★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

狭い範囲を失う

2023-07-31 23:13:47 | 思想


致中和、天地位焉。萬物育焉。

中庸を実践すれば天災もおこらず万物が育つ、とはむかしから意識されていたことだった。いまや感情や欲望に任せていては地球の環境が壊れて天災続きになってしまうので、中庸はお説教の文句でとどめおくわけにいかないであろう。しかしこんな事になる以前に、狭い範囲においても、なにかをヤリ過ぎるとバランスがおかしくなって、兎が捕れなくなったり米が育たなくなることは観察されたに違いない。むしろ、そんな「狭い範囲」を失ったからこそ、われわれは環境問題にものすごく鈍感になってしまったのであろう。


2023-07-30 23:22:06 | 文学


杉田老画伯は心利きたる人なれば、やがて屋台店より一本の小さき箒を借り来り、尚も間断なく散り乱れ積る花びらを、この辺ですか、この辺ですか、と言いつつさっさっと左右に掃きわけ、突如、あ! ありましたあ! と歓喜の声を上げ申候。たったいま己の頬をパンパンパンと三つも殴った男の入歯が見つかったとて、邪念無くしんから喜んで下さる老画伯の心意気の程が、老生には何にもまして嬉しく有難く、入歯なんかどうでもいいというような気持にさえ相成り、然れども入歯もまた見つかってわるい筈は無之、老生は二重にも三重にも嬉しく、杉田老画伯よりその入歯を受取り直ちに口中に含み申候いしが、入歯には桜の花びらおびただしく附着致し居る様子にて、噛みしめると幽かに渋い味が感ぜられ申候。杉田さん、どうか老生を殴って下さい、と笑いながら頬を差出申候ところ、老画伯もさるもの、よし来た、と言い掌に唾して、ぐゎんと老生の左の頬を撃ちのめし、意気揚々と引上げ行き申候。

――太宰治「花吹雪」

中と客観

2023-07-29 23:49:44 | 思想


喜怒哀楽之未発、謂之中。発而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉。萬物育焉。

喜怒哀楽が発動していない状態を「中」とすべし。そして発動したとしても節度が保たれていればそれを「和」とみなすべし。発動した状態が世界なのではなくて、発動していない「中」の状態が世界の根本である。だから、「和」をその世界を体現する人の道と見做せるのである。

道は、中を和として表出できる心の経路みたいなものである。これは一方通行で、喜怒哀楽から逆に未発の状態に与えるもののことは考えなくてもよいことになっている。なにもしなくてもよいのではなく、ペンディングすることが求められているような気がする。

写生文家は自己の精神の幾分を割いて人事を視る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があると云う意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。ここにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児になりすます訳には行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢客観的でなければならぬ。ここに客観的と云うは我を写すにあらず彼を写すという態度を意味するのである。この気合で押して行く以上はいかに複雑に進むともいかに精緻に赴くともまたいかに解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。

――夏目漱石「写生文」


漱石は、写生文を大人と子どもの比喩を用いて説明した。たぶん、「中」を認める態度は、この大人が子どもに同情しきらないような「客観」的なかんじに近い。お互いの喜怒哀楽に感応し合うだけのコミュニケーション、――それぞれの感情に同情して、あるいは同情したふりをするのは、われわれがその「客観」的な「中」のかんじを失うことを意味する。道徳はこのかんじにしか求めることは出来ない、と「中庸」は主張するようである。

隠れてこそ見える

2023-07-28 23:47:16 | 思想


莫見乎隱、莫顯乎微。故君子愼其獨也。


お天道様も見てござる。障子に目あり。――さらに隠れている悪の兆しほどテメエにとって明らかなものはないわけだ。すると、隠れてこそ明らかな自らの悪を「見える化」すると、却って世間体的に嘘をついてしまうことは明らかなような気もしてくるわけである。なるほど、いまの世界が何もかも見えるようでいて、全体として極めて嘘くさくなっているのはそのせいあろうか。

