★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

求堯舜――「訂正の哲学」

2024-01-31 23:56:39 | 思想


墨子の政論は是の如くであるから、勢として人世の最上權力者の上に「天」といふ者を立てなければならぬ。そこで墨學では「天」といふものを立てる。「天」は「兼愛兼利」である。天意に順ふを「義政」と爲し、天意に反くものを「力政」とする。上は天に、中は鬼神に、下は人民に利するものを聖王と云ひ、然らざるものを暴王といふとする。「政」は「正」であるとする、「義」は「善政」であるとする。義は「天」より出づるとする。天子の貴き所以は「天の意」を奉ずる故であるとする。是に於て墨學は少し宗教じみる。天は民を愛する厚きものである、堯舜禹湯文武は天意を奉じたもので、それで天の賞を得たものであるとする。兼愛は「天志」である、獨り我が「天志」を以て儀法と爲すのみならず、先王の書、大夏の道に於て然るあるなり、と斷じ、天志は義の經也と斷じてゐる。天志を規矩として世に臨まんとしてゐる。上帝鬼神は天子より庶民の上に存してゐるものとする。帝と鬼は義の體であり、兼愛其物であるとしてゐる。こゝは大に基督教的信仰に近い。從つて天地間の現象は有意義のものであり、天の褒美、天の刑罰が存在してゐるものと認めてゐる。從つて祭祀は無意義のもので無いとしてゐる。

――幸田露伴「墨子」


考えてみると、日本では権力が堯舜みたいな存在を起点に持ってくる気がなかったのはフシギというかなんというか。。兼愛説、有命(運命)論批判や節約志向をとくると、――現代的に言えば、みんなで仲良く自己実現でコスパで、となんか使えない気がするのだ。やはり「天」は必要だったのか。しかしこれを安易に人にしてしまうと日本の天皇みたいになりかねない。

大学の講義中に鍋をやったとかいうニュースがあり、たぶんあのお方(関西の音楽学教授)の講義ではと思ったらほんとにそうだった。しかしまあ、わたくしはむしろ、鍋の最中に講義を始めるようなたちである。天がない以上、自由はせいぜい双方向であるべきだ。むかしわたくしが学生との鍋の最中、言文一致の歴史について講義し始め、まったく私語がなくわたくしもつかれたら食べればよいし、学生はずっと食べてたはいアカハラ。

そういえば、天下の民衆派、「訂正の哲学者」東浩紀氏が、スポーチ報知にまともなインタビュー記事が載ったとか言っていたので、みてみた。報知といえばジャイアンツである。本文では、東浩紀氏を「どこかくまのプーさんを思わせる」と言って懐柔していた。天下の批評家を、巨人ファンに取り込もうという陰謀は許せない。いますぐ中日スポーツは、東浩紀の特集を組み、断然コアラに似ていると「訂正」すべし。天がないのだから、せいぜい出来るのは「訂正」だけだ。

「訂正」といえば、学生運動は途中でネーミングで負けたと思うのだ。連合赤軍の前あたりで学生スポーツに「訂正」した方がよかった。そうすると、いまでも「スポーツやったことのないやつ、資本論を読んだことない奴、まじで危機感もったほうがいい。ぼそぼそしゃべってんなよ。世の中理不尽よ、違う?」とかいってまじでオルグ成功である。(陰キャラは「生物としては負け組」 鉄道系人気YouTuber、ネット賛否の同業発言「スポーツ経験ない男はモテない」に私見)――ちなみに、部活に入ったことのない奴、それこそがお前がモテない理由、といわれていちばんもやもやしているのは、吹奏楽部とか管弦楽部とかの連中ではないか。ランニング腕立て競争社会監督から怒鳴られ、みんな同じなのにスポーツでない。

で、そのもやもやがおおい我々のなかには、訂正の代わりに、ダイナミックに何かに「回帰」したがる連中がいる。最近も、西洋系思想学者の日本回帰がよくあると聞いた。しかしやつらはもともと英語や外国語が出来て日本を起点にしていたのではない、どちらかといえば日本へ侵略しに帰ってきたと言うべき。真に日本回帰しているのは、我々のような日本文学に溺れていたやつが、ポストコロニアルだなんかとにかぶれてやっぱりやめたと言うやつである。どちらにしても、天意を懼れぬ輩であることは確かだ。だいたい朔太郎でさえ、日本回帰してもその路は悲惨な放浪であり孤独と寂蓼が宿命だといっておるのに、日本回帰して元気になってどうするのだ。

東アジア反日武装戦線の人と家族問題

2024-01-30 23:36:57 | 文学


四方を囲むトイレの壁があわただしい外の世界からあたしを切り取っている。先程の興奮で痙攣するように蠢いていた内臓がひとつづつ凍りついていき、背骨までそれが浸透してくると、やめてくれ、と思った。[…]あたしから背骨を奪わないでくれ。生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。冷や汗のような涙が流れていた。同時に、間抜けな音をたてて尿がこぼれ落ちる。さみしかった。耐えがたいさみしさに膝が震えた。[…]推しのいない人生は余生だった。

――「推し、燃ゆ」

この時期、宇佐見りんの「かか」を学生に読んでもらってレポートを出してもらうんだが、比較的よい意味で男女ともに似たような読みがでてくる。案外、「誤解」を与えないような書き方をしているんだなと思うし、いわゆる「同世代」「同時代」というのはそういうことかとも思う。よく傍証につかわれる同時代言説みたいなものは、たぶんこれとまた別なんだと思わざる得ぬ。文藝評論家のかいた「かか」論と学生の読みはどこかしらちがうニュアンスあるからだ。

源氏物語のぬりえほしいなあと思っていたら(――別に、義母が京都で源氏物語の栞を買ってきてくれたかわいい)、コンビニに既に売ってた。まことに資本主義はすごいといへよう。宇佐見りんなら、――いや言うはずはないが、勢いあまってぬりえのない人生は余生だとも言うのであろうか。むしろ、若い頃から余生を本当に送ったのは、桐島聡みたいな人であろう。二十代初期に運動をやって、警察におわれて人しれず偽名で働き癌で亡くなる直前に桐島であることを告白した。推しみたいな存在があることは、爆弾闘争をやるうえで桎梏である。推しの居るファンというのは、推しの存在に遠くからも近くへも自由に接近し、ネット上でもたとえそれが偽名を名乗っていても人目に晒されている存在でなければならない。やはり、これは公に生き続ける生き方だ。ネットが匿名性を拡大したことはたしかだが、公的な領域は拡大してしまったのである。

人は言う、――有史以来の我々の悪行は、いずれ復讐されぶん殴られることを前提になされてきたし本当はいまもそうだろう、だから、暴力的な復讐がほぼ禁じられた世界では悪行自体もこぶりになるのではなかろうか。――なわけねえだろ。ますます公的暴力が許された世界に我々は住んでいるのである。

桐島氏にとって独身生活は必須だった。他方で、我々娑婆の多数派にとってもそうであろうか、自由を確保するために。いや、そうともいいきれないのだ。我々は、もはや、自分の発言が公的に許されるか許されないか判断されない対人間の空間をもつために家庭を持つべきかもしれない。そういえば、むかし、知り合いに自称ナンパ師が居たが、かれはなんか経験を積めば性の転換をおこすみたいなところを期待してたところがあるようだった。それは私に対してだけの発言だったのかも知れなかった。もしかしたら、宮台真司氏なんかも遊ぶことで性が転換するみたいなものを求めているのかも知れない。彼の言う性にダイブする、シンクロするみたいな感覚のことである。しかし、そんなに頑張らなくても、長く同居してれば性の役割は洗濯物干すレベルになってゆくにちがいないのだ。これは、ありえない性の転換よりも容易で現実的な、性の消滅・昇華である。そしてそれは、ネット上の二項対立馬鹿喧嘩とは別の次元に存在する。勝ち負けのない存在の世界である。しかもそれは無常であり、「大人」の頑張りを要請する。

