★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

向良神社を訪ねる(香川の神社99)

2017-10-31 23:58:34 | 神社仏閣
向良神社は松島町。古書店のある近くです。




やっぱり駐車場になってます……手前の注連石は昭和三十三年(これもともと鳥居なんじゃなかろうか……)


手前から昭和三十三年、大正十三年。


賽銭箱には、生駒さんの家紋あり


拝殿


本殿

案内板に曰く、

今から二百年ばかり昔、向山周慶と関良介の二人は三十年にあまる年月と幾多の苦労の結果立派な白砂糖をつくった。そのため高松藩はもちろん讃岐の人々は大変恩恵をうけた。

いまでも香川大学発の希少糖というのもので儲けようとしておりまする。「高松藩はもちろん讃岐の人々は」ということろが逆に恩恵を受けたのがアベノミクスの果実とらやらとおなじでやはり言葉に出して言わないといけないのであった。それはともかく、香川県はうどんといい砂糖といい、何か日本人を肥らせようという陰謀を感じますね。そうすれば遍路に来てくれるからかも知れません。

後両名の功労をたたえて、向山周慶の「向」と関良介の「良」を合わせて、「砂糖の神様、向良神」として玉藻城内にお祀りした。

実は希少糖の発見地も碑になっているのである。そういえば、その碑の文章の依頼が来たことがあったな……結局私はその仕事やらなかったんだけどね……

明治十八年この地にうつしたが、昭和二十一年七月戦災で焼失したので氏子たち力を合わせて再建をはかり三十二年に本殿、三十五年に拝殿を完成して祀る。



空には飛行機が……

家に帰ってみてから『香川県神社誌』を読んでみたら、こうあった。

祭神向山周慶は命は大内郡湊村(大川郡白鳥村)の人、讃岐に於ける砂糖製法を創始せし人にして文政二年歿す。周慶始め醫を池田玄丈に学ぶ、時に高松藩玄丈に命じて精糖の法を探らしむ。十数年得るに能はず。

池田さんは高松の藩医ですね。このときの藩主は、松平頼恭で、ここは暖かいから必ず砂糖がつくれると確信していたのかもしれません。とにかく高松藩は貧乏藩だったらしいから、何とかしなければ……。というわけで池田さんも必死に頑張ったらしいのであるが、結局病に倒れた。

周慶京師に遊学し薩州醫生某を救ふことあり。某遂に国禁を犯して砂糖の製法を周慶に傳ふ。

弟子の「向」さんは京都に遊学、薩摩藩の某医学生を助けたところ、その某さんが国禁を破って砂糖の製法を「向」さんに伝えたのであった。さすが某さん、恩は国禁より重し

藩周慶を召して砂糖を製せしむ。時に薩人良助なる者あり、周慶に恩を蒙ることありて密に蔗苗数本を携へ来り白鳥村に植う。

時に、ってタイミングよく現れた良助あんた誰?某さんではないですよね……。「密に」というところに砂糖の秘密の匂いがプンプンします。しかし何故白鳥村にいったし……。

茲に於いて讃岐の精糖大いに興れり。国民糖神として之を崇む。

やりましたっ。なんか面白いお話だが、何はともあれ「国民糖神」です。神です!

「明治十八年五月十九日官許を得て周慶を祀り、同十九年三月社殿落成す。」

よかったー。もう薩摩藩の国禁は無効だよね、大日本帝国ですからっ。

「一説には薩人良介をも配祀すといへり。」

たしかに「良」という字があるもんね……。ほぼ良助(介)のおかげという感じがしないでもないが、まあいいか……。

向良神社は、上の白鳥にもある。そこの碑にはもう少し整合性がとれる形で由縁が語られている。曰く、

その後周慶が京に遊学した時懇意と成った薩摩の医生某から天明八年に製糖技術の口伝を受け砂糖精製の研究に日夜没頭した
その頃奄美大島の当盛喜と言う人が四国巡礼の途中湊川畔に差し掛った時病に倒れ難渋していたのを兄向山政久に助けられ医師の周慶が懇切鄭重な医療を行い九死に一生を得て喜び帰藩した[…]
当盛喜(関良介)は周慶の恩に報いんと後日薩摩藩の国禁を破って甘藷の種茎を弁当行李の底に隠して再度来藩し周慶に手渡して近屋に永住した
それより翁を助けて刻苦勉励し寛政二年粗糖の製造に成功してここに初めて讃岐の実業製糖が民間の力で発祥した