こんな短いことばで、現代を照射する「中庸」はなかなかのものである。教育指導要領がまったく非実践的なのは、「大学」とか「中庸」とかみたいに教えが短剣みたいになっていないからだ。ふにゃけたうどんみたいな文章はだめだ。せめて、聖書みたいに、人によって見え方が違いましたみたいな性格を自ら指導要領が体現して頂くくらいでないといけない。聖書のあの体裁もキリスト教世界に多様性みたいなものを持ち込んだような気がする。

2023-07-27 20:36:07 | 思想


道也者、不可須阿臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫顕乎微、故君子慎其独也。

ここまで見えないもの、しかも離れられないものが「道」であるならば、我々が普段使っている書道、武道、まんが道、などなどはほとんど「道」ではなく、「活動」などと言ったほうがよく、そうしないと、たかが部活の規則とか部室の戒律のようなものが「道」面することになる。論理的にはそういうことになるとおもうが、この教えの巧妙なのは、我々がやっていることが道に反していると分かっている際にも、われわれを全否定するのではなく、慎んだり懼れたりすることによって見えない「道」を目指していることにしてもよいみたいな処世術が書かれていることである。やはりこれは倫理というより統治法である。自分の人生の幸福みたいな観念をそれ自体で追求する態度が屁みたいな実効性しか持たず、天下国家が安寧でなければとりあえず死んでしまうよのなかでは、政治が美徳として追求されるのである。

ヴィトゲンシュタインは、どこかで、お前の人生の悩みはお前が人生の「型」からはずれているからだ、みたいなことを言っていた。これはいまでは反発を食らうだろうし、ヴィトゲンシュタインはファシストかみたいな根拠にもなりうるのであるが、――だいたい幸福の追求ができる人間というのはある種の型を身につけた人間のみであるのは現実である。所謂自由人みたいな者も例外ではなく、大概は、懐疑の底が浅く型を繰り出すタイミングが速かったりしてびっくりする周囲を自分への畏敬か何かと勘違いする自信に満ちているだけである。

わたしは、道の追求というのは、登山のようなものである必要があると思う。登山をなにか高みにある理念への強制みたいにみる御仁は、たぶん登山をやったことがなく、麓で崇高さに酔っている人であろう。だから否定もするわけである。例えば、登山したことのない人間は例えば森敦の「月山」を理解しているとは思えない。確かに体験者の横暴としての意見であるが、多少は思うわな。。登山の経験とは、山にも拠るが、「月山」に描かれたような、壺中の天が折り重なるみたいな体験である。

わたしは毎朝駒ヶ岳眺めて育ったが、実際にその山に登ってみると、完全に麓にいた頃の遠近感が狂う体験をする。遠くのものが大きくなってゆき、次第にそれもわからなくなる。その中に入ってしまっているからだ。樹木がない地帯に入ると、改めて頂上だけゆがんで大きく見える。でそれもいずれはそのなかに入ってゆくので大きさは分からなくなる。で、とつぜん頂上でござる、という看板とか碑の横に立っている。寒かったり、そうでもなかったりする。麓の自分の家が見える気がする。見えないが。(シュトラウスの「アルプス交響曲」は登山の経験を描いたものだが、パノラマ的に引き延ばされて平面的になった描写で、登山は音楽では描くことはできないような気がする。どちらかというと、主題が折り重なって変形してゆくベートーベンの第5交響曲のほうが近いのかもしれない。)

道は、大きく見えたりしながら其の中に入り、結局自覚せずにそのなかを行為するみたいなもののような気がするのである。だから、道とは何かを山を眺めるように「見る」ことはできないし、だから説くことも出来ないのである。説くことは、逆に道とは関係ない、下山して雑踏のなかでもまれるようなニーチェの主人公みたいな目にあうことである。

