★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鬼のすだくなりけり

2018-11-30 23:38:50 | 文学


葎生ひて荒れたる宿のうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり

長岡に住んでいた男が田を刈ろうと用意をさせていると女たちが「これは風流ですわね」と上がりこんできてしまった。慌てて家の奥へと逃げる男。女たちが、酷い家ね荒れすぎて主人もいないわ、と詠んだので対抗して詠んだのが上である。

確かに、鬼のような女たちというのはいるものである。

純潔なるものはそんなチャチなものじゃない。魂に属するものです。私は思うに日本の女房てえものは処女の純潔なる誤れる思想によって生みなされた妖怪的性格なんだなア。もう純潔がないのだから、これ実に妖怪にして悪鬼です。金銭の奴隷にして子育ての虫なんだな。からだなんざアどうだって、亭主の五人十人取りかえたって、純潔てえものを魂に持ってなきゃア、ダメですよ。

――坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」


思うに、坂口安吾は常に何かの後の静けさに心を留めている。しかしわれわれが相手にしているのは、どかどかと部屋に上がりこんでくる女の集団であって、不良少年たちが女はいつも個人だと言い張ろうとも、女が個人であることなどほとんどない。男も同じである。

我からの恋

2018-11-29 23:20:03 | 文学


恋ひわびぬ海人の刈る藻に宿るてふ我から身をもくだきつるかな

むかし古典文学の何かの本を読んでいたときに驚いたのが、ワレカラという虫の形状である。わたくしは、昆虫好きだったくせに、山の人間だったせいか、海にいる輩たちを全く知らず、イナゴや蜂は軽く食えるくせに、カニが苦手である。高い食べ物なのに、食べる気がしない。うまいとも思わないのだ。全く不思議である。

それはともかくワレカラは、足と腹が退化したエビという感じであり、いわば上半身だけ昆布にくっついて揺れているようにみえる。恐ろしい情景である。この虫は乾くと割れてしまうらしいのだが、それ以前に半身をもがれているのであり、まことに恋に悩む男の心をあらわしているようだ。失恋はまだ相手のせいにできるからいいのである。片思いは、自分を裂くしかない。

「……あたしの郷里では、人が死ぬとお洗骨ということをするン。あッさりと埋めといて、早く骨になるのを待つの。……埋めるとすぐ銀蠅が来て、それから蝶や蛾が来て、それが行ってしまうとこんどは甲虫がやってくるン」
 二、三日、はげしい野分が吹きつづけ、庭の菊はみな倒れてしまった。落栗が雨戸にあたる音で、夜ふけにたびたび眼をさまされた。
 ある夜、青木は厠に立ち、その帰りに雨戸を開けると、その隙間から大きな甲虫が飛び込んで来て、バサリと畳の上に落ちた。

――久生十蘭「昆虫図」


われわれは昆虫を自分の外部のものとして恋心も失っているのかもしれない。

三年目の浮気ぐらい、多めに卵を

2018-11-27 23:40:29 | 文学


鳥の子を十づゝ十は重ぬとも人の心を いかが頼まん

浮気を恨んだ女にこんなことを言う男である。ていうか、なかなか面白いやつではある。卵を十個は所謂「累卵の危」のことだと知っていても面白い。女も

朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世を頼みはつべき

朝露に失礼みたいだが、やはり朝露は朝露である。卵よりは、頑張る気持ちが少ないような気がするが……、女の気分としては、お前の心など朝露レベルだボケッと言いたいところであろう。男は調子こいて

吹く風に去年の桜は散らずともあな頼みがた人の心は

考えてみると、そんな桜は古びてて悲惨な感じがするだけに、女への当てつけ的な気分がすごい、――かもしれない。女も逆襲して

行く水に数書くよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり

朝露などまだまだ甘かったのであった。お前の心はドブ水の流れレベルだジャーといったところか……。男は、弁証法的唯物論者だったのか、

行く水と過ぐるよわひと散る花といづれ待ててふことを聞くらむ

と話をまとめにかかっているところがいやらしい。語り手は、

あだ比べ、かたみにしける男女の、忍びありきしけることなるべし。

とウィンウィン的な何かを言っている。相対主義はこんな時代からだったのだ。わたくしは、どっちかが悪いと思う。

私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、
――アインシュタイン「相対性理論」(石原純訳)

むかし、をとこ、――俺の妹がこんなに可愛いわけがない、と

2018-11-26 23:09:45 | 文学


むかし、をとこ、いもうとのいとをかしげなりけるを、見をりて

とは伊勢物語第四十九段の書き出しである。このあとつづくやりとりが、本当の恋なのか遊びなのか、よく分からないが、その前とか後とかが気になってしかたないのが近代文学の学徒である。というわけで、