というわけで、美味しい和三盆のできあがりでございます。和三盆確かに美味しい!可愛いし。

ところで昨日これをもらったんですが、美味しかった。






地神さん


八坂神社を訪ねる(香川の神社98)

2017-10-30 23:50:38 | 神社仏閣
瓦町駅の近くの八坂神社に寄る。


電車が通り過ぎる後ろに

 
あります。

 
狛犬さん(昭和三十一年)。足の伸び方がすんばらしい。


鳥居(大正八年)と新しい門(ここ最近出来たと思う)。


新しい門を横から見てみる。

 
中の人も拝見する……。瓦町の酔っ払いは気をつけた方が良いな、この人達は武装してるぞ

  

大木を両手に、進んでゆく。
 

龍神さん

  

御神灯は天保六年でござる。

『香川県神社誌』によると、この神社は滝宮の牛頭天王社から勧請し祈祷札を配布していたという。名所図会には「祇園牛頭天皇社」とあるそうだ。祭神はスサノオであるが、もちろん本当は牛頭天王である。この神社も、高松空襲で全焼したが、昭和二十六年に有志によって復興した。復興紀念の碑がありました。

ところで、上の神社誌には、「約六十年以前までは社殿東向きなりしをその後北向きに変更せり」とかいてある。確かに、この神社、拝殿の東側に駐車場があるし、参道の東側も大きく空いている。確かに形が妙なのである。

境内社は参道の右側に並んでいた。

   
「祇園正一位稲荷大明神」……やっぱりこの名称がこの赤に似合う。

 
「金刀比羅宮」




帰り際に一瞥。たぶん左奥に続いていた玉垣を一部移動させて狛犬を囲った形にしている。玉垣をのけた部分は駐車場の入口にしているのかななな……

三名地神社を訪ねる(香川の神社97)

2017-10-30 10:27:39 | 神社仏閣
三名町の地神さんを訪ねる。



手前の碑は、昭和五十三年?、一宮村三名農事改良組合の「表彰記念」みたいでした。





集会所の裏にありました。正四角柱。廣瀬大御神、龍田大御神、天照大神、波邇夜須毘売大御神、和久産巣日大御神、大宜都比売大御神……



となりには元気な木。



電信柱(木)も元気。

第69回香川大学祭における境界例

2017-10-28 17:07:46 | 大学
http://www.kagawa-u.ac.jp/files/8315/0899/0924/gakusaipanhu.pdf

テーマは「NO BORDER」だそうです。だいたいにおいて、学生が「境界なくせ」とか言うのには、まだ弱者の訴えみたいなニュアンスが7.5%ぐらいありそうである。入試の「ボーダーライン」は理不尽だみたいな、あるいは私が「不可」なのはなぜ~みたいな訴えだ。一般的にお偉方が境界なくせという時には、ほぼ100%、「侵略するぞ」という意味であるが、おそらく学生の92.5%の気分がこれに当たっている。違うか。

いまや境界をなくせとか越境しろとかいうアイデアというか思想自体が幼稚であると思うのであるが――、まあいいや、どうせみんな社交辞令でやってるだけであろう。わたくしの人生経験に照らしてみて、越境とか柔軟性とかを高唱する人間は善意に溢れた頑張り屋が多いとは言え、必ずいざという時に自分の処世を優先し日和るのが特徴である。最近は、そんな自分を糊塗するために、いじめられタイプは「是々非々」とかいい、ファシストタイプは「ミッションの最低偽再定義」とか言っているが、いずれにせよ、逃げる気満々である。勇気の問題もあるが、世の中の問題を、ある種の陣地盗り、つまり境界設定だと思っているからに他ならぬ。思想が小学校3年生ぐらいなのだ。せめて、青空文庫に載っている丘浅次郎の「境界なき差別」ぐらいは読んでから御託を並べて欲しいと思うだけである。しかし、ここ数十年の、何でもかんでも政治的敵対のイメージに落とし込む人文科学の一部にも責任はあるのである。わたくしもいろいろと反省している。というわけで、いまさらオブジェクト指向存在論などを読んで、またあらたな御託を生産しようとしているそこのあなた

Go to hell

ショペンハウエルは倫理に関する一論文の初めに「道徳を説法するは易く、道徳の根柢を明らかにするは難し」と書いたが、従来の方法で研究している間はいつまでもそのとおりに違いない。生態学によって種々の動物の習性を調べ、下等動物より漸々高等動物にいたる間の習性の移り行きを明らかにし、単独生活と団体生活との関係をさぐって、ついに人間にまでおよぼせば、ここに初めて、倫理学の確固たる基が定まるのであろう。
(丘浅次郎「動物界に於ける善と悪」明治三十五年)


