★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

地震・死火山・サブライム

2011-06-30 23:21:20 | 文学


長野県松本で震度5強。

木曽から松本は電車で一時間もかからない。高松から岡山より近い。
しかし、妹からの情報によると、木曽は全く揺れなかったらしい。断層型だからね、隣の村が壊滅してもこっちではなにもなし、というのがあり得るのであろう。でも長野は全体としてみればしょっちゅう揺れている。なにしろ、日本列島で一番皺が寄っている、つまり山がある場所だからな。

肌を出血するほど強く皺を寄らせて、その瘡蓋がそこかしこにあるのが、長野県という場所である。

つまり火山もある。

小学校4年の時である。
死火山・木曽の御嶽山が突然爆発したのである。
そのとき以来、「死火山」というものはこの世から消えた。火を噴いていない火山は、みな死んだふりをしているだけだということになったのである。亀井勝一郎の詩に、転向の鬱屈を表現したとおぼしき「死火山の夢」という作品がある。この「死」にこめられた転向の事実は、「休火山」とされては意味をなさない。読んだ官憲はもう一回彼を逮捕しなければならない。

御嶽山は非常に美しい山である。JR中央西線の窓からは、迫り来る緑の山のV字のむこうに、何重にもそびえたつ白い頂がときどき見える。富士山は、平野からよく見える「美の象徴」であるが、御岳山は物事の向こう側にある「霊」を思わせる。これは、ロマン主義が見出す「サブライム(崇高)」とかとはまた違ったものである。近代以降だって、そういうものは残っている。だいたい「サブライム」だって宗教的感情じゃないのかな。私は、近代文学をそんなものを書き残してしまうものとして考えている。

殺害はいつも舞台裏で行われ

2011-06-27 03:06:04 | 文学


↑は、「マチウ書試論」の上に乗っかった、晩年のカラヤンの演奏したシェーンベルクの「浄夜」とブラームスの「交響曲第1番」のCD。美しい演奏である。

ご飯を食べたら、うとうとしてしまったが、酷い悪夢をみた。よく知っている建物に入ると、それは内側からは絶対出ることが出来ないのだった。すりガラスから外を見ても仕方がないので、振り返ると、みんなが梁に縄を掛けて自殺しているところだった。みんなは私がよく知っている人達で、全員日本のある有名なカルト教団の一員だったという。そういえば、あの人のあの作品のあのところがそれを表す指標だと思われた。その中の一人であるある女性の歌は、私が過去に思っていたよりも上手かった。

私は起きて、一神教ではない日本を授業で批判したことを後悔し、いままで書いてきたことを激しく後悔した。

「殺害はいつも舞台裏で行われ」

吉本隆明の「恋唄」で、「おれ」は殺されているのか、そうではないのか?彼の言う「舞台裏」とはどこなのだ?

昼間にチャイコフスキーの交響曲第7番というまがい物を聴いたのがまずかったかなあ。

The Inner Light

2011-06-26 03:39:13 | 映画


「スタートレック」は実はあまり見ていない。傑作選ぐらいしか……。日本であまりこのドラマが大衆性を持たなかったのは、このドラマが「世界とわたくし」の問題を扱う私小説的なものではなく、「おれたちとかれら」の問題を扱う政治小説的なものであるからだろう。民主主義はおしつけていいのか、正義とは何だろう、暴力とは何だろう……リーダーとは何だろう……、理性と感情とは何だろう……といった問題が、異星人との交渉にあたって、戦争を回避するための決断の必要上現れる。エンタープライズに乗っている頭脳集団は、船長の下一生懸命働くわけだが、故に、その船長は、副長とともにかなりのインテリであり、行動力がある、というのが前提である。これに較べれば、円谷プロのドラマで、怪獣と闘う人達など、あまりにも智慧がなさそうな武力集団であり、侵略者と交渉する以前にすぐぶっ放してばかりいる。こんなガキだから、超人がいつも助けに来るのである。

