★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

月影と Noli me tangere

2022-01-30 23:21:11 | 文学


旅寝する伊勢の浜荻露ながら 結ぶ枕に宿る月影

露のなかに月が映っているのであろうか。草枕に月が映るとしたら、その映り方は、水滴に月が映るようなものではなく、イメージの重ね塗りみたいなものなのかもしれない。月影というのは、月の姿でもあり光でもありそれによって出来る影でもあり、そういう情景そのものである気がする。月という物は単独では存在していない。

昨日ラジオで石井歓の歌劇『かぐや姫』を放送していたが、なかなか聞き応えがあった。物や言葉に即したちまちました表現がなかったからである。――すなわちそこにはワグナーばりのライトモチーフがないように聞こえた。高校の時だったか、音楽の先生が、これからはシュプレヒシュティンメが一世を風靡すると言っていてそんな馬鹿なと思ったが、音楽漬けになっているわれわれの生活がもはやシュプレヒシュティンメ状態といえるわけである。せりふと音楽が対立するのではなく、せりふは音楽という背景に溶け込んでいる。「竹取物語」をどう視覚化するのか、近代における試みはいろいろあったが、石井やジブリ映画のかぐや姫も、人物たちの輪郭を背景に対してぼやかしていった。そのなかで、さりげなく帝の権威や暴力を無化して行く物語が語られるのである。

聖書でイエスが、Noli me tangere (私に触るな)と言っている。こういうことを言ってよいのは危険に身をさらしている人間だけで、そういう人間以外が使うのはむしろ、いつも我が国では逃避の一手段であった。それは私と世界の距離を広げようとする言葉になってしまうのである。田島正樹氏が最近の風潮を、「ノリ・メ・タンゲーレ(noli me tangere)少女学派」とでも呼ぶしかない連中」と批判している(「『文学部という冒険――文脈の自由を求めて』(NTT出版)」、http://blog.livedoor.jp/easter1916/)。私もそう思う。かぐや姫は少女である。

もしかしたら、無私であることでしか抵抗運動を行えなかった癖が我々を縛っているのかもしれない。そして、私に触るな、と言ってしまうことが情況への逃避であるその情けなさが、むしろ自らが月影のある風景のような姿であることで、辛うじて世界への興味と抵抗感をつなぎとめているのかもしれない。然し果たして、それで本当に何かが出来た例があったであろうか。

涙の数だけ強くなるわけがない件

2022-01-29 23:46:54 | 文学


涙こそゆくへも知らね 三輪の崎佐野の渡りの雨の夕暮

涙の行方が知らないとは恋の歌らしく、確かに雨も行方が知らない感がするから尚更であることだ。

苦しくも降り来る雨か 三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(萬葉集 長忌寸意吉麻呂 巻第三)


この歌を受けているわけだが、家がない(故郷の我が家がない)と言っている分だけ、その苦しさは所在がない気はしない。小学生が雨に打たれて道に迷っている感じに近いのではなかろうか。これに対して、実朝の歌は、大して困ってはいなさそうなのだが、恋に紛れて風景は見えていない中学生のようなところがある。

院生の頃、田野大輔氏のナチズム論を読んだが、ベンヤミンやユンガーを参考に、労働者の総合芸術としてのナチズムを論じていたように思う。わたくしはその頃、果たして、その総合芸術というモメントが、ワグナーの存在に支えられているとして、我々にはそれがあるのであろうかと考え、たぶん「夕鶴」にもないし、当時のプロパガンダアニメーションにもなかったと考えたものであった。あるいは、大河ドラマや朝ドラにあるのかなと考えたこともあるが、それは戦後の作品だし、そうでもなさそうであった。

いまは、ワグナーの長い総合芸術が断片として受容されているように、なにか短絡的な回路の成立が問題なような気がしている。それがメディアによる強制を超えて内面化してしまう事がありうるのである。

例えば、『ドカベン』第31巻は、明訓高校の面々が土佐丸高校に追いつめられ、一人一人の幼少期からのトラウマの克服が紹介されながら、甲子園優勝を成し遂げる話であった。『ドカベン』の中で最高の出来と言われる物語で、すごくその後の漫画に影響を与えていると見られる。が、戦いのさなかの回想(かどうか怪しい。マンガの語り手は主人公たちではなかった。むしろ、もう一人の「アナウンサー」のような気がする。)の自然さがよかったというか、満を持しての回想がよかったのである。主人公たちが、十年以上をかけて物事を乗り越えなければならなかった事態が読者の胸を打つ。

