★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

八咫烏は何を目指して飛ぶか?

2020-08-31 22:12:33 | 文学


ここにまた高木大神の命以ちて、覚して白したまはく、「天つ神の御子を、これより奥つ方に、な入り幸さしめそ。荒ぶる神いと多となり、今、天より八咫烏を遣はさむ。かれ、その八咫烏引道きなむ。その立たむ後より幸行すべし」とまをしたまひき。かれ、その教へ覚しの随に、その八咫烏の後より幸行せば、吉野河の河尻に到りましし時、筌を作りて魚を取る人あり。ここに天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は贄持之子と謂ふ」と答へ白しき。こは阿陀の鵜養の祖なり。

八咫烏は有名であり、芥川龍之介の「桃太郎」でも鬼よりもすごい凶悪殺人鬼桃太郎を生み出すのに一役買っている。八咫烏の三本足は、古事記日本書紀よりもあとで付け加えられたイメージだときいたことがあるが、――まあ三本足でもいいことにして、イメージしてみると、左右に三本あれば昆虫みたいでかっここいいが、三本足というのは、羽が二枚なのにちょっとおかしいのだ。

論文の蛇足みたいなものが、非常にいらいらさせるように、――とくにわたくしのものなんかがそうであるが、なにか八咫烏にはいらいらさせる要素があるのではなかろうか。だから、こやつが出てくると、戦闘モードになってしまい、八咫烏に従っているつもりでやはり実践によって我々の生が生成される如き、猛進バカになりはてるのではなかろうか。これ以降、ニエモツとかイヒカとかイワオシワクとか、地元の神みたいなものが次々にしおらしく出てくるが、それもそのはずである、とにかく眼つきが完全におかしくなった西国のヤクザたちが、眼に入る者片っ端から斬り殺して進軍しているのだ。とりあえず生き残った者がしおらしいのは当たり前だ。

八咫烏は存在しない。つまり、実際にいたのは烏である。こいつらは、この前もわたくしの上で田螺を狙っていたのであるが、八咫烏(=烏)も屍体や田螺めがけて飛んでいったに違いない。

以前も引用したことがあるが、戦争の烏というものはこういうものだ。

烏はやがて、空から地平をめがけて、騒々しくとびおりて行った。そして、雪の中を執念くかきさがしていた。
 その群は、昨日も集っていた。
 そして、今日もいる。
 三日たった。しかし、烏は、数と、騒々しさと、陰欝さとを増して来るばかりだった。
 或る日、村の警衛に出ていた兵士は、露西亜の百姓が、銃のさきに背嚢を引っかけて、肩にかついで帰って来るのに出会した。銃も背嚢も日本のものだ。
「おい、待て! それゃ、どっから、かっぱらって来たんだ?」
「あっちだよ。」髯もじゃの百姓は、大きな手をあげて、烏が群がっている曠野を指さした。
「あっちに落ちとったんだ。」
「うそ云え!」
「あっちだ。あっちの雪の中に沢山落ちとるんだ。……兵タイも沢山死んどるだ。」
「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」
 日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語った。
 翌日中隊は、早朝から、烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既に、浅猿しくも、雪の上に群がって、貪慾な嘴で、そこをかきさがしつついていた。
 兵士達が行くと、烏は、かあかあ鳴き叫び、雲のように空へまい上った。
 そこには、半ば貪り啄かれた兵士達の屍が散り散りに横たわっていた。顔面はさんざんに傷われて見るかげもなくなっていた。
 雪は半ば解けかけていた。水が靴にしみ通ってきた。
 やかましく鳴き叫びながら、空に群がっている烏は、やがて、一町ほど向うの雪の上へおりて行った。
 兵士は、烏が雪をかきさがし、つついているのを見つけては、それを追っかけた。
 烏は、また、鳴き叫びながら、空に廻い上って、二三町さきへおりた。そこにも屍があった。兵士はそれを追っかけた。
 烏は、次第に遠く、一里も、二里も向うの方まで、雪の上におりながら逃げて行った。


――黒島伝治「渦巻ける烏の群」


あるいは、神武天皇たちは、疫病か何かで人がバタバタ死んだ地域を平定していったに過ぎないのかも知れない。死肉をめがけて飛ぶ烏に導かれて。怪しいのは、例のサイコパスが天から刀を落とした前に、神武天皇たちが熊野でバタバタ倒れていったという事実である。パンデミックだ。

この刀を降すべし

2020-08-29 23:39:50 | 文学


かれ天つ神の御子、その横刀を獲し所以を問ひたまへば、高倉下答へ曰さく、「己が夢に云はく、天照大神・高木神二柱の神の命以ちて、建御雷神を召して詔りたまはく、『葦原中国はいたくさやぎてありなり。我が御子等、不平みますらし。その葦原中国は、専ら汝の言向けし国なり。かれ、汝、建御雷神降るべし』とのりたまひき。


建御雷神(タケミカズチ)!国譲りのときに、切っ先の上にあぐらをかいていた完全なるサイコパスです。こいつがきたら大変なことになりそうです。

ここに答へて白さく、『僕は降らずとも、専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし』とまをしき。この刀の名は佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す。


