★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ふにゃふにゃした動き

2019-03-31 23:18:03 | 漫画など


授業の予習で『桃太郎 海の神兵』を観たのだが、やはり何回観ても動きがちょっと気持ち悪いアニメーションである。ディズニーの「ファンタジア」などの影響があるのだろうけれども、動き方がよりふにゃふにゃしている。これが技術の問題だけではなかったのは、添え物にしか見えない桃太郎の動きはたいして気持ち悪くなく、やや不気味なのは貌だけであるところからも分かる。いや、不気味に前髪が動いたりするか……。主人公は、猿をはじめとする動物たちである。飛行場をつくった南海の島の動物たちは「へんな奴がきた、我々の顔に似ている」とか、確か言っていて、それが桃太郎なのであるが、このひとが帝国軍人であるとして、はじめ田舎に帰ってノンびりしている猿はどこの國の人であろう。むろん、日本なのである。とすると、大日本帝国は少数の桃太郎と動物たちで構成されているような國なのであろう。植民地の人たちが動物なのは、コロニアルな意味で分かるが、結局、日本のなかも動物で溢れかえっているのである。我々は比喩的でなく動物なのだ。

で、敵国の鬼は、西洋人ということになっていて、むろん人間である。

――結局、わたくしは、このアニメーションのふなにゃふにゃした動きそのものが、我々が我々人間自身を嫌ったあげくたどり着いたロマンなのではなかったか……と疑う。確かに大塚英志が言うように、戦前モダニズムのモンタージュなどの機械主義的な帰結であることも理解できるが、わたくしはよりそれをロマン主義的なものとして把握したほうがいいと思うのである。日本のなかのばかな桃太郎も西洋人もいやだ、好きなのは、動物と風景とひこうき……ゆらゆらと動くものたち……。考えてみると、宮崎駿の『風立ちぬ』なんか、当時国策によって生産されてもいた飛行機オタクの想像力を、主人公のまともな倫理観の粉飾をまぶして「まとも」にしてしまっている。実際は、もっと妙な感じなのではないか?このアニメーションの動きみたいに。

はじめののどかな田舎のシーンで、蒲公英の綿毛の浮遊がひたすら描かれているが、それがいつの間にか、落下傘部隊をえがく音声と重なってゆく。悲しいやら情けないやら……。

忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様

――空の神兵(昭17)

ここにないのは、人間の内面だ。空を飛んでも海に潜っても人を殺しても感情は死んでいる。

 蒼白の高峰秀子嬢に単刀直入、きく。
「ずいぶん苦しそうですね」
「いいえ!」
 断乎として否定する。
「キャプテンもエアガールも、親切。本当に愉快な空の旅です!」
 航空会社と読売新聞と航空旅行そのものにあくまでエチケットをつくす志。凛々しくも涙ぐましい天晴れ、けなげな振舞い。
 代って純情娘の日本代表、乙羽信子嬢に、これ又、単刀直入。これは甚しく正直だ。
「ええ、とても、苦しいのです」


――坂口安吾「新春・日本の空を飛ぶ」


とりあえず、戦後のわれわれにとって、感情をとりもどすことが必要だったのである。今回の天皇の退位や元号のバカ騒ぎで我々はまた感情を殺しつつある。ばかばかしい限りである。

しかるに、貴様らは、なんだ。遊んでおる、怠けておる

2019-03-30 23:39:32 | 文学


煙のいと近く時々立ち来るを、「これや海人の塩焼くならむ 」と思しわたるは、おはします後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、

山賤の庵に焚けるしばしばも言問ひ来なむ恋ふる里人


紫の上とも離れ、須磨で生きてるのか死んでんのかわかんない光源氏、教養がありすぎて(常識の範囲かな……)煙と見れば、「須磨の海人の塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり」と思い浮かべてしまう。実際には、家の後ろで柴を焼いている煙であった。普通の現代人ならば、労働者や庶民や現実とかいわれれば直ちに黙ってしまうのであろうが、光の君は全くめげない。全力で上の歌を詠んでしまう。山賤とかいうてるし、柴と屡を掛けた洒落というなんだかくだらないレベルにまで自分を落としてまで全力を出すところは光源氏である。

