★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

八方荒神社を訪ねる(香川の神社65)

2017-09-29 16:47:41 | 神社仏閣
成合神社の南西側の田園地帯にあります。

あぜ道から参道に続いていきます。




狛犬はおらず。



  
いや、拝殿にいたか……


本殿

神社誌によると、祭神は「澳津姫、奥津彦」。竈三柱神の二人ですね。かまどの神様です。荒神信仰って不思議だなあ……




鎮守の森の木がかなり整理されておりました。何本かの木が切られる前は、小さい森の塊に見えたはず。でも、これで明るくなったかも……

ショスタコヴィッチと闘う日本の……

2017-09-29 03:57:07 | 音楽


古本屋で『音楽藝術』の1954年5月号(ショスタコヴィッチ特集)を見付けたので手に入れた。
1954年とはどういう状況かというと、目次の裏の「音楽会一覧」を見ると、N響定期(カラヤン指揮)、ハイフェッツV独奏会、バックハウスP独奏会、安川加寿子P独奏会、近衛定期、とか、すごいぞ、なんだか全部行きたいぞ。最後の「楽壇抄」をみると、ミトロポウロスの再契約、コプランドの新作オペラ初演、フルトヴェングラーとベルリン交響楽団の訪米、ハワイでベート-ヴェンの第九交響曲の初演、ヴィーン国立歌劇場の復興、ゲオルグ・ゼルのメトロポリタン歌劇場の辞任、など、今と表記が違うのが面白いが、とにかくコープランドやフルトヴェングラーが現役だ。(後者は間もなく急死)

そして、ショスタコーヴィチ48歳ぐらい。当時、交響曲第10番を発表したばかり。当該号の付録には、「森の歌」が付いている。

巻頭に「デ・ショスタコーヴィチ」の「平和のためにたたかう世界の進歩的音楽家たち」という、いま考えてみりゃ本人ものかどうかかなり怪しい論文。オネゲルとか、ヒンデミット、ジョルジュ・オーリック(!)とか、ロジャー・セッションズ(!)を、形式主義の誘惑に負けた者達として批判している。対して、バーナード・スティーヴンスのカンタータやアンジェル・パフヌニック、クラウディオ・サントロの交響曲とかを褒めている。この人達の作品は、最近はCDもでてある程度知られるようになってきたし、すごく粗雑な比喩を使えば、――この間の偽楽聖の曲みたいな祝祭的で劇的な作りが再評価されている気さえするが、――この当時は、まだまだ「ブルジョア音楽に対抗する」現役の音楽だったのである。この論文は、プロコフィエフの交響曲第7番がアメリカの批評家に貶されたことに憤ってもいる。タコさんはついでに「平和の守り」や「戦争と平和」なども褒めているんだが――。確かに、後にでたヴォルコフの『証言』のなかでも、プロコフィエフの第7番を彼は褒めてた。ただ、「戦争と平和」については貶してた。この点が、この論文とは違うね。

で、面白いのは、続く塚谷晃弘や園部四郎の論文であり、ショスタコヴィチに対して、ソヴィエトの方針によって鍛えられ更に発達中の作曲家であることを、なんだか妙な上から目線で激励している。ありゃりゃ、という感じがしないでもないが、ある意味、同時代人として現役の議論をしている自負みたいなものも感じる。これは当時の文学にも感じることですね……