しかし、最近はなんだか、短時間の戦いのさなかで、いちいち相手からの説教と同時に回想・トラウマの超克がなされるパターンが多く、――特に格闘系の作品に多い気がする。これは作劇法というより、競技の内容に関係していて、野球の競技は適度なソーシャルディスタンスがあるから回想も節度があるのではなかろうかと疑われる。しかし、そういうことが続くと、それは一般的な心の動きとして受容されてしまう可能性があると思う。以前、夏目房之介氏がマンガ夜話で、「マキバオー」はジョーと違い1レースでトラウマを克服する、これは素直だから、という風な説明をしていた。夏目氏のいう素直さは性格のことであるが、正確ではない素直さは短絡的な回路に過ぎない。この素直さがトラウマの克服に繋がるタチの物語は確かに多くあって、現実にも持ち込まれている。

特に教育への見かけの適用は欺瞞的である。もっとも最初は、その欺瞞を自覚しながらの、社交術であったに違いない。しかし、いまや、欺瞞であることすら忘却され、そういう短時間での克服を言明し、それを成し遂げたふりをしなければいけないような圧力を感じる以前に、じぶんで克服したと思い込む人間まででてきている。欺瞞性が機能していると思っている人間の頭が悪いとすれば、それを忘れた人間の頭は腐っているのではないだろうか。

政治の美学化を美学の政治化に反転させようとする戦略がなんとなく無効ではないかと推測されるのは、その腐った状態が反転したりはしないからである。リベラル?がいつ左翼の仲間入りをしたのかわたくしは知らないが、それはともかく、政治の美学化がダメダからと言って、シンボルを別のシンボルとして批判したりするのは、美学化の時間とプロセスを無視するもので、それこそファシズムの側面なのである。

実朝だって、そういう状態でなかったとは言い切れない。恋でも涙も涙でも――なにかを言い得ているような気がしている世界を歌っているだけかも知れない。乱世だからといって頭が冴え返っているとは限らないのである。

going through a rough patch

2022-01-28 23:29:16 | 文学


草深みさしも荒れたる宿なるを 露をかたみに尋ね来しかな

露はどこにもあり、それが形見だというなら、――形見は遍在するのではなかろうか。あばらやで男を待つ女の姿がどれほど好まれたのか、よくよく考えてみると、「伊勢物語」だけの影響とは思えない。この涙の露も、あるいは自分の涙ではなかろうか。わたくしであったら、女があばら屋で朽ちて行く姿は耐えられない気がする。しかし、人間はそんな非人情なことも平気やってしまうもので、その後悔の方をよく覚えているような気がする。涙は、女と男のそれが混じっている。こういう涙は物理的にあるものではなくて、歌の中で関係性の怨念として存在する。

岩波明氏の『文豪はみんな、うつ』の幻冬舎文庫版の解説を島田荘司氏が書いていて、ある種の怨念が籠もった名文であった。推理小説の界隈も、純文学と同じく、学歴やら被差別者としての怨念やらがあった。岩波氏の文章も、単なる作家の病歴ではなく、近代文学の文士たちが持っていた精神的環境が鬱病を発症させ彼らをはやい死に追いやったことを重視しているようだ。――しかし、岩波氏も島田氏も彼らの文学からくる種々の怨念に突き動かされているようにも読める。やはり近代文学は怨霊を呼び出す、呪術回線みたいなものであった。

漫画の世界で、最近の作品では「呪術廻戦」というのがあったし、むかしから少年漫画には呪術で怨念と戦う話が多い。これは、近代文学が文体を失い、うまく言葉に出来なくなってしまった怨念の扱い方を直裁に表出したものなのかも知れない。

