★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

人権は朝のリレー

2010-05-31 23:03:11 | 思想
特別教育実習のためにある中学校にご挨拶にいったところ、全校朝会を見学することになった。ちょうどその学校では人権旬間ということで校長先生がその趣旨をご説明になっていた。

世界人権宣言から説かれておられた。思うに――、私たちは、神様が人間を見放した(笑)世俗国家にすんどるんじゃけえ而して一般的に人権がこの宣言を根拠に説かれるということは、人権は人間が創ったフィクションではなかろうかという疑いを抱かせるものだ。本当は中学生もそれは分かっている。あとで先生方には、人権をめぐる哲学者たちの血で血を洗うがごとき戦いの歴史をぜひ中学生に説明してやってもらいたいと思った。論敵に人権を認めていない感じがするんだ、彼らは――。

谷川俊太郎の世界人権宣言の訳があるけど、あれはどうも……ありがたみがなくなっている。「朝のリレー」もどうもね……

この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ


この詩は子どもが朝のリレーをしているような感じで書かれている。子どもは朝起きてるからかな、学校に行くからかな、これから死のうとする人や徹夜で絶望している人達にも本当に朝はくるのであろうか……人権と同じくあやしい。同様に夜もリレーしてることになるんだし。

こういう疑問にこたえなきゃいけない学校の先生というのはとても大変な仕事である。

浅野晃から本を謹呈されていた件

2010-05-30 23:25:59 | 文学
浅野晃の『浪曼派変転』を読む。

彼の自伝みたいな書物であるが、引用される文学者や哲学に対して「大哲人」とか「巨人」とか「巨大な傑作」とか……とにかく言葉遣いが大仰でとても文学者とはおもえんのだが、これも彼の言う浪漫派へのニーチェの衝撃を物語るものであろうか?

常に独立独歩であるような口吻を弄しながら、恩人や恩師みたいな人物が多すぎるのはなぜだろう……博士論文を本をするときに「あとがき」でやたら多くの人間に感謝する人物と似ている。

地下に潜伏中、ショーペンハウアーを読んでマルクスから離脱したあたりは、なんとなくわかる。ショーペンハウアーというより彼が読んだ姉崎訳に独特なものがあるのだ。浅野の転向告白を聞いた彼の師櫛田民蔵が「ショーペンハウアーか。あれは毒だ!」と言ったらしいのは笑った。櫛田もいつもその調子で文章をかきゃいいものを……

佐藤春夫が死んだときには、「忽焉として」といっている。三宅雪嶺のときは「溘焉として」。こういう細かさ(笑)を生きている人間の描写に対してなぜしないのだ。

ちなみに、私の読んでいた古本には「謹呈 浅野晃」というサインまで入っていた。ありがとう浅野氏。古本屋に売られてかわいそうに。題名が「変転」だから自業自得である。

ナルキッソスは生きろ、ナルシストは死ね

2010-05-29 23:19:28 | 思想
ナルシシズムの研究についてはほとんど何も知らないが、我々の社会をなんとかしようと思うなら研究が進む必要があるなと大学生のころから思っている。

ナルキッソスは、エコーをふった罰として、水たまりに映った自分の姿が好きになってしまうという呪いを受けてしまうわけだが、思い悩んだあげくひからびて死に、スイセン(narcissus)の花になりました……。

これをみるとナルキッソスのナルシシズムはあんまりたいしたことなさそうだ。自分を恋する地点に満足せずスイセンに変身してるところなど、まさに漢!むしろ問題は腹いせに呪いをかけたやつのほうだろう。

思うに、成績が2番手なのでことさら学食で大声でしゃべってみるとか、×大出身だけどそれしかいいところのないやつとか、作家や小説については自信ないけど作家の置かれていたメディアや政治的環境のことならわかります、といいたげなやつとか、学問は苦手だけど教育現場は好きです(キリッ)とか言ってるやつとか、古文とか現代文は苦手だけど国語の先生にはなりたいとか、学会の人間関係にしか興味がない明らかな小物の癖にやたら世界の政治を語りたがるやつとか、万葉集や源氏物語を読んだことないくせに日本が好きとか言ってるやつとか、自分は芸術家なので論理は弱いけど感性が優れてますとか理屈っぽく言うやつとか、他人のスキーマを指摘したがるくせに自分がスキーマという言葉を繰り返し使うスキーマについては無視するやつとか、……こういう言い訳じみたタイプの方がナルシスティックに見える訳だが、これを本当にナルシシズムと呼ぶべきなのか私にはわからない。もっとやっかいな病気だろう。なんか原因になるウイルスでもあるんじゃないかと思うくらい蔓延しているわけだが……。