こないのか……。そのかわり、刀を落とすのでそれで平定してね、ときた。我が国の物神崇拝は、モノにもコトにもコトバにも向けられ、それが混乱しているところがあるが、惜しいことに、モノに対するフェティッシュがあまり感じられないのだ。ここでなぜ刀をもっと細々描写しないのであろうか。そのかわりに、名前が三種類も出てくる。現在置いてある場所もきちんと書いてある。

もし悟れなければ自刃する。侍が辱しめられて、生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。
 こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ這入った。そうして朱鞘の短刀を引き摺り出した。ぐっと束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。唇が顫えた。


――漱石「第二夜」


漱石は、刀そのものではなく、刀から発するなにものかを見てしまう人間を描いている。漱石なりに、我が国の武力への拘りについて考えていたに違いない。ここでは、夢の中で記号の自動運動みたいに人物が自刃に導かれていってしまうのだが、彼は一応孤独に描かれている。実際は、もっと孤独でないものが刀を振り回していたような気がするのであるが……。

革命は電撃の如く招来する――病気の件

2020-08-28 23:39:46 | 文学


故、神倭伊波礼毘古命、其地より廻り幸して、熊野村に到りましし時、大熊髣に出で入りて即ち失せぬ。ここに神倭伊波礼毘古命、たちまちにをえまし、また御軍も皆をえて伏しき。この時、熊野の高倉下、一ふりの横刀をもちて、天つ神の御子の伏したまへる地に到りて献りし時、天つ神の御子すなはち寤め起きて、「長く寝ねつるかも」と詔りたまひき。

神武東征は史実としてはかなりあやしいが、奈良あたりに着く前のあたりもあやしい。九州あたりから出発したとして、ずっと東に攻め上がってきた神武天皇は、和歌山までいってから北上してくるのである。有名な熊野(新宮)でのエピソードが上である。もうすこし熊なんかに気をとられずに、木曽のあたりまで突入していれば、木曽町あたりに都ができたかもしれんのに、ちゃんと熊野で重要な事件があって、ぐるっと進路を変えてしまうのだ。

熊野に入ったときに、荒ぶる大熊の化身があらわれて消えた。神武天皇は卒倒してしまう。続いて軍隊全体に心神喪失が広がり、壊滅状態になってしまうのである。このとき、高倉下という人が、横たわる天神の子(神武天皇)のもとにやってきて、一振りのたちを献上する。すると天皇はすっくと起き上がり「ああ長く寝たなあ」と言ったのだ。

お前は何を言ってるんだ、お前は寝ていたのではない。病気だったのだ。

そういえば、病気のためということで、今日首相が辞任を発表していましたが、まさに「**は彼方より電撃的に到来する」(ブランキ)のであり、安倍政権というのは最後まで電撃的な革命政権であったといえよう。そういえば、千坂恭二氏もどこかで、天孫降臨は外部から招来した革命みたいなものだといっておりました。別に外部から招来しなくてもよい、気がついたらとなりの人が招来した人であってもよく、――古事記がつくり話であってもよいのだ。我々が革命を見出せるかは、物事がきわめてゆっくり推移していることを認めた上で、断絶というものを見出せるかにかかっている。ロシア革命なんかも、嘘にまみれていたにちがいない。今回の安倍辞任に際して、メディアはあいかわらず嘘を垂れ流していたのだが、物事が変わる曲面では、嘘のカンブリア爆発というものが必要なのであろう。コロナが外部からの衝撃だったのではない。やはり安倍首相がそれであった。

だいたい一国の王様の資格には万世一系だの正統だのということが特に必要だというものではない。王様を亡して別の一族がとって代って王様になっても王様は王様だ。三代貴族と云って、初代は成り上り者でも、三代目ぐらいに貴族の貫禄になる。十代前が海賊をはたらいて稼いだおかげで子孫が今日大富豪であると分っていても、民衆の感情は祖先の罪にさかのぼって今日の富豪を見ることはないものだ。王様も同じことだ。初代が国を盗んだ王様であっても、民衆の感情は初代の罪にさかのぼって今日の王様を見ることはない。今の王様であることが、王様の全てであり、それが民衆の自然の感情だ。

――「安吾の新日本地理 飛鳥の幻――吉野・大和の巻――」


坂口安吾のような考えに従えば、安倍首相はいわば「王様」であったのかもしれない。三代目だし……。ある古典文学の学者が「安倍はあれだけども家柄はいいからな」と呟いたのを覚えているが、それは岸信介の成り上がり的罪とのつながりよりは、安倍氏がつながりが閑却された貴族的ななにかを発していることの指摘だったのかも知れない。そういえば、私も教師としては三代目のような気がするが――、ようするに、日本という国は、三代前の経験した悲惨と成り上がりが、貴族的ななにかに変化した世界であるかもしれない。そしてそれが自壊しつつあるのだ。革命はやはり電撃的に見えるが、過程においてしか経験されない。

古代ビビビ婚

2020-08-27 23:07:08 | 文学


爾に海神、自ら出で見て、「此の人は、天津日高の御子、虚空津日高ぞ。」と云ひて、即ち内に率て入りて、美智の皮の畳八重を敷き、亦畳八重を其の上に敷き、其の上に坐せて、百取の机代の物を具へ、御饗為て、即ち其の女豊玉毘売命を婚せしめき。故、三年に至るまで其の国に住みたまひき。

