★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ロミ

2018-06-30 23:50:13 | 思想


ロミといえば、『三面記事の歴史』という本で出会った作者であるが、この前、『乳房の神話学』というのを買った。図書館で『おなら大全』というのを読んでいたら止まらなくなったので泣く泣く帰宅した思い出がある。

日本のスカした文化研究者が面白くも何ともないような話題を半端にあれするのに対して、ロミは本物の収集家であった。全くの独断であるが、このロミというやつ、実にいやなやつだったと思うのである。しかしまあ、紳士面して研究はやれんわな、というのは事実である。

三島由紀夫の『潮騒』のなかの乳房の描写なんか、とっても通俗的であり、――三島も大蔵省に残っていたならば、案外偉くなってから、「なにやら触って良い?」とか女の子に意地悪していたのかもしれない。高遠弘美氏が、解説で日本の文学の「乳房」について語っていたが、なんとなくロミの収集したものにくらべると、心ときめくものがない、という気がした。

戦前の京大俳句事件で有名な、西東三鬼の所謂

おそるべき君等の乳房夏来る

ぐらいは、わたくしでも知っていた。これはいいいかんじであるが、この「おそるべき」に対する想像力が読者に希薄な場合、ただの中2男子の妄想になってしまう。

思うに、乳房にしてもおならにしても、神秘化も観察もまだまだ我が国の文学において足りていないのではなかろうか。セクハラは文化だという人もいるようだが、もしそうだとしたら、われわれの文化はやはり問題が多い気がする。最近、朝ドラの「カーネーション」の再放送が夕方やっているのだが、ちょうど近日の放送で戦争が終わった頃のことをやっていた。これは、女洋裁職人のドラマであるが――主人公は洋裁職人なのに、服を縫うことばかりに集中しすぎたせいか、戦争で周りの男が死にすぎたせいか、――戦争がおわって若い男が帰ってきて、女子達がおしゃれをしたがっているという空気を読めていなかったという場面が出てくる。日本は戦時中、女の子に名札付きのだっさいもんぺなど強制してたくせに、ウメよフヤせよと言っておったのである。「蒲団」の時雄が、芳子の乳房ではなく、リボンや蒲団に執着して性欲とか悲哀を覚えているのは正しい。文化もないのに、カエルみたいに増えてどないすんじゃと思うね。

三島の『潮騒』がださいのも、そのせいなのである。主人公は、セーターの下の乳房が想像通りだったとかいうのだが、そのセーターとかいうのが田舎くさいのだ。やはりロミが紹介するような貴族の衣装の文化が乳房にとって重要だったのであった。そうに違いないっ

無表情・閨房・自傷

2018-06-29 17:51:06 | 漫画など


ブックオフなどに行って、頭を昆虫レベルまで落として何か掴んでレジでお金を払い、その掴んだものを読むという行為に出ると、なぜか生きる力がわいてくるわたくしであるが、今回掴まされたのが「総理の椅子」(国友やすゆき)の第一巻。

いまのところあまり面白くはなかったが、この前掴まされたところの、総理の椅子のダニの死骸よりも出来がひどいある少女マンガよりもかなり面白かった。

とりあえず、政治漫画としての出来はよくわからんが(というか、まったくせりふが頭に入ってこない)、無表情の青年とおじさんがでてきて何かしゃべってて、あと突然ベッドシーンがあって、最後におじさんが自分の手を切ってた。

国友さんというのはどういうひとかとWikipediaをみてみると、ひどいことが書いてある。

登場人物が真正面を向いている絵が少なく、西原理恵子からは柳沢きみおや三田紀房と共に「首寝違え三人衆」というあだ名をつけられた。
ストーリー上の特徴として、「打ち切り決定による物語の急展開」が挙げられる。サブキャラクターが突如として主人公に大きな影響を与える行動に出たり、突然、特異な才能を発揮し出して物語が急展開し、物語が無事収束するといったものである(『明日を信じて』『カネが泣いている』等)。


これはあまりの書き方ではないか。そこまでひどくはなかったぞ、今さっき読んだのは。そもそも物語が終わってなかったし。

「サブキャラクターが突如として主人公に大きな影響を与える行動に出たり、突然、特異な才能を発揮し出して物語が急展開し、物語が無事収束するといったものである」というところなんか、物語にはほとんど当てはまる。たとえば「竹取物語」とか「心」、「まあじゃんほうろうき」とか。