我々の世代は、まだ文学への幻想があって、論文に於いてもその論理がそのまま文学的昇華になりうることを夢みている人が多い気がするが、グローバル化と経済的破滅の中で思春期を送った下の世代になると、怨念の表出の仕方も異なっている。刑部芳則氏の大著『セーラー服の誕生』の「おわりに」がすごくて、学校の記念誌を400ばかり調べた後あたりで苦しくなって、「大東亜決戦の歌」を自分に言い聞かせながら乗り切ったという。刑部氏はちょうどわたしの妹の世代だが、そういえば、軍歌の研究で世に出た辻田真佐憲氏とか、ネトウヨから転向した古谷経衡氏とかもその世代である。妹が言うにはまわりには一種の日本回帰を思春期から起こしている者が結構いたと。妹も伝統文化に大学以来のめり込んでいていったがそれは興味というよりある種のパッションであったようだ。時代のせいなのか、洒落ではなくある種の受難(パッション)意識が働いているような気がする。

しかし、怨念は、関係性として存在する。我々がそのことをわすれる頃が一番受難の時代といえるであろう。

上の空の幻想

2022-01-27 23:27:06 | 文学


来むとしも頼めぬ上の空にだに秋風吹けば雁は来にけり


大空に頼んでもいないのに秋風がふくと雁はやってくるのに、あなたは何故来ないの?みたいな意味であろうが、知るかという感じである。

上の空は、上空に「上の空」が掛かっているので、ほんとに空を眺めている訳ではなかろうが、――空を眺めるときにはどんな気分であろうとかぼんやりしているうちに時間が過ぎてゆくのが普通の人であって、たいがい雁も来ない。上の歌は、全体が空想ではなかろうか。

2ちゃんねるが俳諧的であるとは90年代から言われていたが、いまのツイッターの世界でも大して本質はかわっていない。字数制限があるから余計そうなった可能性すらある。それは簡潔に本質をつけるとか、そういう訓練になるとか思っているのは、半可通である。普通は、歴史に埋もれた星の数ほどある和歌の駄作のように、他人や過去を単純にとらえすぎる性向をドライブしている。この性向は現在に適用される。自分や現在に対する見方を他人や過去に適用するのが一見正しいように思えるが、逆で、他人や過去から複雑さの道を探った方がよいのである。「自分を向いて歩こう」https://tenshoku.mynavi.jp/content/newcms/ad/pr045/ みたいなのは、教育的にとてもよくない。

私も小さい頃、

上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて

というのを、星が瞬いているからそう見えていたんだと思い込んでいたが、こんなのが、自分を向いて歩こう、というやつである。歌詞をよく見ろよ、という。この話者は泣いているから上を向かざるを得ないのであり、星が滲んでいるのである。本当は滲んで見えているかも怪しい。それを数えているというのは強がりであるかもしれない。なにしろ「上を向いて歩こう」なのであるから、ほんとは下を向いている可能性が高い。

星はめぐり、金星の終りの歌で、そらはすっかり銀色になり、夜があけました。日光は今朝はかゞやく琥珀の波です。
「まあ、あなたの美しいこと。後光は昨日の五倍も大きくなってるわ。」
「ほんたうに眼もさめるやうなのよ。あの梨の木まであなたの光が行ってますわ。」
「えゝ、それはさうよ。だってつまらないわ。誰もまだあたしを女王さまだとは云はないんだから。」
 そこで黄色なダァリヤは、さびしく顔を見合せて、それから西の群青の山脈にその大きな瞳を投げました。
 かんばしくきらびやかな、秋の一日は暮れ、露は落ち星はめぐり、そしてあのまなづるが、三つの花の上の空をだまって飛んで過ぎました。
「まなづるさん。あたし今夜どう見えて?」
「さあ、大したもんですね。けれどももう大分くらいからな。」
 まなづるはそして向ふの沼の岸を通ってあの白いダァリヤに云ひました。
「今晩は、いゝお晩ですね。」


――宮澤賢治「まなづるとダァリヤ」


宮澤賢治はとてつもなく強がりだったのかも知れない。普通は星が滲んだと言っているだけだが、まなづるとかダァリヤとかがしゃべり始めるからである。実朝はまだ永六輔に近かったかも知れないのだ。