ナルキッソスは苦しみ悶えて変身してしまっただけましであろう。
だれか上記のようなタイプを赤いスイートピーにでも変える呪いでも発明してほしいのであるが、さすれば日本は一面のお花畑、××基地に×爆弾がいくら持ち込まれようと知らないふりをしなくても済む。

そういえば私はつくばにいるとき、花畑というところに住んでましてアパートも「フラワーハイツ」といいまして、となりに菜の花畑がございまして、私の頭の中で弁証法とかディスコースとかいう単語が乱舞するお花畑で……私ほどスイセンに変身する境地に近かった人間はおるまい。大学院修了後、本の重みかアパートの床が彎曲してきたので引っ越してしまったが、そのために愚痴をブログに書くような汚らしい人間に戻ってしまった。しかし本当は私はもう死んでいて、「フラワーハイツ」の部屋の片隅で枯れかかった花となり、日々黄昏を待ちわびているのかもしれない、とときどき思ったりするのである。

芻狗は実在するか?狂気は存在するか?

2010-05-28 23:00:26 | 文学
富岡多恵子の「芻狗」を読む。内容以前に、この題名の字面がよい。まさにケモノ的なものと抽象的なものとが重層している様が視覚的に示されているようだ。(縦書きにしてみるとよけいそうであるような気がした)

私のここ数年の興味は、上野千鶴子のように、「芻狗」と中上健次の「赫髪」を並べてみることで、目的を持たない〈性の荒野〉を社会の〈外部〉として浮かび上がらせてみることではない。たとえば、「芻狗」と瀬戸内晴美の「ふたりとひとり」を対置してみた場合、何がわかるかということである。今日も授業でしゃべったが、そこに「赤いスイートピー」を加えて考えても良い。

私は富岡も瀬戸内も、あるいは松本隆も、抽象をふくめた在るもの見ることを通り越して、ないものまで見てしまっているような気がするのであるが……

しかし現在の私はそこらへんを確信をもって語れないのである。柄谷行人の「地図は燃えつきたか」で最後に語られる、誰でもない存在に再生しようとする〈狂気〉のありかたにしてもそうだ。

よくわからなくなったので、学生にレポートで考えさせることにした。私の相手をさせられている学生諸君は実にアワレである。

天使の匂いを知っている──捨身への情熱

2010-05-27 22:48:53 | 文学
ゼミ生といっしょに谷崎潤一郎について議論した──といっても結局喜国雅彦の「月光の囁き」の話になっちゃったが……

第一章の最初の頁は、満月が木立の裏からのぞき、そこに「──天使の匂いを知っている──」とある。最高の出だしである。

この漫画を高松で議論することには非常に地域貢献的な意味がある。いい加減、高知の偉人を坂×××でなく西原理恵子に、高松市の偉人を××寛ではなく、喜国さんに切り替えましょう。

ということで充実した大学での仕事を終え、自宅で玄米茶をがぶ飲みしながら自分の研究に移る。
日本浪曼派で勝手に目立っていた芳賀壇さんの『英雄の性格』、『祝祭と法則』を斜め読みする。

笑いが止まらない。「愛」とか「ソフィア」とか

「死ね、──而して、生れ」(←死んだら終わりだよ、頼むよ芳賀さん……)

とか、

「生を、国体を、民族を、血統を、感謝した」(←読点なんとかしてくれや)

とか、もう漫画だな……

でも、揚げ足取りは良くないなと思い『祝祭と法則』をめくり直す。喜国さんの場合と同じく最初のところを引用してみよう。

「1.捨身への情熱」

おっ、これはいい。捨ててくれ捨ててくれ。

特化(笑)の哲学

2010-05-26 21:14:39 | 思想
私の青春時代というのは、だいたいろくなことがなく、特に学校に行くのは厭でたまらなかったが、唯一良かったと思うのは、ある一つのことが苦手になると、自分すべてがだめだと感じる傾向を私が強くもっていたことであるな。

いまでもそうだが、あることを誤ったりすると、即座に、「正しくなかった」ではなく「オレだめだ」となるのである。宮台真司が、第二次大戦の経験が唯一日本にそういう感情を与えたのだ、みたいなことを以前言っていたが、人間、やる気を出すためにそういう感情の回路が必要なときがあるのではないか。もちろんこれはプラグマティックに物事を扱えないという傾向を持つ回路なわけで、その都度気分の落ち込みも激しいが、反省というのは自分を慰めるのではもちろんなく、批判ですらない、否定のような激しさからしか生じないのではなかろうか。