濱神社弁財天を訪ねる(香川の神社174)

2018-06-28 23:35:14 | 神社仏閣


155号線沿いに詰田川を東にゆくとあるのは濱神社。鳥居の額には「濱神社/弁財天」と二行書き。新しい額ですが、鳥居そのものが平成七年のもの。弁財天講世話人が寄進している。

 

注連石は大正十五年のもの。



拝殿。平成八年に立てられたものらしいです。



本殿。

 

かっこがよい狛犬。昭和八年。



案内板曰く、

「昔の秋祭りには「あばれ神輿」、新開地区奉納の大人と子供の「ちょうさ」と獅子、高須地区奉納の獅子などが出て、現在の県道牟礼中新線を春日川橋までお下がりで練っていた。また沿道にはいろいろな露店がたくさん出て大変な賑わいであった。しかし、昭和三十二年ごろから交通事情のため県道が使用できなくなり、お下がりは取りやめになった。」


またモータリゼーションかっ

祭神は、「市杵嶋姫命」。神仏習合では「弁財天」ということになっておった方であります。まあ、どうでもよろしいのですが、なにしろ、アマテラスがスサノオの剣をがぶりと噛んだところ霧がしゅわっと吹き出した、それがこのお方。海上神、というか、おそらくただのエイチツーオー。とりあえず、みんな湾口や泉にこのお方を祀ったのであった、ここも濱神社。弁天は言わずとしれた水の化身。弁天さんといい、市杵嶋姫命といい、結局は彼らは水なのであって、濱神社でも弁天宮でも名称は本当はどうでもよかった――のかもしれない。がっ、戦時下の『香川県神社誌』はただの「濱神社」だが、戦後には、やっぱり弁財天という強力な漢字の意味的重力が勝って、額にもつい書かれてしまうのであった。



地神さん。大宮姫命、太田命、大己貴命、稲蒼魂命、保食命。ちょっと珍しいこの組み合わせ。

荒削り地蔵を訪ねる(香川の地蔵35)

2018-06-28 22:35:34 | 神社仏閣
 

先の金比羅灯籠の目の前に居られるのが「荒削り地蔵」である。これも平成十五年にここに移ってきたそうだ。



万延元年のお地蔵さんである。荒削りなのではなく、こういう光背のデザインなのではなかろうか……と思った……。いろんな地蔵を見てきて思うのであるが、童顔のものばかりんじゃなくて、かなりいろいろな顔がある。はっきりしているのは、身近な人に必ず似ているということである。

詰田川金比羅燈籠を訪ねる(香川の神社173)

2018-06-28 22:27:08 | 神社仏閣


詰田川は、高松市街の東、元山あたりから流れている川である。元山から4キロぐらいしかない気がするのであるが、案外でかい川なので、まったく平野の川というのは油断ができない。以前、台風の時にはすごく増水しててびっくりした記憶があるが……。



で、ほとりにある金比羅燈籠。文化十一年とあった。木太興産から土地の提供を受けてここに移ってきたそうである。

高ぶることなく、ろばに乗って来る

2018-06-27 23:58:41 | 思想


娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えらえた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。

――ゼカリヤ書


この予言は、イエスのエルサレム入城で果たされる。驢馬というのがとても良い感じであり、イエスの存在にある所謂ケノーシス(神聖放棄)というものに込められた優しさみたいなものをわたくしは感じる。

それにしても、ダ・ヴィンチの「受胎告知」の天使の羽根の生々しさは、キリスト教の世界が、物質の世界から絶えず脅かされてきたことを見るようである。ダ・ヴィンチの宗教画は、いまでいえば「デジタルネイチャー」(落合陽一)みたいなものだったかもしれない。しかし、それが美の方向に素直に流れていったとは限らないところが、わたくしが興味を持つ点である。

男は狼なのよ 気をつけなさい

2018-06-26 23:34:46 | 思想


男は狼とか、酷い言いようであるが、――確かに狼が狙う羊を守る羊飼いの美少女というのは美少女美術史において重要であろう。わたくしがナボコフの『ロリータ』がきらいなのは、彼女が羊飼いじゃないからだ。わたくしが思う最強の少女は、羊飼いの少女が本を読んでいるというタイプである。もはや勤勉なキリストというべきであろう。池上英洋・荒井咲紀の『美少女美術史』というのを読んだのだが、そこに書いてあったように、確かに、カミーユ・コローの「読書する羊飼いの少女」が、本を読んでいるというのは歴史的にも重要なのであろう。