あれ 松虫が鳴いている ちんちろちんちろ ちんちろりん

2022-01-24 23:26:39 | 文学


小笹原おく露寒み秋されば 松虫の音になかぬ夜ぞなき

この歌は詞書に「頼めたる人の許に」とあって、ええかげんな男が通ってこないのでひたすら松(待つ)女の立場にたった歌であるようである。しかし、詞書きを知らなければ、「小笹原おく露寒み」のなかで秋松虫が鳴いていることを歌った風景描写的な歌であるようにみえる。思うに、これはこれで本当に松虫の歌であり、恋は、松虫なしではいられないのだ。ひいては、恋は歌なしではありえない。松虫から待つ女へなにかが移り、恋の歌から人間へ何かが移り、またその松虫の声を聞く人間が恋の歌を詠み、恋をする。こういう循環が感情を――つまり人間社会をかたちづくるのである。

言うまでもないが、昨今の、コミュニケーション能力とか、ハラスメントの主体とかいう、能力や加害力が主体に内在しそこに悪や罪が宿るかのような論理は、丸山眞男のいわゆる「抑圧の移譲」すらふまえぬ瑕疵というより、――上の松虫と待つ行為を、待つ行為のみを主体として考えるような閉じた態度を示している。

本当は閉じているどころではなく、暴力的権力だけを隠すための仕組みに過ぎない。「ハラスメントは連鎖する」(安冨歩)の観点は、暴力的な親の存在を告発することにあって、勇気のある試みだった。しかし安冨氏はもちろん、親だけでなく政治的権力すらも告発する段階にすぐに移っていったが、必然である。ハラスメントは誰かが連鎖を止める努力をするべきで、場合によっては被害者がその「移譲」の情況を自覚することで我慢する局面だって必要だが、連鎖は大きな原因を排除すれば消滅する場合もあるからである。

その場合、過激な言動も必要だというのが、西洋の文化の一部で自覚されてきたことであり、日本の場合、ハラスメント対策が息を潜めてトラブルを避ける方向で進み、「いい人」たちの頷きあいに移行しがちであるのは相変わらずである。ある種の人間は頭がいいので、こういう情況のなかでうまいこと権力的に振る舞うことが可能である。なにしろ、物事に激しく反応する人間がいないんだから、むしろ、その可能性を広げているのが、昨今のあれなのである。

小さいコミュニティで過剰に民主主義的な手続きに拘り、構成員にこまかく諮るやり方をする人間が、案外大きな権力には従順なのは一見矛盾にみえるけれども、矛盾ではない。生きることの自由は、それが野放図に創造される事態を示しているのに、彼らにとってはそれは単に権力の裁量や合意に適合すべき行為の問題なのである。つまり自分の創造性、ひいては生きることそのものに価値を置いていないので、生はせいぜい個人の利益としか認識されない。それと関係なくなったらすごく人情に欠けるし迷惑を考えないし、場合によっては自分を護るために積極的にいじめも厭わない。かれらにとっては権力はその裁量内の行使だから、それには文句をつけることはない。適当に自分がそれらに傷つけられなければいいと思っている。――というわけで、組織の中での過剰コンプラ+なんとかマターが好きな人間は、大して意識せず、いじめが大好きだし幇間的なのである。

白樺は自分たちの小さな力でつくった小さな畑である。自分たちはここに互いの許せる範囲で自分勝手なものを植えたいと思っている。

――『白樺』創刊の辞


今日は、授業でこの宣言がもつ重大な意味を偉そうに語ってしまったが、本当はわたくしなんかは語る資格はないのだ。組織の中で自分勝手なことをしようとするとハラスメントになってしまうのを知ってるくせに、という理由である。

虚実の皮膜――御嶽海圧倒的優勝

2022-01-23 23:46:01 | ニュース


御嶽海、横綱に勝って優勝。

大関になれば雷電以来の長野県出身大関の誕生である。雷電は、254勝10敗、勝率.962、197センチメートルという、たぶんわたくしとは違う生物という人で、あまりに強かったため横綱になれなかったとかいう噂があるが、江戸相撲にあらずんば相撲にあらずみたいな、いまの大相撲一極集中の基を築いたのであった。引退しても、半引退状態で40代終わりまでやっていたとウィキペディアに書いてあった。相撲は、たぶん、歌舞伎のようなものに近いものであった。最近まで野球ですらそういう芝居がかったものであった。