娘っこはニニギをみて「見感でて、目合し」(見た瞬間ビビッときて、目で交わった)た(若い者は是だからケシカラン)。そして「門にイケメンがおります」と父親に言うのであった。で、父親が確かめにいくと、そこには高天原の太子ではないかっ(金ずるだっ)もう、伊勢源氏などの通い婚の一場面である。で、アシカの皮を何枚もひいて、その上に絹をひいてもてなした。で、結婚させ、三年も居座って頂いたのである。

ジュゴンのある写真がこの前話題を呼んでいた。本当に人間の足があるように見えたのである。

https://www.reddit.com/r/pics/comments/4g31ap/beluga_whales_no_wonder_sailors_often_mistook/

それはともかく、水の神と合体した山の神は最強である。

わたしはよく知らないが、――あんがい古代から、政略結婚みたいなものは行われていたのかもしれない。たしかにこの話は南方系の神話にみえるのではあるが、それだけではここまで劇的な一目惚れにならない気がするのである。

公子、美女と手を携えて一歩す。美しき花降る。二歩す、フト立停まる。三歩を動かす時、音楽聞ゆ。
美女 一歩に花が降り、二歩には微妙の薫、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。ここは極楽でございますか。
公子 ははは、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男は居らんぞ。(鎧の結目を解きかけて、音楽につれて徐ろに、やや、ななめに立ちつつ、その竜の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に仄に見ゆ)男の行く極楽に女は居ない。


――泉鏡花「海神別荘」


どういう話か忘れてしまったが、泉鏡花は最後にいいこと言った。ニニギが行ったところは極楽ではなく、四国とか瀬戸内海とかの豪族の所なのであろう。故郷を追われた若者がそこでまた一旗揚げたのではなかろうか。

田螺

2020-08-26 23:59:55 | 文学


妙な話だが、私は七歳のとき、腸カタルで三人の医者に見離された際(その時分から私は食道楽気があったものか、今や命数は時間の問題となっているにもかかわらず)、台所でたにしを煮る香りを嗅ぎ、たにしを食いたいと駄々をこね出した。生さぬ仲の父や母をはじめみなの者は異口同音に、どうしましょうと言うわけで、不消化と言われるたにしを、いろいろとなだめすかして私に食べさせようとしなかった。しかし、医者は、どうせ数刻の後にはない命である、死に臨んだ子どもがせっかく望むところだから食べさせてはどうかとすすめた。そのおかげで骨と皮に衰弱しきっている私の口に、たにしの幾粒かが投げ入れられた。看護の者は眉をひそめ、不安気な面持ちで成り行きを見つめていた。
 するとどうしたことか、ふしぎなことに、たにしを食べてからというもの、あたかも霊薬が投ぜられた如く、七歳の私はめきめき元気が出て、危うく命を取り止め、日ならずして全快した。爾来何十年も病気に煩わされたことがない。それかあらぬか、今もなお、私はたにしが好きだ。


――北大路魯山人「田螺」


わたくしは、美食マンガも美食番組も嫌いで、――なぜかというと人間が食う姿に子どもの頃からなんとなく嫌悪感があるのである。おまえも食ってるじゃないかといわれればその通りであるが、自分の姿は幸運にも見えないのである。ついでに、美食の文章も嫌いで、バルザックだかなんだかが、食事の風景を細かく書いているのを読んでうんざりしたし、魯山人もいやなやつだとしか思えないが、上の田螺の文章は面白いと思う。

今日、田んぼの田螺を一生懸命観ていたら、上をカラスがあたかもわたくしを狙っているかのように、数羽旋回しているのだ。

まわりを見渡すと、田螺の死骸がそこら中に散らばっていた。

従婢の道徳

2020-08-25 23:01:59 | 文学


故、教への随に少し行きまししに、備さにその言の如くなりしかば、すなはちその香木に登りて坐しき。ここに海神の女、豊玉毘賣の従婢、玉器を持ちて水を酌まむとする時に、井に光ありき。仰ぎ見れば、麗しき壮夫ありき。甚異奇しと以為ひき。ここに火遠理命、その婢を見て、水を得まく欲しと乞ひたまひき。婢すなはち水を酌みて、玉器に入れて貢進りき。ここに水を飲まさずて、御頸の珠を解きて口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。ここにその珠、器に著きて、婢珠を得離たず。

以前、中国の大ヒットドラマ『三国志』を楽しんで観てた。そのとき、曹操が王允の誕生日の宴で暴言を吐いて追い出されたときに、王允の部下たちが「二度と来るなっ」と乱暴な口を叩いているのに対し、曹操が董卓の屋敷に入って行くとき、門番が「どうぞどうぞ」みたいな態度をとっており、――この匹夫たちの心はどういうものであろうかと、しらじらくしく考えた。彼らは身分に対して厳密に行動しているのではなく、あくまで基準は主人の判断なのである。実際は、身分制を支えているのは、こういう態度なのであって、――その意味でいうと、われわれの世界もそろそろ身分制の用意は整っているとみてよい。自分に役に立つ場合の上下関係には敏感になるが、それ以外はまったく傲岸不遜である。おそらく、こういう事態を避けるために、道徳が発明されるのであるが、――こんどはそれを杓子定規に権力の源泉として使う輩が出てくる。

