★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

綱敷天神社御旅所を訪ねる(大坂の神社1)

2024-03-31 23:46:18 | 神社仏閣


昭和五十九年に再建された。

道真どのは、九〇一年一月、大宰府に左遷させられる。途中大坂に流れると紅梅が燃えるように咲いていた。この梅を眺めるため、漁師たちは艫綱をたぐり座席をつくりそれが「綱敷」という地名となった。道真は大宰府の地で死んだが、大坂に残っていた一族は道真が好きだった紅梅の元に祠を作る。「梅塚」である。これが梅塚天満宮となり、この御旅社となった。





ゴジラは何から何を守るのか?





道具的カラヤン

2024-03-28 15:01:12 | 文学


古往今来詩家の恋愛に失する者、挙げて数ふ可からず、遂に女性をして嫁して詩家の妻となるを戒しむるに至らしめたり、詩家豈無情の動物ならむ、否、其濃情なる事、常人に幾倍する事著るし、然るに綢繆終りを全うする者尠きは何故ぞ。


北村透谷みたいに、こういうことを考えていると、いずれにしても元気になるとは限らない。恋愛はプロセスで、情が濃かろうと何だろうと関係がないからだ。

かくて、我々はプロセスなしで効果がある道具に接近してゆく。ドイツグラモフォンの録音は、ドイツの石造りの家で流したらよいみたいなことを聞いたことある。カラヤンのレコードなんかはもう演奏会のものとは別物の「(癒やし)家具としての音楽」なのかもしれない。憂鬱のときに聞くと金管と打楽器の元気良さで少しこちらも回復する。。フルトヴェングラーもあまりに暴れるのでそういう時もあるが、よりその暴れぶりを認識するために、生活を削り何時間も付き合わなければならない。生活を芸術に奪われる。これは、生活を政治に奪われていた時代の影響であろうか。

五音紛兮繁會

2024-03-26 19:01:07 | 文学


疏緩節兮安歌 陳竽瑟兮浩倡
靈偃蹇兮姣服 芳菲菲兮滿堂
五音紛兮繁會 君欣欣兮樂康


たしかにこういう音楽に乗って霊達がやってくるというのと、春が来るというのは同じようなことで、ここに主観とか思い込みとかイメージとか形容しはじめても、確かに知識人達はなにも苦労はしないだろうが、そうでもないひとも多い。西洋ではどうかはしらないが、我々は知を階級のために使っていることもある。




冬から子ども

2024-03-25 23:01:38 | 文学


上天同雲 雨雪雰雰
益之以霢霂 既優既渥
既霑既足 生我百穀


冬の雲から降る雪が素直でよい子という感じがする。つまり、雪の時点で穀物が生えてくる気がする。雪すらも子どものようだ。

子どもみたいな知というのもあり、古びた戦後に堪えられないせいでもあろう。ネット上における言語の氾濫は世界を変えたししかも余り良くねえなという意見もあるだろうが、――そもそもその前にやくざな本が多すぎる状況があったことを忘れてもらっては困る。

最近、中年以降の人文学という研究テーマが必要かもしれないと思い始めた。ついこのあいだ、老いを相対的に低く概念的に扱った文章を書いてしまったので。。脱稿した瞬間から後悔があったのである。中学の時に柴田翔の小説かなんかで、若くして老いちゃったどうしようみたいな記述があるのを読んで、この人はまだ本気で言ってねえなと直感したものであるが、個人の老いよりも深刻な老いというものがあるわけだ、それは分かる。八〇年代の危機は、そういう老いから始まっている。学生運動家たちが絶望して一気に老いたのも確かだろうが、それいじょうに、老いを感じていた人がたくさんいたことをラデイカリズムは自覚していたのであろうか。

ご卒業おめでとうございます。

2024-03-24 23:50:33 | 文学


立川文庫は我が家において家禁の書であった。家禁の書であるからこそ、それをかくれ読むおもしろさは倍増する。

――梅崎春生「本に関する雑談」


立川文庫の影響を考えるときに、こういう証言はあまり軽視されるべきではなく、家禁だから本当に読めなかった子どももいるということだと思う。私もあるひとから、戦後の講談社の子ども用の講談本を、目の前にありながら禁止されていたと聞いたことがある。とすると誰が読むことになるのかわからんが。。。大人が読んでいたのではないだろうか。