そういうことが分からない文化が明治に入ってきて、裸体禁止令まででたのはよく知られていよう。相撲を裸体とは認識しないのが我々の文化であるが、はっ、よくみたら裸ではないか、というわけである。しかし、その裸体レスリングが好きなのが明治天皇で、天覧試合を盛り上げた結果、いまの大相撲が出来上がった。考えてみたら、いまのプロ野球も、長嶋・王が天覧試合で活躍してから独特のオーラをまとい、歌舞伎的な何かを取り戻した。

今日御嶽海のつけていた化粧まわしは、上松町元気会のものだと思うが、――寝覚ノ床で浦島太郎が鯛を釣り上げている。従って、どうみても木曾には海があるのではないだろうか。したがって御嶽海の名前は嘘ではない。こういう虚実の狂った世界で成り立っている世界が文化なのである。

静岡では、水が吹き出して山梨県に流れちゃうとかの件で、リニアの工事がもめていると聞いたが、恵那山=アマテラスの胞衣を傷つけたりするから天罰が下ったと言へよう。――と考えた人間はけっこういたはずである。ナンセンスだが、結局、リニア要るのかそれ?という常識を無視してことを進めるとアマテラスまで出現するのである。つまり、理不尽が怪物的な何かを呼び出すのである。しかし、呼び出したものによって我々の心は、やたらいけない隣人や為政者を殺して泥仕合が出現するのを避けているのである。相撲もその一種である。ちなみに、マルクスの言うように「共産主義」もその一種である。

雷電の出現は、言動が半分外国人であるような?御嶽海に対する人々の気持ちをなんとなく鎮めるであろう。こういうのは、道徳的な説教で鎮まるものではない。

顔ともの

2022-01-22 23:07:54 | 文学


うき波の雄島の海女の濡れ衣 濡るとな言ひそ朽ち果つとも

恋の歌であるがなかなか好きな歌である。「濡れ衣 濡るとな言ひそ」というずっこけたリズムに続いて「朽ち果つとも」としゃんとしているところがいいと思う。ここには心の律動があって、表情はないのではないだろうか。うき波がかかって濡れる海女の衣とはじまったことによって、海女の衣に視線は縛り付けられていて、わたしは、それが「泣き濡れた顔」には思われない。想像してもいいが、あまり想像しなくても良い気がするわけである。濡れる衣は古典の世界で、――一部近代でもよくあらわれるものだが、顔を避けることが心に集中することになっているような気がして、わたくしたちの文化に染みついた「物」好きの視点への屈折は頑固だなと思うわけである。

若き文士たる宇佐見りん氏の「顔パックの悲しみ」というエッセイには、

容姿が自分の作品の印象に何か悪い影響でも及ぼしたらと思うと、想像するだけで落ち込みそうになる。顔パックの穴からはみ出た目尻には、今も美容液が染みる。だが、その痛みがなかったのなら、私はおそらく小説を書いていないのである。

という部分が出てきてわたしはけっこう驚いた。単なる想像であるが、近代文学の男の作家たちは自分では案外いい顔だと思っていた節がある。それは、作品と密通している顔ではない。そこには、文学及び文学者という観念の壁があったように思われる。しかし、宇佐見氏の場合は、整形しなければ作品が傷つく可能性があったのだ。

恋愛をあまりに美化してしまつた結果、恋しあふ男女は、あまりに現実的な明日の生活にまで生きのびる意欲を失つてしまふのです。とすれば、歴史を通じて日本人は「望みをもたなかつた」のではなく、各時代ごとに容易に望みに達してしまつてゐたといへないでせうか。

――福田恆存「日本および日本人」


ついに、こういう意見さえも吹き飛ばす時代がやってきたのではなかろうか。私なんかはつい、人はすべて顔よりもルサンチマンが優先されていると考えがちではあるが、どうも最近は何かが違ってきている。

進むわれらのキマイラ

2022-01-20 23:38:46 | 文学


宮柱ふとしき立てて 万代に今ぞ栄えむ鎌倉の里

宮柱を立てて、みたいなのはやはり古代を思い浮かべるべきなのであろうか。たぶん鎌倉という土地にあまり自信がなかったのであろう。そういうときには、まず宮柱を立てるのである。砂の山に枝を突き刺すこどもみたいなものである。

