★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

トリックスターの笑いのつもりが政治屋の

2013-01-30 23:05:54 | 思想


最近は、他人が言ったことを分かりやすく言っただけで存在感をだせるらしい。そして、これまたよくいるのはよく笑う取り巻きである。しかも笑いによって存在感(もしかしたら何かへの対抗心)を出しているつもりというパターンで、そういや今も昔も政治屋というのはそうであった。

仮面を一生懸命にかぶっているうちに、気力がなくなってゆくタイプのあとには、自分が明晰だと信じる、前者よりは頭が切れるが切れるものを切っているだけの自信満々のタイプが、前者を否定する身振りでやってくるのは、歴史の必然(笑)である。前者は改革派と自認し、後者は若さと成績の良さが自らの根拠である。どちらも既得権益とか派閥を敵視しているくせに群れたがるのが特徴であるが、なぜか他者に対する感性が欠落していることで結びついている。お互いに気を遣わなくていいからであろうか。ある種個人主義的であるがゆえに群れたがるという……。案外この現象は普遍的かもしれない。

そして、滅茶苦茶になった焼け跡の責任をかぶるのは、気を遣ってしまったタイプである。

2013-01-28 23:25:32 | 思想


識をうたがうと称する若者が、歳をとってくるとなぜか決まって他人の人生を勝手にいじくり回すようになるのは何故であろう。ラディカルな意志とは関係ない。他人の意図に対する考察がまったく出来ないためである。大概勝手に相手を「封建的」とか「因習的」とか決めてかかっている上に、相対化とか外部からの視点とかいう言葉のトリックを中学生でもないのに信じているから、絶対に相手の考察にまで至らない。相対化の距離感がほとんど暴力であることになぜ気がつかん。黒船襲来はある種の人間にとっては漫画的な事件であったであろうが、本当は軍事力という「暴力」ではないか。

……反論するのも面倒なので放置してしまうがこれがいけなかったのである。でも確かに面倒である。

猫町より

2013-01-25 23:05:35 | 文学


旅への誘いが、次第に私の空想(ロマン)から消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。(朔太郎)

……こういう見解に対する批判は簡単である。事物を見よ、現実を見よ、外部を見よ、といえばそれですむ。しかし、いまやそんな批判の方が紋切り型である。

戦後の大学論

2013-01-24 23:42:00 | 大学


 いま大学の附属図書館で重複図書を売りに出していて、つい二日間で30冊以上も買い込んでしまったが、その中に『戦後の大学論』(評論社、1970年)があった。昔よんだ気もするのであるが、あらためてめくってみると、結構面白かった。月報の「ぱれるが」に載っている瓜生忠夫の文章も案外啓発的である。最近は、本当の言論抑圧は終戦の前の数年だったとか、案外共産党関係以外は抑圧されてなかっただとか、左翼も案外雑誌に文章を書けただとか、「案外」の部分がクローズアップされ、現実の同調圧力の存在を過小評価することによって自らの処世術の言い訳をする輩が多くなっているのであるが、瓜生の言うように、昭和12年あたりでほぼ大学での学の自由など消滅していたのかもしれないのだ。(現在の大学で学問の自由が制限されているように。)しかしその状況下で自由を感じていた連中の名前が、この本にはちらちらと実名で登場する。心配なのは、現在ではこういう実名公表は近い将来も難しいだろうということである。

 しかしまあ、昔の座談会とかの記録はある意味怖ろしい。昭和21年の学生同士の座談会では、男女共学には賛成だが女は男ほど大学の勉強には能力的についてこれないだろうとか言っている(これには参加してた女子も賛同している)。69年の大学教授連中の座談会では、例えば神島二郎が、大学に「学生大衆」が多く入って来ている結果「十人に一人は気狂いだという状態に今日なっている」、と言い放っている。稲垣忠彦も、今の学生は教員の勤評が厳しくなってからの学生で受験勉強だけしかしてないとか、言いたい放題である。
 これらがよいとは思わないが、現在、名だたる大学教授に座談会をやらせたら、もっと酷いことになるのではないか。チワワみたい顔つきをして何もしゃべれないか、空語を弄び続けるか……。馬鹿にしているのでない。啄木が魚住折蘆を批判していうように、敵に対立していると思っている勘違いが、かかる動物的朗らかさを持ってしまうのである。たぶん、啄木がイライラしたのは、折蘆の妙に明快で快活な文章ではなかろうか。この文章には我々は妙に見覚えがあるはずである。無論それは自分の文章である。

埴谷雄高曰く

2013-01-21 23:06:36 | 文学


「必ずしも、「左翼的進歩」に女房など役立たないんだよ。」(「大正から昭和へ」)

埴谷は18で結婚したので性的不自由しなくてよかったとか言い張る大岡昇平とともに、いかがなものか……

結婚してるくせに「洞窟」を書く埴谷はいかがなものか……

人の気持ちを忖度出来ない馬鹿が増殖している昨今であるが、自分の気持ちも理解出来ているとは限らないのである。そう考えると、彼らの意識も文字通りとる訳にはいかない。が……