「天命之謂性」に関するエトセトラ

2023-07-27 01:44:12 | 思想


天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。

どうも『大学』も『中庸』もエッセンスが腑におちないが、上の記述は、その形式性故に言いたいことがあるはずだと思う。道も教えも何かの結果にみえるので、自分で自覚できそうなのは性である、これを「あるがままの性質」とみなせば、あるがままの性質こそが天の命ずるところであることになるから、いまでいえば〈自己肯定感〉といったところか。一方、天の命じているところの不可視な「性」があるとなれば、我々の道も教えも天に従わなければならない理念であり、しかも我々の理想の性を追求する理念となる。たぶん、このような二つの道を同時に強制するのがこのイデオロギーである。

われわれは自分の〈性〉が分かっているようでいて分からない。例えば、いじめのある種のものは、ミスしたり不遜な人間に対する不公平な扱いにある。そういう人間をみつけた時点では単に善悪の判断や真偽の判断だったりするわけで、その判断の正しさがつづく不公平さに対する意識をなくしてしまうわけである。そんな馬鹿な、とおもいきや、たいがい我々はその程度だと思った方がよい。その「程度」が我々の〈性〉であるような気がする。しかし、これが否認すべき何かによって引き起こされているとみれば、そうでない理想的な天命的〈性〉がありうる気がしてくるのである。

現代ではそれがイデオロギーとなってあらわれる。その魅力は我々の天命を感じさせるのだ。で、マルクスもフェミニズムも発達障害の権利運動も、マイノリティや虐げられた人々を超えて、それを武器として使うべきでないかもしれない人間によって用いられ利用される。しかし、こういういわば「不純さ」に対する社会的反感は、彼らがそこそこ自分を少数者だと思っているせいなのか過小評価されてしまうが、ほんとうはけっこうな量を持って存在し始める。いや、「不純さ」と述べたが、これは本人にとって結構意識する以上のレベルでの不純さだと思う。マルクス主義がブルジョアジーの琴線にもふれたように、発達障害の件は、すごく「普遍性」があって、非常に多くの健常者にも自分のことのように思われるのである。そのことを梃子に世直しをしようというのが理想なのだが、人間、自分の意識以上のことをしてしまうもので、ついついやってしまう生存競争的な行為が、――自分もやってるくせに他人のそれが目につく。それでいらいらしてくるというわけである。その葛藤が、あまりに理念を素朴に信じているようにみえるひとに対する複雑感情となって現れる。

すくなくとも大学教育ぐらいで、ある種のイデオロギーが無垢な顔をするために利用され、むしろよろしくない結果を導いてしまった歴史、学問と理念との関係、政治と理念との関係、資本との関係などを学び、世のなか簡単ではないが、それゆえ粘り強く考えて戦わなきゃ、と教えるべきである。主体が大学教員から学生に移ったとか、協働だとか、そういう、――革命が主体の逆転だとか協働して戦争だみたいな、小学生が夢想するレベルのことを大学が口走るべきではないと思うのである。

例えばよくある職場の風景としてあるのが、――発達障害の疑いをもたれている人が、むかしのようにいきなり叱責されないことで、自らそのイメージを利用して、自分の利になりそうなときだけ頑張ったり上司に媚びたり、逆にそうでないときには、自分の性質のせいにしたりといった使い分けがすごく傍から見ていて目立つ、みたいな風景である。人は他人のことはそこまで気にしていないこともたしかだが、自分が思っているよりも気にしていることもたしかなのである。この背反的な真実が、発達障害云々ではなく、多くの人にとってわけが分からないものになりつつある。まわりをみわたしてみたら、これは発達障害の問題ではなくなっているのであった。社会的なものの確立が、対人的な緩衝(ケア)によってしか導かれないような感覚は子どものものだとおもっていたらいまやそうではない。