うら若み 寝よげに見ゆる 若草を 人のむすばむ ことをしぞ思ふ

とちょっかいを出した男には、妹が

「――あ、あんた、あたしが誘惑されると思ってるのね。失礼だわ。まさか……」
 と、これは半分自分に言いきかせて、二階の脱衣室へ上って行った。そして、イヴニングを腰まで落して、素早くシュミーズに手を通していると、ラストの曲も終ったのか、ガヤガヤとダンサーがよって来た。
 土曜日は、ダンサーの足も火のようにほてる。それほど疲れるのだが、しかし、大声で話ができるのはこの部屋だけだ。ことに今夜は茉莉の事件もある。シュミーズを頭にかぶったまま、喋っているダンサーもいた。
 しかし、陽子はいつものように黙っていた。澄ましてるよと、言われてから、一層仲間入りをしなくなっていた。
 黙々とコバルト色の無地のワンピースを着て、衿のボタン代りに丸紐をボウ(蝶結び)に結んでいると、上海帰りのルミが、
「殺生やわ、ほんまに……」と、遅れて上って来て、ペラペラひとり喋った。


――織田作之助「土曜夫人」


といった展開を配し、昔男のような恋の独占男を孤独に追いやりたい。

涼しき風吹きけり。蛍たかく

2018-11-25 23:01:18 | 文学


日曜美術館で宮本武蔵の紹介していて、小野正×氏がコメンテーターで出ていた。武蔵を尊敬して生涯和服で過ごした島田真富氏についてなんだか恥ずかしい文を綴っていたが、こういうのも転向の一種であろう。小野氏の文章をあまり読んだことがないのでなんともいえないのだが……。氏のように公の存在になってしまうと、ほとんど魂を失うというのが最近の作家には多いことではなかろうか。みんなデビュー前だけがマトモなのだとか、昔、ドゥルーズが言っていたような気がするが、その頃の人文関係者でそれを真面目すぎるほど真面目に受け取っていたものはいなかったのではなかろうか。

三島由紀夫が「英霊の聲」を書いたときに、この作はちゃんとインテリの作として扱う必要があり、安全地帯に身を置いて天皇を批判する戦略とみなすべきだと言った批評家があった。三島由紀夫が不幸だったのは、メジャーになればなるほど、彼の知性を軽んじる人が増え、彼もそれに合わせていったところがあるからである。

時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵は遊びをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍たかく飛び上がる。


このあと男は

ゆく蛍雲のうへまで往ぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ

と詠むのだが、ここには人間の心理がほとんどない気がして清潔だと思う。女は男のことが好きだったが会ったことはなかった。死にかけた。両親からそれを聞いて男が駆けつけたが、もう死んでいた。男は、音楽をしたりして、風が吹き蛍が飛んでいる。

恋の場面でも、男のなかで女が「有名」だとこうはいかない。

ちょっと違うが、アニメーションの「刻刻」を観て、人間がいない町は本当に綺麗だなと思った。

語り手というイデオロギー

2018-11-24 23:53:46 | 漫画など


昨日、「戦中・戦後のくらし 香川展」と、「平和祈念展in高松」が、瓦町FLAGでやっていたので観てきた。そのとき、平和記念展示資料館のつくった二冊の漫画をもらったので読んでみた。満州からの引き揚げを描いた『遙かなる赤い夕陽』とシベリア抑留を描いた『シベリアからの手紙』である。

内容についても言いたいことはあるが、わたくしが気になったのは、その語り――、子どもや孫世代たちが、戦争体験者の手記や手紙を読むという形式である。これは現在の大人や子ども達を語り手(ならびに読者)にすることで読者をあらかじめ作中に引き入れてしまうという小説でもよくある詐術、いや手法と言うだけではない。読者の反応をあらかじめ書き込んでおくという装置である。すなわち本質的には誘導装置というよりイデオロギー装置である。「三丁目の夕日」や「永遠の0」、「小さいおうち」などで使われたのが記憶に新しい。

八十年代以降の語り論の隆盛は、文学研究の発展という意味合いだけでは説明できない。近代の相対化という、近代を内部から越えるということの断念でもあり、ある種の過去からの逃避である面が確実にあったような気がする。当時を想起してわたくしはそう思うのである。本当は、近代小説の語りは、語りの内部の相対化ではなく、もう少し具体的な感情の発露であって、どうも太宰の「人間失格」なんかが戦後に書かれたころから、手記を紹介する語り手が所謂「立ち位置」的な何かに変化しているのかもしれない。無論かなり前からそういうものはあったが、――戦後になってからは過去を振り返ることに個人以外の罪障感がつきまとうようになる。戦争のせいである。太宰は、「人間失格」や「パンドラの匣」を「道化の華」のスタイルで書くべきであったような気がするが、そうなるとそれは反省のリアリズムではあろうが、反省をしていないようにみえるので都合が悪いのだ。