しかしまあ、この鎌倉も今に至っては何かおしゃれな土地にまで成りあがっているのである。むろん、われわれにとっては鎌倉文士が大きい。鎌倉文士たちnには、あるいは、京都や東京の文化とは違う拠点をもつみたいな、――鎌倉幕府みたいな意識があったのかもしれない。

そういえば、保田與重郎なんか、日本の橋だとかいうて、結局好きなのは奈良京都なのであって、――例えば、三島由紀夫は若いし東京の人だから神道というものはわからんだろうとか言っている。それはわたしが持っている、お前らみたいな平野人が御嶽のことが分かるかみたいな意識であったろう。わたしなんか山は暗黒で怖かったくせに、山伏になった夢さえ見たことがある始末で、――保田の日本もたぶん夢である。しかし、この夢だか現実だか分からない意識こそがすべてのものよりも大きい。これを求めて、実際の空間すら占拠しようとするのが人間である。

大東亜共栄圏とは、中国やビルマを含めた広い土地のことではなかった。むしろ日本やそれら、東南アジアの列島を外縁に持つ海のことであった。東方社の出していた『大東亜建設画報』にある共栄圏の大きな図を見ると、太平洋を囲む日本列島や東南アジアの諸列島を要塞線かつ文化交流の線みたいに考えていたみたいである。でも、それはちょっと「線」的な発想だよな、と思う。その「線」は虚無を飛び越えている。

わたしは山の出身だから河が一種の路であることはなんとなくわかるが、島と島の間はもっと虚無的なものがあるに違いないのだ。柳田の「海上の道」や吉本の「南島論」を読んでてもなんとなくその違和感がぬけないな、わたくしは。なぜ、このような虚無を想像的に乗り越えられるのかわからない。実際にそこに道があったとしても、そこには長い時間がかかりすぎている。実際は道ではなく、死の忘却による点としての移動である。――実際、戦争で露呈したのはそのことである。

だから、中国の一帯一路みたいな砂煙を立てて進撃する陸上の移動とは訳が違う。

その怪物は少しもじっとはしていなかった。ゴムのように強靭な筋肉で人々を締め付け、巨大な爪を肩に食い込ませていた。また神話に出て来るままのその頭は、人の額に覆いかぶさり、古代の戦士たちが敵を脅かそうとしてかぶっていたあの恐ろしい兜を思い出させた。私は彼らの一人に向かって、一体どこにいくのだと問うた。その男はわからないと答えた。誰も知らないのだ。だがどこかに行こうとしていることは明らかだった。彼等は見えない欲求に駆り立てられて歩き続けているのだ。

――ボードレール「 Chacun sa chimère」(壺齋散人訳 http://blog.hix05.com/blog/2008/12/-chacun-sa-chimere.html)


ボードレールのみたキマイラを負った人々とは、果たして陸上を移動する人々のことであろうか。よく分からないが、本当は、柳田の描く「海上の道」を進む人々の方がそうかもしれないのだ。我々の文化が持つ、赤ん坊のような暴走を起こす何者か、それは無意識にも死を忘却し乗り越えて進むものなのかもしれない。自分では点として田んぼを耕しているつもりであっても。

未来への投網、過去への投網

2022-01-19 23:38:46 | 文学


ちはやぶる伊豆の御山の玉椿 八百万代も色はかはらじ

ここには無限の未来に対する信頼が神を理由にしてあるみたいであるが、その実現在までの過去をそのまま未来に折り返して伸ばしているだけであるように思われる。玉椿が色が変わらないあつかいを和歌でされてきたのでよけいそう思えるのであろうが、実際の椿がぽとりといきなり落ちることのイメージがよぎらないわけはなく、ほんとは未来はかなり不安定なものとして意識されているのかもしれない。

天皇の歴史とは果たして、未来に延びようとしていたものであろうか。千代に八千代にというのがその実未来への恐怖であるのはありうることである。同時にほんとは過去もろくでもない世界が広がっていたことは誰でも知っており、案外、天皇制は「いまここ」に相性がいい。日本の保守主義とは、保守ではなく現在の維持なのである。

