★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

うさちゃんの句

2010-07-31 23:01:28 | 文学
居つゞけに禿は雪の兎かな (子規)

置火燵雪の兎は解にけり (子規)

小兎も片耳垂るる大暑かな  (芥川龍之介)

初雪に兎の皮の髭作れ (芭蕉)


芥川だけ大暑!

わんちゃんの句

2010-07-30 23:50:59 | 文学
霜枯や狂女に吠ゆる村の犬 (子規)

老いぼれしくひつき犬をしぐれけり (子規)

壮行や深雪に犬のみ腰をおとし (草田男)

最後の句は所謂「草田男の犬」論争で有名なものだ。これを戦争賛美と見なすか戦争批判と見なすかという論争である。犬にとっては迷惑な話だ……

よい子なのでくり~んきゃんぱすで働いた。

2010-07-28 17:19:03 | 大学
今日はくり~んきゃんぱすといって、学内を掃除する行事でした。教員も参加するのだ。私もよい子なので参加した。国語の学生もよい子で働き者なので当然参加した。私も国語の学生も浮世離れはしかかっているが、いつも観念的に実践的な連中に限って非実践的なのは昔からの人間的常識なのだ、このぐらいは分かっている。彼らは実践的にうまくいかないのが自分のせいにできないほど精神が脆弱なので、他人の非実践ぶりを批判することで興奮し自分を支えるのである。かくいう私が衣食住に対して実践的だとは限らないところが悲しいところであるが、――ただし、掃除とか、妹の散らかしたおもちゃとかを代わりに片づけるとか、そういうことは私は嫌いではない。カリスマに生活能力がないとか、いつの時代のロマン派であろうか……そんなものはもう前世紀の前半で崩壊したはずではなかったか。しかし残念ながら私はカリスマですらない。

新・みこしまくり伝説(現代編)

2010-07-27 16:28:50 | 神社仏閣
言い忘れたが、まくられるみこしは、天狗(猿田彦らしい……)に先導された長い行列の一角を占めるに過ぎない。行列の真ん中当たりであろうか。みこしは原則、前にいるだんじりや猿田彦を追い抜いてはいけないそうである。

天狗が煽動(←間違えた)しているというのも、面白いけど、「だんじり」が気になる。



これをみるとよくわからないが、「だんじり」には菊の御紋がついている。過去の記憶を探ってみると――あ、そういえばついてたわ。そもそもはじめ「だんじり」は京都でつくられ、囃子も祇園の人に教えてもらったそうである。はじめは資金を出した上町の独身男性しか「だんじり」に乗せてもらえなかったらしい。上町にいた芸者さんが長唄をうたっていた時代もあったそうだ。(例の絵馬をみると、男女が能か何かを演じているように見えるんだが……。そもそも祇園祭のまねだったんじゃないかな、結局……)

結局大人が乗っていても人気が出ないので、昭和50年代から小学生を訓練して乗せることにしたらしい。で、この祭囃子隊の一員だったのが、私の妹である。妹は、結局、京都に嫁に行き、日舞の師匠をやっている。今日もつくばで踊っていたらしい。理系の大学院にまで行ったのに、遊び人の血には勝てなかった。昔からやってることはかわらんなあ、というより「だんじり」の故郷に行った訳だ……。

妹は私よりピアノも上手く芸事の才能がそもそもあった。父親も謡をやっていたので、そんなことが間接的に影響しているかもしれぬ。が、私と言えば、天狗は怖いし、御神輿も荒くれ男が担いでいるので、夜あがる花火の方が好きであった……。

というのは嘘で、小学校低学年のころは、水無神社の祭りとは別の、自分の地区の祭(八沢祭り)で、子どもが担げるちゃらちゃらした「子どもみこし」を嬉々として担いでいたそうだ。……と、他人事のように言ってるが、実はかなりはっきり覚えている。「わっしょい、わっしょい」のかけ声だけ人一倍でかい声で叫んでいた癖に、私は背が低すぎて地面に足が着いていなかった。つまりみこしにぶら下がっていたのである、目当ては、休憩中に配られるアイスクリームであった。

今日も論文を書き書き、小難しいことをこねている私であるが、昔はただのお祭り好きのガキであった。

新・みこしまくり伝説

2010-07-27 14:27:15 | 神社仏閣
父から、中日新聞(たぶん)の記事の切り抜きが送られてきた。
例の水無神社祭の記事である。

「みこしまくり」の由来は、記事によって微妙に違っている。活字文化であろうと口承文芸であろうと、フィクションが変形していってしまうことにかわりはない。そもそも、みこしが今のような形になったのが比較的新しいかもしれないというのは、水無神社に飾ってある天保年間の絵をみて子どものころから気になっていた。それは細い担ぎ棒に塗りや飾りの付いたちゃらちゃらした感じなのだ。いかにも軽そうに担いでるし……。これである↓