丘も動物をみていたら、なんとなく世の中が分かる気がしてきてしまったのであろう。そんな簡単ではなかったのは、その後の世の中を見れば明らかである。わたくしもボス猿とか犬猿ばっかりみていると、差別だけで世の中が分かる気になるであろうから、時々境界にも注目してみたいと思う。無論、社交辞令である。重要なのは思考の跛行である。

辻堂池のお地蔵さんを訪ねる(香川の地蔵12)

2017-10-28 15:26:14 | 神社仏閣
小雨の中、辻堂池に来ました。お地蔵さんがいました。やぱり「辻堂」というからにはあると思ったし……



何か、着替え中みたいな感じになってますね……

池の畔の案内板によると、ここらに夏枯草が美しく生えていて、歌にもこうあるそうだ。

「大野なる辻堂川の水くまに、ゆかしや白き夏枯草の花」

で、寛文年間(松平に変わった頃ですね)に高松藩で行われた「神寄せ」(耕作地を広げるためにやったみたい)で、荒神や小祠、地蔵堂などが氏神の境内に集められたときに、ここにあった辻堂も八幡の森に移動させられたのであるが、「村の名家、岡家」に頼んで、元の場所に取り戻したということである。

岡さんすごいっ。

「神寄せ」というと、神託を聞くことみたいな意味を想起するが、――この「神寄せ」は違う。明治政府(から今に至る政府)でなくとも生産力向上のために(というのは表向きで、小グループの魂を動揺させるためなら)なんでもするというのが権力なのであった。昔からの神仏習合的現象ももしかしたら、こういうことと関係があるのかも知れない。

池の反対側にもおられました。




三宮神社を訪ねる5(香川の神社96-5)

2017-10-27 23:41:17 | 神社仏閣

神社の一番右手前にある空間は一番鬱蒼としているのですが……これは明らかにあれ的なあれです。

 
怖い狛犬さん


社の裏を見たら、「大正十五年三月十五日 林在郷軍人會建之」とあった。そういえば、正面に五芒星あったわ……

となりには、


「仰忠碑」。昭和三十年一月。


よく読んでみる。時々、西南の役からの戦死者をまとめて祀る碑を見ますね。こんなこともわたくしは知らなかったなあ……。二百二十七名が亡くなったか。国の柱になってはいないし、避けられた戦死であったに違いないのだが、――そう思えないのは理解できる。ただ問題は、「前代の不幸の轍を践むなきを念じ」という部分ではなかろうか。あれは不幸の轍を践んだのではない、むしろ、不幸の轍を践まないように念じていたからだめだったのであろう。不幸をつくりだす原因を除かなければならなかったのだが、それについて「単に誤った」というほかはない。


碑の下にまいまいつぶろがいた。


そういえば、別の場所にこういう碑もあった。昭和七年の上海事変のときの碑である。ここらあたりで何とか出来なかったのか……

三宮神社を訪ねる4(香川の神社96-4)

2017-10-27 22:49:04 | 神社仏閣
若宮神社の右側には、寄付で出来た休憩所があって、その横に鬱蒼とした神社?がある。


文化十一年。


「花壇」て書いてあるな……。


神橋もあるぞ。

  

石が祀られているから神社でいいか、いや庭園かな……。本質的に似てるんだろうね……。(とはいえ、最近わたくしは、石や樹木を視ると神社だと思い、石垣のある家などはほぼ神社に見えるようになってきてしまいました。なるほど、これが「神の国」という奴だろう。



三宮神社を訪ねる3(香川の神社96-3)

2017-10-27 21:54:22 | 神社仏閣
参道の右側には、大きく分けて三つの神社があるようであった。北東側の右奥には大きく空いた空間があってベンチと木が整然と並んでいたが、もしかしたらもともと拝師神社があったのかもしれない。いまは、拝師神社は元あった場所にあるので……

奥側から順に訪ねると……



注連石は明治二十六年であった。

 
狛犬さん


若宮神社であった……(なんと昨年改修工事が行われていた)


昭和十四年

興味深いのは、拝師神社も岩田神社も境内に若宮神社があったことである。これも思い切って一緒にしてしまったかな……


「三宮神社三社合祀三十年周年記念碑建立玉垣フエンス奉納」。林小学校第十七期卒業生と恩師の皆さんであった。「フエンス」のところで笑ってしまったわたくしに詛いあれ。

碑はこちら




本殿

三宮神社を訪ねる2(香川の神社96-2)