「なにィ。それで、わかるじゃないか。いゝか。仕事は遊びではないぞ。全力で、やれ。コラ、娘、フム、お前だな、お前は校正をやりながら、あらア、唐って、中国のことねえ、と叫んだそうじゃないか。お前、いくつに、なるんだ。その齢をして、唐は中国ねェ、何たることだ。男と一緒に、カストリをのみ、ダンスにでかける。あれは、いけねえぞォ。ヤイ、コラ、男女同権を、はきちがえているぞ。そもそも、お前ら、チンピラのくせにだなア、この敗戦日本に於てだなア、酒をのみ、ダンスを踊る、それはなア、オレは酒をのみ、ダンスも踊るぞ。大いに踊るぞ。オレはだなア、全力をつくして仕事に打ちこみ、かつ、莫大なるオカネをもうける。もうける故に、それ故にだぞ、オレは酒をのみ、ダンスを踊る。しかるに、貴様らは、なんだ。遊んでおる、怠けておる。仕事をしとらん。もうけて、おらんじゃないか。ヤイ、コラ、オレが気合いをかけてやる。今後、仕事を怠ける奴は、即座にクビにするから、そう思え。本日、社告を言い渡す。朝八時出勤、一分、おくれても、いかんぞ」

――坂口安吾「カストリ社事件」


戦争に負けたりすると、「全力」はなんだか過去から強いられたもののようになってしまう。この話は、カストリ雑誌社がヤクザもんの支援を受け乗っ取られるが、イノチをかけた死んだふり、だか気絶だかで切り抜ける(確かそんな話だったような気がする)。上の場面は、そのヤクザもんが社を乗っ取ろうとするときのせりふで、冗談みたいな感じであるが、実際にこんな調子の奴はおそろしくやばい奴であるにちがいなく、わたくしはこの話を全然笑えない。

今日、朝の連続テレビ小説の「まんぷく」というのが終了した。わたくしはついに初めて朝ドラを一作品まるごと毎日見た。なるほど、朝ドラのファンの人たちは、一年に二回、他人の人生――いや近代の日本人を都合よいかたちではあるが生き直しているのだと分かった。「まんぷく」の主人公夫婦は日清食品の創業者夫婦であり、この人たちの人生を語るには、きれい事ではすまないことが恐ろしく沢山あるが、それにきちんと触れていたわけではない。特に、この人の家庭は非常に複雑な事情があったらしく、近代の日本を語る上では非常に興味深い人なのであるが、――それをあえて誰も死なない(早世した主人公の姉もしょっちゅう母親と妹の夢枕に立ってたのでじっさいは死んでない)誰とも決別しないという徹底的な「なかよし」の話としてドラマ化されていた。萬平の妻の母親「鈴」(「私は武士の娘です」が口癖)は現実であったら、おそらく子どもたちに愛想を尽かされているレベルの人であり、むしろ、きちんと愛想を尽かすことができるかが子どもたちの課題だとおもうが――だからわたくしは、このキャラクターに対しあんまり笑えなかったが、――最終段階でこのひとに「生前葬」をやらせてある意味葬ってしまったことはドラマの言いたいことが何かという点で、非常に重要であった。

最後の場面で、早世した長女となかよく談笑している鈴さんは生前葬より前から、ある意味死んでいたのである。そもそも「私は武士の娘」とかいうてる時点で時代遅れという意味で死んでいるのと同じだし、あまりにはやく子どもを亡くした親は、ある意味死んだと同じように自分を感じるに違いない。狂言回しをやらされていたけれども、精神的に死んでいたのは鈴さんであったに違いない。だから、最初から「死んだように生きている」人であった鈴さんが生前葬をやったからといって別に事態が変わるわけではない。

もしかしたら、この話は、これから急激に増える「死んだように生きている」人々をどう遇するのか考えているドラマなのかもしれない。いままでは、戦争で近親者が沢山死んで、主人公は頑張って生きる話が多かったが、もう時代的に無理なのだ。無理にそれを行おうとすると、「セカチュウ」や「恋空」とか「君のなんとかを食べたい」みたいな殺人ドラマになってしまう。殺しはよくない。

我々は死んだように生きる、これからは――。

付記)むろん、「朝ドラ」は、主に主婦層をターゲットにしていることを看過できない。人生を生き直す、とか、死んだように生きるいうことが改めて思われるところだ。

素朴な雑感など

2019-03-29 23:09:15 | 文学


世の中、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、「せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもや」と思しなりぬ。