小島玄之の『クーデターの必然性と可能性』というのを初めてめくってみたが、よく分からないけれども、ある時期日本の右も左も問題にしていたのは必然性と可能性であった。つまりこれは根本的に上のような天皇制への時間的抵抗である。三島と東大全共闘の対立が、この時間的抵抗を過去に向けるのか未来に向けるのかという対立を作り出していたのはよく知られている。

私は、過去の神話が未来への神話に転回し化ける瞬間があり、――ある種危険な考えであるが、それは許される場合があると思っている。ただし、その転回的神話は人間の知性の行為としてあるときだけであるように思われる。知性が欠けている場合は、「無為」たる現在の合理化にしかならない。

では、日本の受験生たちが直面する「知」の世界はどうなのであろう。確かに、彼らがそれ自体の楽しさにとり憑かれることはあるだろうが、たいがいそんなここの余裕はなく、競争の手段となりはてている。確かに、彼らが行っているのは、就職とか出世とかの、未来へのセフティネットなのである。未来の時点では時間が止まる無為が目標なのであるが、確かに未来を見ていることは確かなのである。しかしそれは一種の無である。当たり前である、まだ何もやっていない誰とも会ってない空間への投網なのである。そこに賭けるのが例えば受験優等生たちであるが、必然として失敗したときに孤独になってしまう。孤独にならないためには過去にセフティネットを投げるしかないのである。例の東大前での君もそういうかんじに私には思われた。もちろんススメはせんけれども、ワシは東大に入るでーと言いながら中学の同級生とバイクで東大に乗り付けるとかのほうが、ワイワイとおもしろそうなのにそうはしないわけである。

未来への網に対してはやくから絶望した子ども達は逆に過去を利用する知恵をつけて生き延びて行くのである。優等生たちは、しばしばそれがわからない。よく言われることであるが、右も左もエリートたちが孤立するのは、知的な孤立ではなく、網を投げる方向の違い、しかもそれが失敗したところからくる単なる必然である。

しかし、かかる事情をふまえた上で、未来にも過去にもセフティネット張らずに踏ん張る生き方があると思う。正直なところ、学者はそうじゃないと、かならず誰かの利益に奉仕することになるんじゃないだろうか。

以前どこかで書いたが、江藤淳の持っていたある要素が、彼を模倣した柄谷行人を通して生き延びた部分は案外大きかったのである。ある論者が滅びないためには他の人が必要だというのは、マルクスとエンゲルスみたいなものだけではない。共闘よりも、引き継ぎの方が未来を形成するのだ。非常に皮肉なことに、ネトウヨと今風のリベラル?との関係は、江藤淳と柄谷行人との関係に全く似ていないとはいえない。

ゼロの反転

2022-01-18 23:38:46 | 文学


宿にある桜の花は咲きにけり千歳の春も常かくし見む

我々にとって毎年飽きずに咲いている桜はいったい何であろうか。それは千歳の保証のようなものである。桜が咲かなくなったときにはこの世は0になるという恐怖があるのだ。我々は、ときどきそういう0を経験してきたからである。地震津波犯罪人生の過ち、なんでもいいが0になるときがある。実朝の人生も突然0になってしまったが、珍しいことではなく、たぶんこれは桜の開花に近い日常である。

「笑ってはいけない。だって君、そうじゃないか。祖先を祭るために生きていなければならないとか、人類の文化を完成させなければならないとか、そんなたいへんな倫理的な義務としてしか僕たちは今まで教えられていないのだ。なんの科学的な説明も与えられていないのだ。そんなら僕たちマイナスの人間は皆、死んだほうがいいのだ。死ぬとゼロだよ」
「馬鹿! 何を言っていやがる。どだい、君、虫が好すぎるぞ。それは成る程、君も僕もぜんぜん生産にあずかっていない人間だ。それだからとて、決してマイナスの生活はしていないと思うのだ。君はいったい、無産階級の解放を望んでいるのか。無産階級の大勝利を信じているのか。程度の差はあるけれども、僕たちはブルジョアジイに寄生している。それは確かだ。だがそれはブルジョアジイを支持しているのとはぜんぜん意味が違うのだ。一のプロレタリアアトへの貢献と、九のブルジョアジイへの貢献と君は言ったが、何を指してブルジョアジイへの貢献と言うのだろう。わざわざ資本家の懐を肥してやる点では、僕たちだってプロレタリアアトだって同じことなんだ。資本主義的経済社会に住んでいることが裏切りなら、闘士にはどんな仙人が成るのだ。そんな言葉こそウルトラというものだ。小児病というものだ。一のプロレタリアアトへの貢献、それで沢山。その一が尊いのだ。その一だけの為に僕たちは頑張って生きていなければならないのだ。そうしてそれが立派にプラスの生活だ。死ぬなんて馬鹿だ。死ぬなんて馬鹿だ」