そんな現実を支える、協働やケアみたいなイメージは、主観と客観を作用項として分けるような単純さと、人間関係や社会を技術的に操作できる感覚に基づいている。例えば、マジョリティ?の社交的なものが、幼少期からおぼえた社交的言語のパーツをつなぎ合わせているだけみたいな認識が散見されるが、さすがに人間世界を舐めすぎである。たしかにそんな風に見える連中もいるが、それは見えるだけかも知れない。細かく見れば難しいことをやっている場合が多いように思う。それはそれで経験と長い練習が必要なものだったはずで、だれかにおしえてもられば出来るというものではない。「コミュニケーション」とか言ってしまった時点でそこらあたりの能力形成の問題をなめているんだよな、そもそももっと難しいもんですね。

読書感想文もエッセイも論文も何もかもそうで、やり方教えてもらえばよいみたいなものじゃないんだわ。小学校低学年向きの読書感想文のフォーマットみたいなものが話題になっていた。ああいうものを児童に対して提示する場合も多くのやり方があるし、もちろんあれで止まるのは最悪なので、あのあとの指導こそが長く難しいプロセスを持つべきである。また、何も指導もなくやらせているのも問題なのかもしれないが、それによって得ていた自由もあった。で、もちろんその自由がその後そのひとにとって足枷になったり桎梏となる場合もあるのである。妙な型を教えられたやつはそれに反発するかも知れないし、大学になってもそんな型で書いているかも知れないし、一時の教材の是非は、一概に言えないところがある。むしろ、問題なのは、学校の先生や児童がフォーマットがあると書けてしまう現象をなにかの成果として認識し過ぎる傾向である。そして一番危険なのは、教師も児童も、コンクールとかで賞をもらっている倫理的にも認識的にも狂った作文をほんとによいと思ってしまうことだ。教師はすくなくとも職に就くまでに文化の千本ノックを受けるべし。

政談でもそういう単純きわまりない志向が幅をきかすようになっている。例えば、ある政党の台頭は世界的な潮流の一部で、それを認められない知識人の鈍感さはいかんという人が結構いるが、これも人間をなめすぎである。知識人全員が理念的知識のパッチワークを信じて生きていると思ってるんじゃなかろうか。こういう作法は、吉本隆明が知識人を人生活が分かっていない馬鹿とみなして罵倒するところから始まっているような気がするが、これは単に喧嘩の作法だったことを、吉本チルドレンはたぶんよく分からず、いじめの作法として受けついだ。

喧嘩は、相手も自分がやっていることは一番世界にとって必要なことだという誇りがあってやっているだろうという前提がないとやっていられない。わたくしは、学校の先生の家で育ったから、親の「小学校教育こそ一番大事な仕事」と主張を半分に聞くことからはじめなければならなかった気もするわけだが、――親の世代は、多くの人が小学校しか出なかった時代を知っていたし、何だか理由は分からんが自分の人間「性」や教育で子どもがすごく変化してしまうことを知っていたんだと思う。しかし、これがなにか責任が教師にあるかどうかみたいな話は別であった。教育は効果があることも効果がないことも証拠をだせといわれれば分からないとしかいいようのない微妙な問題であって、親と子の関係とおなじくそれはおそらくそもそも子どもとの「関係の絶対性」(吉本)があるからだ。だから、そこに責任の観念を過剰に持ちこむことには躊躇があったはずだ。しかし、それが持ち込まれると、こんどは責任を持ちなくないから、関係性を薄めたり、本質的に手を抜くことになるわけだ。かくして、学校の先生から「自分のやってることが一番重要な仕事だ」という誇りを結果的に奪うことになったと思う。

大学の先生をふくめて自覚がむずかしいのは、目の前の児童生徒学生が自分にとても似てしまう、下手すると、なぜか悪い方の「性」だけ模倣してしまっている現象だとおもう。わたくしは、だから、できるだけ、自分的ではないものを理想的に教えたいと願っているが、そんな風にうまくいったことなどない。たぶん『中庸』は、そんな絶望に対して、天はあるから安心せよ、と言いたいのかもしれない。

