★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

インコの飲む水が凍っていたのである

2018-12-31 21:26:03 | 日記


夢。ひとりの爺さんが右手に細いはけをもって左手におとなしくとまってる鳩の頸や肩のへんを鳩羽や紺色に染めてゆく。そうしておくとその色の羽根がはえてくるという。そばに桃色鸚哥が木の枝に嘴をひっかけてぶらさがっていた。……

……中島敦「島守」

今年読んだ本ベスト10――2018

2018-12-29 23:56:36 | 文学


今年も読書三昧のアカデミック中年であった。順位はあまり拘らんが適当にあげてみよう。今年は書評を何本かやって印象に残ったものもあったがそれらはちょっと除いておこう……

10、メニングハウス『敷居学』……懐かしさのあまり読んでしまったといえよう。

9、吉本隆明『いまはむしろ背後の鳥を撃て』……『テロルの現象学』の人ってやっぱり吉本の影響強かったんだなあ……

8、筧克彦『皇国精神講話』……むしろ「職分論」であるところがいやだな。いやだねえ、働け働けって……

7、外山恒一『全共闘以後』……今年一番の本かもしれない。このひとのおかげで、連合赤軍以降も戦ってきたぜと言い張るバブルの人たちが続出。なわけはないのだが、この本の誤植騒動といい、最近の一〇〇田さんのあれといい、大学入門ゼミはもっとしっかりせにゃならんな……。しっかり落第させとかんからいかんのだ。

6、落合陽一・清水高志・上妻世海『脱近代宣言』……どうでもいいけれども、本の装丁でエヴァンゲリオンぽくするのやめてくれませんかね……。面白かったのは、犬が嗅覚の世界で生きてていわばインターネットの世界で生きているようなもんという主張である。確かに犬野郎には多いよそういうのが。

5、津久田重吾他『いまさらですがソ連邦』……ソ連の軍大学に入るのには、猛烈な受験勉強が必要で、実践訓練がおろそかになりがちだったとか。もはや日本だけなんじゃないのか、大学では座学じゃなくて実践だとか言っているのは。しっかりしてくれよ……。

4、ゲンロン『マンガ家になる!』……楽しかったな。

3、ドゥルーズ『千のプラトー』……ちゃんと読んでみたぞ……。浅田氏や千葉氏の解説をよむ分にはあまり動揺しないが、やはりこんな文章を長々と書いてるドゥルーズはもはや手術後の人間に近い。病気で寝ているときにこの本が少し分かった気がしたのである。

2、『宇治拾遺物語』……とにかくこういうのを大量に読んでおかなくては國文人間とはいえない。村田沙耶香の「コンビニ人間」は、ある意味でこれからのアイデンティティを予見している。われわれは、本質としての人間はあきらめた。実存なんかはあるかわからん。「箱男」とかもちょっと飽きたぜ。単語にとにかく「人間」をくっつけるのだ。

1、『伊勢物語』……昔男をわたくしはついに夢に見た。11月3日のことである。晴れていた。

0、上妻世海『制作へ』……街をうろつきながら、ヴァレリーの制作原理論のせりふを反芻していた二〇代を思い出した。二〇代の著者の本である。二〇代の「制作論」はいつも思いあまって抽象の夢を追う。しかしわたくしは「木漏れ陽がぽかぽかと身体を温めてくれて、とても気持ちがいい」とかはもう書けない。考えることは血圧のこととかだ。

マンドリルの求婚舞踏?

2018-12-29 18:43:12 | 文学


保田與重郎の「小説全無智上人伝 雑譬喩経義疏私案を発意さるる話。」というむにゃむにゃな話のあとには、薄井敏夫の「土手道づたひ」という彼のこれまた音楽小説が載っている。

シューベルトを詠うお嬢さんをからかい、浄瑠璃が軍人芝居をやっていることをくさし、友人(安彦)が帰朝して新進ダンサーとして「火の鳥」を踊ったのを日本は甘いと言い、彼をけなした批評家をも批判する。その結果、今度の安彦の舞台に期待すると言って……

――[…]何でもスエルシエニエーヴィッチとか云ふ長い名前の新進作家のものだそうで、マンドリンの求婚舞踊と云ひます
――マンドリルの求婚舞踊?マンドリルの求婚舞踊?ずゐぶん変な名前ね、マンドリルつて一体何?スペインあたりの新しい芸術家の名前じゃない
――さう思ひますか。所が実はこのマンドリルと云ふのは世界で最もグロテスクな怪物なんです、猅々の一種ですがね。顔が一面紺青色で獅子の鬣のような頭髪を持ち力はゴリラほどある云ふ奴です