須磨の一場面であるが、源氏物語というのは、こういうすごく素朴な部分があるのが印象的である。こういうところを修辞的に工夫したりする気はなかったのである。政治的な圧力に対しては、源氏がただひたすら逃げるしかなく、そんな時の感情は素朴なものであるほかはない。われわれが屡々忘れることである。わたくしは中学生以来、古典の世界はものすごく編み目の入りくんだものだと思い込んでいた節があり、それが勉強を妨げた。残念なことである。

地方選挙がはじまってテレビを見ていたら、かなりの自治体で選挙なしで当選者が出ている。まだ団塊の世代の「政治」好きがいる状態でこれだから、われわれの世代がいい歳になってどうなるかはだいたい予想がつく。政治の季節がオワったなどという流言はどうでもいいことであったが、実際、アイロニーでも何でもなく政談から遠ざけられた子どもたち(われわれの世代)がどうなったかというと――こうなった訳である。自意識以前にモノを知らされていないのだ。

明石順平の『アベノミクスによろしく』を少し読んだ。素人の目で見てもわりと素朴な本であったが、それでも高校の時の政経の知識は必要だ。ちなみに、この本も対話形式なのだが、最近の検定で通った教科書の記述は、対話形式が多いそうだ。あのね――、ソクラテスの本とか読んでみて下さい。あと、対話形式をでっちあげて悪態をついている花田とか吉本の文章を。果たして、分かりやすいですかね?彼らが一人称でぐいぐい書き進むときの深さと比べてどうなんです?

西谷啓治の「マルクシズムと宗教」を読んだけど、マルクシズムがその成立に必要なニヒリズムと、実存主義と化したようなニヒリズムのような強力なそれの、二つのニヒリズムにたいして対決する必要があると結論づけていた。そりゃそうだっただろうけれども、西谷はニヒリズムというものがそもそもあると考えているのではなかろうか。わたくしは反対だ。

「稜威」というものを思い出したかも

2019-03-28 23:38:10 | 文学


ひさしぶりに山本健吉の源氏物語論(『古典と現代文学』)を読んでみたが、結構面白かった。古典文学の教育はいろいろやり方があると思うけど、こういうものをきちんと扱ったっていいと思う。わたくしが近代を専攻したきっかけはいろいろあるが、高校の時に古典文学の教科書を一通り教えられたあとで、文学としては近代の方が上だなと勝手に思い込んだことが大きかった。それはわたくしの狭隘な主観だけでなく、実際、源氏や伊勢に対する文学としての批評的な視点が古典の授業に欠けていて、なんでこれが面白いのかちゃんと教師がいわなかったことが原因だったような気がする。読めるようになることが古典の場合は大変なので難しいといえばそうなのだが、高校生ともなれば、源氏のスキャンダルや竹取の婿選びのエピソードだけで本当に喜んでいる生徒はもうわずかしかいない。無常観なんて50年早いし、をかしやあはれだって――高校生が似た言葉で社交辞令をやっているのは、まさに社交辞令であって、ほんとはもう少し既に大人なのである。授業がコミュニケーションの場所と化してから、古文の授業もますますそういう社交辞令的な言葉を確認する場になってしまったのではないのか。

最近は、ちょっとこの十年ぐらい離れていた書店に赴き、ぶらぶらとするように心がけている。

かなり様変わりしてしまったが、たしかにまだまだ文学らしきものは漂っている。それを文化の一種として分類したりするから、文系学部の是非みたいな頭悪そうな感じに議論が変化してしまうのだが、もともとわれわれの社会の成立そのもののなかに文学は泳いでいる。それは言霊ではない。言霊を生み出す何かであり、近代文学は西洋文学から学びながら結局は、その泳ぐものに接近していった。

どこかで山本健吉は、「稜威(イツ)」ということを論じていて、生きる力を取り込むみたいな意味とかなんとか言っていたように思うが、――いまならさしずめ「元気を貰う」みたいな感じであろう。元号も桜も天皇も、はたして稜威なのであろうか。こんどじっくり考えてみたいのだが、朝ドラとかそういうものも、稜威みたいなもののような気がする。これは文学の問題そのものである。

安倍首相が、元号に込めた思いを話すとか言っていたらしいが、――だいたい、たかが言葉に思いを込めたりするのは、ある意味で近代的であろう。古典がそんな風にして新たな意味を付与され稜威として機能してしまったのが近代だ。恐ろしいことだが、どうも日本社会はまだまだそんな近代である。我が首相は、稚拙な和歌を桜の下で詠んだりするような人なのであるが、案外上の事情を直覚しているのかもしれない。