いまいちな成績だったにもかかわらず、在籍していたのが田舎のたいした進学校でもなかったため、受験のためにある教科に特化して勉強することを強制されずに、延々苦手な教科で苦しむ──つまり私全体がだめだと思う──ことになったのは、私にとって幸運だった。私は、しばしばいくらか得意だった国語が伸び悩んだときに、例えば体育がだめなように国語もだめなんだと思わざるを得なかった。今考えると一理あるのだ。得意な部分と苦手な部分というのは連続しており、ある本質の現れ方の違いだからである。見かけの違いを同一物として捉えてみるという、学問に必要な姿勢を私はこういう経験から学んだように思う。

中学以降、ある教科ばかりやらされている人間によくあるような気がするんだが、得意な教科で満点を取った場合、自分はすべてが出来るという妄想がスタートするのだ。これがオルテガ・イ・ガゼットのいう「大衆」そのものであることは言うまでもない。そのくせ主体的ではなく付和雷同が大好き、何か強そうに見える他人と共通点を見つけてプライドだけがどんどん上昇してしまうのである。

もちろん、人間すべてのことをできるはずがない。しかし、二兎を追うものは一兎を得ず、とか、虻蜂取らず、とかいうのは、そもそも兎や虻蜂を捕る能力のあるやつのはなしだわな。こういうことわざは、猿も木から落ちる、といった玄人の失敗談として受け取るべきであろうな。

以前某掲示板ではやった言葉だが、これは個人的には気に入っている。

「××なやつは何をやっても××」

というわけで、ちょっと変えてみる。

「イナゴ食うやつは何をやってもイナゴ食う」

ここまでくるとなんだか何かに特化(笑)した専門家の風格が漂ってきたぞ。思えば、私の母は、体育が苦手だったらしいのだが、しかしながら、イナゴを指で捕まえ損なったのを見たことがない。捕まえる動きは、イナゴの動作より速いのだから音速を軽く超えていたとみてよかろう(笑)。母が登校していた終戦直後の小学校は、教員たちが時代の変化に意気消沈していたため、優しい母はわざとゆっくり走ったり、鉄棒が出来ないふりをしたのではなかろうか。

学生諸君も勉強出来ないふりなどせず、遠慮せずに勉強してほしい。

モヒカンにして頭を冷やすべし

2010-05-26 06:49:45 | 思想
大切なのは相手が作品であっても人間であっても、雑な認識は暴力だということを自覚することであろう。ナルシシズムとは自己愛ではなく、認識の中途半端さから不可避的に生じるのであり、気質や性癖の問題ではない。

ただ、最近、そういう中途半端さをダンディズムだと思ったり、決断出来る人みたいに感じる人も多いようである。どうしようもない。手抜きを寛容と思ったり、反映論を客観視だと思ったりね、だいたい孤立が怖いタイプがやたら判断のキレを誇ったりする。最近のモヒカン族は空気が読めない訳でも日本的な社交辞令を排している訳でもなく、モヒカン族に見せかけた立身出世主義者である。

……我々は日々学問で繊細な認識を目指す訳だが、こういうマグマなような心的状況は飴玉一つで解消されることがある。言うまでもなく、いつもではない。

追記)モヒカン族と聞いて何を思い浮かべますか?これであなたの将来が決まります。

 1、アメリカの先住民族だと思う→平和運動に飛び込もう
 2、空気を読まず論点をはっきりしたい知的エリートだ思うお→まあ、せいぜいがんばってくれ
 3、「北斗の拳」にでてくる老人をいじめる蛮族に違いない→高齢化社会に向けてさっさと働け
 4、床屋でモヒカンにされたら生きていけない→坊主にすれば問題なし
 5、モヒカンて何?→小学校からやり直せ

晴耕雨読とは私のためにある言葉であろう。晴れても耕すとは限らんが。

2010-05-25 08:37:04 | 文学
5日の記事を見たのであろう、実家からイナゴが送られてきた→食べた。

大西克礼の「古典的と浪漫的」を読む→寝た。

浅野晃の『随聞・日本浪曼派』を読む→「このひと三・一五で捕まってるよな、何年まで生きてたんだっけ?90年か……。朔太郎を「悲歌慷慨」で片づけるとはイイ根性しとるのう~。えっ、神保光太郎の詩って教科書に載ってたことあったんだ。「狂へるニーチェ」かな、ちがうよな……」→寝た。

井伏鱒二「休憩時間」を読む→「立ち替わり教壇で演説ぶつとは、昔の学生も自意識過剰でどうしようもないな、で?井伏くんは教室のどこにいたんです?」→寝た。

アイヴスのピアノソナタ第二番を聴く→寝た。

オペラのあとは自分の安否を確認すべし

2010-05-24 03:01:33 | 音楽
土日は学会だった訳だが、××××××××××、×××××、ということで、×××××、日曜日の午後は新国立劇場にR・シュトラウスの「Die Frau ohne Schatten」(影のない女)をみにいきました。

