴダールもこれからまたみんなでみるのであろう。生きている生は文化にとって邪魔だみたいな感覚はいやらしいけど我々の中にある。しかし、物を創り出す者はそんなことを考えている訳ではない。生の批評を、死に至った批評として読んでしまう「文化享受者」たちばかりになった世界は退屈そのものであろう。

ゴダールは、その意味から言うと、我々のような享受者と義仲みたいな奴の中間にはまり込んだところがあったのではなかろうかと思う。

自明の理

2022-08-25 23:04:18 | 映画


最近、仲代達矢主演の「帰郷」をみた。藤沢周平の原作で、舞台は木曽福島である。というより木曽福島の八沢が主たる舞台で、わたくしが生まれ育ったところである。なるべく木曽福島ににせてがんばってつくってはいたが、ヤクザもんの主人公とその娘のいる八沢の家が、ちょっと地理的にちがう感じである。八沢はどちらかというと、江戸期には漆器産業の職人長屋街だった。映画では一応漆器作りの職人の家になっていたが、家の感じがどこかの農家に似ていた。たしかに、そこは物語的に、――30年ぶりくらいに?戻ってきた親父と父親をしらない娘の修羅場を、職人長屋でやらかすのはあまり感心しない。まわりの家から人が押しかけてしまうかもしれない。

おもしろかったのは、老いた主人公が昔の悪友(いまはヤクザの親分)を斬り殺す場面で、コミカルな老人のチャンバラがあったことだ。これはもう少しでチャップリンのそれみたいになりそうであった。「モダンタイムス」で、チャップリンが機械に巻きこまれてゆく滑稽な場面があるが、これは機械文明以上に、チャップリンの本質を表していて、彼の動きはある種の機械の動きなのである。いまも、人間的なものと生成変化をむすびつける論者も多いが、我々は機械に生成変化しかかかっている。

我々は論理とかいいながら、好き勝手なことを機械的に口に出すようになっている。論理とは機械である。わたしは、パラフレーズとか要約の作業に人間的なものが残ってゆくのだと思う。これこそがコミュニケーションを成立させるもので、そのじつ論理なんてのはその一側面にすぎない。

例えば、学生のレポートは、読んでむしゃくしゃしながら成績つけることがあり得るが、これは機械的な反応だ。その前に、きちんと学生にむけたコメントを書いてみるといいというのが私の経験である。そうすると学生の言いたいことがわかることがある。むろん、言いたいことがわからなくなってしまう場合もある。これは研究においてもそうであるはずで、そうやって誤解している論文が大量にあるかもしれない。ネットでは一部の表現に脊髄反射しがちと言われてるけど、本や論文にたいしても基本的におなじようなことはあって、自分なりに対象をパラフレーズする作業がものすごく大事だとわかる。意見をつくるために読書するのです、みたいな、――「中学国語」みたいなことをやっているからやべえのである。

だいたい意見というのは論理的に導き出した者であるといことは、――「感情的」だということである。ある感情に基づかなければ、論理は一貫しないという自明の理を忘れたところに、論理は成立する。ネットではすべてが過激に大げさになってしまう、と言われるが、学歴差別や偏差値による大学差別や男女差別や障害者差別とかその他もろもろの、現実のそれは、文字に表せないほどものすごいものであることを忘れてもらっては困る。それとの戦いが不可能なほどひどいのである。だからネットに「論理=感情」が流れてしまうのだ。

国語の先生はなんとなく感じているとおもうが、――国語を崩壊させているのは歴史の授業の質的変化もひとつの要因である。大学生のレポートみても、歴史観がものすごく奇妙だ。これはネトウヨとか新しい歴史教科書の影響とか、そういうことじゃなく、もっと根本的な、言葉中心史観みたいなものの浸潤である。たとえば「高度成長でみんな希望を持ててた」みたいなのをほんとに信じちゃう類い。これをやられると、国語は崩壊する。言葉には背後の何かが必要だという自明の理をわすれたものはもはや国語ではない。英語と国語を並列的にできるとかいう意見もわからなくはないが、背後にあるものの問題でそれは問題外だとわかる。コミュニケーションは言葉でやってるのではないのである。英語には背後の権力が存在しているではないか。

我々は地球を諦めない

2022-07-29 01:48:26 | 映画


フォッフォッフォッフォッフォッ

バルタン星人が蝉だとすれば、この笑い声は雌をよぶあれなのかもしれない。ウルトラマンや科学特捜隊はそもそもナンパされようとしてたのではなかろうか。渋谷でナンパされた男がいきなり殺人光線やショットガンを撃ったのである。直ちにこやつらを逮捕せよ。

甘さとピグモン(ガラモン)