ホリエモンでさえ確か、世の中無常なのが真理なんでがんばりますみたいなこといってたのに、ネットでは、武装戦線の人が勝った負けただと馬鹿馬鹿しい争いをしている。どうでもいい。勝っても負けても無常に我々は死ぬ訳だ。そもそもだいたいわしらはおおかた何かに負けてるわけである。今日も、かわいい雀に庭の何かを食い逃げされたし。――わたくしが家庭では、負けが負けににならないというのはそういうことだ。

桐島氏らの連続爆破事件の頃って「昭和枯れすすき」の頃である。――貧しさに負け世間に負け、われらは死ぬか生きるかしかしリア充、みたいな曲だった。以前、書評に書いたことがあるが、ファシズムを真似してみようみたいな実験授業があって、そこで「ユダヤ人だ」の代わりに「リア充爆発しろ」とカップルに集団でいう試みがあった。今思えば、リア充を否定するとファシズムに本当になるんじゃねえかな、という気がする。半分以上冗談だけど、リア充として逃げるやつと単独で逃げる奴と、現実的にどういう違いが生じるのだろう。連合赤軍のリーダーは微妙なかたちだがカップルみたいな感じだった。「バトルロワイヤル」もカップルの逃亡劇だったな、そういえば。――結局、ファンタジーだったということであろうか。

今日は学生運動と吉本隆明について講義したわけだが、こういうのは、あるていど時間が経たないとできないという感じがした。吉本の予想したものがどうなって、それをどう他人が反芻して、一通り終わってからでないと。桐島氏の事件に対する反応もひととおり出そろって分かったこともあった。「マチウ書試論」て、ちょっと誤解していた。対幻想の「共同幻想論」の角度から見過ぎてたのである。

五節の舞姫を見て詠める、天津風

2024-01-29 23:35:37 | 文学


天津風雲の通ひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ

昨日、NHKの大河ドラマで、きれいな舞姫たちが踊っていた。「五節の舞姫を見て詠める」上の歌、和歌の中でも最高傑作の一つであろう。そうであろう。むかし坊主めくりで坊主嫌いとか言っててすみませんでした。それにしても、NHKは緊縛に凝ってるのか?この前の宗教二世のドラマでもあるお店で緊縛される子どもを描いていたが、NHKもいまごろ放送コードに挑戦するのであろうか。まあたしかに、これから古代や中古で大河をやろうとおもえば、四国やなにやらが女人から生まれる謎の映像が流れるであろうから、緊縛程度のあれはどうでもいいかもしれない。

来年度は、学生の要請により、文学と二次創作、ひいてはファン意識や推し意識みたいなものの関係を十五回分講義することになりそうだ。現代短歌を勉強してみると、推し短歌なんてのもあるんだな。。。もしかして、上の坊主の歌は推し短歌なのでは。

まああれだわな、平家物語と源氏物語と古事記とならべて、ふるいほど解像度が低いわけではない。ドラマは文芸的解像と関係ないが。。。

落合博満氏が「記憶に残る選手よりも記録に残る選手がつよい」と言ってて、むかしは、そんな発言を、業績主義かよ、みたいに思ったこともあったが、この記録というのは言葉なのである。源氏物語は記憶じゃなくて記録なんだよな、これは完全な鮮度で残り続ける。そりゃまテクストが正確に伝わっているかどうかはわからんが、そういうことだ。

しかし、才能のある人の言葉が残るのはよいとして、大衆の言葉をどうするかは昔から課題であった。

で、考えたんだが、――いつまでもモンゴル出身者が横綱だ、みたいな愚痴を垂れている大衆は多いのだが、そうだ、もう相撲みたいな名前をやめてみたままの「大日本人」でいいのではないか。モンゴルからのあれも防げるし、某吉本の芸人の作った映画の名前が想起されお笑いの擁護にもなr(以下略)

《上への同一》論

2024-01-28 18:12:42 | 思想


正長既已具、天子発政於天下之百姓。言曰、聞善而不善、皆以告其上。上之所是、必皆是之、所非必皆非之、上有過則規諫之、下有善則傍薦之。上同而不下比者、此上之所賞、而下之所誉也。意若聞善而不善、不以告其上、上之所是、弗能是、上之所非、弗能非、上有過弗規諫、下有善弗傍薦、下比不能上同者、此上之所罰、而百姓所毀也。上以此為賞罰、甚明察以審信。

「上之所是、必皆是之」と「上有過則規諫之」との葛藤が考えられるが、後者がうまく働いた場合、前者が自動性としてうまくゆくようになる。前者を否定してしまうと、後者をやった意味が崩壊する。それぞれが義を主張する禽獣状態に戻ってしまう。

虚礼廃止というのはまあいいとして、その廃止をしたときに「あんたには別になんの感謝もあれも感じずに仕事をしております」と宣言するとおなじ事態となり、だいたい廃止しただけではすまないぐらいのことがわからないわれわれであるから、民主主義どころか共産主義など夢の又夢と言わざるをえん。もしかしたら、共産主義をつづけていられる中国には、「上之所是、必皆是之」がつよく働き、そしてその前提として「上有過則規諫之」の当為がいまだに働いているのかも知れない。

学問の越境とかえらそうなかんじの主張はむかしからあるが、そんなに越境したければ、小学校の先生になるべきで、毎時間違う教科を越境し、理論と実践みたいな悩みのひまなく実践だ。まさにおすすめである。ここでも、越境とか実践みたいなのは、「上有過則規諫之」の言い換えであって、「上之所是、必皆是之」ばかりじゃ不安になっているからである。つまり、彼らは君主のつもりなのである。

で、我々にはその《上への同一》を上から支える天があるのか、というのが昔からの問題だったわけだ。

まったく勉強したことがないから、ただの妄想であるが、いつも天はあったのだ。しかし、それに随わざるを得ないような暴力が働き過ぎたのか、自分たちの天と中国の天が相対化されてしまったのか、あるいは、輸入物の位階制度があんがい当為を考えずにすみ楽ちんだったのか、――天は否定も強く肯定されずにすんだ。たぶん仏教の影響も大きかった気がする。われわれはいつのまにか「蜘蛛の糸」のお釈迦様の境地を地上で手に入れたのだ。たぶん、仏像を造りすぎて自分が似てしまったのである。

大体に於いて、極点の華麗さには妙な悲しみが付きまとう。


――「日本文化私観」


わたしはまったくそうは思わないのだが、安吾が暴力的なやつで、教師をぶん殴った後、自分のパンチの華麗さに酔いながら自分の罪に悲しむという、――それは仮にてめえがお釈迦様であったとするとカンダタに対する行為がぎりぎり許される、みたいな感想なのではなかろうか。

人間/昆虫から遠く離れて

2024-01-27 23:48:39 | 思想


曰、然則衆賢之術将柰何哉。子墨子言曰、譬若欲衆其國之善射御之士者、必将富之、貴之、敬之、誉之、然后國之善射御之士、将可得而衆也。況又有賢良之士厚乎德行、辯乎言談、博乎道術者乎、此固國家之珍、而社稷之佐也。亦必且富之、貴之、敬之、誉之、然后國之良士、亦将可得而衆也。