で、これからどうするかなのだが、――ちなみに、わたくしは山本健吉みたいに「細雪」が「源氏物語」より平板だとは思わないのだ。こういう素朴な重大な問題がまだまだ永遠に論じられなければならない。そういう時には、稜威としての言葉をなでている状態では何も出来ない。むろん、言葉そのものから思いを読み込むみたいなのは、うまくいかなくなった親子関係じゃねえんだからさ、幼稚園並みだ。解釈や創作はそんな次元ではなんともならず、社会を考えることと同等の膂力を必要とする。目指すは、いわば、言葉の「組織」である。

百相八幡神社を訪ねる(香川の神社186)

2019-03-28 17:35:35 | 神社仏閣


百相八幡神社は仏生山。ちきり神社と舩山神社を結んだ直線のちょうど真ん中あたりにある。文治あたりに出来たらしい。



境内のなかに花道がある……。垣も花畑になっていた。そろそろ平成もオワるのであちこちで神社の改装が始まっている。このお花は違うかもしれない。神社でちゃんとせねばいけなくなるかもしれない。神仏よりも花というのものに我々は弱い。

 

あちこちにある「表彰記念」と燈籠。



嘉永年間かな……



拝殿



本殿が石のスタイル。祭神は応神天皇。なんと祭日は、「八月一五日」。

香川県神社誌に曰く、

古老の口碑に依れば、昔社前の大川の底堀をなせしに黄金の像が現れしを里人畏敬して祠を祀りしと言へり。


黄金の像とは……、誰だろう……

明治初年右の像を神鏡に改めて御霊代りとせり


改めてしまいました。最初の黄金の人(仏像かなあ……)はどこへ……。

  

境内社の皆さん……



薄曇り

カメラのみたデカダンス

2019-03-27 23:59:00 | 文学


三島由紀夫は「文化防衛論」のなかで、丹羽文雄の戦中の『海軍』と、終戦直後の暴露小説「篠竹」の同質性について「精巧なカメラであって、主体なき客観性に依拠していた」と言っていた。

軍隊が善になろうが悪になろうが、丹羽文雄はカメラに過ぎない。自分は爆弾を運ぶんだよ、と三島は蓮田善明を引きながら主張する。

よくわからんが、――平野謙が例の中野重治を囲んだ座談会の中で、「篠竹」の最後を「猥らしい」と述べていたのを思い出した。確かに売春の場面だからそうなんだろうけれども――、平野もそれを調べた小説として、細田民樹の『真理の春』なんかと同列と並べているから、その「猥らしい」というのは、案外カメラ的な意味であったのかもしれない。平野というのは、ときどきそういうことを言うが、確かに、今日「篠竹」を読んでみたら、どことなくリズムがイヤラシい小説であった。

何故そう感じたのであろう……。

とにかく、流れるような文章で、カメラと言うよりもむしろ音楽的な趣さえあった。戦後のデカダンスの匂いというのは、こういうことかなとも思ってみた。小説の中身からもいえるのだが、戦時中に見出されたのは、積極的にだらだらした日本人の姿である。それは、無意味に階級の下のやつをぶん殴る行為なんかを含めてもよく、三島や坂口安吾が夢みたような突撃精神は、それを脱構築したものでなかったであろうか。

この前、ルーカス監督が「スターウォーズ」より前に撮っていた「THX 1138」というSFを見たが、これも基本的にデカダンスであった。しかしだからこそ、ここから「スターウォーズ」へのジャンプが起こったのである。

Hmmmm

2019-03-26 23:53:58 | 思想


スティーブン・ミルズのよく知られた本に『歌うネアンデルタール』というのがある。詳細には読んでないが、ざっと目を通したことはある。言語と音楽には、先駆体が「Hmmmm」という状態があった。Holistic, multi-modal, manipulative, musical, mimetic の頭字語で、ネアンデルタールは、これを全体的に発達させて歌い踊るコミュニケーションを行っていたのにたいし、ホモサピエンスは象徴言語によって、それが抑制されている。しかし我々が音楽好きなのはそのなごりというか、先駆体が死んでないおかげというか、――そういう感じだという仮説である。