そして一番、ある意味すごい緊張感が感じられるのが、戸田邦雄と原太郎と深井史郎の鼎談「ショスタコヴィッチとソヴィエト現代音楽」である。これは、「森の歌」の評価を巡ってはじまっているが、そのうちタコの評価はどこへやら、例の「形式主義」をどうとらえるかで、左翼の原と戸田・深井が激烈に激突。附記で、深井史郎が、戸田君の言葉に目を開かれたこともあった、この座談会で解決できなかったことについては、改めて本誌に書きたいという「欲望」があるぞ、と、原を無視した上で宣言する始末。今から見ると、すごくおおざっぱなことを言っているような座談ではあるのだが、果たして、ソ連の生み出す芸術は自分たちにとってどういう意味をもつのだろうという切迫感が全員にあって、それはそれで面白い。これはソ連のイデオロギーをどう考えるかという問題ではなく、プロコフィエフやショスタコヴィチみたいな音楽がなぜ創れちゃうんだろうという、焦りとも怒りにも似た感情から来るものだ。原だけではなく深井や戸谷にもそれはあったはずなのである。ソ連の存在は単なる制度の違い、政治的イデオロギーの問題ではなかったのだ。こういう状態だから、このあと、日本人の作曲家達は、様々な対立をしながらも結構いい音楽をつくりだしたのだと思う。

申し訳ないけれども、北朝鮮や中国からノーベル賞やすごい音楽が出てくれば、今の世界の空気は一変する。いま、世界がごたごたしているのは、主に中国人(最近は北朝鮮も)が、自分たちの予想を超えて頭がよいのを目撃したことからくる焦りが原因のひとつだと思う。政体がどうあろうとも、頭のいい人間はいるのだから、当たり前なんだが、それを認めがたいほど、「科学(ここではほぼ「制度や権力」と同義である)による人づくり」みたいな腐った発想がアメリカや日本では蔓延している。坂口安吾が言っているように人文学では当たり前であるが、科学においてさえも、「科学」に対する叛逆にしか新たなものの創出はありえない。

日本では、――様々な改革の成果を自慢するボスの下で、様々な人たちが病気になったり死んだりしておる。手前は指示を出しているだけであるから実感はないだろうが、その尻ぬぐいで大惨事になっとるやないか。大学の改革自慢なんかほとんど嘘である。ただ、嘘が通用するのはテレビと新聞と会議ぐらいである。全く恥さらしもいいとこだ。国政も嘘ばっかり。権力を握るタイプが嘘つきタイプなのでは必ずしもない。権力というものは、叛逆を嫌う、つまり下々が自分の言うことを聞いておらず、つまり成果も上がっていない時に、「自分が正しい」と自己暗示をかけなくてはならなくなる。だから、その「正しさ」が自然に、客観的には嘘になりがちになるに過ぎない。すなわち、彼は最後まで自分の「正しさ」を疑えない、権力というのは必ずそういうもんなのである。したがって、選挙制度の欠陥で、たまたま首相の座に就いていたり、少人数の精鋭(笑)のなかでリーダーに選ばれてしまったりするほど、彼が嘘をつくようになるのは必然である。権力を持つとは制度を統べることだが、――人間の独創性というのがそういう制度を食い破ってしか出て来ないのがなぜ分からないのであろうか。権力者が仮に頭がよくても、絶対にそうなのである。(9月29日附記:橋下徹が、激しい選挙戦のなかで議論が起これば、前より政治はよくなる、最後は国民の判断だ、とか――今よくある一見まともそうな哲学を披露していた。小池百合子の「アウフヘーベン」もそうだが、こういうエセ弁証法的思考が間違っているのは、最近の日本の体たらくを見りゃわかる。弁証法みたいなものがヤクザなやつらの暴力として機能するのは、――結局議論をしときゃある地点で多数決とか小池とかのガバナンス的暴力を発動してもよいことになっているからである。つまり議論をすることが暴力の一部として機能している。こういう擬制は、国政だけでなく、我々の周囲のあらゆるコミュニケーションに見られる。欠けているのは、そういう擬制に対する叛逆――「議論」になるようなレベルとは異なる言語や表現――である。)

とはいえ、「希望」もある。為政者達が調子に乗って嘘すら付かずに、脳内だだ漏れでしゃべり始めたからだ。「日本をリセット」とか頭がおかしいのではないかとも思うが、我々は屡々そんなことを夢想したことがあるであろう。為政者達が我々の先陣を切ってくれている。我々も嘘をつく必要はなくなったのかもしれない。