美少女の絵画と言えば、ウイリアム・ブグローである。本当にとてつもなく上手なのであるが、かれの描く美少女はあんまり本を読む感じじゃない。羊飼いの少女もただひたすらに美少女であるだけだ。新興勢力によってアカデミズムの権化みたいに扱われたブグローであるが、とりあえずモデルになった少女達に「おまえら、ドストエフスキー読んどけ」と一喝し、いやな顔されたところで、彼の超絶テクニックでそれを写し取れば、――ピカソの「パロマ」など子どもの描く絵と言い放ってもおかしいぐらいのすばらしい絵が……

というのはわたくしの妄想である。だいたいブグローが描いた少女達がおとなしくぽーずをとっていたはずはなく、そしてしおらしくもあったはずはなく、それは大変だったと思うのである。いまも美少女の絵はたくさんあるが、たいがい妄想じみた感じになっておる。現実の美少女は、ただの子どもであって普通に学級崩壊的な人格をしている場合がほとんどであろう――だからマンガみたくなるのである。

ムリーリョの美少女的マリア像のように、宗教の力を借りたやり方抜きに、自然のなかでウキウキしているガキンチョのなかに美を見出すのは実は大変だったはずである。

――その割には、一生、美少女を描き続けたブグローという人、もはやカンバス上の少女たちは想像上の自画像だったのではなかろうか……

あるわたくしの日常

2018-06-25 23:44:09 | 日記


例えば、あるわたくしがどんな感じで労働しているかといえば、今日はこんな感じなのである。

・起床(何時だったかは不明)、メールチェック→返信

・朝ご飯つくる→食べる(同時にテレビでニュースをチェック、罵詈雑言を画面に浴びせる)

・ゼミの予習(いらいらしてくる)

・レポートの採点20人。(いらいらしてくる)

・落合陽一『日本再興戦略』を斜め読み。終わりの方で「なんだ、ほとんどわたくしの意見と一緒ではないかっ。かなり普通ではないかっ」と呟き、本を放り投げる→本はユングの『元型論』の上に落下

・いらいらしながら松本零士の「音速雷撃隊」を速読。これはコンビニで買った『特攻』というオニムバスの本。本宮ひろ志とかもりやてつみの特攻ものが所収されている。なかでも松本零士の作品が一番良い気がする。特攻ものってなんでこんなに感情表現が劣化した作品が多いのであろう。誰か、特攻は飛行機との心中でしたみたいな視点で書くやつはいないのか。たぶんどこかにいるんだろうね……。それのが遙かにましだわな。坂口安吾は、戦争になると人間の本当の姿が現れてくるんで、みたいな事を言っていたが、それは希望的観測でしょう。平和なときに本性がでるんですよ。ほれ、例のアホ愛国ソングみたいな……

・出勤

・研究室で昼食(ぱくぱく)

・メールチェック(いらいらしてくる)→メール返信4件

・ゼミ3時間ぶっ続け(3時頃、ゼミ生と話しながら全く関係ない問題についてひらめく。しかし3分後に忘れる)。途中で、「なにゆえ安倍晋三は人気があるのか」という演説をぶつ→焦って強引に鷗外の「女がた」に論点を接続)

・オムニバス授業に行ってくる。途中でお腹が痛くなる。授業が終わると、N先生とハストヴェットのフェルメール論についての悪口を言う。「あれホントは何の専攻の人?」

・なんとなくだるいので今日は帰ることにする。

・帰宅

・シャイー指揮の「トゥーランガリーラ交響曲」を聴きながら、夕食を怒濤のようにつくる→細君帰宅。

・「鶴ベエの家族に乾杯」を見ながら、出演者の今井美樹って何歳だろう、とかホテイさんのウィキペディアの記述がひでえとか盛り上がりながらご飯を食べる。

・お風呂焚いて入る

・カンディンスキーの『点と線から面へ』を少し読む。

・今日一日のメモたちをパソコンに入力。落合陽一の「センター試験を破壊」というせりふがいけてると思ってニヤツク。するとゼミ中に思いついたひらめきを思い出す。勢い余って「サッカー日本代表は呪われよ」、と言ってしまう。