上の従婢はどうか。ただの不審者としてホオリは追い払われたのかも知れないのだったが、ご都合主義的に、神話的に――かれはイケメンであった。それに超能力みたいなものを使う。

ここでわれわれは、従婢の人間性を本当にはかる道徳的契機を失っているのだ。美男美女の話がだめなのはこういうところである。

「前夜の便所の口に立ってた二人ね、あれをなんと思うのだね」
「なにって、あれ、なんなの」
「ありゃ、時どきあすこへ出るものだよ」
「え」
「あいつ、かまわずにずんずん入って往きゃいいのだ。なにもしやしないのだよ」
「あなた、知ってて」
「おなじみだよ」
 翌晩になって彼女は雑誌記者だと云う三人伴の客の席へ呼ばれた。その時同じように呼ばれて来ていた知己の女から、
「あなた、この比、へんなことを聞かない」
 と云われた。彼女には前夜の体験があった。
「見たわ、あれでしょう」
「見たの、山の、あの字のついた家よ」
「そうよ、前夜、見たてのほやほやだわ」
「ほんとう、料理番と婢さん」
「そうよ」
 彼女は得意になって話した。


――田中貢太郎「料理番と婢の姿」


考えてみると、顔を失った近代人は幽霊みたいなところがあった。しかし、思春期以降それに気づきなんとかするのが我々の世界の責務であって、それを怠ると、身分制はまた復活する。

駄目な弟を流せ

2020-08-24 23:24:51 | 文学


爾に塩椎神、「我、汝命の為に善き議を作さむ。」と云ひて、即ち間勝間の小船を造り、其の船に載せて、教へて曰ひけらく、「我其の船を押し流さば、差暫し往でませ。味し御路有らむ。乃ち其の道に乗りて往でまさば、魚鱗の如造れる宮室、其れ綿津見神の宮ぞ。其の神の御門に到りましなば、傍の井の上に湯津香木有らむ。故、其の木の上に坐さば、其の海神の女見て相議らむぞ。」といひき。

山幸は泣いていた。兄貴が許してくれないからである。パワハラだっ。というわけでないが、昔から我が国は、泣いてぐずる弱虫に寄り添い系の国であった。シオツチの爺神がやってきて、「よい案を考えてあげましょう」ときた。こういう餓鬼はちゃんとほっとかなだめだ。――とういうわけで、可愛い餓鬼には一人旅をさせよ、である。漂流してこいというのである。体よく追い払われた山幸であった。それも彼が苦手な海に漂流である。

それにしても、当時は人口も少ない我が国は、遭う人遭う人みんな神であって、海流に流されていってもいずれは神に当たるのであった。――しかし、これは人口の問題ではない。わたくしも故郷を出てから、人間が光っていることを知ったのである。

この前、『三島由紀夫VS東大全共闘1969-2000』というもと全共闘の総括座談会みたいな本を読んだ。最後に「人口問題」という章があって、人類のために人口をへらさにゃだめだという人と、減らさずとも、互いに殺し合うような本能をどうにかできればいいんだろうという対立がゆるやかにあった。確かに、古事記の描いている情景は、狭い国土でしかも兄弟や親子が近くにいると殺し合ってしまう、あるいは自分で変な神を生んだりして災厄を撒き散らすということであって、上の塩爺はいいとこついている。子を流してしまえばよいのである。いまだって、若者たちはよく知っている。いつまでも親とか兄弟と付き合っているから、これ以上夫や妻をつれてきて喧嘩の種を増やすわけには行かぬ、結婚はもってのほか、となるわけである。

まもなく市民は大会を開いて、十五少年推奨の盛宴を張った。そのとき市長ウィルソン氏の演説大要は左のごとくであった。
「いま十五少年諸君の行動を検するに、難に処して屈せず、事に臨んであわてず、われわれおとなといえども及びがたきものがすこぶる多い。そもそも富士男君の寛仁大度、ゴルドン君の慎重熟慮、ドノバン君の勇邁不屈、その他諸君の沈毅にして明知なる、じつに前代未聞の俊髦であります。とくに歓喜にたえざるは、十五少年諸君が心を一にして一糸みだれず、すべて連盟の規約を遵守したる一点であります。日英米仏伊印独支、八ヵ国の少年は、おのおのその国を異にし、人種を異にしておりますが、その共同精神、すなわち国籍や人種を超越した、世界人類という大きな気持ちの上に一致したということは、やがてわれわれおとなどもが、国際的の小さな感情をすてて、全世界の幸福のために一致共同しうべきことを、われわれに教えたものであります。われわれが実行せんとしてあたわざりしものを、十五少年諸君がまず実行された、これじつにおどろくべきことではありませんか。共同一致の力は、二年間の風雨と戦って、全勝を占めました。われわれは少年諸君にあたえられた、この教訓を閑却してはなりません、わたくしはいま世界平和の天使として、少年連盟を礼賛したいと思います」