――しかし、そうなっちゃ、みんな地獄に落ちるね……

佐枳彌多摩神社を訪ねる(香川の神社63)

2017-09-28 19:49:17 | 神社仏閣
 

「佐枳彌多摩」とは、『日本書紀』に出てくる。オオクニヌシが、国を平定してえっへんえっへんと「今はおれに従わない者はいないねガハハ」と大食らいしていたところ、海から突然ぴかっと出現した神あり。

「于時、神光照海、忽然有浮來者、曰「如吾不在者、汝何能平此國乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。」

もっともでござんす。一人で何も出来る訳じゃなし。しかし、世の中、誰かの成功に嫉妬し「おれのおかげだろうがっ」といきなり現れる人は多いですね。海から来た人もそういう類でしょう。こういう人はルサンチマンの塊なので何をするか分かりません。オオクニヌシはさすが人間をよく分かっていて

「是時、大己貴神問曰「然則汝是誰耶。」」

とりあえず、名前を聞いとかなければいけません。それから対策を……

「對曰「吾是汝之幸魂奇魂也。」」

「答えて曰く「わしはお前の幸魂・奇魂だ」と。」なんと、嫉妬した誰かは、てめえの(幸福をもたらす)魂だったのです。恐ろしや。さすが成功した人は違います。鏡を見ているうちに、「お前はだれ?お前の魂だ」みたいな会話をしているのでしょう。ドッペルゲンガーとは自己を見付ることと見付けたり。というわけで、当然自分に答えているのですから、

「大己貴神曰「唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。」

と物わかりが早い。これが赤の他人だったら「お前誰だよ、とりあえず死ねっ」となるはずです。このあと、第二の自分は「吾欲住於日本國之三諸山。」と言ったので、そこに宮をつくりましたとさ。日本の神道の分霊とか分祀とが、自己愛のドッペルゲンガーだったことがわかる恐ろしいエピソードです。

それはともかく、「幸魂、此云佐枳彌多摩(さきみたま)」なのであります。一霊四魂説のうちの「和魂」のなかに「幸魂」と「奇魂」がありますが、上の挿話からも分かるように、てめえの成功(ていうか、たぶん征服、即ち大量虐殺)をもっともらしく説明しているだけで、やるんだったら、カントみたく分類について永遠に錯乱し続けるべきなのです。戦争に負ける訳ですよ……

 
狛犬(昭和七年)




拝殿


本殿

『神社誌』曰く、「鷲田村郷社鶴尾神社境外末社。境内老樹多く頗る森厳なり。祭神御井神は元、井元大明神と稱せられ、昔此の附近に泉ありて其の處に奉齋せしを後、此の泉を埋めて田地となせしにより當社に合祀せりといふ。」結局、もともと井戸とか泉にかかわる神様のようです。

道を挟んだ目の前に高善寺があります。案内板に曰く、

「朱雀天皇は、承平七年(西暦九三七年)寛平法皇の七年忌と觀賢僧正の十三回忌とを兼ねて、大字坂田無量壽院においてその法会を挙げさせるため勅使(天皇のお使い)をつかわせました。勅使は、この地に十数日間滞在せられ、法会を行いました。土地の人は、これを無上の光栄として「勅使」を村名(その後大字名・町名)としました。別説では、前記とは別の勅使がこの地に来た時、病にかかり天皇は侍医を差遣しましたが、間にあわず、死去したので高善寺境内に葬りました。そこで勅使村と稱するようになったとも言われている。」

観賢僧正がまた登場です。朱雀天皇のお使いが滞在したという訳でここらを「勅使」としたらしいです。これは他人がやってくれるドッペルゲンガーと言ってよいでしょう。それはともかく、お使いが高善寺に葬られたというのです。思うに、この寺も神社ももともとはひとつで、このお使いの墓だったのかもしれません。