ちょいと気になって、以前古本で買っておいた『木曽福島町史』を繙いてみた。江戸時代にはどうやら「まく」っておらず、「押し事」という行為だったらしい。それをやっておったところ、ある時誤ってみこしを取り落としてしまった、それをみた山村代官はお笑いになり上機嫌であった。で、ついに毎年無理矢理落としてご機嫌をとるようになった、という説まである。ただし、根拠は案の定「古老の言を聞くに」、であり、この古老が私の如く嘘つきである可能性は捨てきれぬ。

そもそも宗助幸助が、飛騨の水無神社から何故、如何にしてみこしを持ってきたのかにも、いろいろ伝説がある。追っ手ともみ合いになったので、急遽転がしたのではなく、もみ合った結果、みこしが壊れたのだという説。追っ手も何も来なかったがあまりに重いので転がしてしまった説。

町史をみる限り、ほとんど何も分かっておらぬのだ……。

で、私なりに、みこしまくりの由来を妄想してみた。当然ながら、何の根拠もない。

1、木曽にすむ宗助(組)と幸助(組)という、荒くれ樵+職人集団は、遠い先祖こそ京都に出張していた自称エリートであったが、戦国時代、殿上人たちが貧乏になって建築に金をかけなくなったので(と、彼らは言い訳していたが……)、すごく暇だった。で、みこしをつくってどちらがはやく担いで山を登れるか競争して遊んでいた。しかし、当然、みこしどうしをぶつけ合って喧嘩になるだけであった。

2、困った両集団は、水無神社の宮司に審判を頼んだ。しかし、荒くれ者たちは競争の途中で刃物を持ち出すなど、クズどもばかり。困った宮司は、宗助幸助の先祖たちが飛騨からみこしを担いできた英雄譚をでっちあげ、「おぬしら仲良くせい」と説教。荒くれ者たちはロマン派で純朴だったので、それを聞いて何故か仲直り。「かにかくに物は思わず飛騨びとの打つ墨縄のただ一道に」(万葉集)という精神が、彼らにはあった。

3、急に仲良くなった両集団を見ても、村人たちは「まあ、あいつら元々百済か高句麗からきたよそもんだし……」と陰口をたたいていたが、彼らがときどき稲や芋を盗むのでついに怒り爆発、鍬で撲殺してしまった。

4、さすがに村人たちも気分は良くなかったので、彼らがやっていたみこし競争を真似て霊を弔うことにした。

5、江戸時代、山村代官が趣味にお金を使いすぎ、みこしをつくるお金がなくなったので、一つだけつくることにし、みんなでみこしを中心に押しくらまんじゅう(押し事)するだけにした。

6、あるとき山村代官が、あやまって道ばたに転がったみこしを見て笑ってしまい(以下略)

7、明治維新になり、明治天皇が「神」となったので、水無神社も「ついに我々の時代がきた」ということで、宗助幸助の伝説の整備に取りかかる。みこしも江戸期のようなちゃらちゃらした感じではなく、いかにもご神木の雰囲気を漂わせたデザインに変えた。

8、戦前の地方文化運動に乗って、みこしまくり伝説が流布されてゆく。

風景は待っていてもあらわれない

2010-07-26 16:02:28 | 文学
父から送られてきた、祭の写真である。水無神社からみこしが出発するところである。

我々世代以下が肝に銘じておかなくてはならないのは、こういう写真だって手間暇がかかっているということだ。というのは、写真に写っている人々がまずはそこに居ることが必要だったということである。そこにはいろいろな人々の行動の積み重なりがある。伝統が生きているというのは非常に大変なことなのである。

国木田独歩が「武蔵野」を描いているうちに、次第に人々の生活に引き寄せられていってしまったのは、風景の中に人がいたからではなく、風景そのものが人々によって造形されていたことに気が付いたからではなかろうか。自然主義や私小説の伝統がなかなか強固なのは、一方でこういう風景を因襲とみなして日本的現実を勝手に超えようとする輩に対して、――潜在的に長い間、不満が蓄積していたからではないかと、私はときどき思う。近代文学の保守的な側面を無視してはならない。