賢人を多くするには、弓や馬の達人と同じでかれらを高い地位につけて尊敬し栄誉を与えるべし。大昔の墨子でさえ、賢者によい地位を与えて尊敬すると増えてくるよと言っている。少子化の対策は、まず産む人を尊敬するところからはじめるべきだ。というわけで、田んぼの蛙さんたちを尊敬しよう。

わたくしたちが、つい尊敬するべき奴を尊敬するとなにかソンをするんじゃないかと思うようになったのはいつ頃からであろう。たぶん我々が自分らしく生きるみたいな自己欺瞞を他者に投影するからだ。ありのままでいきてゆくよと言っている学者は多いわけだが、さっさと手から氷結光線出せよ、もう何年も待ってんだけど。――みたいな疑念とインテリ不信は似ているはずだ。

林田球の『ドロヘドロ』は元気なときに読むべき傑作であるが、逆に自分らしさを消去すると、我々は化け物に顔を変えてしまう、そんなことがよく分かる作品でもある。とはいっても、主人公の顔が鰐であるように、我々はいつもアイデンティティの危機を身近な動物を模倣することで乗りきってきたのではなかろうかとも思うのである。

我々の社会は、教師を生産できない社会になっていると感じるが、――どうも冗談じゃなく、むかしのひとは、犬猫だけでなく馬や山羊や虫たちとくらしていたから子どもともうまいことやっていたのではないかと思うのである。子どもはたぶん犬猫より馬や山羊に似ているし、給食のときなんかはまさに虫。つまりコミュニケーション能力みたいな人間的なものを想定している時点で間違っているのではないかとおもう。だいたいコミュニケーション能力笑の人って、相手を観察しないから、相手にコミュニケーションを要求するコミュニケーションだけになりがちなのだ。――それは、まさに、へたな飼い主である。

研究があるんだと思うが、校内暴力とかがおさまったりする場合に、実際中学生なんかにどのような転回が起こっているのか。人間がおとなしくなるというのはどういうことなのか。ここがいつもちゃんと観察されているかどうか。きちんと観察しないことによって抑圧を発生させてるのはわかるけど、そういうことにこだわっていても、せいぜい権力の勾配を、権力だ、生権力だみたいに存在を追認するしかない。問題は、かれらを人間だときめてかかっていることである。比喩ではなく、かれらをカブトムシみたいなものだと思って観察すべき。

多くの知識人、文人たちのコミュニティ論てほんとそりゃそうだよねみたいな理屈が書いてあるのだが、まさにお前に仲間がいないじゃないか、というあれに尽きる。その点、組織内にいて苦労している学校の先生やってるひとの言うことの方がまだましなのだ。学校の先生は認識力や学識の問題でうまく物事が言えないんだと文人たちはおもっていたところがあったと思うが、ここまで社会が学校化してくると、容易なことは言えないし、はてあれはどういうことだという事情があることがわかるだろうし、まずは非常に疲れていることがわかるのだ。そして相手が人間であることがどれだけ重荷になっているかも実感される。組織は人間の問題ではない。非人間的と言うより蟻やカブトムシの問題なのである。最近は大学でもそうかもしれないが、教員が妙なテンションで声色使うようになったらもうそんな職場にはおかしいやつしか集まらない。当たり前である。彼らはたぶん、人間的な魅力を出そうとしてAIに近づいている。いうまでも、AIがだめなのは、人間的なものに接近しようとしているからである。

乱歩の少年探偵団より大江健三郎の少年もののほうが最近の作品であるが、大江がほとんど人間を人間だと思っていなかったことは明らかだ。だから新しかったのである。

この前、信濃毎日新聞だかテレビだかで、長野県でやっている無言清掃の伝統についての特集があった。まだやってるんだな無言清掃、と思ったが、――そういえば、わたしの出た学校では「自問清掃」だったか。当時からそれが秩序維持が目的なものだとはわかったが、その抹香臭い半端な理屈づけについては、まあ舐められたもんだわなと思い、ひそかに学校をすっかり見放したことは確かである。当時は修養主義の名残だと思いたかったが、別もんであった。管理教育の導入であった。とはいえ、こういう活動が抑圧的であることはたしかでも、民主的な話し合いとかいう建前を実践しようとすると、単にコスパ的にずるする奴、口先野郎みたいな奴が叢生しそれはそれで大変な場合もあるであろう。集団としては生徒達が教師よりも優れているわけではない。外野はやってみてから言ってくれとかいいようがないのは確かである。学校の権力?も全体主義的かも知れないが、子供も違う意味で全体主義的であるのは自明である。お互いに行動を模倣しているスパイラルに入るとどうしようもない。ハラスメントが多発するのはこういう状況だと思う。力をふるうことが許されている方が力を行使するだけであって、実際に心的圧力で厭がらせをしているのがどちらなのかは、その現場による。

かくして、いらいらした教員達は、つい今時のわかものは批判的精神がないみたいなことを言ったりするわけだが、――学校に批判的、すぐ革命的に結論にとびちゅく、だいたいまじめである、若い――ほとんど一緒である。違うのは、より日常的に人間から離れた、つまりおしゃれをするようになったからか、儀式のさいに、ものすごくモンスターじみた感じになっていることぐらいだ。わたしが成人式とか卒業式がすきでないのは、儀式は拒否するぜみたいなあれだと思っていたんだが、もっといえば、かわいこぶった婆娑羅な恰好をみるのがいやなのかもしれないのである。どうみても男女ともに普段着の方がかわいらしい、普段の美が台無しだ。普段から昆虫なのに、もはやニコニコした龍みたいな形状の群れになっている。

その点、森薫氏の「乙嫁語り」、絵がうまいだけでなく、抽象的な衣装の柄がすばらしく、昆虫から遠く離れているといへよう。

パルチザン伝説――消え去る活動家

2024-01-26 23:06:16 | 文学


かやうなる媼、翁なんどの古言するは、いとうるさく、聞かまうきやうにこそおぼゆるに、これはただ昔にたち返りあひたる心地して、またまたも言へかし、さしいらへごと、問はまほしき事多く、心もとなきに、「講師おはしにたり」と、立ち騒ぎののしりしほどに、かきさましてしかば、いと口惜しく、「こと果てなむに、人つけて、家はいづこぞと見せん」と思ひしも、講のなからばかりがほどに、その事となく、とよみとてかいののしり出で来て、居こめたりつる人も、皆くづれ出づるほどに紛れて、いづれともなく見紛らはしてし口惜しさこそ。

王寺賢太氏の大著は『消え去る立法者』であったが、ここでは古言していた翁が消え去った。考えてみると、作者はもちろん語り手も記述者も消え去るもので、ちょっと彼らは焦っただけのことだ。大鏡は源顕房が作者だという説があるが、いずれにしても作者は五八歳で赤痢かなんかで死んでいるらしい。公卿補任なんかがあるから誰が生きて死んだみたいなことがあったように思えるが、これを記録した者だって死んでいる。むしろ、書かれたものだけが生きているのであり、それを生み出した者達は死につつあったに過ぎない。

有名なものだと、「百年の孤独」なんか、書物が読むはじから暴風によって掠われてしまうのであり、むしろ読者だけが生き残る感じがしないでもないが、その読者もいずれ死ぬ。