漏斗型

2023-07-25 23:33:35 | 文学


彼の眺めていたのは一棟の産科婦人科の病院の窓であった。それは病院と言っても決して立派な建物ではなく、昼になると「妊婦預ります」という看板が屋根の上へ張り出されている粗末な洋風家屋であった。十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉ざされている。漏斗型に電燈の被いが部屋のなかの明暗を区切っているような窓もあった。

――梶井基次郎「ある崖上の感情」

三浦哲郎対村神春樹

2023-07-24 23:23:13 | 思想


生財有大道。生之者衆、食之者寡、為之者疾、用之者舒、則財恒足矣。仁者以財発身、不仁者以身発財。未有上好仁、而下不好義者也。未有好義、其事不終者也。未有府庫財非其財者也。

生産の速度が速くて、消費の速度が遅ければ財貨はいつも満ち足りる。君子は無駄遣いしちゃならぬ。民に金を回せ。いまはこう簡単にはいかないんだろうが、これは勉学とか研究の場合にも適応されている場合がある。テストの回数や報告書や生産する論文が多く、勉強や活動そのものが遅ければ、なんだか満ちたりるみたいな理屈である。みんなが疲弊している原因である。いつもうまくいかないときには、努力するべき主体がひっくりかえっている。

思うに、村上春樹が人気があるのは、読者に労働や生産を要求するようなかんじを醸さないからである。大学生の頃、小説をつくる宿題が出て書いていったら、先生に「三浦哲郎みたいな才能がある」と言われて、当時はなんかイヤだった。わたくしは安部公房みたいなものが書きたかったから。しかし、最近ちょっと三浦哲郎を読みなおしたら、すごく故郷に帰ったような気がした。戦後とはこういう人の文学の時代でもあったのである。村上春樹が嫌われた理由はいろいろあるんだろうが、三浦哲郎みたいな純文学の現代化を拒否したというのはあると思う。三浦の小説は、学生時代が部活と受験みたいな「労働」になってしまいつつあるなかでの、現実には既にありえない「青春」を乗り越えるようなあり方であった。村上はそれを逆撫でする文体で現実を突きつけたところがあった。旧世代に対してはそれは逆撫でであったが、「労働をさぼる」若者のような文体であったことで、若者には共感してもらえたのかもしれない。

しかし、若者にもいろいろいたのである。わたしの世代の田舎もんは、村上の描く学生運動がやたらシティボーイみたいなので、描かれた対象が過去なのに未来が描かれている妙な憧れをもつやつがいたんじゃないか。ちなみにわたくしは、村神春樹は島崎春樹みたいなもんで、とか言って読むことを拒否していた。村神は藤村のように田舎者が上京したに過ぎないと。上京すらできないわたくしの自意識のやっかいさを示していよう。

時代は変化して、わたしのような遠近感が何重にも狂った者がようやく村上春樹を読みはじめることが出来る。いままで喜んで読んできたシティボーイ・ガールたちは、春樹のつくった現実的な文体で労働を疎外しながら、労働に苦しむダブルバインドにはまり込んだ。わたくしはいまだに、三浦哲郎みたいな故郷を持っているから関係がない。

ぱらいそさいくだ

2023-07-23 23:31:54 | 思想
見賢而不能舉,舉而不能先,命也;見不善而不能退,退而不能遠,過也。好人之所惡,惡人之所好,是謂拂人之性,菑必逮夫身。是故君子有大道,必忠信以得之,驕泰以失之。

吉本隆明は、「竹内好の生涯」という1970年代の山口の講演で、西洋には知識や論理そのものがそれじたいで立っていることを信じ、政治に使われるとか役に立つといったことを一顧だにしない人間がおり、かかる意味での科学は東洋には存在しない、あるのは経験則だ、と述べて竹内好を相対化していた。竹内好が太宰治にのめり込んだことはたぶん重要で、花田★輝もそうだが、論理を自ら摑むというより、東洋の自然的なバイナリーやなにやらの華麗さに惹かれるところがあった。吉本はそれくらべて野暮で、例えば上の倫理に、賢者の政治を夢みる必死さよりも経験則の放言をみてしまう。