私は、カーク船長とミスター・スポックがでてくる最初のシリーズの方が好きな気がしていた。カークもスポックも「大人」っぽかったからである。対して、「新スタートレック」にでてくる、ゲオルク・ショルティピカード艦長は、すぐ拉致されるし、だいたい、ブリッジにカウンセラーがいて、心のケアをしているのが気に食わぬ。軍人の癖にテメーの心の傷は自分で何とかせい、といいたい。というのは冗談であるが、「むかしはやんちゃだったが、いまは冷静沈着になった。人生は意味があるっ」と言いたげなピカード艦長が、「子ども」に見えたのである。

とはいえ、この前、「新スタートレック」の「225話 The Inner Light」という話を観て、やっぱり脚本を作っている連中は智慧があるなあ、と感心した。

ある滅びた星の人類が打ち上げた衛星からの通信がピカードの頭に作用し、別の人生(──その滅びる前の星での人生)に連れ出す。独身のピカードは、そこでは結婚しており、笛の演奏が好きな職人である。子どもをつくり、妻と死別し、孫と遊ぶ様な年齢まで次第に老いて行く。その幻は、その星の人間が自分たちの生を伝えるために仕組んだことであった。通信が途絶え、我に返ったピカードが何を思うかははっきり表現されているわけではない。衛星内部には笛が残されていた。彼は、窓から見える宇宙に向かって、幻想の中で上達したその腕前で演奏する。

とても良くできた脚本なのであるが、描かれているのは、ピカードの経験したもう一つの幸福な人生では必ずしもないと思う。つまり、滅びた星の人々が、何を伝えたかったのかが問題なのだと思う。どうもそれは、危機に瀕した場合の民主主義のありかたではなかろうか……。ピカードは、星を調査して、星が危機であることを科学的に証明しようとする。そのことを意を決して為政者に訴えるが、為政者の側もピカードに言われるまでもなく賢明であるらしく、着々と衛星打ち上げ計画を練っていたのだった。また、訴えるピカードに対して為政者が弾圧するわけでもない。村長みたいな人も「我々の一員に完全になったね」と褒めるし、一市民としての調査が結局あまり意味を持たず自分の行為が意味を持っているのかわからない状態であるピカード自身も、子どもが自分の得意分野を受け継いだりして、あまり絶望しているようにみえない。自分たちの生存の危機が迫っている状態で、人々はパニックにならず穏やかである。ここにあるのは、人々が死に瀕しても幸福であることを信じられるような政治のありかたである。そういえば、ここの人々はあまり無理に生きようともしていないようであった。自分たちの生き様を宇宙に発信することだけを選んだのである。

私は、このようなものが本当に理想の名に値するかどうか分からず、逆に、裏で展開している不幸を隠蔽するものではなかろうかとも思う。私に限らず、そういう意味で、アメリカはもはや政治的に信用はされていない。しかし、このドラマには否応なく我々を理想に導こうという強い意志があり、苦い経験を昇華しようという願いもあるに違いないと思った。これに較べて、苦い経験も過ちも、なかったことにしようとしているだけの我々の社会は、どうしようもない。

「Red Dwarf」讃

2011-06-25 07:02:55 | 日記


×川にきてはじめての給料で買ったのは、ゴダールの『映画史』と『Red Dwarf』である。前者で辛うじてけんきゅうしゃのプライドを保てた。

『Red Dwarf』は、もう10年前ぐらい?前に、NHKで深夜に放映されていたイギリスのドラマである。NHKは「コメディー決定版 宇宙船レッド・ドワーフ号」という題名にしていた。確かにコメディーであるが、ほとんどのせりふがブラックジョークと下ネタで構成されるところの、SFのパロディである。これを放送したという一点において、NHKは受信料を日本の人民に請求してもいい。無能リマーの修理ミスで乗組員が全員死亡した宇宙船レッド・ドワーフ号で、たまたま時間凍結室にいたため一人生き残った馬鹿リスターが、ホログラム再生したリマー、リスターの飼い猫から進化したキャット、アンドロイドのクライテンらと共に宇宙を放浪するお話である。ドラマは人気がでて10年近くも続いた。