この仲良し談話みたいな話、ストラビンスキー以降を受け止めかねている当時の様子が知れて面白かった。がっ、マンドリルの顔は、最初のお嬢さんの「青と白のドレス」に対応してるみたいでもあり、結局、これは求婚みたいな話なのかもしれないが……

「親のかたき、覚えたか。」
と言いながら、はさみをふり上げて、猿の首をちょきんとはさみではさんでしまいました。


――楠山正雄「猿かに合戦」


昭和7年、全体主義の進行するなか、マンドリルのお話は勇気があった。上の猿のお話よりは……。

私の感情の泉を爆発

2018-12-28 00:53:41 | 文学


若山隆の「出しやうのない手紙」(『コギト』2)は、内気で夢見る乙女時代にラブレターをもらったけれどもあれこれ考えているうちに逢い引きにゆけず、そのまま平凡な結婚をしたらしい人妻が、ラブレターをもらった相手に「出しやうのない手紙」を書いている体の話で、太宰治っていうのは少女の一人称の小説が妙に上手いけれども、若山のような人でもなんとか雰囲気は出せるものだと分かった。よくわからんが、ヤクザと内気な文学少女というのは案外演技が楽なのではないか。

若山の場合は、最後に「それから」の三千代に言及して、彼女とは違うみたいなことを言わしているところが、「友情」的な目的意識導入の夢(違うか)を夢見ているところが古い気もする。太宰だったら、「もうやってしまいました」というところから始めるか、「いじわる」とかを連発して読者を拐かす。もはや不倫自体はどうでもよくなるのである。

硬化した私の感情の泉を爆発さして、いただけないでせうか。


ここがよかったのと、友達が「Rちゃん」なのが案外モダンな気がする(違うか)


タクシー運転手と波止場

2018-12-27 19:49:58 | 映画


『タクシー運転手』は光州事件を描いた非常によくできたエンターテインメントで、前にも韓国の学生運動の映画に対して述べたが――、これは「革命神話」作りなのであり、独立国家のためには非常に重要な要件なのだ。韓国は映画作りに於いて着々とその過程を踏んでいるようにみえる。むろん現実にはいろいろとあったに違いなく、ハリウッド映画のレジスタンスものがそうであるように、欺瞞とは隣り合わせである。しかし、問題は現実に志があった人間がいたかどうかなのである。思想があったかどうかと言い換えても良いが、スターリン批判などをやっているうちに隘路に陥っている人間が多すぎた。思想上の人格を自分の私性とどうしても分離できなかった人々は、親子関係みたいな事柄に問題の根本を移すしかなくなるのである。親子の絆云々の泥沼にわれわれが墜ちたのは、ハリウッド映画の洗脳だけによるのではない。

『タクシー運転手』でも、親子関係は重要であった。光州事件に遭遇しても母親をなくし自分しか頼る者のいない娘のいるソウルに彼は帰らなければならなかったからである。それが最終的に、政治的倫理と不可分に描かれているところが面白い。最後、運転手の主人公が、光州事件の時にともに現場から脱出した乗客(ドイツ人ジャーナリスト)と、彼が後に有名になってもパーソナルな関係を結ばなかったのは、娘を社会から守るだけじゃなく、事件の英雄になりうる自分の当事者性に疑念があったからであろう。彼は光州事件にただ金儲けのために遭遇しただけに過ぎず、同業者の犠牲によって生き延びただけだったからだ。しかし、彼はタクシー運転手として抵抗運動に荷担した。その自負が、かれを現在に至るまでタクシー運転手を続けさせている。運転手は、客のプライベートと関係を持ったりはしない。が、それこそが彼が英雄であることの証明なのである。――名乗らないけれども、このような庶民の中に軍事政権を追い詰めた当事者たちがいることを示すのが、この映画のイデオロギーだとしても、神話は上のような整合性のもとにしか成立していない。

思うに、われわれは、『古事記』の時代から、神話はなにかおおざっぱでいいと思っている節がある。これではいけないのではないかとおもう。(なぜわたくしがいつのまにか国民国家論者にっ。)明治維新の物語が沢山作られているが、どうも物語に浅ましさがつきまとう。たぶん、現実が浅ましかったからだろう。