森毅氏のご冥福をお祈りいたしますです

2010-07-25 23:38:15 | 文学
普段は見慣れないニュースを見ていたら、「森毅氏死去」とでた。

特別、森氏に思い入れがあるわけではないが、大学の時に『ゆきあたりばったり文学談義』を読んで、数学者が自分より小説を読んでいることに非常にショックを受けたことを覚えている。ちょっとわけあって、数日前にもめくってみたのだが、エレンスト・トラーやオスカー・ベッカーを話題に出している。大正末期から戦中の文学の研究をしている私は、こういう名前に出会うと、旧友に会ったような心持ちになる。だいたい、私は、戦後の『1946・文学的考察』にすら「まったく今時の若い連中は……」という印象を持つからなあ、大江とか村上とか若すぎてほとんど異星人である。

森氏は料理中に大やけどして入院していたそうだが、心情的には焼身自殺だったかもしれないよ……、あまりに時代が旧制高校のそれとはかけ離れてしまったので。飄々と軽妙なことを書く人にこそ内面を見出したいのが、私のような昔ながらの文学青年の癖である。でも、真面目な話、太宰治の「道化の華」が好きだと書いている森氏の内面を侮ってはならぬ、のではなかろうか。

「天漢日乗」(http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/)さんによると、

「森毅先生の答案は
 適当な時期までに研究室へ提出
 であり、
 締切はぼくが適当に決める」

だったらしい。

これは使える!後期の授業のシラバスにそう書いてみようか……。

みこしまくりと人間まくり

2010-07-24 16:49:02 | 神社仏閣
私が長野の木曽福島の生まれであることは前に書いたが、毎年7月22、23日は水無神社のお祭りである。白木で毎年約100貫の御輿をつくって町を練り歩くのだが、なぜ毎年つくっておるかと言えば、とりあえず町を一周して盛り上がってきたところで、はじめは横に、最後は縦に転がしてぶち壊してしまうからである。

平安時代に、木曽の宗助と幸助という匠が飛騨の水無神社に出張していたところ、そこで一揆があった。こりゃ御神体があぶないという言い訳をつくって木曽に運び出そうとしたところ、国境の峠で村人に追いつかれてしまい、もみあった末、「まあいいか、まくって(転がして)いきゃ」ということで、木曽の谷底まで、御輿ごと転がして追っ手から逃れた、らしい……のである。

というわけで、「ソースケ!コースケ!」と町中の人が囃し立てる中、100貫の御輿を(←宗助と幸助は人間じゃないな、こんな重いもの担ぐのも転がすのも二人じゃ無理だぞ)夜が更けるまで、まくるのだ。「みこしまくり」といいます。

こんな感じ

http://www.youtube.com/watch?v=-wb62xtCUFM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5u0elapqwIU
http://www.youtube.com/watch?v=D3bcxnyrrJ8

中に入っている?御神体がどういう気持ちなのかは暫し置いておくと、とりあえず、飛び散る木片に御利益があるらしく、100貫の物体が転がされていく非常に危険な状況にも関わらず、町中の人が木片をせしめようと群がるのである。町の人の家の神棚に凶悪な形の木片が置いてあるのがそれである。間違えて仏壇に入れておく人もいるらしい。最近は、外国人とかも「トレビアン」とか「オーマイゴット」(←神様違い)とかいいながら、町民でもないのにどさくさに紛れてくすめようとするらしい。

最後、担ぎ棒だけになった御輿を歌を歌いながら神社に返す。このときの歌がなかなか悲しげでいい感じでなのであるが、いわば、夫婦喧嘩でものを壊したあとの感傷というやつであるな(←違います)

坂口安吾が書いた飛騨高山の歴史もので、天皇家ともつながる渡来人の匠たちが空想されていた。「夜長姫と耳男」の匠・耳男もちょっと日本人離れした容貌をしているという設定である。これまた人間離れした美しさと残酷さをもつ夜長姫に対抗して、耳男は耳を切り落とされたあとも、殺した蛇を部屋中に吊しながら憑かれた如く作品製作に没頭する。宗助幸助もそんな輩かもしれぬ。飛騨や木曽には、いろいろ政治的な事情のあった先祖をもつ方々がいたのかもしれない。木曽といえば伊勢神宮のご神木が育つところで知られていようが、漆器産業の地でもあって、実は私の三代前もその産業に従事していた。職人一家が離散し、別の職人一家に養子に入ったのが私の祖父であった。美男子で非常にもてたらしいが、背が低すぎて戦争には行かず、ずっと国鉄で働いた。父は国鉄を蹴って大学に行って小学校の教員となった。私は木曽を出て教員採用試験は受けずに放蕩のあげく×川にたどりついた。このように辿ってみると、宗助や幸助にまくられたのは御輿であろうが、人間自身も御輿のようにまくられ、転がされていく運命なのであった。確かに諸行無常であるな(←最後は仏教(笑)