――佐藤紅緑「少年連盟」


いうまでもなく、こういうえせ同盟やらグローバリズムも家族と同じなのだ。我々はこういうものの外部でしか愛を得られない。

交換のポリティーク

2020-08-23 23:42:20 | 文学


 かれ火照の命は、海佐知毘古として、鰭の廣物鰭の狹物を取り、火遠理の命は山佐知毘古として、毛の物毛の柔物を取りたまひき。ここに火遠理の命、その兄火照の命に、「おのもおのも幸易へて用ゐむ」と謂ひて、三度乞はししかども、許さざりき。然れども遂にわづかにえ易へたまひき。ここに火遠理の命、海幸をもちて魚釣らすに、ふつに一つの魚だに得ず、またその鉤をも海に失ひたまひき。ここにその兄火照の命その鉤を乞ひて、「山幸もおのが幸幸。海幸もおのが幸幸。今はおのもおのも幸返さむ」といふ時に、その弟火遠理の命答へて曰はく、「汝の鉤は、魚釣りしに一つの魚だに得ずて、遂に海に失ひつ」とまをしたまへども、その兄強に乞ひ徴りき。かれその弟、御佩しの十拳の劒を破りて、五百鉤を作りて、償ひたまへども、取らず、また一千鉤を作りて、償ひたまへども、受けずして、「なほその本の鉤を得む」といひき。

交換というのはまったくうまくいかないことが多くて、――仕事の量的な平等性はそれぞれの仕事の目的は何なのかという観点ぬきにやると悲惨なことになる。大学でもときどき仕事の量を機械的に平等にしようとしている浅薄な輩がいるが、そういう人間に限って生きる目的を失っている。目的をうしなったことを量で置換しようとしている。交換という観点は、ルサンチマンに溢れている者――ふつうに行動していたらバカにされたり信頼されないことが分かっている者がかならず持ち出すもので、そういう現象は必然であるが、社会がそれに権威的お墨付きを与えている。だからいつまでもたっても学歴とか業績にぶら下がるだけの人間が羞恥心を持つことができない。わたくしの考えでは、上の挿話で道具を交換してみようといったホオリ(山幸彦)の方が悪い、というかルサンチマンを抱えていた可能性が高いと思う。

かかる人間的情景に我々は長い間堪えられない。すると、大概、仕事を上からの命令というものに置換して納得しようとする輩が現れる。近代的な解釈かも知れないが、古事記の神々も、上のホオリとホデリの地点から命令主体を逆算的に仮構した可能性すらあるとおもうのだ。

昨日、藤野裕子氏の『民衆暴力』を楽しく読んだが、暴力は、その暴力によって偏見や欲望などの自己開示を促してしまう可能性があり、――スターリンはロシア革命の自己開示的効果といってもよいかもしれない。15年戦争だって、我々にとってはそういうものかも知れない。日本は暴力に臆病だというのはむかしから言われていることではあるのだが、それは我々が自己表現に臆病であることと密接に繋がっているのである。

「この野郎、人を馬鹿にしやがって手でふんづかまえてやろうか」
 と思って、私は四辺を見まわした。
 勿論誰も見てなんかいない。
 竿の元の方で突いてやろうか、とも、私は考えた。が、そもそも、そう云うことを考えるのがいけないのだ。身勝手過ぎるのだ。もともと、魚釣りと云うものは、詐欺なのだ。
 だから、山女魚の方で、その詐欺に引っかからないからと云って、人間の方で憤るのは筋が間違っているのだ。憤りはしないが、少くとも面白くない。


――葉山嘉樹「信濃の山女魚の魅力」


葉山嘉樹も釣りは運動であるといっている。なんだか彼が怒っているのもそのせいではないだろうか。本当は、釣りは我々が食べるためにするものであろう。考えてみたら、ホオリ(山幸彦)も食べるために釣り針をほしがったのではなかった。

炎の中の誕生

2020-08-22 23:14:48 | 文学


ここに詔りたまはく、「佐久夜姫一宿にや妊める。此れ我が子に非じ。必ず、国つ神の子ならむ」とのりたまひき。ここに答へ白さく、「吾が妊める子、若し国つ神の子ならば、産む時幸あらじ、若し天つ神の御子ならば、幸くあるむ」とまおして、即ち戸無き八尋殿を作りて、その殿の内に入り、土もちて塗り塞ぎて、産む時にあたりて、その殿につけて産みき。かれ、その火の盛りに焼ゆる時に産みし子の名は、火照命、次に産みし子の名は、火須勢理命。次に産みし子の名は、火遠理命、亦の名は天津日高子穂手見命。

サクヤヒメはいきなり妊娠したが、ニニギはそんなにはやく子どもができると思ってもみなかったのである。この狼狽の仕方、さてはこやつ人間ではなかろうか。

サクヤヒメはさては国ツ神の子であろうと疑いをかけられて激怒。なんだか、「同棲時代」とかなんかに出てきそうなかんじですが、現代の疑いを掛けられた女の子が田舎に帰ったりひどい目に遭ったりするのに対し、サクヤヒメはさすが征服された民族の意地があるのかしらないが、出産の時に御殿を作り、土ですべて塗り固めた――むろん、自分はその中で出産するつもりである。明らかにセックス拒否のメタファーの如しである、おまけにそこに火をつけた。考えてみれば、密閉空間なので、火はそれほど燃えないのではないかと思われるのであるが、――とにかく、火の玉ベイビーを産み落とすことに成功したのである。こんな赤ん坊がただ者であるはずがなく……(以下略)

