★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Ta meta ta physika

2010-10-31 17:49:05 | 漫画など


須賀原洋行氏の作品はあまりよんでないけど、『非存在病理学入門』をやっと第4巻まで読み終えた。二年かかった。それは『ジョジョの奇妙な冒険』の最新刊まで読み終わるまでに二年かかったのとは違う。ジョジョの場合は単に手に入れるのに二年かかったのに過ぎない。『非存在病理学入門』の場合は、ギャグマンガなのに体調が悪いと読めなかったというのもあるし、面白いと思うのと書かれている内容が現実を想起させなんとなく憂鬱になるのが殆ど同時だった、という──つまり読みがたかったという理由だからである。

これはまさにある種の哲学書の読後感である。

ユーモアを身につけるためには形而上学を学ぶ必要があるのでなかろうか。

よくあることだと思うが、ユーモアを失うとき人は因果関係を追求している場合が多いのではないだろうか。人間が持つ勘違いや幻想を科学によって否定しようと躍起になっているタイプには、ときどきユーモアの欠如が甚だしい人がいる。彼らがユーモアを用いようとすると皮肉や自慢になってしまうのである。これは小学校高学年的な現象だと思う。

思春期はこんな状態を破壊するものではなかったのか。良くも悪くも形而上学というのは、「Ta meta ta physika」(自然学のあと)にくる。自然学を〈trans 超えて〉ではなく、〈meta あとに〉、という感覚、これが私は重要だと思うのである。大人になるというのは、思春期以前を忘却したり超克することではなく、自分がその〈あと〉であることを自覚することであろう。アリストテレスがどう考えていたのかは知らない。

以前、柄谷行人の「唯物論的ユーモア」という概念に飛びついた人達が異様にまじめくさっていたのは、上のような基礎的事情を忘却して、論敵に対するルサンチマンの解消にそれを使おうとしたからであろう。

『非存在病理学入門』のユーモアは確かに我々宮仕えたちの肺腑をえぐるところがあるであろうが、作者は「Ta meta ta physika」の気分かもしれない。そうでなければこれほど面白くは書けなかったはず、であろう。とはいえ、私はこの作者の気がふれたという噂を聞かないが──、そんな風に思ってしまうあたり、私もまだまだユーモアに欠けている節がある。

註)左の画像は、昭和一六年に日本評論社から出た三木清編の『新版現代哲学辞典』の「形而上学」の項目。この辞典は、どちらかというと『現代用語の基礎知識』のような体裁であり、独裁者の項目に若い面長の「スターリン」と「ヒットレル」の写真が載っている。

日本鬼子の萌え散らかし

2010-10-30 08:34:31 | 思想
反日運動が海の向こうで盛り上がっているということであるが、「日本鬼子」と聞いてかわいい鬼の女の子が毛沢東語録を読んでいる図が浮かんだので、さっそく絵を描いてみるかと思っていたのだが、既に似たようなことはオタクさんたちがやっていた。(私のつまらない政治性など微塵も感じられない純化萌えがすばらしぃ)

【荒しは】萌キャラ『日本鬼子』制作 6【スルー】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1288283015/

じわじわと笑いがこみ上げたのがこれ

http://up3.viploader.net/lounge/src/vllounge006742.jpg

こんなページもあり

日本鬼子って萌えキャラ作って中国人を萌え萌えにしてやろうぜ まとめ@wiki
http://www16.atwiki.jp/hinomotooniko/



小日本人は憲法を自分でつくる代わりにこういう得意技で行くのだ!といっても世界のヘビーな政治にはあまり影響を与えないし、それでよい。我々が生き残るには、才能を無駄遣いしつづけることが重要である。生き残るためには、競争と政治から降りることが必要だ。これはオタクに限ったことではない。

むろん、生き残るとは限らないのである。わたくしの言うことも日本浪曼派じみてきた。

生物多様性とざざむし

2010-10-28 09:09:36 | 食べ物
http://www.shinmai.co.jp/news/20101027/KT101026ATI090029000022.htm

「ざざ虫の新種発見 信大・東城研究室が遺伝子解析」

木曽郡木曽町日義の川の上流にもいたと……。私の故郷の近くである。

ざざ虫といっても、トビケラやカワゲラの幼虫であって、ゲジとかムカデの類を指すのではない。ここまででムカデしか分からなかったそこのあなた、ざざ虫を食べるときいて何を思い浮かべていたのか!生物多様性とかいいたいのなら、上記の四つをすべて食べてからにしなさい。蝗好きのわしでもそれは無理。