わたくしは、戦争を記憶の伝承とかの、コミュニケーションの問題にしてしまうのには以前から反対である。

わたくし自身は、高松市の神社巡りをやって、文化的な愛着というよりなんとなく空間的な愛着が湧いてきてから、高松空襲の写真が身に染みるようになったから、問題は、コミュニケーションではなくリアリズムを整えることだと思わざるを得なかった。

跡だにいまだ変らじを

2018-11-22 23:14:12 | 文学


出でて来し跡だにいまだ変らじを誰が通ひ路と今は成るなむ

藤村の「初恋」にも、「おのづからなる細道は誰が踏みそめしかたみぞと」とか出てくるが、通い路が抽象的なものではなかった時代は、その通い路はその歩みにもいちいち形が残ってしまうようなものであって、その意識が恋愛に影響を与えなかったはずはないと思う。わたくしの生地の周りには辛うじてコンクリート舗装でない道が残っていたが、いまはかなりそれも減ってしまった。人間も減っているけれども……

仁徳天皇陵に調査が入ったらしいが、埴輪などの並びなどが見つかったそうだ。わたくしも年とってきたせいか、もう面倒くさいからこの墓は仁徳天皇のものであってもいい気がしてきたわ。あまりにも嘘が多い世の中、天皇陵くらいちょっとはホントであってくれてもいいかもしれない。もう思い切って神武天皇の墓発見を希望するね。

オリンピックのために外国から労働者を集めようとしているんじゃないかという説を聞いたが、仁徳天皇のときも労働者不足とかがあったかもしれないね。私もそうだが、もはやコンビニで外国人以外がいらっしゃいませーと言っていると不信感を抱くようになってきている。おそらく、政府の皆さんも自国民を全く信用していないのだ。

信頼は罪なりや

移民政策――ここらの問題はもはや文学ではどうにもならんところがあり、経済学の人たちもきちんと喋るべきであろう。八十年代に留学生倍増計画みたいなことがあったような気がしないでもないが、そのときはお化けに実態を与えようとするところがあったのに対し、今度のは、実態をお化けのように見せたいというあれなので、あまりにも情けなし。精神は前者を引きずっているくせに人文学の一部は植民地主義の勉強ばかりしたせいで、きをつけないと人をみたら主義者に見えるところがあり危なくてしょうがない。

君たちは――

2018-11-21 23:25:26 | 文学


今日は附属中学で『君たちはどう生きるか』について講演したのであるが、今度読み直してみて結構誤読していたことが分かったからいい勉強になった。私の原点の一つにはこの書があるわけで、――わたくしが、「大正教養主義からきた知識人の自惚れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます」(三島由紀夫)とかいう発言に拍手していた運動族を絶対に認めんのはそのせいである。自惚れていたのはどっちなのだ恥を知れっ

だいたい三島由紀夫とかなんとか派は、まったく「アクティブラーニング」という感じであって、――三島の場合はアイロニーやら自惚れを逆立ちさせた道化、もっとはっきりいえば園遊会での陛下への下品な直訴、といったマンガとしての面白さがあるが、世界を獲得するとか言うてた御仁たちは、かえって官憲に獲得されただけだった。――「アクティブラーニング」も、結局弁証法とは何の関係もなく、かえってアクティブな肉体が気になって授業にならないという感じであって、まあ生産性がない。

コペル君曰く、

僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思いはじめました。叔父さんのいうように、僕は、消費専門家で、なに一つ生産していません。浦川君なんかとちがって、僕には、いま何か生産しようと思っても、なんにも出来ません。しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世の中に生み出すことは、僕にでも出来るのです。

今日も中学生とその親御さんたちにお話ししたが、こういう発言に素朴さしか見ないような半端もんがまずするべきことは、社会に出ることでも友だちを探すことでもなく、読書である。

もっとも、カネッティがヒトラーとシュレーバーにパラノイアという「権力の病」を見ていることを講演の途中で思い出したので、わたくしは、講演の途中からなんだか、コペル君のまだ書物をたいして読んでないところの秀才ぶりをうらやましいとも思った。思春期というのは進歩派にとってはいい環境だったのである。