所がその後一月ばかり経つて、愈々地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供へました。丁度その時は僧都様も御居合はせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石にあの一帖の天地に吹き荒んでゐる火の嵐の恐しさに御驚きなすつたのでございませう。それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろじろ睨めつけていらしつたのが、思はず知らず膝を打つて、「出かし居つた」と仰有いました。この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません。
 それ以来あの男を悪く云ふものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もゐなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱を如実に感じるからでもございませうか。
 しかしさうなつた時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいつて居りました。それも屏風の出来上つた次の夜に、自分の部屋の梁へ縄をかけて、縊れ死んだのでございます。


――芥川龍之介「地獄篇」


だいたい、娘を牛車に放り込んで火をつけて「地獄」と称している程度の男が芸術家であるか、はなはだ怪しいと思うのである。火は地獄を出現させるとは限らない。古事記のように、火は生の誕生でもある。

色好み・天皇家の起源

2020-08-21 23:01:31 | 文学


ここに大山津見神、石長比売を返したまひしによりていたく恥ぢ、白し送りて言はく、「我が女二並べて立奉りし由は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く常はに堅はに堅はに動かず坐さむ。また木花之佐久夜比売を便はさば、木の花の栄ゆるが如栄えまさむと、うけひて貢進りき。かく石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまひし故に、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。かれここをもちて、今に至るまで天皇命等の御命長からざるなり。

ニニギさんは岬で美少女(コノハサクヤビメ)に出会って求婚すると、彼女の父親は喜んで、その姉(イワナガヒメ)と一緒に嫁にだしてきた。ニニギは、姉の方の醜さを嫌って送りかえした。父親のオオヤマツミは激怒して絶縁の手紙を送った、それが上の場面である。

ここから分かるように、古事記の最初から出てくる人達は名前で遺伝子の種類が違う特殊生命体であったようにみえる。名詮自性というより、名前がものの性格を決めている。

この伝統は、最近まであって(いまもあるかも)、うちの祖母は末っ子だったので「し満(ま)」という名前であった。ひどいねえ……。

むろん、名前如きで人の生理的な運命が決まるわけはないのだが、その名前が他人から眼差されることが大きい。我々は物事との関係性の生き物であるから、どう思われるかは結構その人の生理まで食い込むのである。

オオヤマツミは、ニニギたちの子孫は木の花のようにはかなく短い人生を送ることになるだろうと予言した。語り手曰く、この呪いによって、天皇の寿命は短くなったというのだ。むろん嘘である。彼らはもともと人間である。語り手が示唆したいのは、天皇家の運命の起源に、このような余りに色好み――美女だけが好きだった――という性格を見、天皇家の存在にそれ以外の理由はなかったという事態なのである。本当のことというより、古事記を書いた時点で、そう思うしかない現状があったとみてよろしいのではないだろうか。もっとも、「木の花のあまひ(もろい?)」は天皇の命とともにただの花の寿命であることをやめてしまった。あはれ文化の起源である(違うか)

私自身もそうでしたが、幼いときには多少からだが弱くても、少年期にはいるとき、からだをきたえれば、十分体質改善ができるものです。浩宮さまも、周囲のかたがよく気をつけてあげれば、きっとたくましい青年となられることと思います。文武両道をかねそなえた名天子に……ぜひなっていただきたいものです。

――三島由紀夫「たくましい名天子になってください」


三島がそうだったように、虚弱であることの意識はいろいろなものを呼び寄せる。そういえば、天皇はスポーツといえばテニスとかいう感じで、剣道や少林寺拳法をするという感じはしない。いまの天皇が武力的なものに接点があるとすれば、――ウルトラセブンと写真に収まっていることぐらいであろうか。天皇家が神性をとりもどすためには、武力ではなく石への興味が必要である。

自己同一的天孫降臨

2020-08-20 23:11:58 | 文学


皇は神にしませば天雲の雷の上に廬せすかも


これは有名な人麻呂の歌だが、べつに天皇が現人神だと言っているわけではなく、神と言っているだけで――「現人神」という言い方がすでに間違いのものであったと思うのである。天才だなあと思われている人が、「おれは現に天才」といえば、天才の概念とその人が分離してしまう。ここには強弁の暴力が入り込むのである。

それはともかく、天孫降臨である。高千穂に彼らはやってきた。

是に詔りたまひけらく、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て坐しき。

ここに韓国がでてくることにはいろいろ議論があるのであろうが、朝鮮半島に近いということが非常に重大な意味を持っていたんだろうねえ。よくわからんが……。だいたい、韓国は誰が生んでいつ出来たんだっけ……