先日、ある宗教誌に載った笹塚コミューン氏のコミュニティについての文章を読んだ。松田修やバタイユに依拠するそれも、どことなくコミュニケーションの自然的な治癒力に期待しているところがある。バタイユはそうではなかった気がする。

そういえば中学の頃、ある大人に「学生運動って結局ラッダイト運動じゃないか」と言ったら、「そんな低レベルなんじゃない」と言われたことがあるが、いまでもやっぱりラッダイト運動的だと私は思うのだ。マルクスによって物質ではなく社会機構を撃たねばならぬと批判されたラッダイト運動であるが、日本の学生運動の場合、その物質と社会の区別は自然的なつながりとして区別されていない印象がある。わたくしはいまでも、むかしの映像で「アンポ粉砕!」と聞くと、わが田舎の神輿まくりを思い出す。彼らの運動は、高度成長の機械化批判を観念的に粉飾した側面がかなり大きかったのではなかろうか。

わが国のエリートたちは、賢者がいればそのまま神輿が自然生成されるとでもおもっていそうだ。スクラップ・アンド・ビルドとか気軽に言うかかるアホは、――本日行われた危険なみこしまくりに参加し、神輿をぶっ壊した後、次の年に神輿をつくるところまで自らの手でやってから言ってくれ。あと、残骸のまま、真冬の水無神社の境内で堪える放置プレイを体験するのもいいかもしれない。

吉本隆明は自分はそうではないのに、〈これをつかまえたならば彼の言っていることはすべて分かる〉みたいなことを言っちまう人であった。で、読者はすべて分かったみたいな態度を取り始める。勢いがあったのだ。元気な頃の吉本の七〇年代の講演とか聴いてると、「しかし」とか「すなわち」とか「だから」の直前の間が短くて加速している。むかしの頭のいい僧兵とかはこんな感じだったんじゃないか。吉本は例えば福田恆存なんかに対して「正しいことしか言わない。正しいことを言うこと自体は大したことじゃなく、自分からとりだしてこなきゃ」と言う。そりゃそうかもしれないが、それが自分でとりだしてくる努力のススメではなく、正しいこという奴は自分でとりだしていないやつという紋切り型を気持ちよくなった読者や聴衆に与えたところがあった。吉本の本格的な論考にはそんなことを感じないから、吉本の影響の発信地は、「情況への発言」とか講演とかにその本体があった気がする。私の知り合いなんかも、とにかく講演が面白かったと言っている。

吉本自身は、自らの内蔵から論理を摑む鈍感さと粘り強さを持っていた。これが「東洋」的なものへの抵抗であった。読者や聴衆にはそれがなかった。吉本が破壊した運動やアカデミズムが自然に次の年も神輿となって出来上がると思っている。

「エヴァンゲリオン」や「シンゴジラ」の庵野監督が、自称コミュ症なのに結婚式の司会が上手い、みたいな証言がネット上にあった。そもそもコミュニケーションと座学みたいな二項対立がありえないほど狂ったジャーゴンであって、教員でも授業がうまい人が自称コミュ症みたいなのはいろいろなバリエーションで存在する。コミュ力ありそう、みたいな観点でひとを選ぶといいことはあるだろうが、井戸端会議で調子を合わせるようなタイプばかり集まって、肝心の仕事が出来ない可能性も高まってしまうのは当然だ。我々が、萬葉の時代からコミュニケーションにかくも拘っている現象には、『大学』におけるような、賢者と民の相即みたいな短絡が関係しているのではなかろうか。実際は相即していないから、その対人的な二項をコミュニケーションによって調和させようとするのである。