2022-07-23 08:13:51 | 映画


ウルトラQにでてきたガラモンは不気味で大きくて面白かった。ウルトラマンに出てきたときには赤くなってて労働者の味方らしかった。軍の味方をして殉教した。

我々の文化に於いては、オリジナルを変化させるときにかならず思想の甘さが紛れ込む。源氏物語やドラゴンボールでさえそうであった。それが「大和魂」の実態である。しかし、甘いからこそ更なる反復を生み、変態的模倣的に展開する。甘さと変態的なものは連関している。だから、模倣に快感を覚える「子ども」にパロディをさせてはいけないようにわたくしは思う。

研究は文化を形作るのかわからないところがあるが、飜訳はそれがけっこうめちゃくちゃであっても文化をつくる。古文や漢文も含めて専門家だけでなく、もうちょっと軽々しく飜訳的な作業を学生時代からやったほうがいいのだ。しかしそれは飜訳だからであって、パロディだからではない。飜訳はむしろ自国語の文化の内実を問い直すことであって、古文とか漢文の場合はもっと直接的にそうだ。それを学ぶことで、我々は飜訳をしていないときでも飜訳をやってることがわかるわけである。解釈とかの下品な暴走を止める意味でもそれは教育的で、もちろん国民国家的にも重要である。もっとも、飜訳で命を張ってる人間じゃない私みたいな人間がそういうえらそうなことがいえるのであろうが。。。

太宰治が「御伽草子」を初期にやってないのは、芥川龍之介への反省からくるものかもしれない。漱石の呪いでもあったわけだが、芥川龍之介は翻案を反復した。反復することで、逆に谷崎的な同じ様式での反復の快感まで手放したように思われる。太宰は、パロディを戦時下の緊張のなかでしか自らに許さない。甘さでも許される場合があったのであった。戦争に負けて、太宰は再び甘さをそぎ落とす方向に向かったが、「人間失格」である種の自己模倣的な反復をして命運はつきた。

チャンドラーは蝙蝠か

2022-07-20 23:04:22 | 映画


と思ってたんだが、飛べないし、やはり怪獣はゴジラ体型が基本でそこに何かをくっつけるという。そしてゴジラは人間にスーツを被せたものである。基本、怪獣は人間のおしゃれに近いものである。

明石家さんまはお笑い怪獣と言われているが、むしろ能年玲奈とか広瀬すずとかが怪獣の一味であろうし、一番すごいのは、紅白の時の小林幸子である。

少年の頃、「怪獣のバラード」という歌が嫌いだったが、「怪獣にも心はあるのさ」というのに違和感があったからだ。なぜ、これを中学生に歌わせるのだ?こういう修辞は、普段は何かを差別している人間だと思ったのである。中学生は怪獣は怪獣ではない。しかし、怪獣にも心はある、という表現はそれを示している訳ではない。怪獣ごっこをしながら人の心をなくしかけているガキ共の方が、人間的である。その点、中学生は半端ではあるのだが。

ラゴン

2022-07-15 23:01:06 | 映画


いまからでも遅くはない。手塚治虫の国葬を、いや我が国に生きる全ての生物で葬式を出すのだ。いっそのこと虫たちだけでもいい。結局、生きとし生けるものを平等に、やおろずの神がー、とか生物多様性が~、とか言っているのは嘘で、初代首相とか、最長なんとかが好きなやつが多いのである。日本の文化も結局どうでもいいやつがおおいのだ。

そういえば、「鎌倉殿の13人」が激しい内ゲバ内戦をえがきながらさいごその最終的な原理をどう語るか、語らないかに注目している。毎週人が暗殺されるドラマをみながら、実際に人がころされるとあれなのがわれわれで、はやくドラマにしたがるというのが、――賴朝がドラマの中で木曽義高を殺しておいてのせりふ、――「天命ゾ」なのである。連合赤軍事件の幕府版が鎌倉幕府だとして、過程の総括ではなく最終決着としての総括をして頂くほかはない。

そういうときに、結局、みずからのなかから原理をでっちあげられないのが、われわれの知的体力のなさである。仏教でも神道でも近代の超克でもいいからやっておかないと次のような柔な戯作的精神の回帰で終わる。

――庭にいた雨蛙とオードリー・ヘップバーンと比べてどちらが細の顔に近いかと沈思黙考してみた結果、ヘップバーンに近いと言わざるを得ない。したがって、わたしはグレゴリー・ペックなのではないだろうか。

こんな具合である。だいたいいわゆる「日本回帰」みたいなのがだめなのは、手前がもともと日本にいた訳であり回帰しようがない、ということに気づいてないからだ。回帰前も回帰後も、自分の頭を呑み込んだようなどこかの亜空間にいるんだとおもうのだ。

大和朝廷の昔から、我々が象徴的権威的人物をいつも暗殺というかたちで排除せざるをえないのも、象徴をいじくることによって全体をいじくろうという、手っ取り早い怠惰な方法、というか作用的な手法をとっているためである。天皇制とは、その実、そういう作用を象徴し、しかもその天皇を暗殺しないことによって隠蔽しているような気がする。