また別の説あり。別の案内板に曰く、

「大字坂田に瓢箪池という田がありました。その昔、行基菩薩がこの地に立ち寄られた時、一粒の瓢の種子を農夫に与えました。栽培すると毎年名品を産し、天皇にまで聞こえるところとなり、りっぱなひょうたんを献上しました。天皇は、このひょうたんを見られ、早速瓢箪池の栽培について調査の正副の使者をつかわしました。一行は、実況を視察し、めずらしい、ひょうたん数種を持って帰途につこうとしましたが、不幸にも正使が病にかかり、この地のあたりで療養しましたが、ついに病死しました。そこで、高善寺の奥に葬りました。その墓が勅使墓で、この墓があるので勅使村と称したという説もあります。」

今度は行基が出てきましたが、もはやだれでもいいや。

それはともかく、神社よりびっくりしたのが鳥居の横にそびえ立つこれ。



いまはどっちを使っているのでしょう……。絶対Jアラートよりこっち方がみんなが気づく

 
鳥居(平成十七年)の横にお地蔵さんもいました。

鹿角の地神さんを訪ねる(香川の神社62)

2017-09-28 17:53:23 | 神社仏閣


あぜ道を入ったところにおりました。

 

 

そばにおられたおじさんが話をしてくれました。いつからあるのかは分からない、昔から……。この前田村神社の宮司がきてくれた。ここらは一宮の田村神社の範囲。近くだが附属中学の北にある神社はまた別みたい。各地区にこういうのが昔からあったんだ……、と。


木曽馬の秋2017

2017-09-27 21:43:35 | 旅行や帰省


「いいえ、いまだれも見ないほうがいいのよ。お馬は、見られるのがいやだといっていますよ。」と、姉さんはいいました。
 二郎は、我慢をして、もうすこしの間、見ないことにしました。その日の午後から、雨が晴れて、青い空があらわれたのであります。風はさやさやと新緑の葉の上を渡っていました。それは、心地のいい景色であります。
「姉さん、僕のお馬を見せておくれよ。」と、二郎は、また姉に頼みました。
 姉は、二階に上がってきました。あとから二郎がついてきました。しかし、姉が窓からのぞいてみると、紙のお馬はいつのまにか乾いて、風に吹かれて飛んで、あちらの屋根のといにかかっていました。
「姉さん、どうなった?」ときいている弟に対して、姉は、ありのままに知らせる気にはなれませんでした。
「二郎ちゃん、お馬は足がなおったものだから、元気よくどこかへ駆け出していってしまいましたよ。」と答えました。

――小川未明「びっこのお馬」

常磐稲荷神社を夜訪ねる(香川の神社61)

2017-09-27 21:32:47 | 神社仏閣
この神社にはやはり夜いクのがよろしいと思って、仕事帰りにいきました。×町駅の近くにあります。ちなみに神社のとなりは、×××××の×××です。なんというか、人間のふるさとを感じます。



夜中でないと、この神社は光り輝かないのです。夜の街、そこに赫耀たる社あり。



石に刻まれた由縁を見ると、

「詳らかならざれども傳ふ處に依れば生駒壱岐守丸亀より高松に封ぜられしを以て丸亀商人を移し今の丸亀町をなさしめ城下の繁栄を計り商家の守護神として巽(東南)に祭祀せられしものと云ふ。爾来一般庶人の崇敬を集め今日に至る。」

丸亀町が、丸亀の商人たちによって出来たらしいのは知ってましたが、そういえば、それを指示したのも生駒壱岐守(高俊)さんなのであった。さすがです。美少年趣味の高俊さん、有力な商人を引っ張ってくることくらい簡単です。これに比べて、松平さんの道祖神社(昨日参照)……