すると、なにも動かないような日常が続くことになるから、逆に、そこから疎外されたエラー的な存在が即独創的でエライという勘違いが生じることになる。マジョリティが仲間はずれをつくることと裏腹な現象である。ここ二〇年ぐらいみられる「歩く勘違いマウンティングロボット・思い上がりハラスメント気質に限って出世」問題をみるに、長所を言い合って自己肯定感を上げるみたいな方法論が教育現場で器械的に廣く広まったのは最悪だったといえる。そのエラー即独創という自意識を反省させる契機がなくなったからである。教育段階でかかる自意識を叩いとかにゃいかんのは社会にとって不可欠な危機対応にすぎないが、それがないために、――かくして、日本の対人的な風土は、自分の失敗をほんとに気にせずに「前向き」になり人に尻ぬぐいをさせるタイプを出世させないような努力ができなくなった。積極的で妙に主体的だが気が利かず他人に対する「精神的殺人」を平気でやるタイプは、屡々業績主義などにも適合的なので、よけいそうなる。発達障害への恐怖がそれを後押ししたことも言うまでもない。

三島由紀夫が言っていた「あっちへ行ったと思ったらこっちへふれる振り子」のような日本人の実態は、こういう本質的ではない二項対立の相互依存なのである。わたくしは、これを振り子みたいな比喩で語ったのは間違いで、振り子に運動している思い上がりを与える意味でまずいのではないかと思う。どちからというと、下の写真のような姿が我々ではなかろうか。それは、諸星大二郎の「生命の木」のように、「おらといっしょにぱらいそさいくだ」という感じである。


徳のない美

2023-07-22 23:54:09 | 思想


是故君子先慎乎徳。有徳此有人。有人此有土。有土此有財。有財此有用。徳者本也。財者末也。外本内末、争民施奪。是故財聚則民散、財散則民聚。是故言悖而出者、亦悖而入。貨悖而入者、亦悖而出。

フシギなのは、植物なんかは徳がなさそうなのにきれいだということだ。

おいしい葉――葉蔵

2023-07-21 23:54:09 | 文学


わたくしの家の庭では向日葵の葉っぱをいつものオンブバッタがずっと居着いて喰っている。わたしも生物の端くれとして、かれらがうまいといっているのがきこえるのでなんとなく満足である。

知り合いの戦中派が、五歳ぐらいまでにひもじいおもいをした人間はいつまでたってもいらいらした人間になるんだと言っていた。自分の子ども時代、自分の子どもたちをみて確かで、戦中戦後の暴力性はそのせいだと。ほんとかどうかはからんが、子どもがあまり飯をくえない状況は一過性の問題ではすまないであろう。わたしもわりと常にいらいらしてきたが、五歳まであまり食欲がなかったことと関係あるかも知れない。お腹はすかないがひもじいということはあると思う。太宰が似たようなことを「人間失格」で書いていた。

自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
 自分だって、それは勿論、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。


太宰の主人公は「葉蔵」という名前であった。わたくしも、上の生き物を葉蔵と名づけよう。

楽しき君子は民の母か

2023-07-20 02:40:26 | 思想
詩云、楽只君子、民之父母。民之所好好之、民之所悪悪之。此之謂民之父母。詩云、節彼南山、維石巌巌。赫赫師尹、民具爾瞻。有国者、不可以不慎。辟則為天下僇矣。詩云、殷之未喪師、克配上帝。儀監于殷。峻命不易。道得衆則得国、失衆則失国。

楽しき君子は民の父母、とはよくいったもんで、そこまで実の父母が頼りないのであろうか。たしかにそうかもしれない。かかる父母たちがほんとの君子的な父母になろうとすると、例えば、戦争中に発行されていた『愛国婦人』みたいなかんじになるであろう。最近、そのあたりをめくっていたら、大塚英志が注目していたガスマスクの広告がでてきた。モダンでどことなくSF臭がする。



したのものなんかも、まるで江戸川乱歩の表紙である。



戦闘婦人たちのイラストや、長谷川町子の翼賛家族的な漫画がおどるなか、広告はモダニズムの薫りを残しながら、婦人たちを民の母であれ良い母であれ銃後を守れと言っていた。いつの時代もプロパガンダの周囲はノイズだらけだ。ほんとの暴力はいつもみえない。