逆に?、とつぜん生き返るひとも居なくはない。大鏡の語りは、時間をいったり来たりするから、死んだやつが生き返る感じすらするのであるが、天皇をはじめとして死ぬときにはきちんと確かめられているのでそんなに混乱しない。しかし、今日にニュースに身柄を確認とでていた、東アジア反日武装戦線の桐島聡氏なんかは、毎日のように日本人がその笑顔を指名手配のポスターでみていて、しかし、まあ、死んだような扱いになっていたところ、なんと生きており、しかも末期癌であるそうだ――こういう場合は、まさに刹那の生還みたいな感じである。テレビをあまりみなかったので昭和のアイドルはろくにしらんわたくしであるが、桐島聡氏は知っておるぞ毎日写真見てたからな。

彼らの爆破作戦もそうだが、この刹那的なあれは、和歌に似ている。歌人としてなおなした、リーダーの大道寺将司にしてもそうだが、なんとか戦線の方たちは案外和歌的な感性なのがおもしろいところだ。散文的であると、革命はできないような気がするのがわれわれの文化ではなかろうか。

笑顔と言えば、――日本で画一的な優等生ではない個性的な何かを抜擢しようとすると、勉強が苦手ないらいらした人(面接では笑顔だった)を選んでしまう悲喜劇的事態を想起させる。だから、日本の憂国的インテリは、苦悩顔が好きだ。例えば、ショスタコビチの面従腹背についてはよく語られているけど、プロコフィエフだってある程度やってたわけだろうから、こっちの方も案外大事だろう。しかし、なんかモロボシダンもそうだが、ショスタコビチの顔が散文的苦悩に合っているかんじがするのだ。

プロコフィエフの「平和の守り」を聞きながら採点をしていたら、なんだプロコフェエフも十分散文的じゃないかと思ったから、かかることを口走るわけである。

学生と暮らしていると、――比喩や寓意が滅びかけている実感がある。しかしこれは、日本語の能力の問題じゃないと思う。その方向で問題化するとよけいに滅びるのではなかろうか。これは一方で起こっている和歌的なものの隆盛と関係がある。コスパとかタイパの人たちというのは、辞書に単語の意味がひとつしかない世界を生きている。文脈によって意味が変動することがない。で、結局、自分で意味を決めているだけなので世界を疎外するか自分を疎外するしかなくなる。で、和歌の場合も案外意味が変動しないきがするのだ。変動する前に言葉がつきるからである。日本語能力をきたえる方向性なんか、どうせ分かりやすい日本語みたいなコスパ路線である。和歌における比喩は、いわゆる比喩ではない。モノへの視線の彷徨いなのであろう。それは多様性へのひらかれであって、多義性へは開かれない。

たぶん、ある種の働き方改革と授業のコマ数制限とは同じような思想が流れている。労働や勉強の多義性の消失による、我々の弱体化が狙いである。

七〇年代のさまざまな運動をみていて思うのは、彼らがアナキストであろうとコミュニストであろうと、瞬間に憑かれていることだ。そういえば、むかし「怒りを込めて振り返れ」という映画があったが、日本人はたいがい歴史で一番詳しいのが縄文土器とかピラミッドなので、そこに怒りを込められても困る。これは冗談ではなく、縄文土器やピラミッドは、そこに視線を彷徨わせればよいだけなのである。かくして、怒りは現在に滞留して爆発する。

しかし、かように散文精神を称揚していても、わたしだって、桐島ときいて、――「桐島部活やめるってよ」、と聞いて、セクト抜けるときは大変だよと思った、みたいな戯れ言を想起していたのだから世話はない。われわれはこんなかんじで現在に遊ぶので、たとえば、前世の罪が地蔵によってもたらされる(漱石)ことも普通にありそうである。罪は子どもになってやってくる。もしかしたら、昨今の少子化は、そういうことを懼れてのことではあるまいか。

大鏡は、そういう意味では、きちんと過去を思い出そうとしているえらい奴が書いたに違いない。わたくしなんか、ついでに言えば、――むかし、浅田彰の「逃走論」が極左集団の逃亡を正当化するものだとかいってた自治会の変なやつがいて何かの機会に議論をふっかけて恨まれたのを思い出した程度だ。思うに思い出し方が刹那的であるだけで、果たしてこれは現在に滞留しているとさえ言えないような気もする。かくして、われわれの散文的精神は村上春樹ではないが、記憶が埋まった穴を掘る。中国人や朝鮮人の強制労働の件をえがいた岸武雄の『化石山』はそういうはなしで、洞窟のなかに記憶が滞留していた。むかし読んだことがあったから、さっき少し読んだが、洞窟にはいってゆく戦後の子どものせりふにはウルトラQのゴモラが引用されていた。昭和の特撮でもよくある洞窟は、そこに働いていたひとの内実を忘れさせる効果もたぶんあったのだ。

いまや我々が現在に滞留するというのは、爆発でも刹那の感動でもなく、つぎのような風景だ。

昨日は、駐車場を囲む網の地上二十センチぐらいに犬の糞がダリの時計よろしく引っかかっていたのであるが、ついに糞も網をのぼる時代がやってきた。

我々の蜜の味

2024-01-25 23:55:11 | 文学


家あるじの、『木にこれ結ひ付けて持て参れ。』と言はせ給ひしかば、あるやうこそはとて、持て参りて候ひしを、『なにぞ。』とて御覧じければ、女の手にて書きて侍りける、
勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ
とありけるに、あやしく思し召して、『何者の家ぞ。』と尋ねさせ給ひければ、貫之の主の御女の住む所なりけり。『遺恨のわざをもしたりけるかな。』とて、あまえおはしましける。


梅の木を持ってこさせたら、その梅の木の植わっていたのは貫之の娘の家で、さあご命令なんで献上するのですがこの木に来ている鶯が宿はどうなったのと聞いてきたらどうしましょう、という歌までついていた。むかしの人にとってこれが美談になってしまうのだから、いまよりましな世の中だったのかもしれない。いま、余分なコメントなどつけたら確実に馬鹿なことが生起しそうではあるからだ。

かかる世においては、よいことを待っているわけには行かぬ。「やってくる」のは罪であり、鶯の歌ではなさそうだ。わたくしが、青年期に女友達から教わったことと言えば、「かわいそうな自分をなぐさめる」と自分に「言う」ことである。実際に慰めていることはあったとしてもそれを口に出すやりかたは私にとっては論外であった。そしてその蜜はこの現代では案外効き目があるということも知った。これに味を占めると自分ではなく他人が言っても蜜とかんじる。だからわたしは人を慰めるのもあんまりいいことだとは思えないのであった。他人からの言葉だってナルシズムの原因なのである。

我々の社会は、自らに対して蜜ばかりを要求する。ある高名な社会学者が鈴木敏夫との対談のなかで、団塊の世代には戦後責任があるんだ、そんなことを予想もしてなかったがみたいなことを言っていた。予想もしてなかった、は嘘だと思う。戦争責任も戦後責任もあるし、現在に対する責任があるのは自覚されていたはずであって、予想もしてなかったみたいなことを言っちゃうのが無責任だ。さすがに予想はしてたに決まっているからだ。しかし、そういう風に人を責める人はいないだろう。無責任は蜜として存在している。