「元新瓦町小学校内に鎮座ありしを明治四十二年現在の地に移せり。」

日露戦後に我に返りましたね。やはり小学校内よりここの方がキモチよかったのでしょう。



「戦災にて御社殿焼失なしたるを溝渕寿吉翁が初めとする崇敬者の誠意に依り昭和二十七年五月伏見稲荷大社より御分霊を勧請し今の如く復旧せり。」

さすが、復活が昭和二十七年ですからすばやい。中野天満神社とか道祖神社とかこれに比べて遅い。やはり勉強より歓楽ですよ。ちなみに溝渕さんというのは戦前ここらの土地を買い取って、劇場とか映画館を建てた人で、常磐町のもとをつくった人のようだ。わたくしが高松に来る前までには、もとあった映画館とかダイ★ーとかジ★スコなどはなくなっていた。



二十年ぐらい前までは、狐のお面をかぶった人たちが練り歩く「こんこん祭り」というのが行われていたらしい。

道祖神社を訪ねる(香川の神社60)

2017-09-27 02:57:31 | 神社仏閣
仕事からの帰りに道祖神社に寄りました。

中野天満神社と同じオーラを感じました。空襲後のコンクリートのオーラです。でも注連石には、明治四十四年とありました。

案内板に曰く
「道祖神社は猿田彦命を御祭神と戴き寛文六年(一六六六年)十一月十一日、松平初代藩主、松平頼重公によって高松市の総氏神様である石清水八幡宮の境外末社として創祀されました。道ひらきの神様であられる猿田彦命を御祭神に戴きましたのは、江戸までの参勤交代の道中のつつがない平安を祈願される為でありました。」
松平さんの参勤交代の無事のためにつくったらしいのです。猿田彦は忙しいですね。だいたい、参勤交代みたいないじめの無事をなんとかせいと言われてもね、徳川を倒した方がはやいのでは……。あ、松平か……。



「当時の社殿は昭和二十年七月四日高松市の空襲によりことごとく焼失いたしましたが、」

やっぱり……



「今年創祀三百三十年の記念すべき年を迎えるに当たり、昨今の交通事故の多発を憂い大神の御被護を祈って、新しく御社殿を改築申し上げた次第であります。平成八年十一月十一日 岩清尾八幡宮」


平成八年まで焼失してたのなら、三百三十年じゃないような気がするんだが、もはや松平の参勤交代もなくなったしどうでもよかったのであろう。と思ったら、「昨今の交通事故の多発」は、この神社がなくなったせいだったのである。どうみても、香川県民の凶悪な運転モラルのせいとしか思えないのであるが、猿田彦は是非香川県民に

1、黄色信号は「まあ急いで発進だ」の意味にあらず
2、赤色信号は「イケるかも」の意味にあらず
3、一時停止線は「徐行して踏み越え」の意味にあらず
4、直線道路は「八十キロ以上出してもいいよ」の意味にあらず
5、道路はあぜ道にあらず

等々を夢の中で説教して欲しい。言うこと聞かなかったら、その鼻で彼の車のボンネットに「ヘタレ」と書いてもいい。



「岩清尾八幡宮」の支店であった

 

ここは拝殿であろうか?



一瞬、喫煙所かと思ったが、これは賽銭箱であろう。

 

狛犬……こういうのは初めて見た。平成八年の狛犬は、こういう感じになってるのであろうか。今日は、ショックでうなされそうです。


角もあるよ……。「'96 YOSHI」とサインがあったから、これは狛犬というより「アート」なのでしょう。西暦……。もう元号はどうでもいいかもね。平成の次の元号が「希望」とかになったら、もう日本人やめたい気分だもん調べてみたら、高松市出身の大島よしふみさんの作品と判明。中野天満神社の牛さんも大島さんの作品です。あと「親切な青鬼さん」とかも……。見ているうちに、確かに、廣田八幡のバランスボール狛犬なんかより優しい気持ちになってきました。今日はスピード出さずに家に帰ろう。