園聆治の「波止場の愛情」(『コギト』昭7)を昨日読んだのだが、――『タクシー運転手』が、光州とソウルを往復する移動の物語であるのはいいとして、それがひたすら陸地であるのは案外面白かった。やはり韓国は国境線が陸地にある大陸の国家なのである。ある意味、事態を変えなければ逃げ場がないのだ。「波止場の愛情」の主人公は画家志望で中途半端に結婚してしまい、倦怠感に悩まされている。で、友だちと一緒に船に乗って気分転換。トランプをやっているうちに妻が気分が悪くなって優しくしているうちに「これでよし」とか思う。それだけの話であるが、それが船の上であることがなんとなく私には不安であった。そういえば「舞姫」も「第七夜」も船の上であった。陸に上がると不安もなくなるがわれわれは同時にだめにもなる。鯨の食文化なんてどうせないようなもんだが、鯨と仲良くしたいというところだろう。戦艦大和もでかい鯨みたいなものだった。潜ったし。

果てしなくわれは憂し。憂きわれは。憂鬱なる俺。

2018-12-25 23:03:45 | 文学


肥下恆夫の「速度と筆」はこれまた自動筆記みたいな作品だが、坂口安吾の「文字と速力と文学」を思い出させた。が、安吾にある、想念の速力と文字との関係にについてのあれこれな試行錯誤が肥下には感じられない。梶井基次郎の「檸檬」をせかせかしたポップな前衛映画にしたらこんな感じになるのかもしれない。映像を意識した表現は余白がなくなって締まるが、表現され得ることがすべてて、それがなくなったら無みたいな発想になりがちなのではないだろうか。

「大いなる流れ」という表現があって、この流れに躊躇している俺という人物がいることになっているが、その設定自体がフィクションである。しかし、そういうことを書いている肥下は現実だ。その現実については示唆らしいものがばらばらと書かれているが、とにかく、いやなことを肥下が押しつけられつつあったことは分かる。ただ、肥下にとって「停止」というものは恐ろしいことで、とくに文字の停止は観念の停止を意味するがごとく感じられていたらしい。最後は、アイロニカルに「停止」と終わっているが、本当の気分はアイロニカルではない。

安吾は、想念を書き留められたらそちらの方が健全だと一時は考えたのかもしれないが、――われわれのなかには、文字につられて想念が速力を増してしまい止まらなくなってしまうタイプもいる。

方法二つ。できる。こしらへる。できなければこしらへろ。できなければこしらへられない。だが俺にはペンが必要だ。詩人に必要なペン詩人はペンを携帯す。果てしなくわれは憂し。憂きわれは。憂鬱なる俺。憂鬱なる俺は柘榴に皮ごとかぶりつき倦怠を味わってゐる。さうだ、俺は火の匂いをかぎながら暮らしていた。


書き写していたら、なんとなく名文に思えてきたが、――もう少し酒とイケナイ薬を入れれば、太宰みたいなせりふが後一歩ででてきそうな感じが……。

ピアノ浪曼派

2018-12-24 23:10:24 | 文学


薄井敏夫は『コギト』が始まったとき、「明暗」「ピアノの記」といった作品を続けて書いている。「明暗」では、ピアノの好きな兄妹の家の没落が、「ピアノの記」は、前者を思わせる家にピアノを習いに来ていた女子たちに憧れた青年(今はピアノ教師)が描かれている。「明暗」では、当時映画館にかかっていた「間諜X72」でマレーネ・ディートリヒが弾くピアノが話題になっていた。小説では書かれていないが、それは「ドナウ河のさざ波」で、荒々しいタッチでなかなかの演奏であった。語り手の女の子はこの演奏にケチをつけていて、兄がそれをたしなめていた。「ピアノの記」では、女々しい主人公を慰める女子がいる一方、主人公を馬鹿にする女子やピアノの音を騒音としてしか認識しない住人の存在が仄めかされていて、この著者の狙いが、没落階級の、というより、ある種のジェンダー論に近い感じの、弱さの擁護にあったことは確かのように見える。保田與重郎にもそんな要素があるが、かれはそれを難解さに隠すので……

考えてみると、ジイドの「狭き門」みたいな話にしてもいいのに、そうしないのが『コギト』同人たちのような気がする。保田與重郎ではないが、なによりも対象に「惚れる」ことを重視していたのかもしれないが……。薄井氏がピアノに対する浪漫を捨てていないのであろう。とはいえ、文化は、やはりその目新しさに幻惑されているうちは、自分の問題にならないのではなかろうか。自分の問題にするということはどういうことかと言えば、ほとんど変化も進歩もしないような状態に耐えられるということである。そこを避けて通ると、ロマン派は必ず何かおかしなことをやらかすというのが私の実感である。