・←いまここ

人間らしいことがわかると、賊は少し元気づいて

2018-06-24 23:13:18 | 文学


き、きさま、いったい、な、何者だっ。」
 二十面相は、追いつめられたけもののような、うめき声をたてました。
「わしか、わしは羽柴家のダイヤモンドをとりかえしに来たのだ。たった今、あれをわたせば、一命を助けてやる。」
 おどろいたことには、仏像がものをいったのです。おもおもしい声で命令したのです。
「ハハア、きさま、羽柴家のまわしものだな。仏像に変装して、おれのかくれがをつきとめに来たんだな。」
 相手が人間らしいことがわかると、賊は少し元気づいてきました。でも、えたいのしれぬ恐怖が、まったくなくなったわけではありません。というのは、人間が変装したのにしては、仏像があまり小さすぎたからです。立ちあがったところを見ると、十二―三の子どもの背たけしかありません。その一寸法師いっすんぼうしみたいなやつが、落ちつきはらって、老人のようなおもおもしい声でものをいっているのですから、じつになんとも形容のできないきみ悪さです。

――江戸川乱歩「怪人二十面相」


……賊でさえ、相手が人間だと分かると安心するのであって、相手が物質となるとやはり我々は不安になることがある。今週の「丸激トークオンデマンド」(http://www.videonews.com/marugeki-talk/898/)では、「ゲノム編集が変える「人間の領域」」というのが特集であった。我々が「人間」であることはゲノム編集で自明ではなくなる可能性があるそうである。最近の、アスペルガーやら何やらへの考え方が変わって「健常者」というのがあまりはっきりしなくなったことで引きおこされた軋轢から、――「人間」の自明性が壊れた社会をいくらか想像できるものであるが、それはまた予想を超えたものになるに違いない。

小賢しいインテリが早急に事態の急変を推測して妙な未来社会を設計しないことが大切だと思いますっ。

Vingt Regards Sur L'enfant Jesus

2018-06-23 23:44:57 | 音楽


神を崇めるメシアンを崇める作曲家は多かったが、わたくしも作曲家ではないが崇めている。上は、彼の代表作であるとわたくしが思う「幼児イエズスに注ぐ20のまなざし」(1944)。大学の時に、ごく一部を弾いてみたが、恐ろしく大変で、ごくごく一部が弾けたにすぎなかった。

それでも「第20曲、愛の教会のまなざし」を弾いたときはまさにですね、昇天しそうになったわけでありまして、そのことはここではっきり申し上げておきたい。

メシアンは、共感覚の持ち主だったらしいのであるが、この曲に関しては、そんな感覚がないわたくしでさえ、音に色がついて聞こえるのだからすごい曲である。

第二次大戦で兵士となったメシアンが、ドイツ軍につかまりザクセンの収容所で「世の終わりのための四重奏曲」を書いたのはよく知られているが、そのあと解放されてからこの曲を書いた。この曲のなかで荒れ狂う低音はまるで爆弾のようで、空には星と鳥たちが輝いている。人間が絶滅したらしい美しい世界である。


ファシズムからの過程

2018-06-22 23:29:33 | 文学


「セヴンティーン」はよく分かるような気がするのであるが、「政治少年死す」はよく分からない。というより、分からないことすら忘れていたが、最近ちょっと考えなきゃいけないことがあって、読み直して見ようと思う。われわれは、自意識過剰なくせに、それからの解放ばかり夢想しているが、本当に解放された人間が長い時間をかけてどうなるかはあまり想像しない。ファシズムへの考察も、案外重要なのは、ファシズムへの過程ではなく、ファシズムからの過程ではないかと思うのである。

Re:「近代の超克」

2018-06-21 23:12:30 | 思想


最近、また「近代の超克」もどきの思想を持ちだしてくる人々がいるようであるが、まさにこういう人たちは、近代やら過去の自分やらを超越(忘却)するのが特徴である。弱い俺様はすごいダー、近代を超えるだー、戦後を超えるだー、等々の寝言は二百年ごとぐらいにしてもらいたいのであるが――もはや親鸞言うところの横超であって、仏やアメリカの庇護下での他力本願の夢に他ならぬ。煩悩まみれ迷妄まみれのまま悟れる便利な道だ。

横超とはちょっと違う横出というのもある。仏教で言うところの「横」とは、修行の階梯を上るのではない「横っ飛び」のことであり、凡夫はこつこつ登ろう(竪)としてもたかがしれているので(違うか……)横っ飛びにゆけみたいなことを指している。で、「出」とは、脱出しようとすることである。受験勉強をさけて家出を試みるようなものであろうか。