2017-10-27 21:10:51 | 神社仏閣

紀元二千六百年記念。東京からの寄付もあった。

参道の廣い両側はなんとも不可思議な空間である。三つをくっつけたことから来る不均衡からか……とおもったが、これはもともとの鹿島神社の性格を調べてみないとなんともわからんが……


右側には平成13年(西暦2001年との記載もあり)に寄進されたでっかい塔が馬の背後に聳えていた。

左側は庭園風になっていた。若一王子神社の内部にもこんな雰囲気があった。




「五十四紀念」とは……

 
橋を渡ると



左手に庭園風の空間あり




 


三宮神社を訪ねる1(香川の神社96-1)

2017-10-27 20:35:19 | 神社仏閣
昼下がり、三宮神社を訪ねる。


でっかい道路を走っていたら左手にいきなりあった。ブックオフの裏にあると地図ではみえたが、この碑はブックオフよりずずいと手前にある。参道がえらく長いと言うことだっ


御旅所


拝殿が遠くに見える……


鳥居(昭和63年)をくぐってふり返ると、高速の高架道路と一緒に絵になるね……


てくてく歩く


橋(大正8年)を渡る


大正3年の注連石を過ぎ、境内の手前でまた鳥居(平成12年)がある。参道の両側にはずらりと金を出した人の名前が並んでいた。


金、いや神は偉大なり~


玉垣にあるのは生駒さんのマークではないか……

この神社は、「拝師神社=香川の神社18」および「岩田神社=香川の神社58」が、鹿島神社と一緒になっているので三宮なのである。上の二社を訪ねた時に事情は記したのであるが、――陸軍のすっとこどっこいが陛下の命令だとかいうて、林町あたりを飛行場にしたため、追い出された神々が疎開させられたのが鹿島神社であった。昭和19年のことである。もう薄々負けるのが分かってるくせになにをやっているのか知らないが、ただの神社の無駄であった。といっても全てが無駄であった訳ではない。世の中弁証法に貫かれている。大量の死者はたまらず平和憲法をもたらしたし、何よりもこの三宮神社は、神戸の三宮神社より立派である。神戸のそれはビルの中に埋没したシティ神社であるが、まったく面白くない神社である。対して、この三宮神社は、「どうやら朝鮮出兵のときになんか持ってきてしまった噂の拝師神社」+「お大師様の弟子が関係してるぜ岩田神社」という二大異物テーゼによって、熊野宮を取り込んでいただけの鹿島神社に訳分からないパワーを揚棄させたのである。

つまり
 



いくぜアウフヘーベン


いや、まちがえた

 

我々の文化は、とりあえず、向かってくる悪にちょっと待って頂いて、パイルダーオンとかロボット三つくっつけりゃ強くなるにちがいない、とかやっている。これではあっちの「三位一体」とかには負けるであろう。昨日、共通科目で、本居宣長と平田篤胤の顕幽論を話したのだが、実は我々はこういう議論にはあまり向いていない。北村透谷のサブライム云云もそうだ。向いているのは、団子三兄弟とかである。


大正一四年の橋を渡る。




右手には、国旗台とポール。右手奥には更に英霊的なものがあったのだが怖いのでとりあえずメインストリートを歩くことにする。


ススメ一億、馬がかわいそう

 

左右にずらりと並んだ、燈籠と狛犬さんたち。すごい迫力である。三社連合艦隊。まさに、田舎に帰ったら駅で「渡邊史郎君万歳」と錦を飾られた気分である。てめえの国のものでないものをずらりと並べたルーブル美術館の壮麗さもよく分かる。


新しめなのは奥にあったから年代順なのであろうか……わからん

 
ものすごい体位である

 
この球を、鞠というのかサッカーボールというかで世代が分かれる。

 

 
江戸期から明治初期の狛犬がずらりと――なんだか両側から吠えられている気がしてきました。犬野郎は黙ってなさい。


逆光を背にする注連石(大正10年)


石のベンチ(祝沖縄復帰記念。昭和47年)


拝殿

                                   

  
合体!できない


賽銭箱。このマークは、公募で決まったらしいです。あっ、一万円札しかない




右手に回り込むとまず地神さん。


緑がまぶしい昼休み


大正十一年の大演習紀念。


本殿



 
本殿の裏手にはしぶとくひっそりと……


熊野宮。もともと鹿島神社の境内社であった。

 

 

 
天明7年。


誰だろう……



――つづく。