本殿の右手に石あり。よかった石があった。



本殿が「やった~」みたいなポーズをとっているんですが、どういうことでしょう?中野天満神社の「いないいないばあ」といい、この神社のポーズといいやはり空襲後の神社はひと味違います。「やった~」じゃねえよ、さっさと交通安全を取り締まれよ、天狗さんよ。

金比羅大権現常夜灯を訪ねる(香川の神社59)

2017-09-26 23:42:15 | 神社仏閣


廣田八幡の前にあります。丁度、ここは仏生山街道と塩江街道の分岐点なのである。この常夜灯は、天保二年のものである。金比羅灯籠はあちこちにありますね。現在金比羅参りに相当するのはなんだろう。ディズニーランド参りかな。まだ行ったことがないが。ぬいぐるみ見て何が楽しいの?昔も、「わしゃそんな流行には乗らぬ」とかいいつつ四書五経にしがみついている私みたいな偏屈者がいたに違いない。


傍らにある道標。これは、大正十一年、陸軍の大演習を紀念して建てられたそうだ。太田の在郷軍人会が建てている。指さしマークが生々しい。陸軍の特別大演習とは、師団同士を対決させるもので天皇が統監する一大イベントだったのである。このときには、若き昭和天皇がきているはずである。これが行われると、電気がきていないところをなんとかしたりとインフラ整備が行われたりしたという。まあどうでもいいんですが、――というのも、二十年数年後に日本は大負けして軍隊は解体したからだ。いまでも、無意味な演習(まねごと)をして悦に入っている場合がどの業界でもあるが、我々の文化において実践的なものというのが、だいたい机上の議論の不徹底からくるのが明らかである。テキストの解釈が全然だめなのに授業の練習しても無駄なのと全く同じことである。

鑿井水神社を訪ねる(香川の神社58)

2017-09-25 18:03:22 | 神社仏閣
林町。例の空港跡地である。



岩田神社は、『香川県神社誌』には結構立派な写真が残っているが、陸軍の飛行場建設で跡形もなくなった。この神社はその跡地でもある。神社の正面にこの碑が建っていて、鑿井水神社は境内社扱いである。この碑の文章が、こういうものとしては、珍しく恨み骨髄に徹していて素晴らしい。

この碑によると、この神社にも観賢僧正が絡んでいたようだ。

醍醐天皇の時に疫病がはやった。観賢僧正が岩田大神の御神聴に感応し三密の法を修めて祈願したら疫病が去ったというのである。で、「蓮華三昧院吉国寺」を建て、岩田神社を併せて勧進したと。それ以来豪士達の力もあってちゃんとした社殿神威の結構が整っておった。
廃仏毀釈で吉国寺は廃寺になったが、国運もよくなり「社運も進み、神域の緑は千年の緑を濃くした」

「が、昭和一九年一月突然陸軍省より林村を主に軍用飛行場設置の通達を受け関係地区の人家参百余と共に全て立ち退きを強制され岩田神社も昭和一九年三月二十一日夜上林の拝師神社と共に六条鹿島宮に遷宮し、昭和二三年一二月三日正式に合祀して三宮神社を創建した 以来、半世紀が経過し当時の森厳なる神社の偉容も千年の歴史を語る鎮守の森もなく、月日の経過とともにすべてが忘れ去られる景況にある」


いままで見たなかでは、神仏習合から廃仏毀釈、近代戦争による災難をちゃんと書いている点で一番ここがすごい。三月二一日の夜、泣いた人がいたということだ。――人間ひどいに目に遭わないとちゃんと物事を記そうとは思わないのであろう。ただ、ひどいことがあると、もっとひどいことを忘れるというのも常で、それは碑の仕事ではなく文学の仕事であろう。


戦後、陸軍飛行場の一部が開放され、立ち退きさせられた農民達が帰農組合を結成し、昭和二三年には鑿井が香川県開拓課などの援助によってなされたらしい。ようやく米を作れるようになったのである。そして組合が創ったのが、この神社。三宮神社に移動していた祠を発見、ここに持ってきたのである。