ポリーニの音楽には、たとえば、そう、高橋悠治にも山下洋輔にも決して近づくことができない硬質の美がある。いまそれに耳を傾けねばならない。この八枚のレコードを叩き割る日を夢見ながら、そそり立つ美の絶壁に圧倒され続けねばならない。

――浅田彰「ヘルメスの音楽」


浅田彰は育ちがいいのか、上のように、ポリーニについて「レコードを叩き割る日を夢見ながら、そそり立つ美の絶壁に圧倒され続けねばならない」とかいうんだけど、わたくしも幼児の頃、クリュイタンスとかミンシュのレコードを転がし木造長屋の壁に当てて遊んでいたのであってみれば、レコードを大事しろよとしかいいようがない。たたき割ったレコードを誰が買い直すのであるか。浅田氏は、「逃走論」の自らの主張とも共振し、どことなく想像上の行為主体として子どものようになっているのかもしれない。レコードをたたき割ってしまう子どもを育てる親の身にもなって頂きたい。

教育者は、大人なのか子どもなのか、どこから沸いて出たのかわからない言葉になにかコメントをし続けなければならない。つらい職業だ。

相克論

2024-03-23 23:39:04 | 文学


天命玄鳥 降而生商 宅殷土芒芒 古帝命武湯 正域彼四方 方命厥后 奄有九有 商之先后 受命不殆 在武丁孫子


史記には、玄鳥がとんできたのを飲んだ女人が妊娠して殷の始祖・契を生んだとかいてあったと思う。手塚治虫のことだ、「史記」ぐらいは読んでいただろうから、火の鳥の構想にもこんなエピソードが役になっているのかも知れない。我々はときどき、肉体に対する不信感が募ることがあるものである。テロリズムとか切腹の発生には、そういうところがあると思う。しかし、我々は精神も肉体にもどことなく押さえられてしまっているから逃げ場がない。少しむかしなら、女人の懐妊はコウノトリのせいだったはずであって、こういうのはおおらかさではなく、我々の精神が空にまで及ぶ勢いであるかによるのである。いまはそういうものが消失し、紋切り型で世の中をなんとかくぐり抜けるしかなくなっている。

紋切り型、むしろあるいみ言葉を失って肉体そのものと化したかにみえるのはアスリートである。一昔前の野球選手は、精神と肉体が奔放すぎるひとが多かったわけであるが、それが相克でもあるのは当然である。だから、彼らは、精神が壊れるか肉体が壊れるか、全部壊すかみたいな人も多かった。女房早くもらえ、管理されろ、と清原に落合が説教してたのは、そういう危機が必ず彼らにはあるからであった。しかし、それはそれで相手を間違えると大変そうなのだ。だとしたら、肉体を機械と化して精神をなくしてしまう手がある。それが昨今のアスリート化(落合あたりから始まっていたそれ)である。これは大谷だけではなく、我々もそうだからわかるのである。

ネット上に、「すべての面で完全無欠の大谷選手に何か弱点はないのだろうか。実は毎日ブルックナーを聴いているとか。」(https://twitter.com/amadeus_mozart/status/1770058556655681862)なんて発言が出るのもその証拠である。

そういえば、御嶽海にないのは、負けたときの高景勝のお餅のような可愛さであるが、御嶽海もどことなく肉体を失っているかんじがする。肉体が消え、「あ負けた」という自覚が先んじているかんじである。

で、先日から話題の、大谷さんと水原さんに関わる賭博問題である。賭博とは、精神的なものだと思う。肉体がなくなっているから、普通の危機感が消失しているのである。スポーツの世界は、こういうめんどくさい問題とむかしから関わっている。大谷さんと水原さんをもう教科書に載っけちまった後だぞどうすんだみたいなことがいわれてるんで、新聞に載ってた英文の教材見たけど、ようするに、教科書とか学校でこの二人を修身的なパートナーシップみたいなものの成功譚としか見ていなかった脆弱さのせいだわな。道徳というのは、最低限、今回の顛末をみてから考えるものじゃないきゃいけねえ。スポーツの世界はむかしから金やら犯罪がらみのいろんな事があった、社会的にもヤクザな分野で、そういうことを避けて通っているのがまずいわな。そして子どもにだってホントは分かる、肉体と精神の問題を避けて通っている。