――確かに昔の農村の人は我々よりも多くの虫たちを知っていたであろうが、それらを区別していたとは限らない。ざざ虫は清流にいるなんか虫みたいなもののいろいろであって、たぶんゲンゴロウの幼虫とか、ヘビトンボの幼虫とか、カゲロウの幼虫とか、螢の幼虫とかも混じっていたはずである。まあ佃煮にしてしまえばなんか同じように見えるかもしれん……。蝗の佃煮でも同じことで、昔、母の実家でそこら辺で捕まえたのを食したときに、たぶん蝗ではない何物かも混じっていた。明らかに食卓にカマキリが混じっていたときは分かった、別盛りしてあったし。ちなみに、嫌いな人間を「ウジ虫」といって蝗といっしょに殺傷していた奴もいたはずであろう。――すなわち、人間を含めた虫もいろいろいるよ、これからも新種はいっぱい発見されるに違いない。

(ちなみに上記に記された虫たちが、成虫となり日本の田舎の情緒を支えていたことを、文学研究の学徒は知りたまへ。独歩とか藤村の自然描写がいかに見たいものだけをみていたかがわかる。彼らはぶんぶんざわざわふわふわと空中に飛んでいる物を無視して、結局都会にもいるところのただの人間たちに眼を移していったのである。ロンドンの霧ではないが、田舎の空気は澄んでいてもいろいろ漂っているのだ。)

とはいえ、生物を分類する情熱と、未知の自然を探求せんとして未開の地に突き進みついでに宗教まで広めてしまう情熱とは似ているのである。生物多様性とかいって、多様性が分かったころ、もともとの半分以下の数に減ってたとか、あり得ることである。多くの民族を虐殺しといて、「多様性が見出された。他者に出会った。世界が広まった。」とか言っている人達がいたからなあ。

もう昆虫と虫の区別もどうでも良いや、いろいろな虫みたいなものを「虫」として単に受け入れる。この姿勢も大切である。ただ、この姿勢だと本当に人間以外を滅ぼす危険もあるのであろうが……。

手始めに、多くのスイーツを虫の形にして売るというのはどうであろう。それがだめなら、はやりのゆるキャラをすべて虫に変えてみよう。

弦楽四呪奏曲

2010-10-26 20:10:11 | 音楽


ヴィラ・ロボスの弦楽四重奏曲全集聴きながら、×川大学の学生を呪っている10月も終わりかけているのであるが、ショスタコーヴィチやシュニトケじゃなく、ヴィラ・ロボスというところが私の優しさを端的に表していよう。

Olga Solovieva 様 と わたくし

2010-10-25 20:49:16 | 音楽


葉っぱ



二年前、ある音楽関係のパンフレットに「チャイコフスキーとわたくし」という駄文を書いたことがある。その音楽イベントがチャイコフスキーのバレエ音楽の特集だったので、「チャイコフスキーの花のワルツがなくなったら私は死ぬ」とか書いたのだが、無論、「花のワルツ」がなくなっても私が死ぬことはない。いやむしろ、「花のワルツ」は永遠だが、私はそれと関係なくあっけなく死ぬ。

ほんとはチャイコフスキーといっても私が最近好きなのは、ボリス・チャイコフスキーの方である。ベリオの「シンフォニア」、ツィンマーマンの「ユビュ王の晩餐のための音楽」とと同様、有名な旋律の引用を楽める交響曲第2番とかもいいが、やはり Olga Solovieva 様の弾くピアノソナタだ。いやむしろ、ピアノソナタを弾くOlga Solovieva様ですね。好きです

【讀賣】祝、中日ドラゴンズ日本シリーズ進出おめでとうございます【あはれ】

2010-10-23 22:31:06 | ニュース


和田選手サヨナラヒットで中日ドラゴンズ三年ぶり日本シリーズ進出決定ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぃ。

讀賣アワレ

附記)フジテレビは、延長して中継してたのはいいのだが、――胴上げ映したあとさっさと番組終わらせてんじゃねえよ。ヒーローインタビューまでちゃんと映せ。ええい、CMはいい、ドアラを映せ!

文学は幻聴を誘う。意識は追いつかない。

2010-10-21 20:04:44 | 文学
「美しくも短く燃え」という文字を認識したら、モーツアルトのピアノ協奏曲第21番の第2楽章が聞こえ、「かなしみは疾走する。涙は追いつかない。」と認識したら、弦楽五重奏曲第4番ト短調が聞こえてくるような人々を、音楽マニアと呼ぶべきか、映画あるいは文学マニアと呼ぶべきかは難しい問題である。

音楽や文学を受け取るということが、本当はどういう精神作用なのか我々には分かっていないからである。

実際、私は小説や論文を読んでいるときでさえ、頭の中で音楽が鳴るのを聴くからだ。小林秀雄は音楽の中に言葉を聴くタイプだったのであろう。しかし本当のところはどうなのであろう?

私は漢詩が苦手なのだが、なんとなくそこに音楽がないように感じるからである。漢詩でなくても、韻律があるにもかかわらず音楽がない感じがする文学は苦手である。

思うに、これは文学の「存在価値問題」というか「存在問題」に関わる問題だという気がしている。文学が存在していると思っている人間にだけいろいろ見えたり聞こえたりするのであろう。