では、国民国家は我々にとって今後、蜜となり得るのであろうか。ウクライナ出身の日本国籍の人がミス日本になったということで議論になっていた。近代において、日本的なものというのは、イメージに過ぎなかったというのは簡単だが、――どれだけこれに対する研究が積み重ねられてきたかみな知らんわけではないだろう。また、小林秀雄ではないが、我々に親しみというものがあり、しかもそれを記述できるかのかみたいな問題は残り続ける。我々が、誰かが「日本的」という言葉を発したときに、そこにある様々な親しみの存在を想起しないようになっているとすれば、いよいよ我々はみずからの文化を失っているということであろう。われわれにとって、文化は血や遵法とちがってアイデンティティにはなりえない。文化は結果としてはノイズである。その生産の現場(=風景)が勝手に想起されることが細い線として我々の肉体と繋がるに過ぎない。しかしこれがないと我々はたぶんその線を家族とか仲間に限ったものと考え、その線は血や妥協という黴を生やすことになる。

笑いと神話

2024-01-24 23:37:13 | 文学


おほかた、延喜の帝、常に笑みてぞおはしましける。そのゆえは、「まめだちたる人には、もの言ひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、めだちたる人には、もの言ひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、人はものは言ひよき。それば、大小のこと聞かむがためなり。」と仰せ言ありける。それ、さることなり。けにくき顔には、もの言ひふれにくきものなり。

ニコニコしていると、人は簡単にいろいろと喋ってくれる。確かにわたくしもなんだかニコニコしているたちなので、いろいろな人がわたくしに愚痴を垂れてきたものだ。で、わたくしはその醍醐的ニコニコのために愚痴を垂れることが許されない。大鏡の作者はそういうことをどう考えていたのであろう?醍醐天皇は権力を持っていたからそのニコニコが長所に見えるだけだ。

思うに、わたくしは博愛のほうが友愛よりいいと思う。友愛みたいなものは、そのニコニコのなかに権力の勾配を封じ込めてしまう。昨日の授業で、ブルジョアの政治的意味について講義したが、「自由、平等、財産」のスローガンがあったことの意味を言うのを忘れていた。博愛(友愛)は財産を隠蔽する。

よくみてみたら、キティちゃんというのはすごくかわいいものだ。この猫だか人間だかしらないキャラクターは笑っても居なければ怒っても居ない。我々のニコニコは、人から見るとこのような無表情であることがあるのではなかろうか。ニコニコに見えるのは、「面とペルソナ」ではないが、喋る方の嬉嬉としたテンションを相手の顔が吸収しているからではないのか。

昨日、寝る前に吉田あゆみ氏の『アイドルを探せ』を読んでたんだけど、古本で、キティちゃんのはんこ(所有者の名前がくっついているやつ)をみつけて、細があこれもってた、と言っていて、わたくしがまた同世代の大衆文化から疎外されていたことを知ったわけだが、重要なのはそんなことではない。このマンガの登場人物達の社交である。第1巻読んで思ったんだが、いま昭和的コミュニケーションのパワハラ的ななにかとは、このバブル期のあれなのではなかろうか。虚勢に本音をまぜながらのマウンティングがナンパの術になっているかんじというか自分でも何言っているかわからんが、当時からすごく嫌だった。で、たぶんダウンタウン的なものはこういう気取りを破壊したので面白かったんだろうが、同時に社交みたいなものも破壊したんだろうと思われる。

我々は、社交を失って、どちらかというと世界を恨むようになった気がする。その世界は、「神話」のように頑なに見える。かくして、研究者においても、だいたい神話というの、なにか洗脳状態の言い換えに過ぎない場合が多い。今日読んだ研究書に、この人(有名人)を褒めた研究にひとつも参考になるものはない、我々はこういう「神話」とたたかう、みたいなことが書いてあった。何か隠されたものを見出すために必要な態度であることは理解するけれども、結句、こういう姿勢が逆に褒めなきゃだめみたいな反発を生むし、やはりこれじゃだめだなと思った。戦前の人たちは、教室で古事記日本書紀の挿話を読んでるからそれに「洗脳」されていたのか?わたしも昔、指導教官に怒られたことがあるが、――作品の享受者をなめた研究というのはだめなのだ。だいたい証拠も2、3例なのに、それが世界=神話にみえている自分をうまく自覚する必要がある。

雪が降っていた

2024-01-23 13:55:05 | 音楽


雪が降ってた。

フランコ・チェザリーニのような人の曲の民謡に対するこだわりもそうだが、吹奏楽のアマチュアや地元性とのつながりは、クラシック音楽の民俗的なところへの進出というか回帰みたいな側面がある。地元の祭に演奏したりして。私も校歌・民謡、大学の時なんか、どさ回りの演歌歌手の伴奏みたいなものまでやったことがある。寒い冬の時期であった。いや夏だったかも知れない。

疎外と「やってくる」もの

2024-01-22 23:34:42 | 文学


話題の裏金問題について、――民間では、科研費では、俺の小遣いではとは、みたいな類比で語るのはそりゃ一理あるけれども、彼らそのものの問題として語らないとどうしようもないわな。問題はどうやって使ったか言えないという政治活動そのもののことであって、帳簿に記載しないミスしちゃいましたということではない。彼らはしかしどんなに破廉恥であってもただの人間である。我々の一部は、特に知的エリート層が少々育ちがよくなりすぎたせいか、不良だったり勉強ができないちゃらちゃらしているような人間のなかに、ものすごく知恵のあるやつがいて、周りの人間を味方につける能力なんかも高いやつらがごろごろしていることを忘れている人間が増えている。下の太宰治の言動は、アルペルガー的なものではなく、単に認識の疎外の問題として再浮上している。

つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

――「人間失格」


ある立件された政治家がこう言っていたらしい。「私は力をつけたかった。大臣になるほどの金を集めてやろうと思いました。金を集めることが必要なことだと思っていました。勘違いしていました」。もう少しだ、もう少しで太宰治みたいなかんじになる。

世のリベラルさんというのはお気持ち主義で誰かが傷ついたら謝ってしまう傾向がある。これに対して、「生まれてすみません」みたいないことを平気で言ってしまう連中は、太宰も含めて大いに傲岸な感じであって、上の政治家なんか、そのネットニュースでみた上のセリフよりもテレビでみた記者とのやりとりなんかは、謝罪というより逆ギレであった。もっとも、ほかのずるがしこいやつらから「お前生け贄になって自民党を救ってくれ」とかいわれているのかもしれず、冗談じゃないわけである。生け贄にも人権と表現の自由はある。人間ここまで追い詰められると、太宰治に接近する。つまり太宰は追い詰められていたのだ。疎外ではない。

これに比べれば、ほかの文学者は学者は一見慷慨はなはだしいかんじの口調であってもたいしたことはないのではなかろうか。昔、吉本隆明が愚鈍な古典学者が一生古典の原文を現代文並みによめるようになるだけに頑張ってて作品が逆に読めてないみたいなことを揶揄してたことがあった。しかもそこだけ切り取って喜んでた奴がおり、いまでもインテリを捕まえて最後は現実を知らないとかなんとか言うロボットのような奴がいるわけである。吉本は学生運動尻目に古典研究をうじうじしてたから良いような気がするが、なにゆえかように人を馬鹿にしたがるのかわけがわからない。結局は、吉本もその古典学者も現実からの疎外に悩む似たもの同士だということだ。

たしかに、世間では例えば、アートと科学の結合とかいうこれからモダニズムであとは戦争なんですかみたいな、一〇〇年遅れのコンセプトが、文学とか思想を排除を隠蔽するために使われていることがある。これに比べれば、金を集めれば大臣になれるかも知れないと思っている方が、はるかに人間的である。

こういう事情が観念的には理解できるからこそ、リベラルさんというのは、その疎外された側からのお気持ち忖度主義で誰かが傷ついたら謝ってしまう傾向がある。ハラスメントの流行には、根本的に疎外された感情という前提が存在する。そうではなく、追い詰められる必要があると考えたひとは、例えば、鳥飼茜の「サターンリターン」みたいなものを書くし、また読者であればそのようなものに惹かれることを否定できない。