教育の分野では最近、偉人伝の教育性が見直されていて、なんかもやもやしていたのだ。王選手の伝記は、ひたすら努力しましたという線で一貫して記述できそうだからやりやすかったんだろうが、他にも野村とか落合とか金田とか張本とかすごいのがいるわけだろう。しかし、彼らの人生は彼ら自身の努力と根性だけで語れない。長嶋だってそうだ。戦後の世界とスポーツとの関係を考えるには彼らのほうがよいと思うが、この程度の事情の複雑さにも学校教育は堪えられない傾向にある。スポーツみたいな上のような相克に悩む分野を、ヒーローにするからおかしくなるのだ。まだ親とか総理大臣のほうが、(儒教的)精神だけになりましたみたいな理屈で押せるのに。パターナリズムのために、運動会のヒーローの存在を例に出してばかりいるからだめなのである。最近では大学ですらそうなんじゃねえか。

たしかに、偉人伝とかをよむと、例えば、亡くなったポリーニの自伝を読んで社会正義に目覚めたりみたいなことだってありうるのであるが、とりあえず、中学校の頃、ベートベンのなんかのソナタの譜読みしてからポリーニを聞いて恐怖を覚えたわたくしにとっては化け物を偉人にしても仕方がないのだ。言うまでもなく、音楽はスポーツの一種である。

わたしは子どもの頃、野口英世の伝記が好きで、わりと大人用に向けて書かれたやつを小学校の頃読んだけど、とにかく借金踏み倒し、日本の実家が雪でつぶれても、ひたすら睡眠削って仕事をしつづけ、自分より大きい西洋人と結婚して研究対象に感染して死ぬとか、スサノオとかヤマトタケルなみに☆るってんなと思い、とても面白かった訳である。子どもがこんなの読んで、たしかにちょっとやる気にはなるかもしれないが、そのまま目標にしようとするとか、――そこまで馬鹿じゃない。

天帝の足跡踏んだら

2024-03-22 23:20:29 | 文学


厥初生民 時維姜嫄 生民如何 克禋克祀 以弗無子 履帝武敏歆 攸介攸止 載震載夙 載生載育 時維后稷

周の始祖・后稷の母親・姜嫄は、あるとき天帝の足跡を踏んで喜んだら身ごもったという。そういえば、手塚治虫の「火の鳥」黎明編というのは、猿田彦、スサノオ、(ヤマト)タケル、などがでてきて、卑弥呼なんかは、スサノオの姉貴ということになっており、火の鳥みたいな超現実的なものがでてくるわりには、最後に猿田彦の息子ができており、仇同士になりかけた夫婦が火の山で五つ子をウみ、そのなかにタケルがいたなどという、生々しい人間の生殖のドラマになっている。手塚治虫は、神話やブッタ、ナチスの伝説などのあやしいものに驚く程のリアリティを付与して人間の物語をでっち上げる天才であって、古事記や仏典の代わりに聖典にしてもよい勢いである。そこに流れているのは、個々の人間の命など軽すぎてどうでもいいという状況でしか人間の輝き(火の鳥)がでてこない、冷徹な認識である。しかし、それを本当に冷徹といえるかといえばわからない。天帝の足跡を踏んだんだ、で子どもが生まれたんだと考えることの方が普通の生活をして、因果関係に縛られている人間とっては冷徹なのである。為政者達は、こういう認識が大事だということも知っていたと思うのである。

天は譖人もお好き

2024-03-21 23:17:49 | 文学


驕人好好、勞人草草。蒼天蒼天、視彼驕人、矜此勞人。
彼譖人者、誰適與謀。取彼譖人、投畀豺虎。豺虎不食、投畀有北。有北不受、投畀有昊。
楊園之道、猗于畞丘。寺人孟子、作爲此詩。凡百君子、敬而聽之。


讒言を歎いて天を呼び出す気持ちはどこからやってきたのであろう。天は豺虎よりも強力な暴力主体なのである。猛獣が喰わねば北の地に、それにも嫌われれば天の神に投げてしまえ、というのだから、天の神は猛獣や北の地よりも好き嫌いがない。それは死に近い。

風つよし

2024-03-20 23:56:49 | 日記


營營青蠅 止于樊
豈弟君子 無信讒言


昔から讒言というのは広く行われていた。讒人にならないためにいろいろなやり方があるであろう。一つには、ほとんど間違っていることをとくに文脈を形成せずに言うやり方がある。ブーレーズはニューヨークフィルの頃が一番いいね、ドライアイスの破片が飛んでくるような演奏だ。薬師丸ひろ子の「花のささやき」、だれだこの現代離れしたすごいメロディ書いた人、天才すごい、と思ったら、モーツアルトでした。おれが小学生なら、福井の恐竜は理由があって巨大化しているとか絶対言ってる。フーコーの「知の考古学」むかし読んだはずだが、さっき少し読んでみたら、読んでないんじゃないか。と思ったら訳者が違ったようだ。大河ドラマの天皇の呪いだの接吻がいいだのわるいだのと言っている方々は、とりあえず、島崎藤村の「旧主人」あたりを読んで近代に帰還せよ。御嶽海にないのは、負けたときの高景勝のお餅のような可愛さ。