でも、信じてください。野なる草木ぞわかれざりける。

2018-11-20 23:19:35 | 文学


紫の色濃き時は目もはるに野なる草木ぞわかれざりける

姉妹がいて、一人は貧しい男と、一人は高貴な男と結婚した。貧しい男と結婚した女が男の服を洗って張ったところ、一部を破いてしまった。「せむかたなくて、泣きに泣きけり」。で、かわいそうに思った高貴な男が美しい緑の服を送ってやったときの歌である。紫草の色が濃いときなんかはその他の草木も芽吹いて美しく見えるもので区別つかないですよ、と。あなたは妻の姉妹ですが関係ないですよ、うけとってちょ、というわけであろう。わかりにくいので、だめ押しに語り手が「武蔵野の心なるべし」と付け加える。

紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る

元の歌にこんなものもありましてね、これはありがちなあれなんですわ、と言うわけである。

アサーションの入門書を読んだが、現実にはとてもうまくいくとは思えない感じで困った。やはりこれはもともと行動療法であるように、治療の方法なのではなかろうか……。コミュニケーションは、上の例を見ても分かるように、非常に気を遣うものであって、それでもどこか一部は失敗しているにちがいない。例えば、上の歌を送られた女が「野なる草木かよ、プンスカ」となる可能性はあるのである、だからといって何もしないのはちょっとどうかと高貴な男には思われたわけである。最後の語り手の付け加えは、コミュニケーションの不安定さに感づいているためであろうし、このあともなんやかんやとなんとかしてしまうのがわれわれの日常でもある。

テレビでゴーンさんの昔の映像が流れてて、日本語で、

「日産リバイバルプランを成功させるためには、どれだけ多くの努力や痛みが犠牲となるか、私にも痛いほどわかっています。でも、信じてください。他に選択肢はありません。」


とか言っていたが、これだって、アサーション的なものであろう。が、どうみても死刑宣告である。結局、判断の中身はどう言おうとあんまり関係ないような気がするわけで、――というよりむしろ威力が増してしまうことすらあるわけで、これこそ昔からレトリックや弁論術で問題になっていたことに他ならぬ。

「さるすける物思ひ」と「食べかけの皿」

2018-11-19 23:20:47 | 文学


昔の若人は、さるすける物思ひをなむしける。今の翁、まさにしなむや

まだ親がかりの若者が召使いの女に惚れてしまい、心配した親が彼女を追い出してしまうと、若者は眼から血を流して歌を詠んで卒倒してしまった。びっくりした親が神仏に願を立てると、生き返った。この話に対する話者のコメントが上である。

果たして、これを昔男の(翁となった)現在に対する皮肉ととるか、いまどきの爺くさい若者に対する皮肉か解釈が分かれるらしいが、語り手がこの若者を評価しているとは限らない。わたくしは彼の

出でゝ去なば誰か別れの難からむありしにまさる今日はかなしも

という歌もあんまりすごいと思えないが、卒倒してしまう若者はあまりに若すぎたのか、まだ恋を成就できるレベルの人間ではなかったのであった。むろん翁になっては、こんな事態はあり得ない――いや本当に死んでしまいかねない。恋は若すぎても老いても成立しない――と語り手は考えたのであろうか。

恋愛と云うものは、この空気のなかにどんな波動で飛んでいるのか知らないけれども、男が女がこの波動にぶちあたると、花が肥料を貰ったように生々として来る。幼ない頃の恋愛は、まだ根が小さく青いので、心残りな、食べかけの皿をとってゆかれたような切ない恋愛の記憶を残すものだ。

――林芙美子「恋愛の微醺」


林芙美子はちょっと意地悪すぎだと思う。もっともわたくしは食欲があまりなかったから、お皿を持って行かれたら逆に安心したものだ。わたくしに限らず恋愛なんかでもそんなことはありうるのではなかろうか。

下紐解くな

2018-11-18 23:28:47 | 文学


われならで 下紐解くな あさがほの 夕影またぬ 花にはありとも


色好みの(浮気がちな)女に送った歌(伊勢物語第三十七段)であるが、「下紐解くな」と「あさがほの夕影また」ないでしぼむ様子が対になっているようで面白い。花ある君は自分がゆくまで紐を解かず閉じていてほしいのではなろうか。そう思うことで、朝顔の美しさは更に輝く。

関係ないが、朝顔というのは、沢山咲いている場合あちこちに向いているので、なんとなくしぼむ前から見ていて不安になる花である。これにくらべると向日葵は太陽を模倣しているのだかしらないがそんな感じはしない。

人間は、どうも『浮雲』ではないが、雲を模倣しているのではなかろうか。

「五丁町の辱なり、吉原の名折れなり」という動機の下に、吉原の遊女は「野暮な大尽などは幾度もはねつけ」たのである。「とんと落ちなば名は立たん、どこの女郎衆の下紐を結ぶの神の下心」によって女郎は心中立をしたのである。理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。

――九鬼周造「「いき」の構造」


むかしから、この「霊化」というのが引っかかっている。