我々がそういう疎外態であるとすると、つねに非暴力がつねに降参を意味してしまうことになりがちであり、しかしそうなったらもうおしまいなのだ。降参しないためには暴力をふるうしかなくなり、最終的にはテロである。それは必ず少数派である。ハラスメントがその連鎖であることはよく言われているけど、その起点にやはり屈服としての非暴力があって、抵抗の手段の欠如がある。

根本的には、いよいよ我々が生産者ではなくなったことをいろいろな原因とみたほうがよい。吉本も古典学者も生産者ではなかった。

もともと、学者もほんとはそうなんだが政治家や文学者は気質や趣味や正義を動機にしてやるもんじゃなくて、そうせざるを得なかったカルマがないとやっちゃだめな存在であるはずである。障害や悲劇やそれになるばあいもあるだろうが、より正確に言えば「もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ」(吉本)みたいな死ぬほど恥ずかしいことを言ってしまえるカルマである。太宰だったら、「道化の華」の、「をかしいか。なに、君だつて。」みたいな五臓六腑が縮む恥ずかしいリズムこそカルマである。これらは、読者の五臓六腑が震えるほどあれなのであって、カルマがない人は、何か書いても単に恥ずかしい感じしかでないから、「お前やめとけ」と言わざるを得ない。最近の政治家のいい訳にもそのカルマのなさを感じる。

そのため、カルマは自身からではなく「やってくるもの」となる。そうではない「主体性」を目指すと、ネットだけでなく、現代の小説にも「怒りしかない」とか「感謝しかない」みたいなところに向かってしまうものがありふれていて、しんどい。また、ときどき、激怒した人間に対して、やたら権力志向や認識の浅さに原因を求めたりすることがあるが、非常に危険な見方で、ほんとに激怒した人間をなめており、――悲しみと同じく怒りもいろいろと深いだろうとさしあたり考えるべきなのに、そうはならない。――良心が残っている人間は、せいぜい神経質な雑さをきちんと書くようにしなきゃならないと考えがちである。神経質なら神経質で一貫するみたいなのはさすがにおかしいと感じられるからである。郡司ペギオ幸夫を読んでいておもったんだが、我々は「やってくるもの」に好意的なかんじになっていて、今回の裏金発覚なんかも自分でやってんのに「真実がやってきた」みたいな感じなんじゃないかなと思う。で、本人も案外うれしいのだ。――人ごとではないと思う。

二項対立的痴話喧嘩の限界

2024-01-21 20:55:50 | 文学


世の中の人の申すやう、「大宮の入道せしめ給ひて、太上天皇の御位にならせ給ひて、女院となむ申すべき。この御寺に戒壇たてられて、御受戒あるべかなれば、世の中の尼ども参りて受くべかむなり」とて、よろこびをこそすなれ。この世継が女ども、かかることを伝へ聞きて、申すやう、「おのれを、その折にだに、白髪の裾そぎてむとなむ。なにか制する」と語らひ侍れば、「なにせむにか制せむ。ただし、さらむ後には、若からむ女のわらはべ求めて得さすばかりぞ」といひ侍れば、「わが姪なる女一人あり。それを今よりいひ語らはむ。いとさし離れたらむも、情なきこともぞある」と申せば、「それあるまじきことなり。近くも遠くも、身のためにおろかならむ人を、いまさらに寄すべきかは」となむ語らひ侍る。やうやう裳・袈裟などのまうけに、よき絹一二疋求めまうけ侍る」などいひて、さすがにいかにぞや、物あはれげなるけしきの出できたるは、女どもにそむかれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍りし。


四〇〇歳の語る痴話げんかであって、いったい何歳のときのなのだと思わないではないが、――むかし、平安時代の女の人の興味は恋愛ばかりでしたみたいな説をレジメで紹介して怒られたわたくしのことである、恋愛についても歳をとることについても何も当時は考えていなかった。七〇年代生まれなんかは、二〇になるまで何も経験しなさすぎた傾向があると思う。

いまでもわたくしは、ファシストがそう来るならおなじ力で押し返してみたいな、上の痴話げんかのような発想をしがちであって、いわば昔からチャコティンみたいな主張をしてたし、いまもしがちなのだ。まったくもって書生じみている。

これにくらべて、現代の若い漫画家さんたちのほうが悲惨さを自覚している。大学一年生には是非『チ。』でも読んで頂いたらよいと思う。ほんとは小6か中1ぐらいがいいんだが。。ブレイクライブリー主演の「ロストバケーション」という鮫映画って結構恐ろしかったけど、あえて鮫視点でみるとほんと人間て何してくるかわからんやつで、恐ろしすぎる、こちとらただの食事なのに。――こんな風に思ってしまいがちなのは私が、七〇年代生まれで、「ジョーズ」にびっくりした経験を持つからであろう。その鮫は対決すべき暴力だったが、「ロストバケーション」での鮫はどうしようもない厄災にすぎない。厄災の側に立つなどありえないわけである。

現代の不倫も、厄災じみている。昨日、お風呂に入ってきて酢を飲んで細とテレビ観ながらまったりしていたら、小池徹平と篠田麻里子の不倫ドラマがやってて、この人ってAKBだっけ?ていうか不倫したからこの役なの?うそ知らんかった、小池徹平ってなんか常に変な役回りになってるななんかしたのみたいなことを話してるうちに、ドラマが終わった。不倫された夫は、隣の部屋からスマホで現場を押さえようと自撮り棒を伸ばす。――細との結論は、なんか日本てなんかすべて貧乏くさくなってきてるよね、だった。そうではない。不倫は現代においては災害なのだ。

こんな時代に於いて、知識人はつい書物の思い出にひたりがちになる。最近は、岩波文庫をもってるのは文化資本かみたいな、岩波茂雄や三木清がきいたら、いやむしろ逆だし、といいそうな話題がネット上で盛りあがっていた。私も一生懸命岩波文庫の記憶をたどると、はっきり覚えてないが、「君たちはどう生きるか」や「ジャン・クリストフ」かベートーベンの「音楽ノート」あたりが最初の記憶である。いうまでもなく、これは戦前の教養主義に関わる本だ。音楽に関係する書物については、小学生だったからなのか、音楽がこんなに神と関係あるのにびっくりしたような気がする。ベートーベンの「音楽ノート」は、停滞期と言われる第8交響曲以降から第9作曲に到る時期のものが主たる中身で、誰もが感じる「第9」だけがもはや音楽であって音楽ではないかんじがする理由が、ベートベンが悩んで文学やら甥の世話に接近した理由みたいに見えてくるわけだ。そのなかでインド哲学なんかもでてくるが、いまよんでみるとどう思うかわからないので、いま少し読んでみたら、人生が長く芸術は短いんだ神からの短い恩恵だ、みたいなことが書いてあるのが印象的であった。その点、第9はすごくがんばって長くしているかんじがある。

芸術は、芥川龍之介に言われるまでもなく、一瞬の恩寵である。学問はそれを長く見せかけようとする。ベートベンは自分でそれもやってしまおうと頑張ったわけである。だから『音楽』であるきがしないのだ。