大きい人、小さい人

2024-03-19 23:07:48 | 文学


肅肅鴇行 集于苞桑 王事靡盬 不能蓺稻粱 父母何嘗 悠悠蒼天 曷其有常

体がよわく親に心配をかけた人は多い。医学の発達でますますそういう人は多くなっているとおもう。むかしは、心配をかける間もなく死んでしまった場合もおおいだろうからである。我々は親に対しても自分に対しても体を気にしながら人生をおくるようになった。むかし、幼児の頃、「ロボコン」というの番組を見た気がするが、怖くてあんまりまともに見た記憶がない。なぜかというと、体がめくれてなかの機械がみえたことと、何か筒を体にツッコんでいたこと(ガソリン入れてたんですね)、これだけで肝がつぶれる気がしたのである。こんなメンタルでは幼稚園にまともにいけるはずはない。まったくよわっちいにも程がある。

それはわたくしが喘息でからだを過剰に意識して育っていたこととも関係があるかもしれない。安部公房がどこかで言っていたが、病気の時にはなぞの充実感があって、治るとなにか物足りない気分がある、と。これは私もかなり幼い頃に体感していて、こういう体験をしている子どもは、どこか苦と快の関係がおかしくなっているのではあるまいか。

わたくしの経験では、柔道部の送別会より、ゲーム同好会の送別会のほうが、暴飲暴食がすごかった。どちらの顧問もやってみた印象である。ほんと大げさでなく、ゲームの人たち、なんかメニューをクリヤーするみたいな感じで、満腹の上に飲食を続け苦行に堪えるのである。

私は、たぶん義務教育とかがなかったら、絵を描いたり塗師とかめんぱづくりしてた気がするのであるが、いまでも理由もなく彫刻刀を持ちたくなるし、とか言ってたら「持つなよ危ないから」と家人に言われました。

とはいえ、漫画やアニメーションが好きな人はやはり「絵」が好きなんだと思うのである。

そういえば、しばしば言われてきたことだけど、花袋というのは、藤村や独歩より体が大きい。このことは自己像をぞう持っていたかという問題で重要なことのように思える。「蒲団」は結末ばかり想起されて時雄が矮小な感じがするが、芳子の父親とつるんで彼女を田舎に帰らせる態度はでかいし、やつの苦悩はどことなく堂々としているのである。たしか小島信夫が書いていた(『私の作家評伝』)が、花袋の小説はよく泣くと。あれは案外、なんとか男塾の人物が泣いている感じにちかいのではなかろうか。やつの父親もたしか西南戦争にみずから参加して死んでいる人である。「五重塔」のマッチョマンとどこかで通じている。

これに比べると独歩の「画の悲しみ」なんか、自分を少年にまで小さくしてまで悲しみを増幅させているとしか思えない。それが「画」の効果でもある。風景がそもそも画では小さくなっている。

これもさんざ言われてきたことであろうが、いまとは精神的な成長のスピードが違うにしろ、十代の女子を「嫁」にもらった場合にどうみてもかなり教育が必要だったことは明らかで、まあ、お互い様なんだろうが、明治時代の小説によくでてくる若い夫婦の諍いは、描かれている以上に教育されてない二人の状態の現れだった側面はありそうだ。そういえば、これも小島信夫がいっていたわ、花袋が18の嫁と芳子、どちらにも感情教育をしたかったと。

厭世観というのは、大概、嫌な奴がいなくならねえかな、という感情の社交辞令である。こういう社交辞令をしてしまう時点で、自分の小ささに怯えているというものだ。人生碌なものではないと若い頃から呟いているそういうタイプは、例えば、私なんかも「指輪物語」をよまないのに嫌い映画も見ていなかったのは、その吹奏楽のデ・メイの曲があまり好きじゃなかったという理由による。こういうことが多いのである。

そういうわたしの基準はわりとはっきりしていて、ほんとうに困ったときにだけ助けてくれそうな人しか信用できない癖がある。少し困ったときに助けてくれるいつものひとは案外そうでもないと感じられる。かくして、孤立しがちである。