確かに、我々は異様に音楽が好きであり、しかもそれはかなり部分で言語的なのである。

わたくしは、そういう性質が何か不快で、音楽への複雑感情もあって、音楽と言語を切り離して考えたいと思ってきたが――、昨年度に音楽と文学相互に関わる論文をちょっぴり試行してみたところ、確かに、二つは別物でないという感じがしたのである。ルソーの『言語起源論』は確かにすごかったのかもしれない。

そういえば、我々は公の空間で鼻歌を歌わなくなった。そのかわり、イヤホンやヘッドホンでしゃかしゃかと音楽を聴きながら歩いている人も多い。わたくしも幼少期以来完全な音楽中毒なので、イヤホンやヘッドホンをつけずとも、だいたい頭の中でオーケストラが鳴っている。

しかも、体調が悪かったりするときに(本当に苦しくなったときは別だが)音楽に頼っている。音楽に体が逃げているのが分かるのである。わたくしの勘違いかもしれないが、アレルギー反応にもちょっと効いたりする――。

今回、ミルズの本を眺め直してみたら、12章の性交渉と音楽を論じた章の冒頭に掲げられている(ミルズは後半、論のイメージにあう好きな楽曲を掲げている)のが、ヴィヴァルディの「トランペットのための協奏曲変ロ長調」であった。

Vivaldi - Trumpet Concerto in A flat


この曲を選択するような男は嫌いである――そんな気がした。

過去からの批判

2019-03-25 23:02:39 | 文学


研究論文というのが未来から批判されるということはよくある。しかし、過去からの批判もある。すべてはギリシャによって考えられているとまで言う人もおり、――さすがにそこまでは言えないと思うけれども、そんな気分は理解できる。

この前書いた論文の一部は、C・ウィルソンの『アウトサイダー』の一部によって批判されていた。今日発見したのである。今のところ、どうもウィルソンの方が正しいように思う。この本は1956年の本だ。スターリン批判の年の認識にもわたくしは劣る。

昨日、マルクスの『経済学批判』を眺めていたら、なんとここにもわたくしへの批判が書いてあった。時は安政5年、ブラームスのピアノ協奏曲第1番や安政の大獄の年である。この時代の認識よりわたくしは劣る。

人文学というのは、こういうことの繰り返しである。わたくしが大したことのない人だからというのもあるのだが――。

大河ドラマは最近国策臭がするのでみていないが、過去を描くんだったら、せめて過去からの批判というものを考えて欲しいものだ。

まして、つれづれも紛れなく思さるらむ

2019-03-24 22:57:56 | 文学


いにしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るることも、数添ふこともはべりけれ。 おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを、 まして、つれづれも紛れなく思さるらむ


父の桐壺院がなくなったあと、妃であった麗景殿女御のところにきて、うだうだ言っている源氏である。父がなくなって右大臣側の圧力でピンチの源氏である。このときまだ源氏は25歳。しかし、言ってることがお爺さんである。「昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを」って、大して昔から生きてねえじゃねえか、という……。しかも人生の先輩に向かって、ましてあなたは酷く寂しいのではないですか?って、寂しいに決まっているだろうが。お前は、父親の嫁を寝取った親の七光りみたいなこんがらがった人なのに、うだうだ言ってるんじゃないっ

嘆くのにもエネルギーがいるのである。源氏の感情は、嘆きの方で、寂しさとはちょっと違うのではなかろうか。

彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう

漱石「門」の方はこれまた若く?して淋しさに感染した人を描いている訳であるが、これはまた本当は、淋しさではないのである。

今日は卒業式なので、こんなことを思った。


猫ピッチャーとイチロー

2019-03-23 23:25:17 | 漫画など


そにしけんじの『猫ピッチャー』はまだ続いているのではないかとおもう。猫がニャイアンツ(どうみてもジャイアンツ)のピッチャーをやっている話である。

むろん、猫がかわいいというだけのまんがなので、野球まんがではないのではないかと思われるが、――それにしては長く続いている。読んでみると、案外無理矢理作った力こぶのようなものはむしろ「猫ラーメン」の方にある。こちらは猫が人間に近づかなくてはならなかったからである。「猫ピッチャー」はそうではない。猫のままで巨人のエースなのだ。