ドリトル先生とわたくし

2010-07-23 17:30:12 | 文学
昨日ふれたズウデルマンの「猫橋」についてであるが、井伏鱒二が「父の罪」という題にして訳していたことを知らなかった。彼が訳した「ドリトル先生」も一回読み直してみたいものである。

昔、絵本か何かで読んだのだが、動物ばっかり診察するドリトル先生を見捨てた妹のサラを私は激しく憎んでいたのである。これ以来、私は妹より動物を信用することにした。

あと、先生の代わりに複式簿記をこなすフクロウにはなぜか腹が立ったように記憶している。だいたい学者が経済観念に疎いというのは偏見である。ドリトルは有閑階級だったからな……私なんか、この暑い中(に限らず、もう20年近く)家計簿をつけ続けておるぞ。ちょっとおかしいんじゃないかな……私は、偏執狂かもしれない。そのくせ、日常的に「成金ははやく×ね」とか言っているのだから厭なやつだ。最近、原付で道路を走っていると、動物たちが逃げてゆくのは、私がドリトルみたいに金にはうるさくない人間でないからに他なるまい。この前私の顔面に衝突したコガネ虫は、やはり名の通り、私に同じにおいをかぎつけたのであろう。

結論:私もドリトル先生みたいに、動物たちと少女の読者にもてたいです。今日も暑いのですが、私のやる気をそんなに殺ぎたいのですかああそうですか。

エゴイスティックな童話たち+毎週かあさん+カツエンステツヒ=日本は亜熱帯ですか。そうですか。

2010-07-22 23:42:21 | 文学
今日はロマン派についての授業の最終回。童話への志向性について話す。「ごんぎつね」とか「マッチ売りの少女」(しかし野坂昭如のものも含む)、「銀河鉄道の夜」などを、保田與重郎とか坂口安吾を参照しつつ、作者のエゴがどう働いているかを語る。で、いつものことだが、調子にのって西原理恵子の「毎週かあさん」(小学館)を語る。蛇足であった。

学生の諸君、教員採用試験がオワタ\(^o^)/からといって、「毎週かあさん」にウケ過ぎ……学校の先生になるのだから、いっしょに紹介した「毎日かあさん」の方に感動しといてくれよ。嘘でもいいから

研究室に帰るとTさんがやってきて「カツエンステツヒ」が分かりません、と言う。ちょっと調べてみてズーデルマンの「猫橋」だと分かったが、すぐ思い浮かばなかった私に絶望した!このくらいはすぐ出てこなくてはならぬと思う。

結論:この暑さは何事ですか。私に勉強させないつもりですか。そうですか。

暑いときには戦後派文学、夜になったので月と街灯を無意味に撮ってみた

2010-07-21 20:25:23 | 大学
1時間目の授業に行こうとしたら、研究棟の入り口の温度表示が30℃。やる気をなくさせようというのですか。そうですか。1時間目からクーラー全力運転、授業の内容は「戦後派文学とか社会化された私とか」(←重っ

30分たったところで、清涼剤として映画「炎上」と「砂の女」を投入(←逆効果

私の話は一端終わり、発表者が「第2次戦後派」について報告する。報告されたのは「ひかりごけ」と「箱男」(←重いし狭いし


箱男は夜ふけの客人と暮らせるか

2010-07-21 01:58:11 | 文学
井伏鱒二の「夜ふけの客人」を読む。「私」という男が引っ越した。隣の部屋にはロシアの美人、しかし、そのパトロン?か何かが間違えて「私」の部屋で寝ている。いろいろあって、結局、何もできず……次の日の朝悪口?まで言われたので「あんまり、あまくみるな!」と「あからさまに声を出してつぶや」くのだが、それまで。

安部公房の「闖入者」を読むと、漱石のいわゆる「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。」を思い出すが、井伏の方は、まあ共同生活もありかなあ~、という気分になってくるから不思議である。

「原っぱの中の長屋」という設定もおもしろい。まるでロシアの原野の共産主義、いやソ連の集合住宅のことではないか……

小津安二郎の「お早う」をついでに思い出した。土手の下の住宅、これに郷愁を覚える人は多いのであろう。映画「煙突の見える場所」にも、高峰秀子たちが他人と共同生活を送りながら、土手の上の道路をお化け煙突を横目に見ながらてくてく歩いていた。仕事に行く風景がそこにあった。夕方になると土手から降りて共同生活に帰ってゆく。

繰り返すが、最近は、こういう風景に郷愁を覚える人が多いんだろうが、一方、「闖入者」や「箱男」に行き着くどす黒い情念を忘れてはならない。