確かにいまの多くの知識人は、家に円本や西哲叢書や改造文庫があったおかげで存在しているのであろう。本は自分が読むものでもあるけれども、子孫や赤の他人がいつか読むかもしれず、世界のどこかに置いておけばよいわ。戦争で都会の図書館が焼けるかもしれないから、地方にも置いとく必要がある。東京で焼けたものが中国でみつかるとかもあるからな。まあ、そうはいっても、あまりに家に本がもともとありましたみたいな人っていうのは、ネットが生まれたときからある現代人に似てどこか間の抜けたところもある気もする。飢餓感も必要だというのが実感だ。学問ぐらいしかやることがねえ、という環境が大事なのは確かだが、まあ読む奴は読むし読まねえ奴は読まねえからだ。

だからといって、知的な系譜を死んでも繋ぐのが我々の役目であり、その点、レポートや卒論の書き方をまず教えるみたいなやり方はナンセンスだ。そもそも実践的でない。昔長嶋茂雄が、「いまどきの選手は形にこだわりすぎてて、来た球をつよく打つというひとつのバットマンとして。。。」という批判を思い出す。それは、たしか王との対談だった。加えて、王が荒川とやった練習はいまは難しいんだと八〇年代初頭に言ってた。パワハラ云々の問題じゃないから、別の原因のことをいってたんだと思う。本当はいまだって、その原因のほうが重大なんだよな。パワハラ問題がそれを隠蔽しているところがあるのは無論である。別の原因とは、災厄に負ける弱い知識人やプロフェッショナルな人間の存在である。

系図と文化資本

2024-01-20 18:51:10 | 文学


「しかそれさる事に侍り。但し翁が思ひえて侍るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍るに、衣裳やれむづかしきめ見侍らず、又いひ酒にともしきめ侍らず、もしこの事どもすぢなからむ時は、紙三枚をぞもとむべき。故は入道殿下のお前に申文を奉るべきなり。その文につくるべきやうは、翁、故太政大臣貞信公の殿下の御時の小舍人童なり。それおほくの年つもりて、すぢなくなりにて侍り。閣下の君すゑの家の子におはしませば、おなじ君とたのみ仰ぎ奉る。物少し惠みたまはらむと申さむには、少々の物はたばじやはと思へば、それあるものにて倉におきたるが如くなむ思ひ侍る」といへば、世繼、「それはげにさる事なり。家貧しくならむをりはみ寺に申文奉らしめむとなむ、卑しきわらはべとうちかたらひ侍る」とおなじ心にいひかはす。

道長に「自分はあんたのひいお爺さんに仕えた者であるから生活の支援よろしく」と手紙を書けばOKだと言っている翁達であるが、しらんがな、である。日本全国津々浦々に清和源氏の子孫は(でっちあげ家系図上)あふれかえっておるわけで、このような嘆願がまかり通る可能性があったことを示して居るのであろうか。

私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んで居るからである。人間移動展覧会と戯れに此を称えてよく此事を友達に話す。近代が人に与えてくれた特別な機会である。

――高村光太郎『人の首』


さすがいざとなったらお爺さんの亡霊が陛下のために脳内殺到する人だけあって、リアルな世界でも首が並んで見える。家系図の代わりに横並びになった首がスターウォーズばりに見える人はこの世に存在する。案外、わが國は、家系図か首の並列かが基本的な落ち着き先で、ときどきゴジラなんかに散らして頂く必要がある。

わたしはそういう意味で、ゴジラより「猟奇的な彼女」のほうがだいすきだ。なにより女優の美人度が違いすぎる。目に見えない清和天皇よりも韓国の美人女優である。

マンガ「英戦のラブロック」みたいな、全共闘のひとたちに人気でそうな、兄弟合体とか、反代々木とか、首揃えが好きなのがわれわれである。

知り合いの共産党員のことを考えてみると、場合によっては党の方針を超えてきちんと書物を勉強し、丁寧な革新活動もしてみたいな人は、――すごく文化保守的な傾向のある人である。常識的なはなしであるが、保守的な志向と変革しようとする力は両極端に働くけど同一物なのだ。ゲーテの植物以来繰り返されてきた構図であるが、どうもよのなか、そこまで単純になってなさそうなのが、――ゴジラや戦争で散らされてみるとわかる。だから、そういう機械的な同一性的動きがいやだからもっと違う形態はないのかみたいなのが六〇年代以降の問題だったのではなかったのかと思うが、結局、うまくいかなくて嘗て批判の対象だったはずの代々木的なものに回帰し、しかも理念に殉じましょうみたいなロマン的勘違いが起こるしまつだ。

もうかなり誰かが論じていることと思うが、戦争で都市が空襲で焼けたときには相当の本が焼けてるわけで、文化資本の問題はそこを避けて通れない気がする。それ以前に逮捕されそうでみずから本を焼いた人もいるが、それは措いておいて、散らされた我々は血の系図どころか知の系図、文化的持続を信じられなくなっている。

文化資本があるのかないのかしらないが、わたしの父は有象無象をふくめて年間大量の本を読んでる気がするし、今年の目標は300冊だということだ。かくして、わたくしは岩波文庫をあらかた読んでない人が学者になれるのか、なってよいのか、と今でも思っている。前にも言ったがわたしはまだ読んでないので学者とは言えない。父はもといなかの小学校教員だ。考えてみると、こういうもと欠食児童みたいな食いっぷりはもともとの文化的貧困から来る気がしていたが、そういうわけでもなく、たぶん戦前・戦後まだ残っていたマルクス主義者は死ぬほど勉強しないと死ぬみたいな強迫観念のおかげのような気がする。これに比べるとわたしに限らず、一代限りのいやみなディレッタントが増えた。

道理の超克?

2024-01-19 23:24:24 | 文学


されば、上の御局に上らせ給ひて、「こなたへ。」とは申させ給はで、我、夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。いと久しく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸を押し開けて出でさせ給ひける。御顔は赤み濡れつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ。」とこそ申させ給ひけれ。いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御ありさまは、人の、ともかくも思し置かむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。その中にも、道理すぎてこそは報じ奉り仕うまつらせ給ひしか。御骨をさへこそは懸けさせ給へりしか。


詮子は弟の道長を内覧にするために、自分の子(一条天皇)の閨に乗り込み泣き落とし作戦にでる。ついに部屋に戻ってきて「御顔は赤み濡れつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ。」」と高らかに道長に伝える。「濡れつやめかせ」というところが恐ろしく生々しいので、源氏物語の女達など可愛らしいのが多すぎという感じさえしてくる。

もっとも、こういう女傑みたいなものは、上の「道理」と同様、表に出てわかる体のものだからそれほど恐ろしくないのかも知れない。よのなか、涼しい顔をして恐ろしい人物達が多いわけである。

ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら

――新美南吉『手袋を買いに』


わたくしは新美南吉といえば、ごんぎつねよりもこっちが好きで、ごんぎつねの何かを結論づけないと収まりがつかないような大げさな結末より、母狐の上の発言を放り投げた方がよいと思うからだ。韓国映画「殺人の追憶」は、殺人犯を追いかけてきてついに逮捕できずに刑事もやめている主人公が、殺人事件の現場に久しぶりに戻って、最近、殺人犯が現場に戻っていたことを知る、みたいな結末であったが、――さいごのソン・ガンホが観客をにらみつける形相がすごくて、これはよく知られた話だが、モデルになった事件の殺人犯がこの映画を観ていたそうなのである。結局、別件で逮捕されていた人物のなかに彼が居たらしい。強い疑問を投げることは屡々何かを引き起こすものである。みかけの問題解決のそぶりはむしろ、真の何かを覆い隠すものだ。「ごんぎつね」の兵十の行為とごんの死が、その喪としてのシーンを形成することで、問題提起を覆い隠してしまうのとおなじだ。学生に限らずだが、なにか批判とか修正要求をしたりすると、「ありがとうございます」と返す習慣が最近横溢している。相手が喧嘩を売られたとおもう危険性を乗り越えて、問題解決的なそぶりなのである。