思うに、最近のプロ野球というのは、案外『猫ピッチャー』みたいな世界なのではないだろうか。それは、球場にマスコットがいるからではない。

落合博満氏はFAとか給料の面では、アメリカ風の個人事業主的な考え方を導入した人であったが、野球観は古風なひとのような感じがする。案外、浪花節的なところもあって、むしろ商業化するプロ野球の中で、ヤクザな素人的野球人として抵抗していた面がある。彼のファッションをみればそうだと思うし、だいたい、彼は「なんとか人生」みたいな演歌のレコードを出すような人なのである。(ほかの人も出してたが……)長嶋王の時代をよく知らないのであれなのだが、落合選手は、決して星野的熱血とも無縁ではない。ただ、極端に弱気で合理的だけだったように思われる。「ほら、おれこれ仕事だから」という彼の口癖は、自分に言い聞かせていた面が強いと思う。マスコミに対しても、あまりコントロールをしたがっているようにはみえなかった(結果的にマスコミは翻弄されていたが――)。ただ、彼が監督の後期に、ガンダムオタクであることを標榜しているのをみたとき、事態はこんがらがってきたぞと思った。

イチローはどうだったのであろうか。合理的な思考は落合と似ているが、彼のインタビューは結構コミュニカティブで、単につっけんどんではない。その意味で、野村監督や松井などと似ていてより「職業人」なのだと思った。のみならず、イチローは、ダウンタウンなどと一緒に番組のなかで遊んでしまう器用さを持ち合わせている。今回の引退会見で、「監督は絶対無理。僕は人望ないので」などと言っていたが、案外本当かもしれないのである。人望というのは、コミュニケーション能力とは全然別物である。

しかし、そのイチローも「最近の野球は頭を使わない方に行ってしまって、気持ち悪い」などと言っていた。マスコミはここを取り上げたがらないが、イチローが一番言いたかったことではなかろうか。外国人になってみて分かったことがあるといった発言は、たぶんそういう認識の一部をなしている。しかし、イチローも妻と犬に感謝する癒やし発言?までしてサービスしていた。犬でよかった。猫だったら……(いや、犬の方が妙な比喩を感じるからまずいのか……)

王も落合もイチローも職人的であって、その突き詰めた思考のありようからなにか人生訓みたいなことを求められたりもする。スポーツ選手の中には、政治家になったりする御仁もいるくらいだ。彼らをもちあげる心性がまともとはいえないにしても、そういう現象をあながち全否定はできない。われわれだいたい皆そんな素人状態で政治に関与することになるだろうからだ。したがって、ある個人がまともなことを言うためには、職分に縛られている状態でも、世間や社会がかれら(我々)を、きちんと教育できないといけないわけである。それは全く上手くいっていない。イチローが草野球がしたい、と言っていたのは、そういう問題に彼がたどり着いたことを示しているのかもしれない。

われわれは思ったよりも、自分の職業以外のことがわからなくなっている。オルテガが言うように、それが「大衆」としての大きな特徴だといえばそれまでだが、イチローからもそれを感じる。その意味では、イチローはまさに我々の極端な自画像であるような気がする。

結論:イチローとシロー、実に似ている。

飛ぶ教室と穴堀り

2019-03-22 22:40:32 | 文学


ケストナーではない「飛ぶ教室」という物語は様々あるが、ひらまつつとむの「飛ぶ教室」はジャンプ史上最高傑作などと一部では人気らしい。八〇年代の作品なので、核戦争後の世界を描いているといっても、そのころのほんわかエロギャグみたいなものもちりばめられてあり――、生き残った先生も美人で……みたいな作品である。

考えてみると、作者のねらいを度外視してみれば、永井豪みたいなエロテイクな残酷世界や楳図かずおのような恐怖世界につながる要素がありながら、よくもヒューマニズムの限界内にとどまったと言うべき作品である。案外、はやく打ち切れられてよかったのかもしれない。これ以上続けると何かお化けみたいなものを出さざるをえなくなったかもしれないからである。

作品は、地下シェルターと廃墟になった外部の世界との往復でできている。放射能の心配がありながら案外往復する。

その母体になった習作?では、原爆症で死ぬ美人の先生は、最期にノアの挿話を話している。それが、単行本になったジャンプの連載作品になると、一人一人に手紙を書くような理想的な先生になる。――彼女は伝道師からある意味で聖母に昇格しているのであろう。

生きているときは、セクハラをする教頭をぶんなぐったりしている先生が脱宗教化された聖母として昇天してゆく。われわれの社会が何を望んでいるのか、ここからも分かる気がする。