私は音楽評論の訓練をしておらず、20代前半まで下手なアマチュアだったにすぎないので、いろいろ考えるところはあっても、結局こういうしかないわな……

「どうやったらこういう複雑で美しい音楽つくれるの?」

第1幕で、霊界の皇后と乳母が人間界に降りるときの音楽は凄まじく、隕石の大気圏突破という感じであった、人間界どころか地球が心配だ……第2幕の変ロ短調?の幕切でわたしゃ失神しかけたし、第3幕のハ長調の幕切れは観客を昇天させようとしてるだろう、これは……

一応話としては、「生まれざる子ども」が「生まれるであろう子ども」になるという、死から生へという流れの癖に、観客を×してどうするの?

ブーレーズがむかし「歌劇場を爆破する」とか言ったとか言わなかったとかで警察に呼ばれたらしいけど、ワーグナーやシュトラウスも十分危険だったにちがいない。今日の観客はかなり年配の方も多かったがちゃんと家に着けたであろうか。

……私は着いた。途中で眠ったかあるいは×んだので、やたらはやく着いたような気がするんだけれども。誰か私の安否を確認すべし。

マイケル・ライアンから知恵熱警報

2010-05-21 23:36:02 | 思想
マイケル・ライアンの『デリダとマルクス』が押し入れの中の座布団の間から発見された。そのまま書棚に放り込むのはかわいそうだったので、ちょっと読んでみる。

大学院のはじめのころ読んですごく面白かったのを覚えているのだが、いまはどこが面白かったのかよくわからなくなってしまった。

「隠喩は邪道に導く。隠喩においては、あるものが自分とは違う他者になるのである。」

例えば、最初の文はなかなか淫靡なにおいがしてどきどきする。しかし次の文がいけない。私はこの二つの文は意味が全く違っているようにみえる。せめて文の順が逆の方がいい。10年前の私はこの箇所をどう感じていたのか……。ワスレタ。

マイケル・ライアンの気分としては、彼の周りにいるすましたアカデミシャン(でもマルクスが好き)も、どうせ何もせんところの文学不良(でもマルクスが好き)も、どっちも論理のブルドーザーで押しつぶしたいのだろう。わかります。そんな殊勝な人達がいる現実があればの話だが……。

今日は気温、28度もあった。私の知恵熱のせいだろう。

最初の一撃はやはり女主人公がよいので私は幸運だった

2010-05-20 23:02:04 | 映画
なにかのジャンルに好意を持つためには「最初の一撃」がなければならない、とかよく言われる。しかし、その作品はその人にとってのみそうなのであって、他の人に一撃を与えるかどうかはわからない。

私は文学と音楽にははやくから興味を持つように教育されていたのだが、生来の性格もあって、他のジャンルに興味を持つのに時間がかかった。

映画が面白いと思ったのは、大学院の三年次になってからで、引っ越しのついでに中古のビデオデッキを買ってきて、嬉しいので、粛々と、いそいそと、深夜映画を「適当に」録画したのである。そこで「たまたま」出会ったのが、「Das schreckliche Madchen」(ナスティ・ガール)と「DR. GOLDFOOT AND THE BIKINI MACHINE」(ビキニ・マシン)である。私にとっては、この二つが最初の一撃なのである。「ゴッドファーザー」も「殺人狂時代」なども、そのあとで名作あさりを自分に課してから観たので、みんな普通の名作であった。

ちなみに観る順番を間違えたせいか、「スペースボール」と「スターウォーズ」をいまでもときどき混同する。どっちがパロディだったのか分からなくなる。「スターウォーズ」なんかも、何かのパロディじみている――確か、元ネタに相当するアメリカのSFドラマがあったはずである。(忘れたが)

特に「Das schreckliche Madchen」の印象は強く、血の気が引いたほどであった。現代ドイツの少女が、故郷のナチス協力者を調べるうちに、命の危険を感じるほど脅迫をうける話だ。主演の Lena Stolze 様はいまでも私のミューズである。でんこちゃんの次に好きだ。

「ビキニ・マシン」は、紹介するのも恥ずかしいので、やめておくが、ずばり「ビキニ(をつけた)マシン(性別は女)」の話である。ちなみに、でんこちゃんよりはかわいくない。

まあ、考えてみると、二つとも女性が大活躍する映画で良かったわ。例えば、「第十七捕虜収容所」じゃなくてよかった。