ホームランの軌道

2023-07-19 23:44:08 | 映画


シャルロットゲンズブールのお母さんが亡くなったと聞いて、ある学生に「きみたちはなまいきシャルロットっていう映画を知っているかね」と聞いたら、「クレヨンしんちゃんみたいなやつですか」と聞かれたので「まあそうかも」と言っておきました。そう言われればそんな気がしてきました。よのなかガラガラポン的な感じになって、もう一回何十年か前に帰っている。われわれは、根本的に戦前の抵抗運動の性格である隠微な太宰・花田的アイロニーを身に纏うどころではない。初級編だというて、授業で「君たちはどう生きるか」の抵抗精神の話をしても学生は暗い顔するだけだ。

が、「青い山脈」とか「颱風とざくろ」の話をするとけっこうニコニコするし、「青い山脈」とか「娘十六ジャズ祭り」とかで笑う。学生のセンスはいまの八十代とかに近いぞ案外。。。

暑さでつかれているせいもあるが、わたくしも素朴な模倣でアイロニーを跳ばす努力ぐらいしか出来ない。――大谷が3試合連発ホームランらしいが、おれもさっき爪楊枝でビー玉をつついて消しゴムに三回連続当てたのでいいとおもう。

とにかく我々は戦時中と似た「精神の危機」(ヴァレリー)以上に危機なのである。AIでもグーグルでもなんでもいいが、それができる以前にそれっぽくなっているのがわれわれで、いまだに我々の似姿しかつくっていない。そりゃシンギュラリティするに決まっている。我々の方が合わせているのである。それをなんかもっともらしく悟った風にみせかけても無駄である。

香川にもとブルーハーツの梶原さんが障碍者と一緒に太鼓叩きに来ていて、テレビでも報道されてたが、彼は仏教徒なのである。リンダリンダーとか言いながら仏教徒みたいなのが確かに仏教徒らしい。スマホを覗き込んでいるのは、むかしなら木の棒なんかを趣味で持ち歩いているおかしな人であって、決して悟りはしないのであった。

わたくしが今日気付いたことは、――外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」の最初の拍子木のところが、クマゼミのなき声に似ていることだけだ。クマゼミの声って子どものときにあまり聴かなかったからわからなかったのか。。。わたくしは、この曲が民謡のコラージュにすぎずと思いすぎていたために、夏の風景をえがいていたことに気がつかなかったのである。それにしても、この曲は、日本の風景よりもなにか別世界への軌道を描いている。

以前、あるホームランバッターのホームランを球場で生で見たけど、ほんとボールが落ちてこなかった。落ちたんだけど落ちてこない軌道で飛んでいたのである。こういう幻想にしか希望はない。

2023-07-18 02:41:09 | 文学


始めのうちはおもしろがっていた子供らもじきに飽きてしまってだれも鋏を手にするものはなくなった。ただ長女と私とが時々少しずつ刈って行った。そのうちには雨が降ったりして休む日もあるので、いちばん始めに刈った所はもうかなりに新しい芽を延ばして来た。
 最後に刈り残された庭の片すみのカンナの葉陰に、一きわ濃く茂った部分を刈っていた長女は、そこで妙なものを発見したと言って持って来た。子供の指先ぐらいの大きさをした何かの卵であった。つまんで見ると殻は柔らかくてぶよぶよしていた。一つ鋏にかかってつぶれたのをあけて見たら中には蜥蜴のかえりかかったのがはいっていたそうである。「人間のおなかの中にいるときとよく似ているわ」とそばから小さな女の子が付け加えた。私は非常に驚いてこの子供の知識の出所を聞きただしてみると、それがお茶の水で開かれたある展覧会で見たアルコールづけの標本から得たものである事がわかった。


――寺田寅彦「芝刈り」