「三里塚・第二砦の人々」は、結構長い作品であった。三里塚闘争で用いられた戦術のなかで、砦の下の穴での籠城があるが――、最後にでてくる青年が穴掘りをやって楽しげである。

最近、どうもわれわれに逃げ場がないのは、コンクリートで地面に穴を掘れなくなったというのがあるような気がするのである。文学的な「穴」については少し書いたことがあるが、穴を上のまんがみたいにシェルターとしてしか認識できないとしたら、いやなもんだ。穴掘りはもっとわれわれにとって本質的なものなのである。――たぶん。「方舟さくら丸」の主人公は、もっともっと掘るべきだったのかもしれないのだ。

農民の反対同盟は、支援の学生たちを穴には入れなかった。この映画では、農民たちと学生たち、政党から派遣されてくる者たち、といった人々の軋轢の一部も描かれている。そこで議論の中心として撮られているのはおばさんたちである。それは、決して聖母ではない。

糞尿を捧げ持つ

2019-03-21 23:49:52 | 思想


三里塚闘争の第三次測量阻止闘争の記録映画のなかで、農民たちは、糞尿をかぶり、また機動隊に投げつけようと踏ん張っていた。わたくしも田舎もんだから、樽をひっくりかえしたり、でかい柄杓でぶちまけたりしたのか勝手に想像していた。わたくしの頭にあったのは次のような文学作品でもあったからだ。

彦太郎は糞壺の縁まで来ると、半分は埋められたが、残りの半分に満々と湛えている糞壺の中に長い柄杓をさしこみ、これでも食くらえと、絶叫して、汲み上げると、ぱっと半纏男達へ振り撒まいた。わっと男達は声をあげ、左肩か浴びせられた先刻の背の低い男が、逃げようとしてそこへ仰向けに引っくり返った。貴様たち、貴様たち、と彦太郎はなおも連呼し、狂気のごとく、柄杓を壺につけては糞尿を撒き散らした。半纏男達はばらばらとわれ先に逃げ出した。柄杓から飛び出す糞尿は敵を追い払うとともに、彦太郎の頭上からも雨のごとく散乱した。自分の身体を塗りながら、ものともせず、彦太郎は次第に湧き上って来る勝利の気魄に打たれ、憑つかれたるもののごとく、糞尿に濡れた唇を動かして絶叫し出した。貴様たち、貴様たち、負けはしないぞ、もう負けはしないぞ、誰でも彼でも恐ろしいことはないぞ、俺は今までどうしてあんなに弱虫で卑屈だったのか、誰でも来い、誰でも来い、彦太郎は初めて知った自分の力に対する信頼のため、次第に胸のふくれ上って来るのを感じた。誰でも来い、もう負けはしないぞ、寄ってたかって俺を馬鹿扱いにした奴ども、もう俺は弱虫ではないぞ、馬鹿ではないぞ、ああ、俺は馬鹿であるものか、寿限無寿限無五光摺りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、寿限無寿限無五光摺りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿の中にすっくと立ちはだかり、昴然と絶叫するさまは、ここに彦太郎は恰も一匹の黄金の鬼と化したごとくであった。折から、佐原山の松林の蔭に没しはじめた夕陽が、赤い光をま横からさしかけ、つっ立っている彦太郎の姿は、燦然と光り輝いた。

――火野葦平「糞尿譚」


が、違った。みたところ、ビニール袋に入れて各自持っていた。

そのつるんとしたビニール袋が逆に、ざらついた映像のなかで際立っていたのがおもしろい。そのつやに繋がるのは、機動隊員のヘルメットぐらいだ。

つまり、糞=機動隊というつながりが成り立つ。それはつるりとしたものであった。

考えてみると、わたくしが小さいときに経験したトイレもさすがにプラスチックの便器を昔の木造便所に設置したものであったからつるりとしたものであった。

最後の方で、機動隊に詰め寄っていたおばさんの持つ糞尿はビニールではなく何かの容器で、その上には藁が積もっていた。ささくれだった運動の象徴のように見えた。

月報雑感

2019-03-20 23:44:40 | 文学


全集には「月報」というモノがついていて、これが案外独特な文化を創っていると思う。批評でもなければ、感想でもない。しかし、本文よりも最初に読まれるかもしれない雑文。本に寄り添って、ときどき読んでいる本から滑り落ちて、綴じられていないので床にばらける。執筆メンバーは、批評家に限らない。作者と人的つながりがあった家族、編集者が登場する。