いんてれくちゅえれ・かたすとろおふあ

2018-12-23 19:47:07 | 文学


保田與重郎の「いんてれくちゅえれ・かたすとろおふあ」は、かなり体調が良くないと読み続けられないような作品である。菊池寛の「海の中にて」の最後の場面をものすごく引き延ばした感じの作品であり、太宰治の「道化の華」から道化の要素を抜いて、しかも心中の意識過程だけを自動筆記したような感じの……。

ひらがなが多いくせに、突然「欣求變性」とかいう言葉は漢字で書かれているのでよくわからん……。この小説については論文で問題にするとして、若いのにこういうのが書ける保田というのはやはりちょっとただ者ではない。まわりの『コギト』同人とは、語彙の種類がちょっと違う。

超ポリコレ映画――ジュラシック・エクスペディション

2018-12-22 23:44:33 | 映画


「ジュラシック・エクスペディション」を観たのだが、これがなかなかの傑作であった。一般常識からいうと、とんでもないB級映画であることは明らかで、ネットでは「映画学校の学生でももっとうまくやるのでは」とか書かれていたが、確かにそうかもしれない。

しかし、わたくしは、とりあえず作品をとんでもなく褒めてみるというところから始める男である。

この映画は、これからのトレンドである「脱欲望」の映画である。

冒頭部分、「スタ-ウォーズ」よりも矮小で「レッド・ドワーフ」のそれよりも軽そうな宇宙船が宇宙を飛んで行くシーンから始まるのであるが、とにかくシーンの作り方に快感がない。そして、なんの変哲もない「題字」。

で、宇宙船の中では何が行われているかというと、中途半端なひげ面男と微妙な美人のベッドシーン。これが、二村ヒトシ(『欲望会議』)のいうところの、今はやりの実用的ザッピング●ッ★◎シーンかと思ったが、ザッピングにもなっていないのだ、途中で柔道シーンに見えてくるのだから。で、事を済ませた後よく見たら、女性が予想を超えて美人ではない。

なぜか、ある惑星に調査のために送り込まれるそのひげ男。着いてみると、どうみても地球である(たぶん、地球で撮影されたなっ)。しかも、砂漠地帯の割には、向こう側のアルプス山脈みたいな山々が妙に綺麗。これは案外、傑作なのでは思い、筋がクソでも買う価値があるのではと錯覚しそうになった。なにしろ、スターウォーズにしろ、スタートレックやゴジラにしろ、美しい風景はあるが、案外美しい山脈が描かれないのだ。ニッチなところついたすばらしい映画だ。――それはともかく、突然巨大な恐竜の石化した物体を発見。で、地震とかがある。巨大ミミズが地面から出てきた(が、以降消息不明)。で、気がつくと、砂漠で擬態化している恐竜が突然襲ってくるのである。その恐竜と言えば、ジュラシックパークででてきた小さな肉食恐竜に襟巻きをつけて、頭部をエイリアン風にした妙な人たち。しかのみならず、この惑星の水を飲むと人間は発狂してしまうのだ。で、……

草薙大佐にちょっとポテチを多く食わせたかんじの微妙な美人のアンドロイドとひげ男が頑張って惑星調査を完遂しようとするが、案外あっさりとアンドロイドを助けてひげ男の方が殺されてしまい、ラスト一分で急に主役交代。アンドロイドと恐竜の対決だ!







対決せず終わり。







なんか微妙な大音量のロックロールが鳴り響く中エンドロール。

つまり、この映画は、すべての要素が回収されずに、まさにポストモダン的に「脱臼」や「宙づり」で出来ているようにみえる。しかし、テーマは明らかで、優秀なアンドロイド(AI)がトラウマをかかえるひげ男を癒やして人間化させる愛を描いたものである。つまり、AI讃歌、癒やせよ乙女的「絆」みたいな愛の讃美、これからの介護や治療の可能性を称揚した作品なのだ。人間同士の性行為はもう時代遅れた。ジェラシックパークの殺戮で興奮するのは変態だ。美少女をだして戦わせるのもけしからん。宇宙船がかっこいいとか、男根主義のマッチョイズムだ。美男美女とかが時代遅れだ。この映画に、セクサロイドとかを期待したそこのあなた、速やかに呪われよ。

――まさにそれは超ポリコレ映画であった。「超」ポリコレではなく。