霧の中から、鉄柵の如きものが仄かに浮き出してき、その先は空漠たる雲霧だ。それが絶頂だった。
 私はまず、鉄柵のなかの岩石の堆積に逆さにつきささってる天の逆鉾に向って、暫く瞑目した。それから、地面を匐ってる草の上に腰を下して、携えていたサイダーを飲んだ。この時、煙草を所持していないのに気付いて自ら驚いた。麓の旅館に上衣をぬぎ捨てた折、そのポケットに煙草を置きざりにしたのだ。あれほどのべつに煙草を吸う自分が、今まで煙草のことを忘れていたのが、不思議に考えられた。不思議なのは、この頂上で煙草を所持していないのに気付いても、ただそれだけで、大して吸いたくも思わなかったことだ。煙草などは濃霧のなかに消えてしまえ。
 霧そのものは霽れそうになかった。晴天ならば、霧島火山群の十八の主峯、それらが懐く噴火口、遙か遠くには鹿児島湾の風光など、秀麗な眺望が展開する筈であるが、今はただ朦々漠々たる雲霧に四方をとざされているのである。だが、私はそれを憾みとはしなかった。
 思いは神代の古えに遡る。神話の世界の雲霧が、そのまま今も、高千穂頂上に渦巻いているのだ。海抜千五百七十四メートルは山としてはさほど高くはない。然しその峯は如何なる山よりもぬきんでている。日本神話の息吹きは、海洋神話の生ける代表者として、また生ける指導者として、大東亜海を蔽いつつあるからだ。近くには台湾高砂族の海洋神話が、遠くにはインドネシア種族のさまざまな海洋神話が、この息吹きのなかに抱擁されようとしている。
 幻想は限りなく続き、そして幻想は時間を食う。私は我に返って立ち上り、濃霧のなかで大きく呼吸し、そして濃霧に感謝しつつ、宙空に浮いてる感じのその峯から、一気にかけ降りていった。


――豊島与志雄「高千穂に思う」


昭和14年の豊島はこんな文章をかいておった。さっき、御嶽信仰のことを考えていたのだが、近代ではこういう風に豊島与志雄が高千穂峰を霧に覆われた神秘的ななにかを観念的に解すが如く、リアリズムによって変形した部分は大きいと思う。例えば、雲に覆われた御嶽をながめて、天と繋がっているように認識してしまうのである。あまりに賢しらな理解であって、タチが悪いと私はおもう。現御嶽神みたいなものだ。

もし大東亜共栄圏なるものが成立し、もう一度、古事記を作り直す、つまり諸神話を「抱擁」するなんてことになったら、如何するつもりだったのであろう。神たちはまた日本の神の身体に編入され、逆にその神格を定義出来ずに現人神などという強弁に繰り返すことになったのではないだろうか。

絶対矛盾的天孫降臨

2020-08-19 18:33:19 | 文学


爾くして、天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命、あはせて五伴の緒を支ち加へて天降しき。是に、其のをきし八尺の勾璁・鏡と草那芸剣と、亦、常世思金神・手力男神・天石門別神を副へ賜ひて、詔ひしく、「此の鏡は、専ら我が御魂と為て、吾が前を拝むが如く、いつき奉れ。次に、思金神は、前の事を取り持ちて政を為よ」

天孫降臨はいろいろと技術者集団とか三種の神器のほか、政治係(オモイカネ)などを引き連れて行われた。考えてみると、柱をぐるっとまわって島を生んでいたときは、神々は裸一貫で苦労していたのだ。長い時間をかけて、この世を治めることは、技術であり祈祷でありと気づかれ、なにより、政治の、統治そのものからの「技術的」分離が行われたのであった。

我がくにでは、まだ「物作りの国だ」というたぶんもう世界的には通用しない神話が残っているが、そもそも物作りというのは、統治の一環であったことを忘れてはならぬ――というか、そういう意味でまだ使われているのであろう。

もっとも、世界を治めることとは、この世の創造そのものなのであって、「つくる」ということの重要性に神々が気付いたことを意味している。ここはもはや、田んぼに雨が降ったり風が吹いたりすることの象徴物体としての神ではなくなっている。国を技術者とともに創造するという人工的な意図が、天孫降臨である。

――また妄想してしまいましたが、これ以上妄想すると、わたくしもそろそろポイエーシスとか言い出して西田幾多郎になってしまいそうです。

それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。

――西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」


わたくしは、中学のころ授業でやった木彫の世界を思い出す。西田の言っていることは案外落ち着いた創造の世界で、最初の有が知らないうちになくなっていくものではないような気がするのであった。もはや、日本列島は神々に生み出されて長い時間がたっている。四国では、もう圓山の世界になっていたであろう。

上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り

2020-08-18 23:52:58 | 文学


オオクニヌシとその息子たちを、汚い手を使って征服したアマテラス一味については以前書いたことがあるので、省略である。

爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天之八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。故、爾に天照大御神・高木神の命を以て、天宇受売神に詔ひしく、「汝は手弱女人に有れども、いむかふ神と面勝つ神なり。故、専ら汝往きて問はむは、『吾が御子の天降り為る道を、誰ぞ如此して居る』ととへ」とのりたまひき。

思うに、天孫降臨が行われるにあたって、今更という感じがするのはわたくしだけではないであろう。もうオオクニヌシ以前のいろいろな神や怪物が地上にきてあたふたしている。イザナミとイザナギの件だって、どうみても雲の上で痴話げんかしてたのではなく、どこかの島の出来事なのだ。

古事記の編集のせいと言う人もあろうが、本当はそんなことはどうでもよく、この神話の世界はもともと地上のあれこれと二重写しになった抽象的な物象のようなものであって、神というからには、最終的に降りてこにゃと言うことで降臨されたに違いないのである。