『吉本隆明全集14』の月報は、藤井貞和、水無田気流、ハルノ宵子の執筆であった。

ハルノ宵子は娘である。吉本の妻和子は『寒冷前線』という句集をだしていて、これはわたくしも昔読んだことがあるが、結構イキで天才的な感じであった。ハルノ曰く、吉本の才能は、集中力と継続力みたいなもので、「才能」のようなものではないが、しかし妻のそれは「才能」であった、と。そうかもしれない。14巻は『初期歌謡論』が載っているが、なんだろう――結局、吉本は自分の「うた」をうたっているのである。この長大さは、ほとんどシュトックハウゼンの電子音楽のたぐいといえるのではないだろうか。

これにくらべると、寺山修司の『暴力としての言語』なんか、ソレルの所謂、フォースとは異なるヴァイオレンスを話し言葉的なものに求めているいるが、――ほとんどボクシングの練習を10分でやめている雰囲気であって、結局、この「暴力」というやつ、学生の運動のそれも含めて直ぐ疲れるものであった。吉本が逆らっているのは、そういう暴力なのである。

まあ、現在は、寺山が社学同の学生に対して、社会契約的な法だけじゃなく「内なる法」――「「エロス的現実の「法」快楽の原則」を忘れるな、みたいなことを言っているような――こんな水準すら忘れられようとしている。このエロスが、なんだかベッドシーンみたいなものとして開花してしまったのは誰のせいなのか。決して村上龍とか村上春樹だけのせいではない。

上の月報のうち、水無田気流の文章は、現代詩人とアカデミズムを架橋する存在らしく、明晰なものだった。しかしわたくしがあまり理解できないのは、彼女が吉本と一緒に講演会?をやったときにお腹の中にいた子どもが、いまでも吉本の映ったビデオを観ると嬉しそうに寄っていくみたいなエピソードが最後にくっついていることであった。このエピソードは必要なのか。

カウンターカルチャーの可能性

2019-03-19 23:39:21 | 思想


ドラッグが話題になっているが、坂口安吾やら太宰治だけを参照するのはやや的外れかもしれない。たとえば、大友克洋の『AKIRA』もドラッグの話だった。ここらの発想の方が、いまに直結している。そういえば、八〇年代、村上龍と坂本龍一が、吉本隆明について、薬一つで意識なんて変わってしまう事情が彼はわかっていないのではないかと対談で言っていたのを思い出す。

その意味でもオウム事件が大きかったのかもしれない。ある意味、ピアノフォルテやエレキギターみたいな素朴なモノも含めて、科学的発想と芸術的発想の融合への努力が、いろいろな変容を遂げてしまったのが、あの頃なのであった。で、大塚英志の『日本がバカだから戦争に負けた』を読んでみたら、案の定、工学的なものと人文的なものの相克を論じていて共感できた。氏は、人文知は、教養に回帰することを望むべきではなく、工学知に対するカウンターカルチャーたるべしと結論づける。――もう現実として、そんな感じですけれどもね……。

『死役所』というマンガは途中まで読んだだけだが、もうこういう高レベルのマンガでさえ、カウンターカルチャーであることは出来なくなっている。先日死んだ内田裕也を中心としたロケンロールの業界はもうあれである。ロケンロールの人が夫婦愛みたいな括りで葬られているようではもうだめだ。ロケンロールはもともと言葉や作品に還元できないうめきみたいなものであって、それをクズみたいな言葉に還元してケアするだなんだと言っているのが今の世の中である。

わたくしの中にもそんな還元主義があった。わたくしが内田裕也を不愉快に思っていたのも、彼にはほとんど言葉がないからであった。

問題は、そういうよくわからないものに対する感覚を、いかに保ってゆくべきなのかであるが――そのなかで思想家たちは悪戦苦闘している。郡司ペギオ幸夫氏の『天然知能』を面白く読んだが、氏の言う1.5人称とかに関しては、それはそうかもと思いながら、結局、氏のような論を好む人々は、懐疑したいタイプのような気がする。上のような不可視の死の世界を覗いたり、ロケンロールが家族愛とくっついたりするのは、確かにわれわれの懐疑的意識の現実かもしれないが、――そこにはさまざまな嘘が懐疑によって生じるのであって、「嘘つけこのバカタレ」と誰かが言わなくてはならないような気がする訳である。