これを見てしまうと、「スタートレック」とか「スターウォ何とか」が、いかにカマトトぶっているかが分かる。

知らない人に主人公達のキャラクターを紹介すると……

リスター……激辛カレー好き。小太り、杜撰、下品、汚い。
リマー……ホログラム。ほぼ童貞、無能、傲慢、卑屈、権威好き、自虐的ナルシスト。
キャット……猫人間。猫並み頭脳、軽薄、自分勝手、唯のナルシスト。
クライテン……旧型アンドロイド。奉仕第一主義、巨×、気弱、腹黒、毒舌。
ホリー……自称IQ6000の旧型コンピューター(←実はIQ6)。
コチャンスキー……女。

日本での人気はそれほどでもなかったが、世界中にファンクラブがあるらしい。下品な笑いだけの番組なら数多あるが、このドラマはその下品さが知性しか感じさせない(と言うわけではないが)という点で、なかなかありそうもない傑作である。私の見たところ、「モンティ・パイソン」より下品であり、「スター・トレック」より哲学的であり、「ロボ・コップ」より人間主義的であり、「デビット・コッパーフィールド」よりプロレタリア文学的であり、「ミスター・ビーン」より悪意がある。

特に、クライテンが登場するあたりから、第30話ぐらいまでの脚本の出来はすさまじく、ばかばかしく天才的である。このドラマを見たことのない人は、 smeg(ウジ虫野郎)である。

大阪にアルノー・フランソワ氏を聴きに行く

2011-06-22 01:50:37 | 思想

気が付いたら岡山にいた。


あちらに行けと言っている。

 
「16」……。

 
線路は続くよどこまでも。

 
ビルと電車と広告。


新幹線速いです。


新幹線速いです。

……新大阪に着いていたのである。

 
モノレールに乗ろう。

 
千里中央駅である。


怪獣みたいだな……つくづく。


乗った。

  
阪大病院前に着く。

 
大阪大学の人間科学部に着きました。

昨日まで迷っていたのですが、哲学の講演を聴きに来たのです。
アルノー・フランソワ氏の「日本哲学へのベルクソンの影響:西田幾多郎と九鬼周造の場合」です。当然フランス語の講演ですが、通訳があったのでなんとか大まかには追えた…つもり。私にとっても考えてみたい種が発表のそこここにあって久しぶりに楽しかった。私が、西田の「事物は無から生じる」という言葉を明らかに誤解していたことも判明。哲学に限らず、作者の置かれた文化的独自性をあまりに前提にしすぎると、作者の独自性こそ誤って認識することがあるという、良くあるパターンに陥っていたのである。私は、九鬼より西田の方が好きである。したがって(笑)、西田より九鬼の方がなぜか人を一元的な思考に陥いらせる、と考えて理由をでっち上げることの方が楽しい。

当たり前だが、フランス語での質疑応答はすごいなあ。

 
ああ、塔の思想……。

  
ぴょんこぴょんこ


ひっかける。


新大阪に戻って目の前が霞む。

 
待つ。


目の前が霞みます。


あれ?乗車口がない?


……


乗れた。


夜。


「爽健美茶」の中を撮影。

 
どこかで見たと思ったら、高松か……


お疲れ様でした

「ふるさと」への回帰終了

2011-06-21 23:38:17 | 文学


かがわ長寿大学の講義終了しました。

しゃべっていて、二つの唱歌──「旅愁」と「ふるさと」の処理の間違いに気づき、そのあとの展開を強引にねじ伏せたたために最後がどたばたしてしまった。こんなミスをやっているようではいけない。「河霧」の扱いもしゃべっていて変更した。予習段階で論理の詰めが甘かった。

動揺した私に追い打ちを掛けたのが、「ふるさと」を流していた時の事件である。よい演奏だったせいか、涙ぐむ人、歌い出す人、確実に過去に魂が飛んでいった人、などが続出。私は、この曲の内容が「旅愁」の方向に脱構築されていった昭和初期の歴史を、それが拡大された形で反復されていた戦後の歴史をでっち上げようとしていたのだが、……まったく曲の威力を侮っていた。これは、朔太郎以降?の歌い上げる「詩」の意味をよく考えていなかったこととつながっているかもしれない。「ふるさと」を表象批判的に扱っても駄目だなあ……という当然のことを突きつけられた形である。

とりあえず、講義を終えて、私は駅に向かった……