確かに革命とは、超克やら断層みたいな事なのかもしれないし、凡夫が実は知らないうちに往生し悟ってましたみたいなことはあり得ない話ではないと思う。しかし、はっきりいうとくわ。われわれ、――日本の大概の凡夫には、燃える信心に支えられた修行によって一気に悟る竪超しか道はない。竪出はこつこつ山に登るような漸進的民主主義みたいなことなので――やっぱり辛いから無理(とか言っている場合かっ)。

このまえ、映画「そして父になる」というのをテレビで見たが、こういう凡夫達の遅々たる右往左往のあゆみは、家族の解体だー、家族の絆だーとかいう超克論者よりもよほど好感が持てるものである。最後は少し竪超があったからね……。

結論:尾野真千子様万歳

メガネっ子ができる野球の方がいいと思う

2018-06-19 23:15:24 | ニュース
彼は、学校で蹴球(アソシエーション)をしていて、顔を蹴られ、顔中繃帯ほうたいをして病院へ通っていたのであった。実際間の抜けた話ではあるが、上から落ちてくる球をヘッディングしようとして、ちょっと頭をさげた途端に、その同じ球を狙った足に、下から眼のあたりをしたたか蹴られたのである。眼鏡の硝子ガラスは微塵みじんに砕けて、瞬間はっとつぶった彼の眼の裏には赤黒い渦のような影像がはげしく廻転した。やられた! と思って、動かすと目の中が切れるかもしれないとは考えながら、でも、ちょっと試す気で細目に瞼まぶたをあけようとすると、血がべったりと塞ふさいでいて、少し動くとぽたりと地面に垂れた。

――中島敦「斗南先生」




日本チームが玉蹴りでコロンビアに勝ったらしい。でもコロンビアにはマルケスがいるから大丈夫っ

肉とテクノロジー ――「デジタルネイチャー」の周辺

2018-06-18 23:26:36 | 思想


落合陽一の『デジタルネイチャー』というのを興味深く読んだ。昔だれかが浅田彰について、やつはサイバネティックスとかデジタルな何かについて語ろうとするけれども、彼自身は非常に生々しいというか肉惑的な?感じがする人間だ、みたいなことを言っていた。これは、落合陽一氏についても当てはまる。考えてみると、落合氏だけでなく、スマートフォンをのぞき込んでいる若者にそういう感じがある気がするのだ。普通、われわれは服を着て歩くのだが、――そういう常識的に実装している何かを脱いでしまっている感じがするのである。昔ながらのオタクと似ているがちょっと違う。強いていえば、カエルみたいな感じである。

草野心平の世界は、実際にそこまでやってきているのかもしれない。しかし、それが本当に動物的なものであるとは限らない。

安部公房の『第四間氷期』で提起された問題――テクノクラートのつくる世界、いや彼らの予言に従うことはユートピアへの道なのか、という問題がもはやSFの問題ではないわけだ。安部公房は、人間は結局、非常に感覚的な行動ではあっても、死を賭してでも流れに逆らうことがあると言っているような気がする。安部公房の言語への異様なこだわりは、この小説の結末とは無関係ではない。

落合氏が思い切っているのは、二〇世紀の全体主義をある種のプロセス、そしてこれからも不可避的なプロセス、しかも倫理的なそれとみていることである。そしてわれわれにとってはこれからのテクノロジーでつくられる全体主義が東洋的な?美的な何かであるということも。――実はわたくしもその点は未来予測としては割と同意なのである。(落合氏が東洋をほとんど勉強していなさそうなのはこの際措いておく。古今和歌集の和歌一つの意味さえ議論百出なのであって、それを知らずに侘びだ寂だと日本の文化を語る人間はどうかしているのだ。八十年前の全体主義の時もそうだったが、作品の解釈の議論がストップして超克論が勢いを持ったような気がする)ただ、産業革命以降のテクノロジーが引き起こす現象は、おもったより深刻な思想的な軋轢を生んできたことは看過できない。わたくしも、ネットの発達が、ここまでイデオロギー的な情況を作り出すとは思っていなかった。ラジオ、テレビの登場で何が起こったのか考えれば予想はつくはずであったが、それでも当初の予想は超えていたんじゃなかろうか。どうも、言語は、思ったより肉的な何かなのではないかと思うのである。