――太宰治「葉」


ここには、ゼロがこの世の破滅ではなく、個人の死を意味している。この自意識なら、世の中の破滅なんか、何のことはないわけだ。太宰にとっては大震災も世界大戦も大したことではなかったのではなかろうか。

factish

2022-01-17 23:13:01 | 文学


くろ木もて君がつくれる宿なれば 万代ふともふりずもあらなん

この黒木は大嘗会のときに作られる宮のことらしいのであるが、そんな馬鹿な、万代も持つわけないじゃないかと思うし、その通りではあるが、――天皇というのはいわばゴジラのようなものであって、何回も作られながら、仮想・ゴジラ的事実を再生産するものである。最近、ラトゥールの『近代の〈物神事実〉崇拝について』を読み直したが、それは物神事実みたいなものなのかもしれない。(前に論文にも一部書いたが。。)

最近、「ゴジラS.P」という作品をみたが、ゴジラの起源を原爆から引きはがそうとしていた。しかし、原爆が「科学」によって引きおこされているという「事実」をより強調することにもなっていた。その意味で、ゴジラの物神事実的な歴史をより強力に推進するものであった。

そういえば、水島新司氏が亡くなった。氏がつくった野球漫画は「巨人の星」や「アストロ球団」などと違い、野球が人生や革命に比される娯楽であることを超えて、現実まがいに接近していった。「ドカベン」の明訓高校が強すぎて、現実の甲子園大会がつまらないとか、山田太郎(ドカベン)にそっくりだから香川選手をドカベンと呼んでしまうとか、あぶさんの2000本安打記念を現実のダイエーが行うとか。。「野球狂の詩」は、その前半ではほとんど講談とか浪曲の世界であったが、後半、女性のプロ野球選手が登場すると同時に野村や江夏がそれを合理化して現実に架橋して行く――そんな作品であった。

それは架橋では終わらない。それどころか、現実に影響を与えていて、――そもそも全国の野球少年たちはドカベンを模倣して野球を始めている節があったわけだ。因果関係はないが、作中の義経や球道が甲子園で投げる160キロが、いま普通に現実で起こっているのは、どうみても人々がそれを期待していたからである。(スピードガンがむかしよりはやい表示が出るように改良されているという噂があるが、その噂をふくめて、期待の存在を示してる)

望むから人間に関する出来事は起こる。

そうでないのは、先日の海底火山の爆発みたいなものである。

また、作品のなかで語られない事実みたいなものは、あまり事実物神化を起こさないようだ。わたくしがもっているドカベンのDVDは某国のものゆえ「大飯桶」って書いてある。そういえば、この作品は貧困と食糧事情の話だったなとあらためて気付くわけであった。ドカベンの持ってくる巨大なうめぼし弁当は、山田の家の経済事情も示していて、岩鬼と山田の体格の違いは、食生活の豊かさとも関係があったのかもしれない。ドカベンのライバルに雲竜という巨人がいる。彼が小学生時代に山田に相撲大会の決勝で負けて、賞品のお米を貰い損ねたエピソードがあって、その後相撲部屋の師匠に預けられた雲龍が食べまくって巨体となり、山田に野球で負けて減量してまた山田に挑む。こういうお話は印象に残る。「大甲子園」でも、山田に簡単にホームランを打たれた沖縄の選手が、山田のプロとの契約金について、おれたちは食うお金すらも大変なのにこいつらは、とか呟く場面もあった。

今日、授業で耽美派を扱ったが、――象徴派が貧困なども美として扱ってしまったことが、20世紀の終わり頃までは我々の社会にも効いていたのかも知れない、と思った。