卒業式で、校長先生のところに上がって降りてみたいなことを卒業生がするのと同じだ(違う)

それにしても、このサルタヒコという人は人気があって、全国の津々浦々に名前を変えて祀られている。いざとなったら、道案内をするお爺さんが居るのだ。実際はこういう人こそ現実にはいない。

現実の社会というのは、あるポジションに人を据えると、そのポジションが抽象的に機能すると勘違いされ、――つまりサルタヒコ化するが、そこに別の人を入れると、他の人との関係も変容を起こし、社会自体の運営の仕方を変えなくてならないのである。ただ、これは坂口安吾の「堕落」みたいなものであって、そんな変容には我々はいつも堪えられない。さっき、昭和22年に書かれた野上余志郎の「堕落論」批判を再読したが、野上は、安吾のいう人間が全然甘い抽象的なものであると難じている。野上は、もっと屈撓性のない人間性が社会を変えると思っているのかもしれない。マルクス主義的な人なんかは案外、法を作ることに一生懸命なタイプがいるが、――わたくしなんかも、中学のとき校則の試験で一位をとったことがある。こういうタイプは、表は倫理的に振る舞いながら、裏で唯の堕落を起こしやすい。

古事記の神々には今のところ、ヤクザじみた抗争と、やたら光り輝く敵だか道案内だか分からない神がたくさんいるだけである。これは5ちゃんねるの世界だ。

たとえば信州なぞにはその国の伝説や歴史なぞから当然大古墳がなければならぬと思われるところにそれがないということも、信州が負けて亡ぼされた人の国であり、今日伝わるものが少いということが、むしろその帝国が相手にとって大敵だったアカシになるのではないかと考える。
 その逆に、今日古墳群が数多く残っているところは勝った側の国であり、つまりは天皇家に関係のある国、天皇家に直接ではなくともその天皇家の功臣等に関係の深い国、そういうように見てとってよろしいのではなかろうか。


――坂口安吾「高千穂に冬雨ふれり≪宮崎県の巻≫」


安吾は心優しいので、信州に古墳があまりない理由を負けたからだと言っておる。確かに、木曽にも古墳はあまりないぞ。松本なんか、風景からいって、神が住むところだと思うのだが、北杜夫や大澤真幸や田中康夫の青春の地、高遠なんかも明らかな桃源郷であるのに、伊藤博博士の故郷とかにとどまっている。

仁義なき神神の闘い

2020-08-17 22:19:09 | 文学


兎申さく、『僕、淤岐ノ島にありて、この地に渡らまく欲りつれども、渡らむ由なかりし故に、海の鰐をあざむきて言ひけらく、「吾と汝と族の多き少きを競べてむ、故に汝は其の族の在りのことごとに率ひ来て此の島より、気多之前まで、皆並み伏し渡わたれ、吾其の上を踏みて走りつつ読み渡り、ここに吾が族と何れが多きといふにとを知らん。」かく言ひしかば欺かへて列伏せりし時に、吾、其の上を踏みて読み渡り来て、今、地に下りんとする時に、吾「汝は吾に欺かへつ。」と言終れば、即ち最端に伏せる鰐、我を捕へて、ことごとに我が着物を剥ぎ、これによりて泣き患ひしかば、先だちて行てませる、八十神之命もちて、海塩を浴みて、風に当り伏せれと教へ給ひき。故に教への如くせしかば、我が身ことごとに傷えつ。』と申す。

かの兎であるが、オオクニヌシに語ったところによると、鰐さんたちあちらの岬までずらりと並んで下さい。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ります。私たちとあなたたちとどちらが数が多いか分かるからあ、と言ったら、並んでくれたので、渡った。で、さいごの一匹の所で「やーいダマされたな」と言ったら、毛の着物を剥ぎ取られたんです。で、さっきのおじさんたちが、私に、塩をつけて風に当たれと……。

前日は、お兄さんたちがゴミクズ、いやザコのように書きましたが、兎も性悪だったのです。そりゃ、鰐さんも怒るわ、毛を剥ぐわ……。

当時は、どうせ、ヤクザ同士の戦争ばっかりで、鰐一族と兎一族のどちらが正しいなんて事はありません。通りかかったヤクザも悪だし、――どうしようもないですね。

しょっつるのあの少しえがらっぽいようなうら悲しい味は、粗塩を使うところからきているもののように、私には思われる。少なくもドーヴァーの塩を使ったら、ああいう味にはなるまい。しょっつるはそううまいものではないが、あのわびた味の底には、われわれの遠い祖先のためいきがある。そしてこの日本の国は、しょっつるをなめながら、激しい勤労をしていた、名もなき民の力によって、できあがってきたものである。

――中谷宇吉郎「塩の風趣」


四国にも塩に関係する神社がものすごい数存在しているが、――よくわからんが、鰐一族かオオクニヌシのお兄様たちは、兎一族を塩つけて食おうとしていたのかもしれない。勝手な妄想であるが、日本人が人を食っていなかったとなぜ言えるか。

近代文学にもいくつか人を食べた話があるし、最近のサブカルチャーでも時々食っている。