野口孝一氏の『銀座、祝祭と騒乱』に引用されている文学者の日記をみると、明治以来、文士というのは新聞記者みたいな側面がかなり長く続いているのだと思う。いまでもそうであろう。疑問を発見する記者が文士なのである。

裏金着服ぐらいで派閥やめるって、なんのために派閥やってたんだよ、と思うわけだが、――むろん、首相の派閥解散のアクションは問題解決のふりをして、派閥が政治抗争を隠蔽するものとして働いていることを覆い隠している。目的は清和会潰しという目的の向こう側にある。岸田首相もそれがどのような「道理」の元に許される未来なのかはわかっていないと思う。最大派閥の不全を傍らに党全体をこの際なきものにしようとする人間が自民党内部にかなりいて常に全体を融かしてめちゃくちゃにする、みたいな歴史が三木以来反復されているようにみえるけど――よくわからんが、いろいろな組織でもたいがいそういうことがある。人間個人のむずがりというのは案外本質的なものである。

外からやってくる闇オーラ

2024-01-18 23:51:24 | 文学


「いかにいかに。」と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、「こは何ぞ。」と仰せらるれば、「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり。」と、つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。

五月の雨の降る闇で肝試しをやらせる花山天皇に対して、道長は天皇から借りた刀で大極殿の柱を削って持ってきた。みんなで「あさましい」と言い合ってみても逆に道長に闇の中の亡霊のようなオーラを付与してしまう。オーラはその人自身ではなく外から来る。この場合は闇であった。

政治家というものは、このような闇をともなっていることが多いが、この闇のオーラは、彼がただの人間であることがバレると一気にただの頭の悪さに反転することもある。反転というか、――我々の言語の世界はもともとものごとを写しているのではなく、構成されているだけであるから、モノからの圧が感じられなければ簡単に意味が構成しなおされてしまうのである。

例えば、――わたくしは数学が苦手だし、だいたいいろいろ苦手なんであれなんだが、数もろくに数えられないような頭脳的ミスの輩が政治家面して数が数えられる事務をいじめている事例がおおすぎるのは、ちょっと現場を覗いてみたことのある人は知っているはずだ。原稿も帳簿も全部事務に作らせといてエラそうにしているのだが、偉そうにしてイルだけで、どこかの時点で闇のオーラを失っているから、キックバックだかなんだかを着服していてもいなくても、すべては時間の問題なのであった。

最近は、いかにも早くこういうオーラがないことがバレることが多いが、言語を武器として豊かに装備していないことも関係しているであろう。言葉だって、外から我々にやってくるものである。昨日は日本語というものが、コミュニケーションツールと言うより漢語や英語や何やらをつかって生産されるものであって、みたいな話を、授業でしてたんだが、――やはりすぐコスパとかタイパみたいな妙な外来的略語とか鬼おこみたいなものを想起させてしまったようだ。もっと漢文か古文から言葉を発掘すべきだし、新たな訳語も必要なのだ。そもそもフランス現代思想なんか、そういうものがあっておもしろかったんじゃねえのかね。。。

自民党も共産党も、外からやって着たトラウマが魂(言葉)の周りに闇のように纏わり付いているタイプがいなくなってもういろいろと終わりなんだろうけど、簡単に世の中終わらない。ほんとうは魂がトラウマに刺さるような人間が理想だ。そのためには、既成の言葉と論理に長けているだけではだめなのである。

古文漢文廃止論の面をや踏まぬ

2024-01-17 23:47:14 | 文学


四条の大納言のかく何ごともすぐれ、めでたくおはしますを、大入道殿、「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ口惜しけれ。」
と申させ給たまひければ、中の関白殿・粟田殿などは、げにさもとや思おぼすらむと、はづかしげなる御気色しきにて、ものものたまはぬに、この入道殿は、いと若くおはします御身にて、「影をば踏まで、面をや踏まぬ。」とこそ仰せられけれ。
まことにこそさおはしますめれ。内大臣殿をだに、近くてえ見奉り給はぬよ。


道長みたいに「影をば踏まで、面をや踏まぬ。」――影なんか踏むか、直接面を踏みつけますよ、とか言えばまだましなんだが、影を踏んであいつより優れているとか言っているやからが多い。ネット民のことである。

すなわち、――現代は戯作的な戯れはあるくせに、維新の後のみたいに、遊女のところで英語ができるぜ自慢をして遊女の名前まで英語に訳そうとするバカみたいなのをからかう作品がないようにみえるのは面白い。思うに、あまりにバカすぎるとからかうことも難しくなるということというよりも、遊女に対面しているのと液晶画面とにらめっこしている場合の違いなのである。

思うに、我々の社会が反語なんかを理解しがたくなってるのも、それが漢文の反語表現の存在感が弱まったことと関係あるかもしれない。反語はお気持ちに一致する表現ではない。ある種の既製品としての武器なのである。漢文の文化はもちろん、対面に於ける恐怖を乗り越えてでてきているのである。液晶じゃ、その恐怖がないだけ、おきもちの吐露だけになる。

考えてみると、戦後、テレビの影響か、夜郎自大になりがちなメディア業界の肥大で、擬似ネット空間は既にあったのかもしれない。テレビにも映された、三島由起夫の自衛隊員を前にしての演説は、あたりまえなんだが現代の口語で、「シビリアン・コントロールに毒されているんだ! 諸君は武士だろう!武士ならばだ!自分を否定する憲法をどうして守るんだ!」という調子なのである。北一輝にくらべても革命がこの文体でできるかという。。。

もうかなり論じられてきたことだが、言文一致も近代叙述文体も永久革命的=強迫的な運動で、漢字からひらがなへの移行なんかもほんとはそうであるように思う。それは多様性の容認みたいなものとは違う。たぶん、役に立たない教科みたいな発想は、ある種の言文一致的な欲望なのであって、漢文や古文はあからさまに言文一致でないようにみえるから反発が大きいのであろう。しかし、文化というものはいつもその欲望に逆らっているものだ。

僕熟々方今の形勢を視るに、洋学に非ざれば、寧ろ学無からん。其の広大なるや五大州を併合し、全世界を一目し、天下の経済、全国の富強、政事と無く軍事と無く皆洋学に関せざる者無し。輓近建築の方法、衣服の制度、漸く洋風に遷り、茶店の少婦と雖も洋語を用ひ、絃妓の歌も亦洋語を挟む、亦愉快ならず乎。凡そ宇宙の間何物か洋学に帰せざる。


――「東京新繁盛記」


明治3年にしてこの調子であるが、これはおもしろ放言の類いであって、現実が決してそうなりきらないことは作者も知っている。しかしこういうのを行き過ぎとして本気で反発する人はいつもおり、またそれへの反発もある。そういう連鎖がはじまって今に至っているだけだ。

国語や英語、その他の教科もそうであるように、一生懸命勉強してもできるようになるとはかぎらない。漢文もいまにいまにいたるまで勉強してるがなかなかできるようになった気がしない。しかし漢文の世界を馬鹿にはしないようにはなる。勉強しないと、あるいはあまりにできないと、馬鹿にするようになるわけである。

この時期の古文漢文廃止論みたいなものは、入試へのルサンチマンにすぎないにしても、潜在的には、歴史的、文化的に根深いものがある。